B53.風神山から水木浜まで

1.動 機
 今年の1月に東海村の史跡を案内して頂いた平野さんを、今度は我が家近くの日立の史跡を案内することにした。大甕駅で合流してスタートし、大甕神社にお参りしてから風神山に登り、泉川道標から泉ヶ森まで参道を歩き、水木浜に出てから磯出大祭礼の道を辿って大甕駅に戻った。途中、泉川道標、大甕神社、一等基準点、砲台跡、泉神社、イトヨの里、津神社、異国船番屋跡碑、田楽鼻公園、六つヶ塚古墳を案内した。

2.データ
a)山域:風神山(242)
b)登山日:2014/05/10(土)
c)日程:自宅8:45 ---- 9:00大甕駅前9:10 ---- 9:25泉川道標 ---- 9:30大甕神社9:50 ---- 10:00祖霊殿 ---- 10:20一等基準点 ---- 10:45風の広場10:55 ---- 11:00砲台跡 ---- 11:15風神山頂11:20 ---- 11:25山の広場(昼食)12:05 ---- 12:45日輪寺12:50 ---- 12:55きのこランド13:15 ---- 13:35泉川道標 ---- 14:00泉ヶ森14:25 ---- 14:45津神社 ---- 14:15異国船番屋跡碑 ---- 14:55田楽鼻15:15 ---- 15:25六つヶ塚古墳15:30 ---- 15:45大甕駅 ---- 16:10自宅
(風神山・水木浜コース)
(風神山・水木浜コースの高低差)

d)同行者:平野さん、和子
e)地形図:1/25000 「日立南部」

3.山行記録
 15分前に我家を出て大甕駅前に着くと、丁度電車が着いていつものようにこやかな平野さんの笑顔が現れた。当初は御夫人も一緒の予定だったが、体調を崩されて残念ながら今日は3人でのウオーキングである。
 駅前で簡単な打ち合わせをしてから出発、跨線橋を渡って茨キリ前の道を歩いて旧国道陸前浜街道の角にある泉川道標に到着した。
 古びた石の道標の正面に「従是 泉川道」と大きく彫られ、その右に「此地ミカノ原水木村へ十二町」左に「常陸廿八社之内天速玉姫神社」とある。右側面に「奥州岩瀬郡須賀川 泉屋忠兵衛立之」、左側面に「明和八年辛卯四月吉日」とある。明和8年とは西暦1771年で江戸時代中期である。当時寺社参拝が盛んで、風光明媚な泉ヶ森にある常陸28社の一つの泉神社へお参りする人が多くて、旅人の便を考えて福島県の泉屋忠兵衛さんがこれを建てられたのだ。
 この道標は国道が付け替えられたときに一旦撤去されたが、有志の努力でここへ復元されたという事が、その前にある「泉川道標復元の記」に記されている。
    泉の水が流れ去るように人の世も しばしの休みとてなく移り変わって行く。
    遥かなるみちのくに通ずるここ陸前浜街道も かっての岩城海道の昔の面影今は知るよしもなく 昨日の?かっておおらかな旅人の姿は今日疾風の如く往き来する近代車輛の轟音に代わっている。 二百年の風雪に耐え時の去来を静かに見守っていた泉川道標も近代交通の波にうちひしがれ 一時は日立製作所厚生園内に退避を余儀なくされていたものであるが 苔むしたこの小さな道標の 日本交通史上に占める意義を考えるとき 群叢中に是をあたら散逸させるに忍びず ここに元の位置に復し再建するものである。
      昭和三十八年三月八日
 道標を見てから道向かいの大甕神社参拝に向かう。神社駐車場の入口に旧国道と新国道の関係図を示す標柱があり説明して、その前の石段を登って大甕神社にお参りする。
 大甕神社の由来は、
    祭神、武葉槌命。
    造営が最初に為された年代は不詳。
    1689年、水戸藩により大甕山上より現在の地、宿魂石上に遷宮。
    大甕倭文神宮という神宮の号を用いる。
    1695年、水戸藩により、社殿が造営される。
    1751年、修復工事。
    1933年、現在の拝殿が造営される。
    1957年、現在の本殿が造営される。
(泉川道標)
(大甕神社)

