B13.日立市の自然・文化財(7)
(大沼・金沢地区)

1.動 機
 5日に馬飼三角点探訪をしてから数日後に風邪をひき、寝床で本を読んだりPCでパズルを解いたりの一週間を過ごした。症状が和らいだが、足慣らしに昨日一昨日と安全パトロールをしたら1時間足らずのウオーキングも辛く、19日に水戸アルパインクラブで20km近い距離を歩く行事があるだが、皆さんについて歩けるかどうか心配になってきた。今日は和子がお茶会で出かけたので、我が森山地区の北に隣接する大沼、金沢地区にある地図に載っている寺社仏閣をしらみつぶしに歩いてみることにした。12kmほどのウオーキングによれよれになってしまうていたらく、19日に皆さんの元気を貰えばもっと元気に歩くことが出来るだろうか。
 このウオーキングは信心のなせるところではなく、風神山では山登りがまだ辛いし新しい話も出てこないしで、正直なところはこの夫婦二人の山歩きのネタ作りのためだった。新年の事とて、お寺も神社も折角綺麗に掃除されて清められていたのに、疲れたなどと言っていては申し訳ないことではある。

2.データ
a)山域:日立市大沼、金沢地区
b)登山日:2014/01/16(木)晴
c)コースタイム:自宅9:40 ---- 9:50日輪寺 ---- 9:55吉田神社10:00 ---- 10:25大山砥神社10:35 ---- 10:55覚念寺11:00 ---- 11:05伊勢神社11:15 ---- 卍探し ---- 11:45長福寺11:50 ---- 12:05古宮神社 ---- 12:15食堂(昼食)12:40 ---- 12:45厳島神社・三峯神社12:50 ---- 13:30塙稲荷神社 ---- 13:45自宅
d)同行者:単独
e)地形図:1/25000 「日立南部」
(日立の自然・文化財(7)のマップ)
(日立の自然・文化財(7)の高低差)


3.1 山行記録
 和子が出て行ってから、言いつけられた火の始末と戸締りを確認してから歩き始めた。いつもの風神山コースを歩いて10分ほどで日輪寺に到着すると、ご婦人が一人庭の掃き掃除をしていたが、他にはだれ一人いない静かさ。
 日輪寺には去年7月にお参りしたばかりなので、本殿に簡単にお参りして裏の墓地に向かう。この辺りは何度も歩いていて、墓地の中の道を歩いて行くと吉田神社に近道できることを知っていた。
(日輪寺)
(裏の広い墓地を抜ける)

 吉田神社は喜楽会の人が氏子代表をしていて、清掃やいろいろな行事の準備で大変だという話を聞いていた。社伝によれば延暦14年(795)に八幡神社として創建、元禄8年(1695)徳川光圀の社寺改革によって吉田神社に改称され、旧森山村と大沼村の鎮守となったとのことです。
 鳥居の左脇には場違いな感じがする国土地理院の水準点があり、反対側には日立市指定歴史資料の棟札の説明板が立っていた。棟札とは、建造物の棟上げや修復に際して、工事の名目と時期、願主、施工職人の名前などを記入した札のことで、室町時代からのものが残っているとのこと。下記画像をクリックすると文字を読み取れる大きな画像になります。
(吉田神社鳥居)
(棟札説明板:クリックで大きくなります)

 石段を登って行くと地味な拝殿があらわれ、小規模な神社だなと思わせたが、裏に回ると手の込んだ彫り物を施した本殿があり、その更に奥には、愛宕神社、富士神社、八坂神社など沢山の境内社を従えていた。
(吉田神社拝殿)
(境内社群)

 吉田神社までは何度か歩いたことのある道だったが、ここから先は団地や住宅地が多い歩いたことのない道である。ポケナビには住宅地の道はあまり詳しく表示されないので、地図を頼りに歩いて行くしかない。次の大山砥神社までは1.5km位はありそうで、近年ポケナビに頼っているので、地図だけを頼りに歩くのは心細い。まあ間違えても大事にはならないので気楽に行きましょうと思いながら地図を見ながら歩いていると、通りかかったご婦人に不審がれたようで、「何の調査をされているのですか」と何度も尋ねられた。
 最短距離になりそうな道を選びながら歩いて行くが、高台を通る道では眼下に太平洋が広がって気持ちが紛れる。この辺りに住んでいる人は初日の出も自宅の窓から拝めたのだろうなと、妙なことを羨ましく思いながら歩いていく。
(次まで遠い)
(太平洋)

