C115.日立の夜明けを仲小路で感じてみよう
(日立の魅力再発見ウオーク) 1.動 機 日立市報11月号の”もっと日立が好きになる日立の魅力再発見ウォーク(3)”の案内に、「日立の夜明けを仲小路で感じてみよう*鎌倉時代の伝説が残る八幡清水、笠置島。今では想像もできない明治から現代までの地域の移り変わりなどを写真や資料を使いながらタイムスリップしてみたいと思います*」という面白そうな企画が出ていた。町内のKoさんとOmさんと話し合って一緒に参加し、幹事さん達が入念に下調べした日立黎明期の話などを聞きながら、日立駅海寄りの旭町地区を、八幡神社、日立郷土カルタ壁画、東暁館と常盤館の跡地、石仏群、笠置島、めがね橋、別雷大明神、津波避難階段などを見学しながら歩き回り、絶好の秋日和のもとで面白い半日ウオーキングをしてきた。 2.データ a)山域:日立市旭町地区 b)登山日:2015/11/21(土)晴 c)コースタイム: 森山8:40 = 8:55大甕駅9:00 = 9:10日立駅 ---- 9:20シビックセンタ(集合)9:30 ---- 9:35エスカルロード9:45 ---- 9:55八幡神社10:05 ---- 10:05角部屋本店(おもてなし)10:20 ---- 10:25郷土カルタ ---- 10:30東暁館跡10:35 ---- 10:40常盤館跡 ---- 10:45石仏10:50 ---- 10:55旭町集会所(トイレ・資料見学)11:10 ---- 11:25笠置島11:30 ---- 11:35めがね橋 ---- 11:45別雷皇大神11:50 ---- 12:05津波避難階段12:10 ---- 12:15シビックセンタ(解散)12:20 ---- 12:20日立街(昼食・散策) ---- 14:30日立駅14:44 = 14:53大甕駅 ---- 15:15森山
e)地形図:1/25000 「日立」 3.山行記録 Koさんの家の前まで歩いて行くと、Omさんが乗った息子さんの車がやってきて、Koさんと一緒にこれに乗せて貰って大甕駅までらくちんできた。日立駅まで電車に乗って駅前すぐのシビックセンタ前に到着すると、間もなく説明会が始まった。幹事さんから15頁もの特製資料を渡されて、コース説明が行われた。資料には日立の古地図など珍しい図面も多くあり、立ち寄りポイントも市報の紹介よりもずっと多くなっていて面白そうだ。
跨線橋は広くて明るく立派、入口にはエスカルロードとハイカラな名前が書いてあった。幹事さんの資料によれば、この橋は1994年に完成したとあるので、私も通勤で渡っていた陸橋のようだ。そう言えばプラットフォームの上に改札口もあってそんな気もしてくる。
八幡清水の由来は、平安時代後期、八幡太郎義家の父、頼家が、奥州の安倍氏討伐中に衣川の戦いで大敗、これを助勢すべく義家は大軍を率いて奥州壮途の折、常陸の国助川郷にさしかかった際、7月の暑い盛り、連日の暑さのため重い鎧の下には汗がしたたり、喉の渇きのため兵士たちは草むらに倒れこんでしまう者もあり、飲み水に困窮して水を探していたところ、現在の八幡清水跡あたりに湿地帯を見つけ、やじりで地面を突き刺したところそこから清水が湧き出し、兵士達や馬の喉を潤したといいます。
角に引き返して、ホテル天地閣の脇を行くと左の寿司屋の門部屋本店の駐車場に女将さんが待っていて、おもてなしの稲荷寿司とお茶がふるまわれた。早々の休憩に少々驚いたが、みんなで美味しいお稲荷さんを頬張りながらしばらく歓談。
日立バイパスは、日立市内の慢性的な混雑を解決するため、昭和59年に都市計画決定がなされました。計画区間は日立市河原子町から日立市田尻町に至る延長約10.4kmの区間で、国道245号などと接続しています。このうち、日立市旭町から日立市田尻町の区間延長約4.7km区間が事業化され、平成20年3月に全線暫定2車線供用されています。
バイパス道を右に見ながら別れて坂道を下っていくと、眼下の防波堤の内側壁に日立の”郷土いろはかるた”がずらーりと描かれていた。そのうち、下の道に下りてゆっくりと読んでみたいと思うが、文句は次の旭町集会場の展示によれば、たとえば あ あじ・いわし 二艘巻揚げ 大漁だ
い いまのまち 日立鉱山 ありてこそ う うまかっぺ ぶどうしいたけ ぽくぽくかぼちゃ え 煙害の 最後の切り札 大煙突 お お祭りや イベントたくさん 新都市広場
