A71.日立市の自然・文化財(2)
(水木地区)

1.動 機
 雨続きだった梅雨から急に夏空になり、気温が急上昇して家の中でじっとしていても汗がにじんでくる。暑さに身体を慣らそうと久しぶりのお散歩を思い立ち、我が家近くの文化財を見て回ることを思いついた。1ヶ月前に日立のお散歩を始めた時に見つけた「日立のまち案内人の部屋」を覗くと、我が家の近くには御馴染みの泉が森の他に、海岸近くに異国船遠見番所跡六つ塚古墳があり、国道6号沿いに泉川道標と神社仏閣として大甕神社日輪寺が登録されていた。これらをつないで歩けば6km程度で何とかなりそうだ。和子は暑い最中を汗をかきながら歩き回るのは御免だと言って同行拒否、私が途中でギブアップした時に車で迎えに来てもらうよう自宅待機してもらうことにした。
(水木地区の文化財探索歩行ルート)

2.データ
a)山域:日立市水木地区
b)登山日:2013/07/9(火)
c)日程:自宅7:55 ---- 8:10泉が森8:40 ---- 8:45日輪寺別院8:50 ---- 8:55蹴上不動尊 ---- 9:05異国船番所跡碑 ---- 9:10異国船番所跡 ---- 9:15田楽鼻公園9:25 ---- 9:40六つヶ塚古墳 ---- 10:10泉川道標 ---- 10:15大甕神社10:30 ---- 10:45日輪寺10:50 ---- 11:05自宅
d)同行者:単独
e)地形図:1/25000 「日立南部」

3.山行記録
8時前に我が家を出て10分少々で泉神社の鳥居前に着く。鳥居の右には「式内郷社泉神社」、左に「茨城百景泉ヶ森」の石柱が立っている。泉ヶ森には色々な文化財や史跡がたくさん残っている。
 古木に囲まれ寄進者の氏名入りの黄色い幟が立ち並ぶ参道に入り、途中、左の慰霊塔と境内社三峰神社に立ち寄ってお参りして参道に戻り、右手に屋根で保護されたご神木の残骸(杉の木に桜が根付いた樹齢推定450年の珍しい宿り木で、昭和の初めに落雷により大きな損傷を受けたものを大事に温存してある)を見た先が泉神社の拝殿。
 泉神社は古い歴史を持つ由緒深い神社と聞いているが、社殿の見かけはまだ新しい感じである。左手の立派な竣工記念碑の説明によれば、この神社は紀元前42年崇神天皇の御代に鎮祀したと伝えられるが、その後1802年にすべてが焼失し、30年前の1983年に氏子さんたちの浄財で再建されたものとある。参道に立ち並ぶ氏名入りの幟の多さにも納得がいく。
(泉が森入口)
(泉神社拝殿)

 拝殿の右下に池があり、真ん中に小さなお社が鎮座している。池の底からは常に地下水が青白い砂を吹き上げながらこんこんと沸き出していて、池全体が見事に透き通っていて清々しい。平成の名水百選「泉ヶ森の湧水」である。
 池の近くには「茨城県指定文化財史跡泉ヶ森」の標柱が立ち、その奥に由緒を記した自然石の碑があった。
    史跡泉ヶ森 茨城県指定文化財 昭和44年12月1日指定
     泉が森は、この清い泉と泉神社の神域とをふくむ総称で緑樹の美しい歴史的に価値の高い森です。常陸国風土記には「密筑の大井」として人びとの憩いの場であったことが記されており、また、歌の場所としても有名であったようです。
    泉神社は、天速玉姫命を祀る延喜式内社で日立地方では最も古い神社です。鎌倉・室町時代から多くの武将が祈願に訪れたといわれております。
     江戸時代には、常北十景のひとつに加えられており、現在も茨城百景として名勝地にもなっております。泉の近くにインドの河の精を神格化したという弁財天が祀られております
(泉神社)
(池の底から吹き上がる泉)

