A84.日立市の自然・文化財(3)
1.動 機(久慈地区) 1年ぶりの人間ドックを受けたら、身長が10mm縮んで、内臓脂肪面積が去年の84.3cm2から115cm2に36%も増加していて内臓脂肪型肥満の烙印を押されてしまった。このところ下腹が出っ張ってきたことが気にはなってはいたが、数字で示されると身に滲みる。暑い暑いと言ってはおれない事態だ。まだ高い山に登るわけにはいかないので、朝夕風神山に行けないときには、昼間でも少し汗を流して歩くことにしよう。今日は南部図書館に借りた本を返しに行くついでに、久慈浜地区の9ヶ所の寺社史跡を回ってきた。 前夜、いきいき百年塾のHPやNETのマピオン地図を調べて10ヶ所の寺社史跡(富士神社、二十三夜尊堂、八坂神社、千福寺、波切不動尊、千年松神社、釜坂八幡宮、茨城百景碑、薬師堂、津神社)を拾い出し、富士神社は6月に東海村文化財(9)でお参りしているので除外して、9ヶ所を回ることにしていた。和子は暑いのは嫌だといってお留守番。
2.データ
3.山行記録 10時を過ぎて車で南部図書館に向かう。南部図書館は廃線になった日立電鉄の久慈浜駅跡に建設されて今年4月末に開館したばかり。まだ勝手がわからず、借りていた本を返却してから和子に頼まれた本を探し回り、館員に書架の位置を聞いてやっと一仕事片付く。図書館の駐車場に車を置いて、ここから久慈地区を一回りすることにする。
図書館から、我家が何時もお魚市場に行くときに通る道に出て左折、最初の交差点を右に曲がってすぐのところに二十三夜尊堂の大きな看板が見えた。小さな社だが看板には千福寺の別当とあり、境内に立っていた自然石の碑には大正15年11月建立となっていた。
八坂神社を後にして少し引返して次の千福寺に向かう。千福寺は関東百八地蔵尊霊場に第五十四番札所として名を連ねる立派な大きなお寺、一番手前に慰霊碑の広場があって、ここからでも境内に入れるが、名刹にはちゃんと正面から入らなければと裏参道を歩いていって入口門の前に出た。入口門は脇に「天台宗千福寺」の石柱があって大きな屋根構えで立派だった。
門を潜ると、正面にでんと本堂が控え、右にはそれよりも大きな儀礼殿(客殿?)、左に小ぶりだが手の込んだ彫刻で飾られた二十六夜尊堂が建っていて、境内は荘厳な雰囲気に包まれていた。 入口門のすぐ左手には身代り地蔵尊があり、立札に「お地蔵さんはほとけに代って現世の人々の苦悩を身代わりし死後も生前の悪行をざんげすれば来生まで慈悲の手を垂れ幼な児や母の胎内から早く去った水子にも母に代って守護してくれる菩薩さまであります」とあり、両脇にはおびただしい数の地蔵さんが納められていた。 千福寺自体の由来などは、これだけ立派なお寺なので後で調べればいくらでも出てくるだろうと思って写真に撮らなかったら、NETで検索してもなかなか情報がでてこなかったが、「陸前三郎のへや」には次のような記述があった。
承和十四年(847)近江国比叡山延暦寺末寺として慈覚上人か開基。 寛和二年(986)了伝上人で開山。江戸時代には、東叡山の末寺となる。 文久元年(1861)総てのもの一切が焼失。 昭和八年跡地現久慈小学校校庭より現在地に移転し、本堂、山門、鐘楼堂等全て再建する。 境内には二十六夜尊堂があり、縁日には「仏たて十夜講」の法要が盛大に行なわれ、参道、境内に出店が出て、歩くのもままならないほどの賑わいを見せる。 平成20年〜?境内に身代わり地蔵尊像が新設される。 現在鐘楼堂は元の場所には見当たらず何処へ移設され判らず、境内は震災による被害で改修中である。
対の邪鬼に睨まれながら玄関から本堂に入ると、内部もきらびやかな装飾でいっぱいだった。天井全体が嵌め込み装飾画、中央には大きな装飾照明、側壁には手の込んだ彫り物と有り難そうな天女様の壁画、本堂の外周りも数々の武将の彫刻像で守られていた。一見の価値ありと思う。
本堂左奥に慰霊碑には、古くは日清戦争、日露戦争の戦死者、大東亜戦争では戦死者だけでなく被災死者まで祀ってあった。
その近くに蓮の噴水があり、そこから久慈浜の眺めがよく、街並みをきれいに見渡すことが出来た。
