B124.田尻の石仏石塔巡り

1.動 機
 日立市営の公設地方卸売市場が毎年年末には一般公開され、今年も正月料理の材料を仕入れにでかけた。和子の風邪が治ったので、折角出かけるなら、ついでに公設市場の近くを少しウオーキングをしようと相談、NETで田尻交流センタの過去の行事を検索して「田尻交流センターを出発点とする「ふるさと巡り」Cコース田尻石仏石塔巡り」という5kmほどのコース案内を見付けた。当日、交流センタを訪れて色々と資料を頂戴してから、コース案内を見ながら6ヶ所+1の史跡を見て回ったが、2ヶ所の史跡の所在が定かでなかった。

2.データ
a)山域:日立市田尻町
b)登山日:2014/12/27(土)晴
c)コースタイム:森山自宅 9:30 = 10:10日立市公設市場10:30 ---- 10:40田尻交流センタ11:35 ---- 11:45種殿神社 ---- 11:55馬頭観世音探し12:00 ---- 12:05上田沢三角点 ---- 12:20成田山東光院12:25 ---- 12:35馬頭観世音 ---- 12:40レストラン(昼食)13:20 ---- 13:35庚申石塔群 ---- 13:40仏ヶ浜史跡 ---- 14:10跨線橋 = 14:15田尻の舘跡14:25 ---- 14:35田尻交流センタ = 16:00森山自宅

(田尻交流センターを出発点とする「ふるさと巡り」Cコース)

(田尻地区ウオーキングコース)

(田尻地区ウオーキングコースの標高差)

d)同行者:和子
e)地形図:「日立」

3.山行記録
 我家を9時半に出て、和子の会瀬の友人宅に立ち寄って所要を済ませてから、10時過ぎに公設市場に裏入口から入ると、すでに駐車場は半分埋まっていて販売所では賑やかに売り買いが始まっていた。一般家庭では手におえないような大きなマグロの頭が転がっていたりする卸売市場の雰囲気がいっぱいの店内を漁っていると肩をたたく人がいる。振り向くと年に1,2度集まって飲みながら情報交換をしている昔の仕事仲間の一人Ktさんだった。こんなところで出会うとは、本当に奇遇という事はあるもんだ。
(公設市場一般公開風景)
(マグロの頭)

 公設市場であれこれ買い込んでから田尻の交流センタに入って、NETからコピーした「田尻石仏石塔巡り」の案合図を出して、それぞれのポイントについて関連資料があれば頂きたいとお願いした。館長さんが「色々あるから、どうぞ中に入って」と言われて事務室の中に入った。先ずはお茶をどうぞと言っていい香りがするコーヒが用意され、今年11月に実施された「日立の魅力再発見ウオーク・大田尻方面」と昨年の「田尻の魅力再発見ウオーク5億年前の花崗岩と田尻富士を訪ねて」の冊子が出された。「これらの日は都合が悪くて参加できなかったのだが、頂いた資料を勉強して改めて個人的に歩いてみることにして、今日は予定通り「田尻石仏石塔巡り」を歩きます。」ということにした。追加に「たじりの風土記・田尻の里、小さな旅」の冊子も頂いた。
 この後、お茶の友に3種の漬物が出てきて、蜜柑、ピザまで出てくる「おもてなし」になり、館長さんの話しは交流センタのあり方や、担当されている認知症指導方法などについての持論が展開され、更には夫婦和合の秘訣まで話が及んだ。最近どんな夫婦喧嘩があったかと聞かれ、しょっちゅうある喧嘩の中で最近の具体例を話すと「よくある例だが、−−−−−−すると良いと思いますよ」とご指導を頂いた。
(田尻交流センタ)
(おもてなし)

 土地の人が、センタから頼まれていた卓上用の門松を納めにみえた。持ち込まれた門松は普通に見る「真ん中にい竹を挟んで両脇を低い竹が挟んでいる」形のものだった。館長さんは事務所に置いてあった門松を指して「真ん中の竹は低くて両側が背の高い竹が挟むのが正式な門松だよ。ここで一寸加工したら。」との指示。話し合いの結果そのままになったみたい。
 事務室前の色々な置物が置いてあるロビーに案内され、全部土地の人が手作りしたものが飾られているとのこと。細かい竹細工の工芸品が並んでいて、その前に「下田尻支部 江口佳昭様」の名板が立っていたが、この人が門松を持参された人だった。
(現代風門松)
(正式門松)
(竹細工の数々)

