B116.日立の魅力再発見ウオーク(日高)
日本最古の地層と日高の里山を訪ねる

1.動 機
 「もっと日立が好きになる日立の魅力再発見ウォーク」の今年の17回ウオーキングは、日高コミュニテイーセンタ主催の「日本最古の地層と日高の里山を訪ねる」だった。数人の幹事さんが連携して代わる代わる案内役と説明役をやりながら歩き、要所では地層についての専門家の詳細な説明があったり、語り部による味のある民話が語られたり、面白くて充実したウオーキングを紅葉を楽しみながら歩くことが出来た。

2.データ
a)山域:小木津山公園(150)
b)登山日:2014/11/22(土)晴
c)コースタイム:森山自宅 8:20 = 8:55日高コミセン9:15 ---- 9:20澳津説神社9:35 ---- 9:40シイの巨木 ---- 9:45首なし地蔵9:50 ---- 10:00西岡の地蔵尊10:05 ---- 10:10ひたちの森病院10:15 ---- 10:25薬之神社10:30 ---- 11:05分岐 ---- 11:20不動滝11:35 ---- 11:50分岐(渡渉)11:55 ---- 12:10芝生広場(昼食)12:55 ---- 13:00中央公園池13:05 ---- 13:35小貫家のクロマツ13:45 ---- 13:50日高コミセン14:00 = 14:10小木津自然公園駐車場 ----14:20いしくぼの滝 ---- 14:25尾根林道 ---- 14:50小木津自然公園駐車場 = 16:30森山自宅
(日高地区ウオーキングコース)

(日高地区ウオーキングコースの標高差)

d)同行者:山仲間4名、和子
e)地形図:「中飯」

3.山行記録
 集合時間5分前に日高交流センタに到着、道路向かいの駐車場に車を入れて玄関前の受付にいって会費を払うと、各ポイントの簡単な説明がついた「予定コース図」、地質に付いての専門的な9ページものの説明書「日本最古のカンブリア紀層と郷土日立」と、日高地区の名所旧跡と説明文が入った「ふるさとひたかマップ」が手渡された。メインリーダと館長さんの挨拶があって、地質に付いての説明役の元日立市郷土博物館特別研究員さんや語り部さん、数人のサポータの紹介があった。参加者は37名に対してスタッフは10名近い。お世話になります。
 ペットボトル一本づつ頂いて歩き始める。
(日高コミセン集合)
(出発)

 最初のポイントはコミセンのすぐ裏手にある澳津説神社(おきつせじんじゃ)である。裏から入れば近いが、正規にお参りしましょうと言って少し遠回りし、正面から二の鳥居をくぐって杉の古木が立ち並ぶ参道を歩いて三の鳥居をくぐるよう案内された。それほど大きな神社ではないが、狛犬さんや灯篭、多くの末社に囲まれた古色漂う神社だった。
 拝殿前で詳しい説明があったが、配布資料の「ふるさとひたかマップ」の説明は下記。
    天文13年(1544)、稲峯寺開山の海慶法印が京都伏見稲荷神社の分霊を西町の権現山へ勧請、元禄7年(1694)に徳川光圀の命で小木津村の総鎮守となりました。万治元年(1658)に現在地に移転し、明治16年(1883)から現在の社名になりました。
    祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)と宇賀御魂命(うかのみたまのみこと)の2柱です。現在の例祭は5月5日。本殿は流れ造りで建立は元禄の頃(17世紀末)といわれています。拝殿に江戸末期の頃の三十六歌仙の絵馬などがあります。
 説明を聞いた後、拝殿に上がらせて頂くと、天井下の4面の壁に三十六歌仙の絵馬が飾られていた。幕末から明治にかけて奉納された絵馬とのこと。
 奥の本殿の裏を回って樹叢の古木を見上げながら表門に戻った。
(澳津説神社)
(拝殿内の36歌仙の絵馬)

 次のシイの巨木は澳津説神社の境内木だが、神社から300mぐらい離れたところにあった。大木だが樹勢に勢いが感じられ「この木に触ると長生きできるそうですよ」とのこと。みんなご利益に預かって元気を貰おうと、手で触ったり頬を付けてみたり。
    昭和48年8月、市の天然記念物に指定。昭和62年「日立巨樹名木見立番付」で東横綱。指定時の幹の周り6.35m、樹高18m、樹齢300年と推定されます。
(シイの巨木)
(ご利益ありますように)

 シイの木から田舎道を歩いて行くと、辻に赤い頭巾や前掛けを掛けられ2体のお地蔵さんが並んで立っていた。一体の地蔵様の首がなくなっていて代わりに石が乗っけられていて、これが首なし地蔵とのこと。待っていたモンペ姿の語り部さんが、独特の語り口でこの首なし地蔵に付いて伝わっている民話を語ってくれた。
    江戸末期に、この地の18才の美しい娘さんが城主の言う事を聞かなかったと言って首を落とされ、これを哀れに思った土地の人達が地蔵さんを立てて弔った。それでも翌朝には頭が落ちていて、直してもまたすぐに落ちるので、首なし地蔵と呼ぶようになったとのこと。時は明治はじめのことで、お地蔵さまは現世利益の他に慰霊、供養の信仰もあるといい、今でも土地の人達は大事に守っています。
(首なし地蔵)
(語り部)

