B21.日立の寺社巡り(川尻地区)

1.動 機
 そろそろブログの種探し、冬は遠くまで出かけるのが億劫なので、手軽に日立市内の寺社めぐりということになる。久し振りに15℃を超えそうな予報なので、日立北部の海岸近く川尻地区を歩くことにした。和子は寺社めぐりはお好きではないが、しぶしぶ同行する。和子が十王に所要があるというので、その近くの十王の稲荷神社と伊師の津神社とに車でお参りして、農産物直販店鵜喜鵜喜に車を置いて、鵜の岬遊歩道と小貝ヶ浜緑地を散歩してから、6ヶ所の寺社めぐりをしながら一回りすることにした。

2.データ
a)山域:鵜の岬公園(40m)、小貝ヶ浜緑地(25m)、折笠天満宮
b)登山日:2014/2/3(月)晴
c)コースタイム:日立自宅 10:00 = 10:35十王スーパ10:45 ---- 10:50伊師本郷P ---- 11:00十王稲荷神社11:05 = 11:10伊師本郷 = 11:15伊師浜生活改善センタ(津神社)11:25 = 11:35農産物直販店鵜喜鵜喜11:45 ---- 12:00水難者供養の碑 ---- 12:10愛の鐘 ---- 12:15海鵜捕獲場入口 ---- 12:20潮騒デッキ(昼食)12:50 ----13:00小貝橋 ---- 13:10川尻灯台 ---- 13:20波切不動尊 ---- 13:25茨城百景碑 ---- 13:35蚕養神社13:40 ---- 13:45館山神社13:45 ---- 14:00愛宕神社・稲荷神社 ----14:20蓮光寺瑞相殿14:25 ---- 14:45天満宮14:50 ---- 15:05蓮光寺 ---- 15:35十王横穴探索15:40 ---- 16:05農産物直販店鵜喜鵜喜16:10 = 16:45日立自宅
(川尻地区寺社探索ウオーキングコース)

(川尻地区寺社探索ウオーキングコースの標高差)

d)同行者:和子
e)地形図:「日立」

3.山行記録
 十王の稲荷神社は、去年11月の”A118.日立の魅力再発見ウオーク(十王)”の地図に載っていたが、立ち寄ることはしなかったところだ。私を十王のスーパに置いて、和子一人で車で用事を済ませて帰ってきてから寺社めぐりの始まり。
 手持ちの地図では神社への参道の位置は判らないが、十王台団地の近くに車を置けばすぐだろうと見当をつけて車を進めた。A118で通過した十字路を団地方向に曲がると「この先工事中進入禁止」の立札あり、曲がり角に車を停めて歩き始めた。
 団地入口のところからY字に引き返す道に入って、しばらく先に左手に入る踏み跡を見つけて入り込み、ポケナビ頼りにやみくもに歩いて行って何とか神社の横合いに出た。いつものように裏からのお参りになってしまった。前に出ると拝殿は瓦葺のなかなか立派な構えであり、最初の神社なので丁重にお参りした。
(十王稲荷神社歩経路)
(十王稲荷神社)

 拝殿前に石段があり、下に石の鳥居が二つ見える。石段を下りて振り返ると、左に稲荷神社と記した石柱が立っていた。左の道に進むと、崖の途中から滴り落ちる水をためる窪みが三つあり、それぞれの注連縄に手拭いが掛けてあった。自然の水を使った珍しい手洗鉢のようだ
(参道の鳥居と石段)
(自然の手洗鉢)

 狭い道を歩いて車道に出てから駐車場所に戻り、次の伊師の津神社に向かう。近道は通行止めなので、少し遠回りだが広い道を走って一旦R6に出てから、津神社のマークに向かって入ると伊師浜部落生活改善センタという建物があり、津神社はそのすぐ前だった。センタの前庭に車を置かせていただいて、お参りに向かう。
 鳥居の右に「鎮守津神社」の石碑があり、その隣には「日立市保存緑地」の看板もあって、この森は保存林になっているようだ。鳥居を潜って拝殿にお参りしてから裏に回ると、一段高い石垣で出来た高台があり、本殿は更にその上の石段を登ったところに鎮座していた。本殿にお参りするためにこの高台に上がるには道は無く、斜面を登る山登りが必要だった。お祭りの時のためか、移動式の階段が拝殿横に立てかけてあったが。
 鳥居には昭和15年、石碑の裏には同じ年の皇紀2600年記念の刻印があったが、この地に遷座したのは1913年のことらしい。詳しいことは由緒書をクリックしてみてください。拝殿前の対の狛犬さんは真新しいもので、「東日本大震災 2013.3.11」の刻印がしてあった。
(津神社)
(津神社奥社)