 拝殿にお参りし、その右の神輿倉と宿魂石の碑を見て石段を登って行くと、鎖のついた岩場登りになる。難なく岩場をこなして彫り物の多い本殿にお参りし、右に下って真新しい甕星香々背男社と巨大な儀式殿を見る。少し拝殿側に歩いたところに天然記念物大甕神社境内樹叢の説明板があり、これを読んで境内の鬱蒼とした木々を改めて見渡した。
     この樹叢は、大甕神社の所有する境内で、面積は7340.5平方メートルあります。むかしは9917.4平方メートルありましたが、
    昭和34年国道の改修工事によって、ほぼ中央部2576.9平方メートルが国道用地として切り取られました。樹叢は北東側の一部がアカマツ林で、
    他はスダジイの多い常緑広葉樹林となっております。スダジイの大きいものは、目通り幹囲3.5メートルに及び樹高15メートル余、
    樹齢推定300〜400年の大樹が生育繁茂しております。
    境内の植物は、木層ではスダジイ、アカガシ、サカキ、ヤマウルシ、ヤツデ、ツルグミ等々、草層では、ヤブコウジ、ヤブラン、ベニシダ等で207種あるといわれております。
    大甕神社の創立は明らかでありませんが、大甕倭文神宮社記によりますと、甕星香々背男を誅した建築槌命を祭った神社とされています。
    神社の前の道路に市指定文化財「泉川道標」が立っております。
 説明板の周りには錆びて朽ちた大きな錨が並んでいる。大甕神社への信仰が篤かった水木浜や久慈浜の漁師さんからの御供え物?
 大きな新鳥居を潜って一旦外に出て、R6を渡って向かいの祖霊殿の神域に入る。参道の両側に並ぶ石灯籠は新しいものだったが、この雰囲気はとてもいいとの平野さんの評価だった。
(本殿への登り)
(祖霊殿)

 祖霊殿前を通って日立研究所通勤道路に出て、日立研究所の建屋を左に見上げながら風神山登山口に向かう。エネルギー研究所を過ぎると駐車場入口に大きくて立派な一等基準点の石柱がある。
 山側道路を風神橋で渡って登山口に着き、舗装された登山道を「風神山自然公園」の標識の所まで登り、右の風の広場に向かう。
(一等基準点)
(風神山)

 風の広場で「展望を楽しんだ」と言いたいが、目の前の樹木が大きく育って視界が狭くなってしまった。東海村の原発は見えるが、平野邸は陰になって見えないとのこと。
 一休みしようとベンチに座ると、平野さんのザックの中からスイカが出てきた。重いものを持ち上げていただいて有り難いこと、皮近くまで真っ赤に熟れたスイカはとても甘くて美味しかった。平野夫人の分まで頂きました。
(風の広場から)
(スイカ)

 風の広場で美味しいスイカを頂きながら一休みしてから、少し下にある芝生広場に下って砲台跡を案内した。ここは、我が家も去年10月の日立の魅力再発見ウオーク(水木学区)の時に案内されて初めてその所在を知ったもの。大きな四角なコンクリートの塊にすぎないが、太平洋戦争時代のトーチカ跡だとか砲台跡だとかと説明を受けていた。
 砲台跡から引き上げて風神山の山頂に向かうと、山頂には「風神山と風神・雷神の碑」の説明板がある。
     風神山(標高241m)は、南側に温帯風北側に寒帯風を受け、山頂がその接点となり、風の強いところです。
     この山頂に守護神として江戸時代に「風神の石像」と「雷神の碑」が建立され、風神山の象徴となりました。
     ここに鬼が住んでいたという里人の言い伝えもあります。風神・雷神は天然現象のうち、とくに風と雷を神格化したものです。
     風神の碑は、石の表面に風袋をかつぎ山頂に立つ姿の風神像が浮き彫りされていて、手の指は東西南北を表す意味から4本指です。風神は名誉福徳を与える神ですが、後に西北の守護神とされています。
     雷神の碑は、石の表面に別雷皇太神宮の文字が刻まれています。雷神は一般に
    雷電を起こす神とされていますが、下界に降りて稲を実らす神とされ、手の指は過去、
    現在、未来を表す意味から三本指です。
     風神、雷神は昔から五穀豊穣、海難回避を祈願された神といわれています。
 風神雷神の碑と241.9mの四等三角点の前で記念写真を撮ってから、すぐ隣の山の広場で弁当を広げ、平野さんから色々面白いお話を伺いながら楽しいお昼休み。
(砲台跡)
(風神山山頂)