 左に溜池を見ながら歩いて行くと、右手の金網柵の中に神社が見えた。金網の扉は施錠されていたので、次の辻を右に曲がって更に次を左に曲がると、大山砥神社拝殿の前に出た。立派に見える拝殿はガラス張で最近建て替えられたように見えた。裏にあった改築記念碑によれば、明治16年に村社の大山砥神社として建てられ、老朽化のためH23年4月から去年6月にかけて建て替えられたとのことだった。拝殿は真新しいが狛犬さんには苔が生えていて年代を感じさせた。
 神社の境内は広く、参道の入口は鬱蒼としたスギ林の中を100mも参道を歩いた先だった。鳥居の横には「明治41年6月鳥居落成建碑」の石碑があった。次の覚念寺にこの入口から行くには道が良くわからないので、一旦裏の車道に戻ることにした。
(大山砥神社拝殿)
(大山砥神社の参道入口)

 車道を歩いて根道ヶ丘クリニック前の広い道に出て、その道が左に大きく曲がるところで右の道に入ってまっすぐ行くと覚念寺の裏門に出会った。覚念寺はガラス張りでお寺らしい奥ゆかしさはないが、境内には日立市指定のイチョウなどの古木が多く尊厳さを保っていた。
 入口には聖徳太子坐像を保管する建物があって、「20日立史跡めぐり・県指定文化財・木造聖徳太子坐像」の立札があり、小さなガラス窓から中を覗くと少し見にくかったが、坐像の写真を撮ることが出来た。写真をクリックすると坐像が現れます。脇に立っていた坐像の説明文もここをクリックすると読むことが出来ます。
(覚念寺)
(聖徳太子坐像)

 覚念寺から数分歩いて金沢団地へ入る道の交差点に出ると、目の前に石段があり立派な鳥居がたっていた。ここの石段は地図にも長く表示されていたので数えてみたら223段もあり、病み上がりの身には少々きつかった。
 何とか石段を登り切ると、伊勢神社の懸額が掛かった鳥居の奥に立派な造りの拝殿があった。本殿も勿論立派、脇の両裂神社や伏見神社などの境内社も一寸そこらの小さな神社には負けない風格があった。
 本殿の右側に「伊勢神社由来記」があり、伊勢神社に伝わる伝説が書いてあった。碑の写真を添付することで終わりにしたいが、判読しにくいところがあるので、私なりに判読して下記した。面白い伝説をどうぞ。
     伝説によれば、昔、金沢村に岡源衛門なる百姓が居った。紀元1146年(西暦1186年)後鳥羽天皇の御代、村内の飯盛山に毎夜光りを発するものが現れた。その光りの正体を確かめようと、源衛門は飯盛山に籠った。
     すると夜半を過ぎた頃、緋の袴をつけたみめ麗しい官女が一人、忽然と現れ出て「汝は何者なるぞ、この山の光りを見届けたく籠りしなるか。さてこそ、この山の光りは外ならず、黄金の精気発して光を現すなり。然れば汝、具に、この由を官に告げよ、かくいう吾こそは天照大神なるぞ」と宣わせ給うた。ふと見上げると先ほどの御姿はなく消え失せてしまった。
     それから鎌倉に馳せ上り、この旨を伝達したので、鎌倉殿から金堀りの職人を金沢村につかわし山容を検分したところ、さんぜんと輝く黄金若干を発見したという。源衛門は賞として富の一字を賜り、富岡源衛門と称した。
     もともと社跡は、金沢村村下に、伊勢神社として祀られていたが、不思議な霊容を顕し「天照大神」との神託もあったことで、これから「天照皇太神宮」と称し、崇め尊ぶべしと鎌倉殿より御沙汰があったという。
    この場所がどこにあったのか、近くに小さな祠があるというのですがはっきりとはわからないといわれています。
     その後、元禄11年(西暦1698年)徳川五代将軍綱吉時代、当時の藩主水戸光圀公の命により現在の処に遷座させられた。以後、明治6年、太政官布告の際「皇太神宮」の名は伊勢のみとし、その外は別名称を付すこととなり、当神社は伊勢にちなみ伊勢神社と称ることとなった。
     現在の本殿は、明治42年に建立され、以来今日に至っている。
 この伊勢神社は昭和63年の12月に 原因不明の火災によって焼失し、その後、氏子や、多くの方々の寄進により平成4年に再建されたとのこと。入口鳥居のところや拝殿横の金沢団地からの入口と思われるところに、火気注意や、ごみ持ち帰りなどの注意札が立っていた。
(伊勢神社鳥居)
(伊勢神社拝殿)