 津神社のお参りを終えて、R6に出て南下して農産物直販店鵜喜鵜喜の駐車場に車を入れて、野菜と弁当を購入して海岸線のお散歩に出発した。
 直販店から海岸に出るとすぐに公園の入口になり、立派な「伊師浜国民休養地入口」の標石があった。写真をクリックすると、そのさきにあった案内マップの一部が出てきます。
(農産物直販店鵜喜鵜喜)
(伊師浜国民休養地入口)

 入口から階段を登って高台に上がると景色が一段と良くなる。松の木と伊師浜海水浴場とのマッチングが素晴らしく、一枚パチリ。
 この辺りは釣りにいい場所のようで、断崖のあちこちで釣り糸を投げている姿が見られた。寒そうだけど、気持ち良さそう。
(伊師浜)
(鵜の岬)

 海側の茂みに茨城県知事岩上二郎謹書昭和44年10月伊師浜漁業協同組合建之の「水難者供養の碑」があり、山側にはでっかい国民宿舎の建物が見えていた。この遊歩道は国民宿舎の宿泊者の格好の散歩道になっているようで、睦まじそうな二人連れに度々出会った。
(水難者供養之碑)
(国民宿舎”鵜の岬”)

 碁石浦に向かって階段道を下って行くと、曲がり角にも釣り師が居て収穫を訊くと「今日は収穫なしで帰るようだよ」と嘆いていた。
 下り切った碁石浦の広場には鐘がぶら下がったモニュメントが立っていた。まだ真新しくて、国民宿舎が利用率連続15年連続日本一になったことを記念して7年前に作られたものとのこと。私は愛の鐘を鳴らしてみたが、和子は知らん顔。写真をクリックすると由緒書が出てきます。
(碁石海岸へ)
(愛の鐘)

 次の海鵜捕獲場への登り口には「ウミウ捕獲場公開中1月〜3月」の看板があったが、残念ながら、その上に「2/3〜7は一般公開中止」の張り紙がしてあった。階段を登って行ったが、海側は厳重に柵がしてあって「立入禁止」の赤看板が随所に立ててあった。
 碁石海岸の向こうに、先ほどいた遊歩道のある岬を眺め「いつ崩落しても不思議ではない」と話ながら高台を一回りして登り口の反対側まで下る。高台の下に入るトンネルの入口があるのが見え、公開中にはここから入って海側の崖下の捕獲場を見学できるようになっているらしかった。入口は閉鎖されていたが、ウミウ捕獲場の詳細な説明板が立っていた。写真をクリックすると説明が出てきます。
(碁石海岸)
(海鵜捕獲場は閉鎖)

 次の岬に登ると潮騒デッキという展望台があり、ここに上がって鵜喜鵜喜で買い込んだ弁当を食べながら太平洋の眺めをゆっくりと楽しんだ。
 展望デッキの岬を下りて、次に向かうには一旦R6に出るしかないと思って歩いて行くと、左の畑地から歩いてくる男性があった。「小貝ヶ浜にいけますか?」と訊くと「畑の中の道だけど大丈夫だよ」とのこと。近道できるのは嬉しい、田圃道を気分よく歩いて行った。
(潮騒デッキ)
(遊歩道から出て)

 1kmほど歩くと入り江に着き、ここから小貝橋というア−チ橋を渡ると、小貝ヶ浜緑地の案内図が立っていた。出口にある蚕養神社まで川尻灯台、波切不動尊、茨城百景の碑と見所が続いている。
(小貝橋を渡って)
(小貝ヶ浜緑地)

 入口すぐの曲がり角から向かいの岬を覗き込むと、浸食された崖が恐ろしげな景色を作っていた。柵から外に出てシャッタを押していると「落っこちないでよ」と和子の叱責が飛んでくる。岬の左にあった恰好のいい小島を撮り損ねた。
(浸食)

 この散歩を思いついた時には、海岸の遊歩道なので平らな道を歩くものと思っていたのだが、ここまでも、これからも10mから20mの登り下りのくり返しで、結構厳しいウオーキングになった。
 階段道を登って行くと、白い灯台が見えてきた。近くに寄ってみると、海上保安庁の管轄の灯台で入口は施錠されていた。
(登って)
(川尻灯台)