 裏の出入り口から出て、道向かいのイトヨの里公園に入ると、入口に名水百選の石碑があり、その奥に「泉のはじまり」の言い伝えを記した碑が立っている。謂く
     むかしむかしみつきの里は、日照りが続き困った里人は「雨乞い」の祈りをしました。皆の祈りが天に通じたか、乾いた大地に天から美しい玉が落ちてきました。すると玉の落ちた大地が裂け、水がこんこんと湧きだしました。泉ヶ森の泉の始まりです。
     碑の横には「このお話は、水木に昔から語り伝えられ、この像はそれを元にして創ったものです。私たちはこの大切な水を守り、水木の里を住みよい美しい未来に拓く地域にして行きたいものです。平成14年5月水木婦人会」の但し書きがあった。
 玉の石碑のすぐ傍にはいつも地下水が流れ出ている水口があり、一昨年の大震災の時の10日間の断水期間の間、何回もここまで水汲みに来て、その有り難さを十二分に味わさせて頂いた名水である。

ついでにこの公園のイトヨの里について、日立市公園ガイドから引用すると
    常陸風土記に「村の中に湧水あり・・・・湧き流れて川となれり」や「男女会集いて・・・・・楽しめり」と記されています。この地が現在の泉神社を囲む泉が森で、戦後この湧水を利用してニジマスの養殖などが行われたことがあります。
      この養殖地周辺には、全国的にも数ヶ所の湧水にしか生息しなていない淡水魚のイトヨが昔から棲んでおり、地域住民にあたたかく見守られてきました。
     ここに住宅造成計画が起こった時、地元の市民運動推進会が、イトヨの保護と自然環境を守るため、親水公園化の請願書を市に提出し、市はこれを受けて公園化を決めました。
    公園名を募集した結果、地元の小学生が名づけ親となり、「イトヨの里泉が森公園」としてスタートしました。
以前は泉ヶ森湧水を引いた清流の藻の中にイトヨの泳ぐ姿を何匹も見ることが出来たが、最近は見たことがない。水以外に何か環境が悪くなったのだろうか。
(名水百選碑)
(泉のはじまり碑)

 「日立のまち案内人」には泉ヶ森には藤田東湖と藤原兼輔の詩碑が立っているとある。
池の上に藤田東湖の詩碑があり、漢文で
   「冽々寒泉深樹下炎天六月颯如秋豈徒駆逐一時熱洗尽乾坤萬古愁」
とあるようだったが意味はさっぱり不明、脇に解説文があった。
    「冽々(れつれつたる)寒泉(かんぜん)深樹(しんじゅの)下(もと)炎天(えんてん)六月(ろくがつ)颯(さっとして)秋(の)如(し)豈(あに)徒(ただに)一時(いっときの)熱(を)駆逐(するのみならんや)洗(い)尽(くす)乾坤(けんこん)万古(ばんこの)愁(うれい)
    冽々(手の切れるように冷たい)
    炎天六月(土用の最中さなか 六月は新暦の七月)
    乾坤(天と地 この世)
    嘉永6年6月3日(1853)ペリー来航。 藤田東湖(48歳)はその頃、湯岐ゆじまた温泉(現福島県東白河郡塙町湯岐・和泉屋旅館)で高血圧の治療に専念、約1ヶ月逗留後、6月19日泉ヶ森を尋ね納涼詩を詠む。同年7月7日、急使により江戸に上り、斉昭の参謀格として海岸防禦御用掛りの任に当たっていたが、安政2年(1855)の江戸の地震で圧死」
藤原兼輔の詩は入口鳥居脇の茨城12景の石碑の右面に刻印されていた。
    みかの原わきて流るる泉川 いつみきとてか恋しかるらむ 中納言兼輔
他に「日立のまち案内人」には載っていない明治時代の栗田寛の詩碑があった。
    池のおもに浮かぶ光を玉とみて、むす手にわける月はありけれ
    水を汲めば月は手にあり、といふこころをよめる 寛
(藤田東湖詩碑)
(栗田寛歌碑)