東暁館は明治33年に建てられた海水浴割烹旅館で、久原房之介が日立鉱山の経営資金援助を要請して井上馨侯爵を招請した時に侯爵が宿泊されたこともあるらしい。そのうち経営不振になり日立製作所に買収されて会社施設になったが、最近老朽化のために取り壊された。
日立駅前にまで歩くと、海岸側に広い駐車場が出来ていた。ここは以前常盤館という旅館があったところだ。 大正時代、助川駅(今の日立駅)が海岸側に移された時、駅前の一等地に日立鉱山の直営旅館として建設された。第一次世界大戦により、日鉱・日製が軍需景気に湧き、駅の周辺には旅館、料理店、芸妓置屋等が立ち並んで、海水浴場と共に日鉱・日製社員等の憩いの場として賑わった。瓦屋根の古式豊かな旅館だったが、東日本大震災で甚大な被害を受けて解体され、今は日立駅の駐車場になっている。
この坂を下ったところに日立鉱山の砂採り場があって、鉱山に砂や砂礫を荷馬車に載せて上り下りしていたので、その安全を願って関係者が建てたものだろうとのことだった。
集会所の中には、大正から昭和にかけての旭町地区の古い街地図や、旭町や日立鉱山の歴史に関わる資料がいっぱい並べられていた。無料で乗れた鉱山電車などの昔話を織り込んだいろはカルタの写真付きの説明など数多くて、全部はとても読み切れない。せっせと写真に収めて、後でゆっくりと読ませていただくことにした。
八幡太郎義家についての解説 平安後期の武将 八幡太郎義家(源義家)が、前九年の役(1051〜1062)・後三年の役(1083〜1087)を平定するため、常陸国を経由して奥州を行き来しました。そのため、道筋に当たる県内各地には義家にまつわる伝説がたくさん残っています。
日立市には、この他にも義家にまつわる話がいくつかあります。旭町、会瀬町には、飲み水に困った義家が矢の先で地面を突いたところ清水が湧きだしたという「八幡清水伝説」。東町の宮田川河口の小さな島(岩)は義家が休憩した時に笠を忘れた所なので「笠置島」の名がついたという話のほか、折笠町の義家の馬の「爪跡石」、川尻町の小貝ヶ浜の義家馬の足跡などの言い伝えが残されています。 笠置島のところからの分かれ道に少し進んだところから、めがね橋のほんの一部を見ることができた。トンネルが二つあるめがね橋が目の前にあるのだが、木が茂っていて残念。 日本鉄道は1897年(明治30年)2月、水戸ー平間を常磐線として開業する。その後常磐線は一幹線として複線化や電化がすすめられ、開通当時の線路施設の殆んどは改修が施されている。その中で「遺構」として残っているものに煉瓦作りのアーチ型トンネル(宮田川水抜きアーチ橋)がある。
元々神峰神社の所有地であるが戦後荒廃した。昭和47年に界隈の人たちが再興したため、神社として手出しできなくなった。「雷」すなわち「雨」ということで「農耕の神様」。漁業関係者の神社は鶴首(浜の宮信号付近)に建っている。 説明者の説
雷神は気象の神様であるとも言われ、天候に左右される漁のため、この海岸一帯の漁師の信仰する神として春秋祭日には非常に賑わった。 NET情報 裏手には奥深そうな洞窟があり、その入口にも小さな祠があった。洞窟入口の天井側は緑のシダで覆われていてとても綺麗だった。
最上階の踊り場からは太平洋の展望が素晴らしく、その手前の洋上を通る6号バイパス道路もこれとマッチングしていい眺めになっていた。
日立駅の橋上化を含む日立駅周辺地区整備事業は、平成17年3月にまとめられた「日立駅周辺地区整備構想」に基づき進められている事業です。
総合的なデザイン監修は、妹島和世さんが行いました。妹島さんは、金沢21世紀美術館の設計で、2004年ヴェネツィア・ビエンナーレ第9回国際建築展で最高賞・金獅子賞を受賞された著名な女流建築家です。1956年に茨城県日立市で生まれました。同じような建物が立ち並ぶ企業の社宅で育ち、日立の山や海を象徴する建物を作りたかったと語っています。完成記念式典で妹島さんは、「大人の責任として日立の海のすばらしさを伝える責任がある。そんな気持ちで(日立の新駅舎を)デザインしました」と語りました。 日立新駅(橋上駅)は、自由通路に接続させて、旅客ホーム上に新たな駅が整備されました。面積1,798平方メートル(駅業務施設、コンコース、トイレ)、エレベーター2基(11人乗り)、エスカレーター(上下ホーム連絡用 各2基)となっています。 日立駅の自由通路を通って山側に出て、シビックセンタはすぐ目の前、幹事さんから次の機会もよろしくとの挨拶があって解散になった。
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