 岬の先からは二つ島が格好よく見え、茨城百景の名にふさわしい景色と思われた。
(二つ島)
(下って)

 下って登って行く途中に分岐があり「川尻灯台/波切不動尊/茨城百景」の三方向の道標が立っていた。まっすぐ登って波切不動尊にお参りして、下って登り返したところに広場があり「茨城百景 川尻海岸」の碑が立っていた。同じ広場には「日立市指定名勝第2号 小貝ヶ浜」の標柱も立っていた。茨城百景の指定は昭和25年で、日立市の指定は昭和55年となっていて、常識で考える順序とは逆みたいだった。近くには日立市指定文化財小貝ヶ浜の説明板が立っていた。クリックすると説明文を読むことができます。
(波切不動尊)
(茨城百景の碑)

 茨城百景碑の広場からは、松の木越しに川尻海岸が眺められ、伊師浜の眺めを逆にしたようないい風景だった。
(茨城百景碑から:川尻海岸)

 茨城百景碑から下っていくと、すぐに蚕養神社の境内に入る。拝殿の入口には「金色姫物語の伝説」の説明板があった。クリックして日本養蚕業の発端になったという面白い伝説を読んでみてください。
 拝殿裏の本殿は土台や囲いの塀が真新しい板で出来ていて、芳しい香りがしていた。大震災で被害を受けたのだろうか。
(蚕養神社拝殿)
(本殿)

 境内には東宮侍講従四位本居豊穎の歌碑が立っていて、
    常陸国多賀郡豊浦なる蚕養神社の こかひのわざに神霊ちはひますよしをききて
    里人か かふこの糸の 一すちに いのらは神も うけひかしやは
 石段を下って行くと鳥居があり、すぐにR6の国道だ。国道から写真を撮って鳥居裏の拝殿のような社務所まで入ると、その脇には次のような「日本最初 蚕養神社」の由緒書が立っていた。クリックすると由緒書が読めます。これによると、蚕養は(こがい)と読み、小貝ヶ浜は蚕養浜と書いていたようだ。
(歌碑)
(国道から鳥居と社務所)

 R6の向かいには館山神社という立派な石碑が立っており、その後ろに三つの神社が見えた。一番立派に見えるのは石の鳥居の後の200段の石段の登ったところに拝殿があった館山神社だった。
(館山神社鳥居)
(拝殿)

 後の本殿も立派だったが、前に並んだ対の狛犬さんが平べったい顔をしていて、その台座の後に昭和一四年五月吉日と私と同じ生れであることが気に入った。
 前に並んでいた二つの神社には、「白山神社・摩利支天尊」と「愛宕神社」の銘があった。
(狛犬さん)
(摩利支天尊:白山神社)

 地図にはR6向かいの街中に愛宕神社の鳥居印がある。すぐ南の交差点を陸橋で渡って街中の道を辿っていくと、ポケナビの指す位置に青いペンキを塗った社があった。神社名の表示はないが、愛宕神社に違いない。
 ところがもう一ブロック向こうの角に赤い社が見えた。もしかして間違えたかと言ってみると、入口の石門に稲荷神社の刻印が見えた。こちらの方が立派に見えたが、地図には表示されていない神社だった。
(愛宕神社)
(稲荷神社)

 愛宕神社から次の蓮光寺瑞相殿までは結構距離がある。川尻海岸に出て、川尻海水浴場の堰堤道をゆっくりと歩き、川尻漁港の取引所の前を通ってから山側に向かって歩いて行くと、高いところにお寺のような屋根が見えてきた。
(川尻海岸)
(高台にお寺)

 近くまで来ると、多くの人が坂道を歩いたり車に乗ったりで登って行く。車道からの入口には「瑞相殿」と刻した大きな自然石の標識があった。坂道を登って行くと立派な造りの建物があり、車で上がってきた車からはお坊さん装束の人が降り、建物からは神主姿の若者が笑顔で挨拶しながら出て行った。
 入口には「うかる」の文字を持ったウミウの石像があった。後で調べたら、これは(鵜狩る)からもじって、受験で(うかる)と商売でも(うかる)と受験や商売繁盛にご利益があることを売りにしたお寺(神社?)のシンボルらしい。
(蓮光寺瑞相殿)
(うかる君)