 玄関まで出ると、大きな将棋の駒に逆向きの「馬」の字が彫られたものがあり、説明には
       左馬の由来
     馬は右から乗るとつまづいて転ぶという習性をもっており、元来左から乗るものなので、左馬は長い人生をつまづくことなく過ごすことができ、昔から福を招くめでたいもの、また商売繁盛の守り駒となっている。
    <その1> 馬の字が逆にかかれていることから ウマの逆=マウ(舞う)であり古来舞いはめでたい席で催されることから、演技のよい招福の駒である。
    <その2> 左馬の下の部分が財布のきんちゃくの形をしており、口がよく締まって、入った金が散逸しないことから、富のシンボルとされている。
    <その3> 普通馬は人に引かれてるものであるが、逆に馬に人が引かれて入ってくるというので、客商売にとっては千客万来の招福駒である。
    <その4> 馬は元来左から乗るものであるということから、左馬は乗馬をシンボルするもので、これを持つ者は競馬に強いと言われている。
 これも土地の人が彫ったものとのことで、「あなた方にはこの字がいいね」と云って、和子は「愛」私は「忍」の字を彫った置物を頂いた。座右の銘にしましょう。
(左馬の)
(夫婦仲良しの秘訣)

 交流センタに車を置かせていただいて11時半に歩き始めた。先ずは県道10号に出てすぐのところにある種殿神社にお参りした。「田尻石仏石塔巡り」には入っていないが、昨年の「田尻の魅力再発見ウオーク」によれば
     田尻の守り神、種殿神社
     明治22年(1889)、多賀郡田尻村は同小木津村と合併して日高村となり、多賀郡日高村大字田尻となりました。合併する以前、種殿神社は田尻村の村社でした。種殿は「ジュウドノまたはジュドノ」と呼称されています。県北部の日立市や高萩市、北茨城市などに点在し「種殿」の他に「十殿」「重殿」などの用字がある神社です。
     田尻の種殿神社の創立年代は不詳ですが、「日高郷土史」(昭和30年日高村発行)に大栄5年(1525)や天文19年(1550)の棟札があると記されています。ポルトガル船が種子島に漂着し、鉄砲が伝来されたのが天文12年(1543)です。
 鳥居をくぐって石段を登った所に拝殿、その奥に立派な本殿があった。本殿の裏にはスダジイの木(市指定保存樹)を含めて大きな木が茂っている森があり、その右に道が伸びていたので登ってみたが、その奥には民家や団地らしきところがあり、右に県道に直接下る道がついていた。
(種殿神社鳥居)
(種殿神社拝殿)

 種殿神社のお参りを済ませて、県道を南すぐの所にあるはずの「馬頭観世音石塔」を求めて歩いて行った。コース図では分岐のすぐ先にあるはずなので、行ったり来たり相当範囲を広げて探し回ったが見つからない。角の自動車整備工場にいた車の人に訊いたが「近くに住んでいないので分からない、今工場に他に人はいないよ」とのこと。
 工場の左、県道沿いに伸びる山道があったので入って見た。登って行くと、石塔はなかったが「三角点」の標柱が立っているのが見えた。標柱のまえの落葉を掻き分けたら、小さな4等三角点の石柱が頭を出した。後で国土地理院HPを調べたら「上田沢」という名前がついていた。
(馬頭観世音:東光院参拝の後に見つかる)
(上田沢四等三角点)

 三角点の先でまた工場の敷地に出て、作業中の男性に「馬頭観世音」の所在を聞いたがご存じなく、代わりに東光院はすぐこの先だよと教えられた。
 車道に出ると「成田山東光院」の道標があり、石柱の間を通って広い参道を行くと本堂前に出た。交流センタで頂いた「たじり風土記」によれば
     真言宗智山派成田山東光院は、田尻富士の麓の田尻宿南端、権現山と 呼ばれている所にあります。 昭和11年(1936)に高木修道和尚が、 鹿島郡(現在の鹿嶋市)から移し、中興した寺院で御本尊は薬師如来です。境内には熊野権現社があり、宝暦元年(1751)10月吉日建立の「奉納大乗妙典六十六部日本廻国供養」銘の石塔や不動明王、水子地蔵などの石仏が 数多くあります。
 ここの門松は、館長さんは云っていた正式の形式になっていた。下の本堂の写真をクリックすると大きな写真で門松が見れます。
(成田山東光院入口)
(東光院本堂)