 地図を見ると、泉ヶ森から海岸近くの異国船番所跡に行く途中に、日輪寺別院と蹴上不動尊の名前があってついでに立ち寄ってみることにした。
 R6沿いの日輪寺には風神山の途中に何度か立ち寄ったことがあるが、別院があるとは初めて知り、R6の日輪寺以前に建っていた昔からのお寺を見ることが出来るだろうと期待した。R245を渡って住宅街を抜けて地図記載の地点まで歩いていくと広い墓地があり、おびただしい自然石を含めた古いお墓が立ち並んでいるが、お寺の姿はどこにも見えない。こんもりとした小さな森もあって期待させたが、近くまで歩いてもすぐ脇までお墓が立ち並んでいるだけで、地図記載の古いお寺は今は無くなったかと一旦諦めた。次に向かおうとした時に、小さな駐車場に「日輪寺水木分院駐車場」と書いた真新しい看板を見つけて見る目が変わった。その気で見ると、墓地の端に立っている2階建ての白い建物が怪しい。近付いてみると入口に「日輪寺別院」の看板が掛けてあった。何のことはない、別院とは墓地管理のために建てられた日輪寺の別荘だったようだ。
 和子が一緒でなくて文句を言われなくて済んだが、それでも十分にがっかりして蹴上不動尊に向かった。それは十字路の角の高台に建てられた部落の守り神様の風情だったが、「泉呎山東楽寺蹴上不動明王」の立派な石柱が立っていた。
(日輪寺別院)
(蹴上不動尊)

 次の異国船御番所跡は「日立のまち案内人」では水木町1-25-7となっているが、この地域の家には住所地番の札が貼り付けてなくて、はっきりとした場所が分からない。枝道に入ったりしながら出会ったご婦人に「この近くに異国船御番所跡はありませんか」と訊いたりしたがご存じの人とは出合わない。通りを歩いて行くと河村さんの石門の中に「御番所跡」の立派な石碑が見えた。庭に入って声をかけるとご主人が出てきて「この先の広場が御番所跡だが、この石碑は私のお祖父さんが荒れた広場にあっても仕方がないとここに移動したと言っていた。代々大事に管理しているんですよ」とのお話だった。
 石碑の写真を撮らせていただいて、通りを先に歩いて行くとそれらしい広場があり、綺麗に草刈りはしてあるが「御番所跡」を示すものは何もなかった。奥の方に標柱らしきものが見えて確認したかったが、周り全部が柵で囲ってあって中に入れない。元気なら乗越えるのに苦労しないさの柵だが、今の腰の状態では大事をとるしかなく、さっきの御主人の言葉でここを異国船御番所跡と決めた。
(御番所跡石碑)
(異国船御番所跡)

 番所跡から少し歩くと御馴染みの田楽鼻公園に着いた。公園の中には「江戸時代の海防施設」の看板があって、「日立のまち案内人」に載っている昔の海防施設の地図が描かれており、水木異国船遠見番所跡の説明文に公園脇がそこだと書いてあった。鎖国令が出て間もなくの1645年頃、異国船でキリシタンが上陸するのを防ぐために見張り場を設けて、遠眼鏡で海上を監視した。1836年に大沼村に陣屋が出来てからは異国船が発見されると早馬で急報したと伝えられている。とのこと。
 番屋跡の決着がついて気分が良くなり、展望台に上がって太平洋を見渡して気分を一新したいと思ったが、海からの霧が一面を覆って視界はゼロだった。歩く身には直射日光が遮られて暑さが無くて助かるのだが。心配してるかもと和子に無事歩いているとの電話を入れると「日照りが酷くて大変でしょう」と我が家付近にはこの霧は広がっていないようだった。
(異国船番所跡説明板)
(田楽鼻公園展望台)

 広場は子供広場でもあって遊具もあるが、2003年に行われた磯出大祭礼の記念石が行列参加者の人形を乗せて置いてあった。磯出大祭礼は金砂郷町の西金砂神社と東金砂神社の神輿が、72年(未年)に一度、常陸太田市を経て日立市水木浜ヘ渡御する祭礼のことで、この祭礼がおこなわれた2003年のころは私も地区の役員をしていて色々とお手伝いをした覚えがある。
 広場入口には「日立のまち案内人」記載の長塚節の歌碑があった。
    多珂の海乃 水木の浜に 荒波に かぢめさは寄る そをとりて たすけにせむと 蜑等(あまら)さはよる (長歌と見るべきであろう)
    潮さゐの 水木の濱に 爪木たく 蜑人さわぎ 搗布(かじめ)とるかも 長塚節(二首)
(磯出大祭礼記念碑)
(長塚節歌碑)