 次は金沢団地と塙山団地の間の谷間道に、マピオン地図には表示されていないのに地形図には卍マークが付いている。片道0.5kmを歩いて探索してみることにした。
 卍マークの近くまで来ると斜面に結構広い墓地も見えて期待を持たせる。橋の手前で左の分岐に入って見たが2軒の民家で行止まり。工事車両に戻ってきた人に「この近くにお寺はありませんか」と尋ねたが「私は見たことがないね」とのこと。念のため橋を渡った奥までしばらく歩いて行くと、向かいから「山側道路のお散歩から帰るところ」と言うお元気な男性に出合い、同じ質問をしたがやはり「何度もここは歩いているが、この奥にお寺は見たことないよ」とのこと。地形図の卍マークは何かの間違いと言う結論になった。
(広い墓地あり)
(橋の向こうまで入って見た)

 次は塙山団地下にある長福寺に向かう。長福寺は鉄筋コンクリートつくりの白く大きな客殿が目立つお寺で、遠くからも広大な墓地の向こうにその姿を確認することが出来た。すぐ下に日立市の金沢葬祭場があり、脇には火葬場もある立地条件の良さで、随分とはぶりが良さそうである。
(堂々たる長福寺客殿)
(長福寺本殿)

 境内には念仏供養塔などの外に、照山修理顕彰碑が目を惹いた。碑文は漢文だし不鮮明で写真からは判読できなかったが、脇に立っていた、顕彰碑を守るために建てた覆屋の解説文を下記しておきましょう。随分偉い庄屋さんがいたものですね。
       照山修理顕彰碑
     今から三百五十余年前、寛永十八年、水戸徳川家は、増税するため、農地を測量し直すことにした。
     金沢村は土地高燥にして田圃が少ないため農民の生活が苦しくこれ以上の増税には耐え難いため里正(庄屋)照山修理が藩に対しその困窮を再三懇願したのであるが、藩の役人は聞き入れず「不届千万」と修理及び弟主税次男新次郎を現在の塙山小学校の裏手の山で処刑してしまいました。
     明治二十八年修理の苦衷、功徳を後世に伝うべく照山家同族相計って近郷近在多くの方々のご協賛を戴いて野口勝一先生の選文ならびに書によって顕彰碑が建立されましたが百年の風説に損傷も進み、このままでは、後世に伝え残すことが難しいので、同族会相談し関係者の方々の協力を得てここに碑を保護する覆屋を建築した次第です。
       平成八年三月彼岸          照山同族会
(念仏供養塔)
(照山修理顕彰碑)