 東光院から戻って「上田沢古墳群」を探してみた。行き会ったご婦人に尋ねてみたが「この近くに古墳があるとは聞いていませんよ。馬頭観世音は県道からの分かれ道のところの県道沿いにありますよ」とのことで、古墳群は諦めることにした。
 馬頭観世音を求めてその道を辿って整備工場のところまで歩くと、土地の人らしき男性に出会い聞いてみると「古墳跡はこの近くにはないが、種殿神社の森の近くに古墳跡があったと思うよ。馬頭観世音はそのすぐ先、庚申石塔群や度志観音は田尻小学校の南側ですぐわかると思うよ」と親切に教えて頂いた。馬頭観世音は県道から別れて登り始めるところの県道沿いにあってお花も供えてあった。さっきは、少し登ったところから探し始めたので見つからなかったのだ。
 交流センタでおもてなしを受けたのでお腹はあまり空いてはいなかったが、時間なのでレストランに入ってランチサービスの昼食をとってから再出発。
 常磐線を洞門で潜った先の交差点の角の空地に庚申石塔群が見え、入り込んでシャッタを押した。
 その奥には「仏ヶ浜」の案内標柱が立っており、その道を入って行くと崩れそうな古い石段があった。
庚申石塔群
(度志観音への石段)

 石段を登ったところに「史跡 仏ヶ浜」の看板があり下記説明がついていた。
    この史跡は昭和三十年六月二十五日付で茨城県指定文化財史跡第八号に指定されております。
    指定になった理由は、常陸風土記に「国宰川原宿袮黒麿時、大海之辺石壁彫造観世音菩薩像 今存矣 因号仏浜」と記されているので、この仏浜とはこの地であろうと推測され指定になりました。
    むかしこの地には、弘法大師により開基されたと伝えられる度志観音堂があり非常に反映した遺跡です。 日立市教育委員会
 先の荒れた広場には立派な「史跡 仏ヶ浜 指定茨城県教育委員会」の標石が立っており、今年の「日立の魅力再発見ウオーク・田尻」の資料には下記の説明文がある。
       度志観音
     奈良時代に書かれた「常陸風土記」という古文献があります。その中、多珂郡の記事にある「仏ヶ浜の観音菩薩」とは登志観音の磨崖仏(まがいぶつ=岩壁に彫られた仏像のこと)であろうとされ、昭和30年(1955)県の文化財史跡に指定されました。しかし、現在、小木津浜東連津川(とうれんずがわ)河口にある磨崖仏説が有力視されています。
     戦国時代初期の文明2年(1470)相模国(神奈川県)曹洞宗最乗寺の名僧、南極寿星(なんごくじゅせい)膳師が常陸国に法流を広めようと来られたおり、度志観音に霊験を感じ百日間参籠されました。その後、山直城主(十王町友部)小野崎朝通から50余町を寄進され宮田村杉室(現在の宮田町大雄院)に曹洞宗天童山観泉寺の管轄になっていました。境内にある石仏石塔墓石の多くはこの時代のものです。
     大正2年(1913)10月、大雄院原暁堂和尚が観音堂を建立し、羽賀全法僧侶が大正6年来られました。昭和8年(1933)羽賀僧侶の後を受け、植木道光僧侶が来られましたが、8年後の還俗され度志観音堂を去りました。その後、観音堂をお守りする人はなく荒廃の一途を辿りましたが、日立市文化財愛護協会や地域の人達が清掃活動を行っています。
 広場の奥の崖には洞があり、その中にたくさんの石仏や石碑が並んでおり、これが仏ヶ浜の史跡らしい。
 別のところには度志観音の字が彫られた石碑もあった。
(仏乃浜史跡)
(度志観音碑)

 石碑の後にコンクリートの壁に鉄の格子戸が嵌め込まれたところがあり、中を覗くとわずかに仏の像らしき形が彫られているように見えた。これが度志観音像だろうか。
(度志観音堂)
(度志観音像?)

 最後の田尻の舘跡は、「田尻石仏石塔巡り」によれば常磐線を渡り返した田尻団地の端にあることになっている。土地の人に線路を渡るところに出る道順を聞きながら歩いて行くと、高い跨線橋を渡ることになった。
 跨線橋を渡るとすぐに田尻団地で、「田尻石仏石塔巡り」のガイドに従って広い道を歩いて行ったが、地図の示すところに行ってもそれらしき標識はなかった。近くで玄関を掃除中のご婦人に訊くと、色々と長い御話があったが、どうも所在ははっきりとしないらしい。団地の中で荒れ地のまま残っているところをということにして、今日の「田尻石仏石塔巡り」は終わりにした。
 たじり風土記によれば下記の説明がある。
     田尻舘
    田尻に相田氏という土豪が住んでいました。その舘は田尻団地から田尻が丘病院あたりにあったと伝えられています。室町末期、文明17年(1486)岩城郡飯野平の豪族岩城氏が、佐竹領に侵入してきました。「日高郷土史」に、当時の領主、相田藤八郎とその郎党が、小木津静原の地で岩城軍と戦い、あえなく敗れ去ったと記されています。
(跨線橋)
(田尻の舘跡?)

 田尻交流センタに14時半ごろ着いて、丁重にお礼を言って帰途についた。3時間ほどの軽い冬の日だまりウオーキングでした。




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