千福寺の門から200mほど直進して左に下ってから、行戸町会館前の道に登って行くと会館の裏の広場に波切不動尊が建っていた。脇に台座だけが真新しい不動尊堂新築記念碑が建っていて写真に撮ったが、本体は真っ黒で新築の年号読めず、隣の記念碑改修の碑には平成12年改修となっていた。同じ敷地に小さな社が建っていて愛宕神社となっており、防火の守護神京都の愛宕神社を勧請したとのこと。
波切不動尊から少し歩くと、右手に千年松神社の古い社の背面が見えてきた。草地を別けて表に回ると、前庭も草ぼうぼう、屋根も朽ちかけていて、脇に「神木千年松碑」の碑が立っていた。昔は八幡太郎義家が手植えしたと伝えられた松(千年松)があって、崇高なる精霊を敬って樹下に稲荷神社(千年松稲荷神社)を祀ったという。大正五年の大暴風で被害を蒙り、遂年故枯し伐採のやむなきに至ったとのこと。
久慈小学校に向かう前に少し遠いが日立港入口交差点近くの釜坂八幡宮まで歩いた。もともとは佐竹氏が鎌倉の八幡宮を勧請したらしいが、今では行戸町の海上安全、大漁満足、家内安全、商売繁盛の守護神として篤い信仰を集めているとのこと。入口鳥居のところには大正7年6月15日の改築記念碑があり、更に昭和47年5月の御神輿新調記念碑もあった。
釜坂八幡宮から久慈小学校まで急坂を登って1km近く、一汗かいて裏門に着いた。どこでも同じく関係者以外は校内立ち入り禁止、敷地の周りを歩けるかと思って少し右手に行ってみたがすぐに行き止まり、やむなく校内に入って職員室に入って茨城百景碑への行き方をを聞いた。始めの先生は茨城百景碑をご存じなかったが、隣で聞いていた先生が「校庭を突っ切って行った先ですよ」と外まで出て教えて貰えた。ついでに薬師堂についても尋ねると「百景碑の脇の石段を下っていくと、降りた道路向かいが薬師堂ですよ」と教えて貰えた。
校庭を突っ切った端が広場になっていて、立派な茨城百景碑が立っていた。近くに二宮尊徳像も立っていて懐かしい思いがした。
茨城百景碑の広場にはベンチもあっていい展望台になっていて、日立港からサンピア日立、南部図書館まで見渡すことが出来た。
この眺めで大満足して学校を後にしたが、久慈小学校の校庭には日立市巨木指定になっている大きな「ケヤキ」の木があったことを後で知った。明治38年10月、日露戦争の戦勝記念として百本植えられたが、校舎の拡張と共に失われ現在は三本が百年の歴史を見守っているとのこと。正門から出るときに撮った写真に一部だけが写っていたが、残念!
石段を下っていくと車道に出て、すぐ向かいに薬師堂があった。立派な改築記念碑が建っていたが、現在の薬師堂は明治四十二年に建立され、昭和五十一年に修復されたものとのこと。
薬師堂の中には県重要文化財に指定された本尊・薬師如来座像が保存されており、日立市文化財指定の両脇侍日光・月光菩薩と薬師如来の眷属十二神将が安置されているとのこと。有り難い仏様をこの目で拝みたいと薬師堂の前まで行くと、全周の扉はしっかり閉まっていた。大きな賽銭箱の上の扉に小さな隙間が空いていたが、覗いても目が慣れないと中は真っ暗で何も見えない。隙間からカメラのシャッタを押したら、目で見るよりも内部がはっきりと写っていた。両脇に見える小さな像は十二神将なのだろう。肝心の薬師如来座像と日光・月光菩薩らしき像は見えないが、おそらく中央の扉の中に安置されているのだろう。
薬師堂から出て200m歩いてサンピア日立への道を曲がると津神社があった。前にもお参りしたことがある見覚えのある神社だった。津とは港の意味があり、海の神様を祭っている神社らしい。
入口で写真だけ撮って南部図書館に戻ったが、歩行距離4km、まずまず面白いウオーキングだった。図書館の真新しいトイレを使わせていただいて、和子と携帯連絡を取ってからまっすぐ我が家に帰った。
ついでに翌朝の風神山散歩道で撮った花写真を紹介しておきましょう。
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