B111.西金砂神社小祭礼の道

1.動 機
 新聞の地方版に「西金砂神社小祭礼の道ウオーク」の募集記事が出ていて、面白そうだし歩行距離も10km程で丁度いい。分けても連絡先が2年前の水戸八景ウオークの時に案内役だった金砂大田楽研究会の横山さんであったことが決定的、その時の親切な案内を思い出して早速申込みした。前日まで雨模様の日が続き、当日の予報も時々雨の予報で心配したが、当日になると時々晴れ間も出る好天気、ポイントポイントで専門家による説明もあって面白いウオーキングだった。

2.データ
a)山域:西金砂神社、中染阿弥陀堂
b)登山日:2014/11/02(日)曇/晴
c)コースタイム:日立自宅 7:45 = 8:20水府支所駐車場8:55 = 9:20小鳥居9:40 ---- 10:05大鳥居10:10 ---- 拝殿 ---- 10:15山頂本殿10:25 ---- 10:30大鳥居11:10 ---- 11:15祭礼道分岐 ---- 12:05広場12:10 ---- 12:15登山口 ---- 12:25天下野公民館(昼食)13:25 ---- 14:00永久橋14:10 ---- 14:20北消防署14:30 ---- 14:40阿弥陀堂15:15 ----15:25中染祭場15:30 ---- 15:50水府支所16:00 = 16:40日立自宅
(西金砂神社小祭礼の道ウオーキングコース)

(西金砂神社小祭礼の道ウオーキングコースの標高差)

d)同行者:ウオーキング参加者52名、和子
e)地形図:「山方」

3.山行記録
 ゆとりを持って早めに我家を出発し、集合時間の10分前に指定の水府支所の駐車場に到着したが、もう大勢の人が屯していた。受付に行って会費を払うと、資料を渡されて「いつもお世話になります」と挨拶され、参加したのは一度だけなのにと恐れ入る。先着50名の募集になっていたが、参加者名簿には54名の名前があり、金砂田楽保存会会員13名、非会員41名だった。
 支所のトイレを使って引き消すと既に全員集合済みで説明が始まっていて、会長さんの挨拶、幹事さんの今日の予定に付いての説明が続いた。
    72年毎に行われる磯出大祭礼が6泊7日もの日程で、数百人もの行列が日立市水木浜まで神幸する大掛かりな祭礼であるのに対し、3泊4日で常陸太田市馬場町の仮殿まで神幸する祭礼を「小祭礼」と称している。しかし、この「小祭礼」も神輿を中心とした百数十人の行列が、各地区での祈祷のほか、中染、和田、馬場町の三ヶ所で田楽舞を奉奏しつつ進む祭礼は、十分に大きな祭りであり、来年3月には第199回の小祭礼がおこなわれる。今回のウオーキングはこの小祭礼の道のうち半分、西金佐神社からこの町田町まで10kmを歩くもの。とのこと
 このあと、県文化財指定になっている「町田火消行列」について保存会会長さんからの説明が続いた。
    「町田火消行列」とは、1739年の小祭礼の時多くの観衆が集ったが、不幸にも見物で留守になった2軒の家から火災が発生して大騒ぎになった。主唱者の医師土岐千角は行列に火消組みを参加させる必要を感じ、神田明神の火消組を見て見習って威儀整然とした町田火消行列を組織して小祭礼の神輿渡御を先導させることにした。1745年以来6年毎に町田地区で火消組を組織して神輿の先導役を務めてきて県文化財にも指定されたが、地域の高齢化が進み、人員的にも資金的にも継続困難になり、残念ながら来年度以降は中止にせざるを得なくなっている。
と伝統を守るにも厳しい現実があるとの話しであった。
 30分ほどで会合が終わって、参加者は2台の小型バスに乗せられて西金砂神社の小鳥居のところまで送ってもらった。
(水府支所駐車場に集合)
(小鳥居までバス移動)

 小鳥居のところで準備運動をして林道「そば街道」を歩き始め、四方固めや種蒔きなどの石像を見ながら歴史民俗資料館前の大鳥居のところで一休み。
(小鳥居から歩く)
(歴史民族伝承館)