 ゆっくり休んでから我家のお散歩コースを下って、R6近くの名刹日輪寺を案内する。日輪寺は平野さんも所縁があるとのことでよくご存じだったが、前庭には今まで我家も気が付かなかった「家守不動瓦」の碑が立っていた。
     平成二十三年三月十一日の東日本大震災で、日輪寺客殿の瓦がことごとく崩れ落ちる中、この鬼瓦だけは、ひとり屋上にあって泰然として動かず、乾をにらみながら、伽藍本体を守った。
     家守不動瓦と命名して奇瑞を後世に伝え、広く参詣の人々に家内安全・厄災消除・入試合格の利益がおよぶことを念じて、ここに謹んで奉祀する。
      平成二十四年新春 来迎山宝珠院 日輪寺
 日輪寺のお参りを終えて、すぐ近くのきのこランドに立ち寄った。きのこランドも去年の日立の魅力再発見ウオーク(水木学区)の時に案内された所だが、その時の説明では
    2012年6月に障害者就労継続支援(A型)事業として開業
    障害者40名、所員9名が交代制で働いている。
    菌床はブナやナラの木のチップを固めたものにシイタケ菌を植えたもの。
    菌を植えた菌床は北海道から仕入れていたが今は群馬産。
    昼20℃、夜10℃にコントロールしている。
    1週間から10日で発芽、4日間で1回目の収穫、12時間浸水して10日後2回目発芽
    これを繰り返して2か月ぐらい収穫している。
    収穫物は市内のスーパや直販店などに卸している。工場に来れば直販もできる。
    用済み菌床は産業廃棄物として処分場に持ち込んで処分。
    菌床は無料で支給、しばらくは収穫可能。砕けば畑地改良剤にもなる。
 靴底を消毒して室内に入って、改めて案内していただいた。丁度収穫が終わったばかりとのことで、去年ほどシイタケがにょきにょきと頭を出している姿を平野さんに見て貰うことができなかったのが残念。新鮮なシイタケを買い込んで次に向かう。
(日輪寺、家守不動瓦)
(きのこランド)

 日立の水源を賄う森山浄水場前を通って泉川道標の所に戻り、ここから泉ヶ森参道を十二町(1.1km)歩いて泉神社にお参りした。 社史には
     泉神社は人皇第十代崇神天皇の御代、宇治49年(紀元前42年)にこの地方に鎮祀されたと伝えられている。延喜式内社の由緒深い旧郷社である。
    久自國造船瀬宿禰(くじのみやつこ ふなせしゅくね)の奏請により、大臣伊香色雄(いかがしこおのみこと)が勅命を受けての久自の国に至り、天速玉姫命を祭祀して、久自の国に至り、天速玉姫命を祭祀して、久自の国の総鎮守としたことが泉神社の創立である。
     社記に「上古霊玉此地に天降り 霊水湧騰して泉をなす 号けて泉川云ひ霊玉を以て神体とする」とある。ご祭神はこの霊玉を神格化した天速玉姫命をお祀りしている。
     「東夷の荒賊を平討する」最前線基地としての地域性を反映し、古くから多くの武将が祈祷に参拝している。特に、後奈良天皇の御代、享禄三年(1530年)9月に書かれた棟礼には、佐竹義篤が泉神社を崇敬し社殿を修造したと記録されている。残念なことに、享和2年(1802年)社殿が焼失し、旧記録を始め宝物などが散逸してしまった。現在の社殿は氏子らの浄財により昭和58年(1983年)5月に再建されたものである。
 近年、氏子さんたちの浄財で再建されたというだけに、一の鳥居から拝殿に向かう参道にはいつも氏子さん寄贈の赤い幟がずらりと並んでいて壮観である。
 参道奥にある樹齢450年のご神木を見て、拝殿にお参りして境内を歩いていくと、あちこちに歌碑が立っている。昔から各地から参拝者がやってきていた証でもあろう。
(泉神社入口)
(歌碑)

 拝殿下のいつもモコモコと水が噴き出している湧水の真ん中には赤い弁財天が立ち、傍らには案内板があり
    史跡泉ヶ森 茨城県指定文化財 昭和44年12月1日指定
     泉が森は、この清い泉と泉神社の神域とをふくむ総称で緑樹の美しい歴史的に価値の高い森です。常陸国風土記には「密筑の大井」として人びとの憩いの場であったことが記されており、また、歌の場所としても有名であったようです。
    泉神社は、天速玉姫命を祀る延喜式内社で日立地方では最も古い神社です。鎌倉・室町時代から多くの武将が祈願に訪れたといわれております。
     江戸時代には、常北十景のひとつに加えられており、現在も茨城百景として名勝地にもなっております。泉の近くにインドの河の精を神格化したという弁財天が祀られております。
 裏の柵の扉を開けて道向かいのイトヨの里に入る。入口に名水百選の石碑があり、その奥に「泉のはじまり」の言い伝えを記した碑が立っている。謂く
     常陸風土記に「村の中に湧水あり・・・・湧き流れて川となれり」や「男女会集いて・・・・・楽しめり」と記されています。この地が現在の泉神社を囲む泉が森で、戦後この湧水を利用してニジマスの養殖などが行われたことがあります。
      この養殖地周辺には、全国的にも数ヶ所の湧水にしか生息しなていない淡水魚のイトヨが昔から棲んでおり、地域住民にあたたかく見守られてきました。
     ここに住宅造成計画が起こった時、地元の市民運動推進会が、イトヨの保護と自然環境を守るため、親水公園化の請願書を市に提出し、市はこれを受けて公園化を決めました。
    公園名を募集した結果、地元の小学生が名づけ親となり、「イトヨの里泉が森公園」としてスタートしました。
 いつも水が流れ出している水場のところでは「大震災で一週間断水した時には、連日ここに水を貰いに来て行列に並びました。」と話し、公園の流れを巡りながら「以前は泉ヶ森湧水を引いた清流の藻の中にイトヨの泳ぐ姿を何匹も見ることが出来たが、最近は見たことがない。」と言うと、目の良い平野さんが目を皿のようにして藻の周りに目を凝らしていたが、やはり魚の姿は見えなかったとのこと。
 今夕は母の日のお祝いに水戸から娘と孫がやってくることになり、その準備もあって和子はここから我が家に帰っていった。
(泉)
(イトヨの里)