 首なし地蔵から昔塩の道だったという杉並木を歩いて行くと、黄色く色付いたイチョウの木が聳える高台があり、今度はすこし大きなお地蔵さんを祀った赤い社があった。これが西町の地蔵尊とのこと。
    小木津浜と安良宿の地蔵さんとともに小木津にある三地蔵の中のひとつとのこと。ここの地蔵さんは西向きに立っていて、慰霊・供養のほか子安・子育て地蔵としてまつられ、 今でも町内で地蔵講や夜典祭を行っています。
 地蔵堂の隣には湯殿山と御岩山の石碑がが立っていた。夫々にお参りしてきた人が、自分で行けない人のために作ったものとのこと。
(西町の地蔵尊)
(湯殿山/御岩山)

 次の薬之神社に向かう前にひたちの森病院でトイレ休憩。あらかじめ病院に許可をとってあって、気持ちの良い綺麗なトイレを使わせていただいた。
 病院を出てから部落道を歩いていくと「薬之神社」の道標があり、すこし登って高速道の下を潜ってから下ったところに質素な社があった。こじんまりとした社だが、謂れが多い神社とのこと。
    西町の泉入り口にあった泉福寺は応永33年(1426)に建立されましたが、 水戸3代藩主綱條(つなえだ)の時、久慈郡里美村に引寺を命じられ、境内の薬師堂は、薬之神社となって今に至っています。
    境内に湧水があり、その清水で目を洗うと眼病が治ると信じられていました。
    常磐自動車道建設時に現在地に移転、新築されました。
 神社から石段を下ったところにある「目洗いの泉」を案内される予定だったらしいが、草蒸した石段に不心得者が垂れた人糞が見つかって、今日はここを下りるのは止めになった。
(ひたちの森病院)
(薬之神社)

 ここから不動滝まで3kmほどの長い歩きになる。不動滝通りの標識が立つ部落の道を歩いて行くと、鮮やかな皇帝ダリアが咲き誇っているのがあちこちの民家の庭に見られた。
(不動滝通り)
(皇帝ダリア)

 20分ほどで部落を抜けると、東連寺川沿いに細い道を歩くようになり、沢沿いに幾つもの堰が見られるようになった。一番上流の脇に水路が別れている堰を「一ノ堰」といい、江戸時代に建設された古いものとのこと。
    東連津川の水で村の水田を潤すための堰工事が寛保元年(1741)に完成しました。上流にある堰を「一の堰」といい、川筋には全部で18の堰が築かれています。水路は横久保の溜池の水も合わせて本宿を通り、高磯までの流れと、横内の溜池を通す二つがありました。天保13年(1842)の絵図では本宿の街道の真ん中にこの水路が 描かれています。
(東連津川沿い)
(一ノ堰)

 東連寺川沿いには表面がゴツゴツした石があり、小木津石と言う地質学上貴重な石だとのこと。「持って行ってはいけませんよ」と言われるが、みんな「こんな重いもの運べませーん」。
    東連津川流域には小木津石という名前の 水成岩があります。表面の凹凸はほかに類を見ません。岩質は非常に硬く、加工には不向きです。靖国神社の庭の池には全国の有名な石が集められていますが、その中に小木津石も含まれています。
 一ノ堰を過ぎると間もなく「小木津山公園0.6km・不動滝1.0km」の道標がある分岐があり、更に歩いて行くと不動滝林道が始まった。ここで沢平への道を左に分けて林道を歩いて行くと不動滝への登山道になり、やや急になった道を登って行くと右に別れる枝沢を立派な橋で渡る。この橋はボランテア団体が整備されたとのこと。有り難い。
(小木津石)
(橋)

 すぐに綺麗な不動滝と不動明王があった。
    滝の高さ12m、幅6m。傍らには2基の不動明王の石仏があります。昔、不動尊をまつる祠堂があり「修験妙楽院が奉仕するところ」と 記録されています。
    まわりには杉の大木が茂り夏なお寒い神境です。
 滝の説明に続いて、専門家から地層に付いての説明があった。このあたりの岩層はガンブリア紀という5億年も昔に出来た日本最古の地層だとのこと。そう言われれば滝の周りの岩壁はゴツゴツしていて、とても固い岩層のように見えてきた。
    東連寺川沿いにカンブリア紀の赤沢層が露出している。入口の近くに火山岩岩脈の露頭があり、火山岩岩脈は周囲の凝灰岩に貫入している。凝灰岩は変成作用を受けてはがれやすい緑色片岩になっている。この火山岩岩脈は小木津山自然公園入口にあった火山岩と同じ岩石で、5億年前の岩石である。したがって、火山岩岩脈によって立ち切られている凝灰岩は5億年前よりも古い岩石になり、赤沢層が5億年前よりも古い地層であるという証拠になっている。
    東連寺川の不動滝は礫岩は石炭紀の地層で5億年前の花崗岩でできており、この花崗岩は滝の上流にも続いている。
(不動滝)
(不動明王)

