C105.成沢の自然と歴史を訪ねよう
(日立の魅力再発見ウオーク)
1.動 機
 成沢は私が日立に就職してからの独身寮時代から、和子との結婚生活を経て、今の森山に引っ越すまでの12年間を過ごした地域だが、その頃はまだ歴史史跡には興味薄く、今回のウオーキング見学ポイントは初めての所がほとんど、色々な説明も面白く聞きながら歩いてきた。

2.データ
a)山域:日立市成沢地区
b)登山日:2015/10/24(土)晴
c)コースタイム:
森山8:35 = 8:55成沢交流センタ(集合・天神前氏神・椎の大木)9:05 ---- 9:10鮎川9:35 ---- 9:40小豆洗不動尊10:15 ---- 10:30池の川運動公園(トイレ)10:35 ---- 10:45水漏舎小学校跡・池の川弁天池11:05 ---- 11:10成沢鹿島神社11:35 ---- 11:50道標(従是高鈴道) ---- 11:55大高山宝塔寺 12:25 ---- 12:40成沢交流センタ(昼食)13:00 = 13:25スーパ14:05 = 14:10森山
(成沢ウオーキング歩経路)
(成沢ウオーキング歩経路の高低差)
d)同行者:ウオーク参加者16名、和子
e)地形図:1/25000 「日立南部」

3.山行記録
 成沢交流センタあたりには土地勘がなく、車のナビに導かれながら走り、R6の渋滞もあって20分ほどかかって集合時間ぎりぎりに到着、駐車場に車を入れるとすぐに役員の挨拶が始まり、13ページもの分厚い案内書を受け取る。地図やコースタイムなど詳細なスケジュールが書いてあり、各立ち寄りポイントに付いての説明書が付けてあった。
 コースの説明があってすぐに出発。参加者は我が家を含めて18名、それほど多くはない。
(成沢交流センタ集合)
(出発)
 最初に案内された史跡は、交流センタの敷地内にある天神前の氏神様という小さなお社だった。菅原道真をお祀りした学問のお社で、交流センタが建つこの地の小字名が天神前とのことで、鹿島神社の例祭での神輿のお休みどころになっているとのこと。
 この前には数本の大きな椎の木がたっていて、この数本の椎の巨木だけで天神の森と呼ばれているとのこと。樹の根元には小さな日待・月待の石塔と地蔵菩薩の石仏が静かに並んでたっていた。
(天神前の氏神様)
(椎の巨木)
 交流センタは茨大工学部の敷地の脇にあり、茨大の周りをぐるっと歩いて反対側に回ってから、街中を歩いて鮎川沿いの民家の前庭に入る。そこからは川面を覗きこむ事が出来た。
 ここで鮎川に付いて話して頂く解説者がおられる筈だったが姿がなく、連絡も取れず待ちぼうけ。リーダから鮭訴状に付いての話を聞いて、浅い流れを遡る数匹の鮭の魚影を認めて大騒ぎしえから、次の小豆畑不動尊に向かった。
    鮎川は日立鉱山からの水が綺麗になって以来、十王川と並んで日立の清流の筆頭株になった。戦後一時生活用水の垂れ流しで汚れた時期があったが、下水道の整備でまた清流がよみがえり、毎年鮭の遡上が続いている。鮎川、十王川ともに地元民で鮭の稚魚の養殖放流をしていたので、毎年多くの鮭が遡上していたが、この鮎川では最近になって稚魚の養殖をする人がいなくなって、上ってくる鮭の姿が少なくなった。今見られるのは自然に育った稚魚が海に下って、大きくなって遡上しているものだ。十王川では櫛形小学校で漁協の協力を得ながら稚魚の養殖、放流を続けているので、今でも遡上する沢山の鮭を見ることができる。
(鮎川の覗く)
(遡上してきた鮭)
 街中の道に戻って通勤道路を渡ったところに「小豆洗不動尊入口」の道標があり、そこから少し先の分岐にまた「小豆洗不動尊入口」の道標があって、分岐から狭い坂道を下ったところに小豆洗不動尊のお堂があった。
 ここに「鮎川を綺麗にする会」の方も待っておられて、鮎川についての説明が始まった。メモしなかったので、鮎川に付いての”ふれあい諏訪ふるさとマップ”から抜粋
     鮎川は高鈴山を源とした、河口まで約11km、流域面積約16.8kuの二級河川です。多賀の山並みを瀬に、鮎川に沿って南東に開けた水と緑に恵まれた地は、遠く縄文時代から人が生活をしていた遺跡が発見されており、奈良時代には登窯で布目瓦が作られた史跡があるなど古くから人の営みがあったことが伺えます。
     鎌倉時代には信州諏訪神社(現諏訪大社)分社が当地に勧請(かんじょう)され、諏訪神社・上諏訪神社が建立され現在に至っています。また近代では北の沢鉱山(後の諏訪鉱山)で銅鉱石採鉱が行われ、太平田鉱山では石灰石の採鉱が現在も行われています。