 ここからは平野さんと二人歩きになり、R245に出てから磯出大祭礼の行列が通った道を辿って水木浜まで歩き、高台の津神社から大祭礼の祭事が行われた水木浜を見渡した。大祭礼当日には、我が家は早起きして駆けつけたが既に満席で入場できず外から眺めただけだったが、平野さんは祭場に臨席したとのことだった。
(水木浜の眺め)

 2003年3月に我家が街で見かけた大祭礼行列の写真をいくつか下に並べておきましょう。
(大祭礼行列風景)

 水木浜から磯出大祭礼の道を辿る途中、民家の庭に異国船御番所跡の石碑がある。碑はこの先の広場にあったものだが、広場が荒れ放題になっていたのでこの家の御先祖がここに移動して、代々大事に管理しておられるもの。異国船御番所に付いては、田楽鼻公園に説明板に次のような記述がある。
    江戸時代、水戸藩は初代藩主頼房の時代を皮切りに、幕末までに助川海防城(助川館)と共に七つの海防施設を設けて、異国船(外国船)に対する海岸防備を行ってきた。
    公園脇はその一つ、水木異国船遠見番所(外国船を見張る番所)跡である。
    鎖国令が出されて間もなくの正保2年(1645)頃に頼房の命により、異国船に乗った切支丹が上陸するのを防ぐため、ここに見張場を設けて遠眼鏡で海上を監視した。
    正保7年(1836)大沼村に異国船御番陣屋(外国船を見張る役所)建設後は、異国船が発見されると早馬で大沼村へ急報したと伝えられている。
    ここ田楽鼻の広場では、文久2年(1862)金砂大祭礼の時に田楽が催された。
    @ 友部異国船御番陣屋跡 (十王町友部)
    A 川尻(折笠)異国船遠見番所台場跡 (川尻町1丁目)
    B 初崎台場跡 (相賀町)
    C 河原子台場跡 (河原子町2丁目)
    D 大沼異国船御番陣屋跡 (東大沼町1丁目)
    E 水木異国船遠見番所台場跡 (水木町1丁目)
    F 久慈台場跡 (久慈町1丁目)
    G 助川海防城跡 (助川町5丁目)
 御番所跡を眺めて田楽鼻公園に入ると、2003年3月の金砂神社磯出大祭礼の記念碑がどっかと座っている。磯出大祭礼についてはNETのヤンサマチによれば
    金砂山(かなさやま)の磯出祭(いそでさい)とは、茨城県久慈郡金砂郷町上宮河内(かみみやかわち)の西金砂神社と同郡水府村天下野(けがの)にある東金砂神社の神輿が、72年(未年)に一度、常陸太田市を経て日立市水木浜ヘ渡御(とぎょ)する祭礼のことで、大祭礼ともいう。また、その所々で田楽(でんがく)〔国の選択無形民俗文化財〕を行うところから大田楽(おおでんがく)とも呼ばれている。なお6年(未・丑年)に一度、常陸太田市馬場町ヘ渡御する祭礼を小祭礼(小田楽:こでんがく)という。第一回は851年
(御番所跡碑)
(大祭礼記念碑)

 田楽鼻公園の展望台の上で太平洋を眺めながら一休みして、六つヶ塚古墳に立ち寄ってから磯出大祭礼の道を辿りながら大甕駅に戻った。(古墳の写真をクリックすると、古墳の説明が出てきます。)
(田楽鼻から古房地鼻)
(六つヶ塚古墳)

 大甕駅に戻って平野さんと別れ、駅近くの駐車場を調べてから我が家に帰った。歩行距離13km超、結構長い歩程だったが、平野さんのお話を聞きながら面白いウオーキングになりました。




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