 社殿の前には30体もの仏神の石像が並んでいた。HPによるとこれらは
    帝釈天 四天王 三宝荒神 七面天女鬼子母神 不動 愛染明王 木華開耶媛神
    妙見大菩薩 迦楼羅 八大龍王 観世音菩薩 清正公 一塔両尊 祖師 釈迦妙来
    文殊菩薩 普賢菩薩 大黒 宇迦神 稲荷大明神 洗浄行 薬王 風邪神
    痔神 足尾神 白山神 天照大神 富士天神 三十番神
というらしいが、どれがどの像なのでしょうか。石像群の両側後ろには山神社、海神社の小さな社が祀られていた。
 ついでに、今日節分の日には、毎年追儺祈祷会が午後3時から行われるとあったので、多くの人が坂を登ってきていたのは、この例会に参加する人たちだったようだ。
(三十仏神)

 ポケナビに次の天満宮をインプットして、その示す道を忠実に歩いて行く。知らない道を歩くのは実際よりも遠く感じるものだ。咲き始めた梅の花を愛でたりしながら歩いて行くと、石を平行に立てた中国でみた???のようなものがあちこちにあったり、場違いな二宮尊徳像があったり、この地域の宗教心の深さがうかがわれた。
(???)
(二宮金次郎)

 住宅地を抜けると、車道の向かいにある豊浦小学校の西側の脇道に鳥居が見え、ここが天満宮だった。鳥居は2つあり2番目の鳥居には「折笠天満宮」の懸額が掛かっていた。灯篭や手洗鉢には明治二年の刻印がしてあって、左奥の参道沿いにはいくつもの石祠が立ち並んでいて、歴史を感じさせた。
 ここから次の蓮光寺までの道が悩ましかった。車道まで引き返して全部広い車道を歩くと余りにも遠回りで気が進まない。小学校に入って行けば、蓮光寺方向に抜ける裏道の通学路がありそうだが、学校の敷地に入り込んで先生に心配をかけるのも本心ではない。ポケナビを見ると向かいの団地から破線の道があるようなので、これを試みることにした。
 団地に入ってポケナビの指示するところに行くと、荒れ地の中に道らしきものが見つかった。どこまで繋がっているか少々心細いところもあったが、幸いにもそのまま田圃道になって次いで部落道に出ることが出来た。
(折笠天満宮)
(田圃道を辿って)

 里道に出ると、車道に出る手前で左手に広い墓地が見え、その上にお寺の屋根が見えてきた。蓮光寺に違いない。墓地は明治時代の古いものもあり、八百三郎翁と萬壽婦人などという珍しい名前の墓も目を惹いた。
 今日最初の鵜の岬と小貝ヶ浜の登り下りの多い遊歩道で結構いい運動になっていたのに、最後の蓮光寺に着いた時には歩行距離8km近くになっていて、結構足は疲れてきていた。ここから駐車場所の鵜喜鵜喜まで更に3kmは歩かなければならない。
(広い墓地の奥に)
(蓮光寺)

 気を取り直して歩き始め、電線工場の曲り角のところに来ると、道傍に「十王前横穴墓群」という魅力的な道標があった。矢印も駐車場所に帰る方向を示している。
 桜並木の道を歩いて行くと、向こうから茨城百景碑の広場から見えていた豊浦中学校の男女生徒が次々と帰ってくる。みんな「こんにちは!」と老夫婦に向かって元気な声を掛けながら通り過ぎて行く。森山地区の生徒よりも行儀良く元気があって気持ち良かった。
(十王前横穴墓群標識)
(サクラ並木)

 電線工場の東側道路に曲がったところで、道端でお話し中のお二人に「この近くに横穴ってありますか?」と尋ねると「すぐ先の木の橋を渡ったところにありますよ」と教えて貰えた。嬉しくなって木の橋のところまで来ると「十王橋横穴」の道標が橋を渡って左に曲がるように指し示していた。
 橋を渡って左に歩くと、田圃に入ったり、竹藪に入ったり、そのまま舗装道を歩いて右に登って行くか、判らない。舗装道をしばらく歩いてみたがそれらしき所は見当たらず、足も疲れてきたので今日は諦め、桜並木が満開になる頃にでもまた来て探索し直しすることにした。
(十王前横穴墓群標識)
(横穴見当たらず)

 鵜喜鵜喜の駐車場に戻ったのは16時を過ぎていた。もたもたしていると退勤渋滞に巻き込まれかねないと心配したが、最後まで渋滞なく意外なほど快調に走ることが出来て、帰りは35分で我が家に帰り着くことが出来た。変化もあってなかなか面白い一日でした。




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