 長福寺を後にして次の古峯神社に向かった。古峯神社はマピオン地図には載っているが地形図には印がない。地図を頼りに近くまで来たなと思った時、店の前で作業中の若者がいて「この近くに神社はありませんか?」と尋ねると「さあ?店の人に訊いてみましょう」と店の中に入って行った。店内には女主人が居て「神社なら、この向こうの道をどんどん歩いて行くと突き当りにありますよ」と笑顔。だがその方向はどう見ても伊勢神社だ。「近くに古宮神社というもっと小さな神社はありません?」と訊くと「そういえば、その角を曲がったところにありますわ」と外に出て指差して貰えた。
 教えて貰った角を曲がるとすぐに鳥居が見え、その奥に小さな古宮神社の祠があった。祠の屋根と土台、脇の灯篭だけは黒っぽいが、全体的に白っぽく真新しい感じ。囲いの石柱に「平成23年12月改修」と彫り込まれていたので、大震災で大きな被害を受けて氏子さんたちによって作り直されたものだろう。
 これで国道6号から山側にある寺社めぐりは終わった。残りは海側に3ヶ所あるだけだ。金沢大沼地区の海側には不思議なほど神社仏閣が見当たらない。国道を渡ったところで目に入ったすき屋で、注文したらすぐに出てきた牛丼定食を頂いて次に向かった。
 常磐線の踏切を渡った海側に金沢弁天公園という樹叢があり、その中に二つの神社が祀ってあった。
(古宮神社)
(手入れの良い金沢弁天公園)

 線路側から公園に入ると、すぐに金網に囲われた厳島神社の拝殿があった。拝殿だけの神社のように見えたが、囲いの外に4体の小さな石祠が並んでおり、その先100mほど樹叢のなかの参道を歩くと鳥居もあった。
(厳島神社拝殿)
(厳島神社鳥居)

 厳島神社の鳥居に並んで一回り小さいが立派な三峯神社の懸額がかかった鳥居があり、その少し奥に柵で囲われた倉庫のような建物があった。しっかり施錠されていたが、この中に三峰神社の祠が納められているのだろう。
(三峯神社鳥居)
(三峯神社)

 ここから先、森山団地内の塙稲荷神社に向かうのに、最短距離を歩こうかと、途中まで地図を方手に歩いて行ったが、めんどくさくなって一旦6号国道に出て一番わかりやすい道を歩くことにした。
 森山団地まで来ると勝手知ったる道ではあるが、団地内に神社があるとは知らなかった。地図を頼りに近付くと、神社には裏から入ることになってしまった。今回は裏からばかりお参りしていて、神様にも申し訳ない。小さな社だが前に対の灯篭と狐さんがあり、鳥居もある里の神社でした。入口には最近寄進されたばかりの真新しい立派な「塙稲荷神社」の石柱も立っていた。
(国道6号沿いの歩道)
(塙稲荷神社)

 重い足を引きずりながら我家に帰りついて、ポケナビの歩程を見ると12.4km、歩数計は2万2千歩を越していた。19日はもっと長い距離をもっと速く歩くのだろうが、どうなることか少なからず心配になった。仲間の皆さんに元気を貰うしかない。

(付録)
 翌日、歩行記録を書こうと思ってPCに向かい、念のためにと思って「日立のまち案内人の部屋」を覗いてみたら、大沼地区に「大沼遺跡」と「大沼異国船御番陣屋跡」とがあった。昨日これを見落とさないで歩いていたら19日と同じ程度の歩程になったのだろうが、昨日がもう限界だったので、見落としで助かったのかもしれない。早速、写真だけ撮りに車で出掛けた。
 高台の台原団地に上がって行くと、台原中学校の隣に広い公園があり、その中に大沼遺跡の大きな説明板が立っていて、大沼遺跡は昭和51〜52年にこの台原団地を造成する時に、土器や石器、竪穴住居跡などが見つかったとの記述があった。造成時の土地の状況を示す生々しい写真が左の台原中央公園の写真をクリックすると現れ、大沼遺跡の記述が右の説明板の写真をクリックすると大きくなります。
(台原中央公園)
(大沼遺跡の説明板)

 通勤道路から大沼小学校近くで大沼団地の日立電鉄線路向かいに入って行くと、すぐのところに大沼異国船御番陣屋跡の説明板が目に入った。説明板の写真をクリックすると説明文を読むことが出来ます。
 この場所は現在は里のお宮・伏見大明神が建てられていて、全体が神社の境内になっていた。脇の新築寄進者名簿には社殿が建てられたのは昭和51年3月となっており、赤い鳥居には平成12年12月の日付があった。まだ新しいのでマピオンにも国土地理院にも記述がないのだろう。
(大沼異国船御番陣屋跡の説明板)
(伏見稲荷大明神)



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