 田楽鼻を後にして西に向かって引き換えし、次の六つヶ塚古墳に向かう。「日立のまち案内人」記載の番地を目安にR245を渡ったところの枝道に入っていくと古墳はすぐに見つかった。道路拡張とIJSの駐車場に端を削り取られて窮屈そうだが、日立市指定史跡六号と七号の白い木柱と古墳の説明板が立っていた。六つヶ塚と名が付くのは、この近くに6基の古墳があったらしいが、今日はこの二つ古墳が見つかったことで良しとしよう。古墳のてっぺんに上がってみたい気はしたが、夏草が茂っていて腰痛を抱えた身では無理をする気が起きない。
 六つヶ塚古墳から次の大甕神社に向かう途中、我が家のすぐそばを通る時、大甕神社と日輪寺にはお参りしたこともあるしで、ここで中断して我が家に帰る誘惑も強かったが、暑さに耐える体力増進のために思い直して初志貫徹とした。
 茨城キリスト教学園前を通過して大甕神社前でY字路の分岐点に来ると、その角に「日立市指定有形文化財 泉川道標」の標柱が立ち、後に「従是泉川道」の石碑があり、右に「此地ミカノ原 水木村へ12町」、左に「常陸二八社之内天速玉姫神社」と書かれていた。道標の右面には「奥州岩瀬郡須賀川 泉屋忠兵衛立之」、左面には「明和八年辛卯四月吉日」とあり、下には詳しい由来書があった。しゃがみこんで読みにくい由来書を読んでいると腰が痛くなるので、あとでゆっくりと判読しようと写真に撮ったのだが、帰宅後見直してもはっきりとは読み取れなかった。判読すると、これは「泉川道標復元之記」であり、
    交差した6号に向かう道は江戸からいわき方面に向かう主要街道で、私が今歩いてきた水木浜に向かう道を泉川道と言った。この交差点は寺社参詣の盛んだった江戸時代から明治時代には、寺社巡りの主要地だった泉ヶ森・泉神社に向かう旅人がいわき街道から分かれる分岐点だった。文化財に指定されているこの泉川道標は、この重要分岐点に奥州岩瀬郡須賀川の泉屋忠兵衛が明和8年に設置した道標だったらしい。道路整備で車道が現在の6号国道に移動した時に撤去移設されたが、地元の有志により1963年に元の位置である現在地に戻されたということらしい。
(六つヶ塚古墳)
(泉川道標)

 次はすぐ前の大甕神社にお参りする。新しい儀式殿のある裏門から入って拝殿に向かう。拝殿は鬱蒼とした巨木に囲まれ、一対の狛犬様に守られて荘厳な雰囲気を持っている。大甕神社の由来は、
    祭神、武葉槌命。
    造営が最初に為された年代は不詳。
    1689年、水戸藩により大甕山上より現在の地、宿魂石上に遷宮。
    大甕倭文神宮という神宮の号を用いる。
    1695年、水戸藩により、社殿が造営される。
    1751年、修復工事。
    1933年、現在の拝殿が造営される。
    1957年、現在の本殿が造営される。
という。
(大甕神社拝殿)

 拝殿の右に宿魂石という石碑があり、近くに転がっていた板切れに「宿魂石とはこの岩山全体を言う」とあった。近くに「本殿入口」の道標があって宿魂石と言われる岩山に向かって踏み跡が登っていた。少々危なっかしい道だが、気を付けて登れば大丈夫だろうとゆっくりゆっくりと登っていき、少しトラバースすると真新しい本殿の横に出た。
 本殿にお参りして正面の石段を下りると、六号国道わきの大鳥居の前に出た。険しい岩山歩きをしなくても、儀式殿前を通ってくればなんということはなかったのだ。
(宿魂石と本殿入口)
(本殿ではなく甕星香々背男社)

 六号国道に出てこれを渡り、裏道を歩いて日輪寺に向かった。国道に沿って歩けば近道だが、暑さの中での車の排気ガスは嬉しくない。
 日輪寺の広い墓地に着いてお墓を眺めると、別院の墓地の方が大きくて古いお墓が多い様に見えた。別院の方には水木浜の旧家のお墓が多いのだろう。綺麗に整備された本堂を拝み、弘法大師像や子安地蔵、水子地蔵、救世観音像などを一通り眺めて我が家に向かった。
(日輪寺本堂)
(弘法大師像)

 我が家に帰りついたのは11時を少し回っていた。出発してから3時間強、1万歩丁度のお散歩でした。暑さに参った気分はなく、後遺症が出なければ、そのうちまた日立の文化財探索に出かけようと思う。




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