 大鳥居から石段を登り、鬱蒼とした樹叢の中の参道を歩いて拝殿で参拝。
(大鳥居から)
(拝殿にお参りして)

 拝殿の廻り廊下には怖い顔をした十体の獅子が並んでおり、その前には見ざる聞かざる言わざるの三猿の像もあって目を惹いた。
(拝殿の廻り廊下に十体の獅子像と三猿)

 拝殿から根っこ道や100段を超す石段を登ってやっと西金砂山の山頂に到着。
(根っ子道)
(石段登り)

 山頂には西金砂神社の本殿の外、熊野神社や八幡神社、春日神社、白山神社などの境内社が並んでいた。
(山頂の本殿)
(境内社)

 山頂の東西に展望台があり、条件が良ければ富士山も見えるらしいが、今日は雨が降らなかっただけ幸いと言った曇り空、わずかに筑波山方向の山並みがわずかに見えているだけだった。
(筑波山方向)
(那須方向)

 大鳥居のところまで下って、ここに立つ大イチョウの下で宮司さんからの西金砂神社と大祭礼、小祭礼などについての詳しい説明があった。私の知らない近辺の地区名が出てきたり、次々年号が出てきたり、集中力が退化している私には朝手渡された資料に書いてある以外のことは頭に入ってこない。途中で離れて写真を撮ったりするので、ますます付いていけなくなる。
    西金佐神社
    大同元年(806)三月十一日、天台沙門宝珠上人が近江国日吉権現をこの金砂山へ勧請した。元禄十三年(1700)寺内にあった古仏像をすべて廃し新に神社に生まれ変り神鏡一面を鋳造し、山王権現と刻み幣帛を加えて之を神璽とした。祭典は春秋の二大祭の外、十二合祭、元旦祭、献穀祭、節分祭その他の祭を厳修して一般民衆の信仰を集めている。(OCNより)
    大イチョウは幹周10.5m、根元15.2m、樹高30m、枝張25m、樹令740年
    大サワラは幹周6.5m、根元12.0m、樹高30m、樹令700年、いずれも県指定天然記念物
(大イチョウの下で宮司さんの説明)
(隣の大サワラ)

 長いお話が終わって、いよいよ小祭礼の道ウオーキングが始まる。そば街道を少し進むと、右に「まつり山を下る」の石像があり、安龍ヶ滝分岐の先に山道が別れる。この山道の入口には鳥居があって小祭礼の道である。
 鳥居をくぐって山道をどんどんと登っていく。なかなか速足で付いて行くのが大変だ。10分登ったところに道標があり「西金砂山350m、天下野宿3.6km」とあり、まだ里までの道の一割も歩いていないのだとがっかりする。
(山道へ)
(峠を越え)

 少しアップダウンしてから急斜面の植林の中の下りになり、何度もジグザグをくり返しながら下って行く。歌仙坂というところらしい。重い神輿を担いだ祭礼の行列が、こんな厳しい道をよく歩いて行くものだと驚くばかり。
(歌仙坂を下り)
(痩せ尾根)

 痩せ尾根を通過して更に下ると見晴しが良くなり、気持ちの良い原っぱに降り立ってやっと一休み。
 草の間にポツポツと変わった植物が生えている。フユワラビと言うシダの仲間で、毒ではないがこの辺ではあまり食べなられないという事だった。
(広場)
(フユワラビ)

 原っぱからなだらかに5分も下ると車道に出た。そこは登山道の入口で、神社から山道に入ってから丁度1時間、「天下野<<祭礼道>>西金砂」の道標が立っていた。
 ここからは長い車道歩きになり、和子が舗装道を歩くのは嫌と嘆き節が始まった。
(登山口)
(車道歩き)

 途中には古い石碑があったりお地蔵さんがあったり、昔から信仰の道だったことを思わせていた。
 県道に近づいて北小学校のところまで出ると、学校はとっくに閉鎖されていたようで、校庭には一面太陽光発電のパネルが並んでいた。
(地蔵小屋)
(廃校跡に太陽光発電)

 北小学校跡からすぐのところに、天下野地区の公民館があり、ここの講堂で昼食を取ることになっていた。用意されていたアツアツで美味しい具沢山なトン汁をもらい、持参の弁当をゆっくりと頂いた。
(天下野公民館)
(昼食会場)