     鮎川の恩恵は稲作をはじめ、生活用水として油縄子、成沢、戸沢方面までにも及んでいました。鮎川はもと諏訪川と呼ばれていましたが、光圀公がこの地に多摩川の鮎を取り寄せて放流したのが、その名の起こりといわれています。
     この川も第2次世界大戦後生活雑排水等で汚染されましたが、公共下水道の普及と「鮎川をきれいにする会」や地元の人たちの活動で浄化が進み、鮎・うなぎ・えびだけでなく鮭の遡上も年々多く見られるようになってきました。諏訪梅林の川辺には、春から秋にかけて、多くの家族連れの楽しむ姿が見られます。
 続いて、小豆洗不動護持会の方の話が始まった。お堂の奥の中央に祀られている不動様は、本尊をお守りする倶利伽羅不動で、大龍に変身して利剣に巻きついている姿だとのこと。その他の話は、入口に立っていた「小豆洗不動尊の由来」(不動尊内部の写真をクリックすると由来書が出てきます)の内容と同じく、400年前の室町時代に佐竹氏家臣によって建てられて以来の歴史を語る内容だったが、別にNETで見付けた昔話「小豆洗不動尊の名前の由来」の方が面白いでしょう。
    この台地の上の豪族のやかたに親子(姫)三人が幸せに暮らしていました。姫が九歳の時お母さんが病気で亡くなり、しばらくして新しいお母さんが来ました。月日がたつに従いこの母は姫につらく当るようになり、冬の寒い日の夕暮れ時、姫はザルにお米を入れ、 家の崖下にある川へ毎日お米をとぎに行かされ、姫の手はあかぎれだらけ、氷のように冷たい川の流れでサラサラ・ザラリザラ・サラリとお米を洗わされました。
    師走の風が小雪を飛ばす夕暮れ時も米とぎです。帰って囲炉裏に暖まろうと思ったとき、母は姫に「明日はお不動さんのご縁日だからお赤飯を作るので、小豆を洗っておいで」とザル一杯に小豆を入れて渡されました。姫は坂道を転ばぬように足元に力を入れながら、ようやく川にたどりつきサラサラ・ザラリ・ザラサラリと洗い続けました。
    洗い終わった時、身体はすっかり冷え切って足がすくんでふらつく思いでした。しずくがたれる小豆の入ったザルを抱え、坂道の途中で気を失い倒れてしまいました。しばらくして気がつき見ると洗ってきた小豆がまわりに散らばっているのです。さあ大変、このまま帰れば母にきつくしかられると思い、思案の末、死ぬ気で川まで降りてきました。死ねば亡くなったやさしい母に会えると思い、深みのある淵を見つけ、たもとに数個の石を入れてざんぶと身を投げてしまいました。
    このあとこの近くを通ると、サラサラ・ザラリ・ザラサラリと小豆を洗うような気味の悪い音が聞こえてくると人々のうわさにのぼり、姫の怨念であろうと手を合せて通る人もあったと伝えられております。また、その川べりから戌の刻(夜七時から八時)になると女のすすり泣く声が聞こえたともいわれております。小豆洗の地名もこの怪談からできたようです
(小豆畑不動尊へ)
(不動尊内部)
 不動尊の右側はむき出しの岩崖で、上から滴がしたたり落ちていて、数か所に洞が出来ていて、鬼瓦や刀剣などが祀ってあった。崖下の草原には石仏や小さなコットン水車もあった。
(崖の洞)
(水車)
 不動尊から通勤道路に戻って、茨大の正門前を通ってどんどん歩いて行く。通勤道路はR6とR245の中間を通る道で、日立南部から日立に通勤するのに都合がよく、私もお世話になったことのある道である。
 池の川運動公園の前に着いて、柵に中に入ると広い公園内に立ち並ぶ公園樹の紅葉が始まっていて綺麗だった。公園奥のトイレのあるところで休憩になった。
(通勤道路)
(池の川運動公園)
 休憩後公園を出て、通勤道路を渡って野球場脇の道をR6に向かって歩いて行くと、行く手の山には懐かしい日立の独身寮やアパート群が見えていた。
 途中で右に別れて竹藪などの里道に入って歩いて行くと池の川弁天公園があり、そこにも説明者が待っていた。
(成沢の独身寮に向かって)
(弁天公園)
 この弁天公園は明治時代に開設された小さな小学校”水漏舎小学校”が建っていた跡地であり、水漏舎という珍しい名前は、脇にある弁天池から絶えず漏れでている流れにあやかって付けられたとのこと。由来書は水漏舎小学校跡碑の写真をクリックすると出てきます。
(水漏舎小学校跡碑)
(弁天池)
 綺麗な水が湧く弁天池の脇を通り、少し坂道を登って行くと巨木が茂る成沢の鹿島神社が見えてきた。
 鳥居をくぐって拝殿前に入ると、神主さんが待っていて、”御鎮座千二百年記念 成沢鹿島神社誌”という百頁に近い冊子が配られて、神社の由来について詳しいお話があった。