 不動滝から分岐まで1km引き返して小木津山公園に向かう。分岐のすぐのところで東連寺川を渡渉することになり、苔むして不揃いな石を踏みながら渡り、その先で狭い一枚板を渡らなければならない。慣れない女性や子供は大騒ぎだったが、スタッフさんのサポートで全員無事渡り切ることが出来た。
 渡渉がすんだら、今度は狭い登山道の急登とトラバース、ゆっくり歩いて行く。
(渡渉)
(狭い歩道)

 10分ほど登山道を登って行くと小木津山公園の広い遊歩道に出て、真っ盛りの紅葉を眺めながら歩いた先の芝生広場で昼食休憩になった。ここでは語り部さんの民話が語られ、リーダから公園の成り立ちも話された。
    小木津山自然公園は、昭和46年4月、市民の憩いの場所として開設されました。総面積65ヘクタ−ル。中央部に水蓮の池があり、松林、ナラ・クヌギの雑木林の中には遊歩道があり、南北二つの展望台からは太平洋が一望できます。 春は梅、桜、つつじ、山菜摘み、秋は紅葉、きのこ狩り、冬は芝スキ−などが楽しめます。炊飯施設が整っているので一年中利用者が多く、自然と人々のふれあいの場となっています。
(小木津山公園)
(芝生広場)

 ゆっくりと弁当を食べてから、下の中央園地に芝スキー場を下っていった。脇に階段道もあるが、芝生の急坂を下る方が楽しい。
 蓮池のところからいしくぼの滝へ向かう道の紅葉が綺麗で、その写真が毎年日立のカレンダーを飾るところだが、色付きはまだ今一つ。盛りにはもう一週間先か。
(芝スキー場)
(紅葉の名所)

 蓮池には蓮の葉がいっぱい浮んでいて、向こうの方にはサギやカメの姿があってみんなの目を惹いていた。
 貴重なハッチョウトンボについての話があり
    ハッチョウトンボは赤トンボの一種。日本一小さなトンボとして知られ、世界的にも最小の部類に属する。日本では矢田鉄砲場八丁目にのみ発見せられるために「ハツチウトンボ」の名をが付いた。
    以前はこの公園の湿地で生息しているのを度々確認されており、見たことがあるという人が何人もいるが、最近は全く見られなくなった。高速道路が出来て、地下水路の変化による水質変化と騒音の所為かと思われている。
(蓮池)
(サギ)
(カメ)

 池の畔で湖面や紅葉を眺めてから公園出口に向かう。ところどころで紅葉したカエデの木があり、空を見上げるとお日様を受けた紅葉がキラキラと綺麗に見えていた。
(公園を下る)
(日を受けた紅葉)

 池の先に不動滝に似た岩層をした小さな滝(?)があり、またガンブリア紀層に付いての追加説明がなされた。
 その先に干上がりかけた小さな沼地があり、環境を創る日立市民会議の立札が立っていた。
    この湿地は日立市に残されたハッチョウトンボの生息地でしたが、環境が変わって日本一小さなトンボが住めなくなって10年が経ちました。
    この地にハッチョウトンボやホタルを復活させようと水路を作ったり、以前のように植物を増やして、トンボやホタルの住める環境を創ろうとしています。
    この湿地に生きる動植物を暖かく見守ってください。
(古代石の滝)
(ハッチョウトンボ)

 公園から住宅街に出て、昔陸前浜街道だった道を歩いて行って民家の入口扉を通ると、手入れの行き届いた日本庭園があり、特に縁側のすぐ前のクロマツの古木が立派だった。日立市指定の保存樹になっているとのことだが、これだけの銘木を管理するのはやり甲斐はあるだろうが、個人で責任を負うのは大変だろうなと同情もした。
    昭和53年5月、市保存樹の指定を受けた推定樹齢300年余の見事な造り松です。
    小貫家は江戸時代、小木津宿の問屋場(といやば)でした。
(陸前浜街道)
(小貫家のクロマツ)

 コミセンに戻って簡単に挨拶がされて解散になったが、和子が小木津山公園の別のところにも綺麗な紅葉があるのではないだろうかと言いだして、車で引返して公園の駐車場に車を入れた。
 駐車場からいしくぼの滝まで歩いてから南展望台の方に登り、尾根道を歩いて周回して来ることにした。
(再び小木津山公園を歩く)
(2回目の小木津山公園)

 蓮池を過ぎていしくぼの滝の近くまで来ると、道の両側の紅葉が真っ盛りで綺麗だった。
(いしくぼの滝近くの紅葉)

 尾根道に上がるとあちこちにに紅葉した木が見られ、黄色や赤に色付きが西日を受けてとても綺麗だった。
(尾根道での紅葉)

 まずまずの紅葉に満足して帰途につき、途中の30週記念セールのユニクロに立ち寄って冬用の下着を買ってから我家に帰ってきたのでした。




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