 1時間ほど休んでから再出発、天下野市街を歩いて県道33号に出ると何か事故があったのか車が数珠つなぎ。街中では歩道が確保されていたが、街を過ぎると歩道が狭くなって車を気にしながら歩くことになった。
(県道33号を歩く)

 鹿島神社参道を過ぎると旧道に入り、しばらく歩いた山田川を渡る橋の手前で先頭が立ち止った。橋の欄干には「えいきゅう橋」と「昭和11年竣工」の名板があり、このときコンクリート橋に改造されて永久橋という名前になったものと思われた。土地の人が説明に立ち、この橋の謂れを話してくれた。
    大祭礼や小祭礼のとき、西金砂神社から下ってきた行列は、天下野祭場で色々な祭事を行った後、ここまで来るといったんストップさせられる。丁度ここが中染と天下野のかつての村境だったので、ここで行列の受け渡しをするしきたりで、勝手に素通りすることは出来ない。通過の許しを得るために、天下野の使者が永久橋を渡って斎場近くにある中染の責任者の関さん宅に行くが、すぐ追い返される。行っては戻り、行っては戻りを七回行い八回目にやっと許しが出てくるので、この橋を七度半橋と呼び、使者のことを七度半と云った。
 永久橋の上から下を眺めると、河原に転がる大岩と川岸の紅葉とのコントラストがとても綺麗だった。
(永久橋)
(山田川)

 永久橋を渡って新道に出てからまた1kmほど歩くと県道36号との分岐の交差点があり、その向かいの北消防署に入ってトイレを使わせていただく。消防署でトイレ休憩とは、この田楽保存会は随分と顔が利く団体のようである。
 県道36号に入って東に向かって10分近く歩いて左手の田舎道に入ると、何度目かの枝道の入口に「鋳造 阿弥陀如来立像」の道標が立っていた。
(北消防署)
(県道36号に入って)

 道標から少し歩くと阿弥陀堂があり、市役所の担当者が待っていて資料を渡して鋳造阿弥陀如来立像の詳しい説明をしてくれた。お堂の中に入っての説明もあったが、全員入るのは無理なので私は遠慮した。
    かつてかわらぶきの小堂があり、人々はこれを「お阿弥陀さま」と呼んでいた。元治元年(1864)の天狗・諸生の乱の兵火にかかって、同所にあった持宝院とともにお堂が消失した際、地元民がかわらぶき小屋を建てて本尊を安置したという。現在は改築されたお堂に茨城県指定重要文化財として安置されている。阿弥陀如来立像は等身大(164cm)の立像で、その温かみのある表情と凛とした姿勢が美しい仏像である。材質は鉄鋳造物であり、背中に刻まれた名板には、奉治鋳法然寺阿弥陀如来立像、大檀那桐原左衛門入道祭立、大工権守入道西念、勧進憎立仏房生年五十六、仏師日向房良覚、弘長4年甲子4月26日とある。
    現在大洗町の西行院にある木造阿弥陀如来立像が鋳造のために造られた原型像である。
 お堂周りの広場には、阿弥陀如来像の由来書と、金精様の小さなお堂や三界満霊の碑などが並んでいた。右下の写真をクリックすると大きな阿弥陀像が現れます。
(田舎道を行く)
(鋳造阿弥陀如来立像)

 県道36号に引き返し、33号方向に少し歩いたところから左の田舎道に入ると、広いソバ畑があり、その中にこんもりとした小さな土盛りがあった。そこには永久橋を説明してくれた同じ人がいて「ここが中染の斎場で、この土盛りが神輿を載せる台座で、脇に舞台などを作って田楽舞などの祭事が行われる」とのことだった。
 中染祭場から綺麗な色付いた柿や柚子の実を眺めながら田舎道を歩いて県道に出るとすぐに水府支所の建物が見えてきた。
(中染祭場)
(鈴なりの柿)

 駐車場に集まって会長と幹事さんの挨拶があって解散になった。期待通り面白いウオーキングだった。
(水府支所)
(駐車場で解散)





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