    成沢の鹿島神社は、社伝によると平安時代初期の大同年中に鹿島神宮の分霊を移し祀ったといわれる。成沢ささらは、何年かに一度の鹿島神社の大祭のほかの臨時の大祭などに露払いとして奉納する獅子舞で、地元では成沢鹿島神社佐々羅と称している。昭和12年4月に大祭が行われて以来出社祭典がなく、そのためささらも永い間中断していたが、関係者の熱意と努力によって1966年(昭和41)4月、29年ぶりに復活した。
(成沢鹿島神社の森)
(鹿島神社拝殿)
 神社の由来のお話の後、拝殿・本殿の周りを一回り案内された。境内には砂岩で出来た古い手水鉢(写真をクリックすると尚古承継の碑文)があり、裏には八坂神社、正月神社、天満神社、熊野神社、稲荷神社など多くの境内社があり、その一つ一つについても説明があった。
(尚古承継)
(八坂神社)
 鹿島神社を後にして、いったんR6に出て次の交差点まで歩いてから横断歩道を渡った。ここは御馴染みだった青葉団地入口交差点で、リーダは団地への道に入るとすぐのところを右に入っていった。右へ右へと分岐して行き橋を渡ったところに”従是高鈴道”彫られた自然石の道標 があった。昔この道標を見てから高鈴山に登ったことがあるような、ないような。
 道標から団地への道に引き返して、また少し登ったところから右に分れ、住宅街の道を登って行くと石段道があった。その石段道に見覚えがなかったが、入口に「大高山 宝塔寺」の石柱が立っていた。
(道標 従是高鈴道)
(宝塔寺参道)
 石段を登って山門・天上門をくぐって境内に入ると、住職さんが待っていてすぐに本殿に招じ入れられた。
(天上門)
(本殿)
 本殿の中の並べられた座り心地のいい椅子に座って、住職さんのお寺の由来についてのお話を伺った。そのあと長い長い説法があったが、余り気を入れて聞いていなかったので、説法の内容はは忘れてしまった。仏門には入れない。
    およそ七百年前の鎌倉末期に高萩市赤浜に妙法寺が建立され、黄門様の命により、元禄九年(1696年)成沢の地に移され、寺名も宝塔寺と改称された。徳川末期に藩命で廃寺されたが、檀家一同が苦労して再興。それも明治政府の排仏毀釈により廃寺とされたが、地元民の協力で再興された。
 本殿の真ん中に祀られているのは釈迦如来・多宝如来竝坐像という仏像で、日蓮宗法華経法の御本尊とのことで、小さいながらも厨子の中に入れられ凝ったつくりに見えた。資料のコピーが配られて、大きな写真を見せながらの詳しい説明がなされた。後で実物の写真も撮らせていただいた。
     この座像は、日蓮宗法華経法の本尊とされているもので、厨子入りの釈迦如来と多宝如来の竝坐像であります。その中央の塔に南妙法蓮華経の7文字が、ひげ文字で大書されております。
    これは日蓮宗特有の法華経にもとずく多宝仏で、釈迦が法華説法の時、その真実を証明するため、その前に七宝塔を地中より湧出して空中に住在し、多宝如来は、宝塔中の獅子座から釈迦の説法を聞き、我この座の半分を釈迦に譲るといい、宝塔の獅子座に釈迦如来と多宝如来が竝坐した姿をあらわしたものです。
     像は小品ではありますが作りは良く、玉眼嵌入で、宝冠、冠繪は青銅製で、眉間に白毫を持ち、衲衣を通肩にまとい、両手は蓮華合掌を印し結跏趺坐しています。
     寺伝によりますと、この像は元禄9年(1696)前水戸藩主徳川光圀が宝塔寺に寄進し、安置されたもので、制作年代は、江戸時代初期と推定されています。
(本殿内部)
(釈迦如来多宝如来竝立像)
 住職ご夫妻に見送られ、缶コーヒとお菓子の袋を受け取って交流センタに向かう。帰りは青葉団地入口交差点手前で右に別れてR6を陸橋で渡る。昔はこの陸橋はなかったかな。
 速足のリーダの後を一生懸命に追いかけて12時40分に交流センタに到着。玄関前で役員の簡単な挨拶があり、おにぎり入りの弁当を貰っただけですぐに解散になった。数人の人は帰って行ったが、我家は残った人と一緒に交流センタの庭の木陰に座り込み、貰ったばかりの弁当を食べてから我が家に向かった。温かい日射しの中、半日の面白いウオーキングでした。
(R6陸橋を渡って)
(成沢交流センタに帰着)
 午後、水戸に住む長女がアキちゃんと一緒に我家にやってきたので、今日のウオーキングコースの軌跡を見せたら、鹿島神社の裏に40年前に通っていた幼稚園があった筈という。最近の地図を見てみたら、今でもその池の川幼稚園は残っていた。

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