C11.日立の神社巡り(多賀地区)

1.動 機
 入院中の和子の先輩のお見舞いに多賀街中の病院に伺ったついでに、病院に車を置いて地図を頼りに多賀地区の神社を一回りお参りし、新年初めてのウオーキングをしてきた。

2.データ
a)山域:多賀地区
b)登山日:2015/1/4(日)晴
c)コースタイム:日立自宅 13:00 = 13:15病院13:50 ---- 14:00大久保鹿島神社14:10 ---- 14:25暇修館跡14:30 ---- 14:35山神社 ---- 14:40愛宕神社 ---- 15:05六反地蔵尊 ---- 15:10熊野神社15:15 ---- 15:20多賀駅 ---- 15:25鹿嶋神社15:30 ---- 15:50上孫伏見稲荷 ---- 15:55病院駐車場 = 16:10日立自宅
(多賀地区神社巡りウオーキングコース)

(多賀地区神社巡りウオーキングコースの標高差)

d)同行者:和子
e)地形図:「日立」

3.山行記録
 昼食を済ませてから我が家を出発、多賀のウエルニックプラザの駐車場に車を入れて、入院中の和子の先輩のお見舞いに病室に伺った。腰痛で身動き不自由なので暇を持て余しておられた先輩と話しは尽きず、30分も話し込んでいた。病室を出てからも、車をここに置かせていただいたままでウオーキングに出かけた。
 先ずは一番近い大久保鹿島神社にむかう。地図を片手に右往左往歩いて行き、鹿島神社の近くまで来ると神社の森らしい茂みが見えてきた。角を曲がると駐車場があり、その奥に神社らしき建物があった。駐車場には多くの車が停まっていて、数組の人が出たり入ったりするが、この建物には入って行かない。この建物は何だろうかと近づいてみたが、神社名を示す表示はなく、ガラス戸の格子の隙間から中を覗いてみると、神事を行う儀式台が見えていた。鹿島神社の儀式殿なのかな?
(鹿島神社駐車場脇の儀式殿?)
(ガラス格子から覗き見)

 道の反対側に入って行くと神社の境内に入り、こっちには鹿嶋神社の懸額がかかった立派な拝殿があった。その右奥には交通神社や八幡神社などたくさんの境内社が立ち並んでいて、この鹿島神社の社格の高さを伺わせていた。
 創立は大宝元年(701)4月7日と伝えられ、祭神は武甕槌命(タケミカツチノミコト)とのこと。延暦20年(801)、坂上田村麿が蝦夷討伐のとき戦捷を祈願し、大同元年(806)に大願成就をしたので神殿を寄進したとの伝説があるらしい。
 拝殿前にはこの神社独特の神事「流鏑馬」についての解説があった。
    400年以上昔の事、時は戦国時代。この辺りを本拠地に常陸の国を統一し、関東に勇名をとどろかせた戦国大名、「佐竹義重」が家臣の武威を示すために当社に奉納した神事が、流鏑馬神事の始まりといわれています。
     佐竹氏は、本年のNHK大河ドラマ「天地の人」に取り上げられた「上杉氏」らと共に関ヶ原の戦いの末、東北地方に領地を遷されてしまいましたが、それ以後も当社の「流鏑馬神事」は途切れる事無く現在まで続いています。写真の様子は、河原子海岸での、塩垢(しおごり)(海の塩水で禊ぎをする事)をしている様子です。この珍しい神事は、県内唯一、大久保鹿嶋神社で行っております。
(鹿島神社拝殿)
(境内社群)

 境内には大きな「駒つなぎのイチョウ」が聳えていて、近くに説明板があった。
     このイチョウは昭和44年12月1日付で茨城県指定文化財天然記念物第48号で指定されております。
    駒つなぎのイチョウといわれる理由は、坂上田村麿が、奥州の蝦夷を征伐に行くときこの鹿島神社に勝利を祈願し、その際このイチョウの木に駒をつないだという伝説からの名称です。
     イチョウは雌雄別株になっていますが、このイチョウは雄株で実は付けません。
     幹周囲は目通り5,5m、樹高約20mあり、樹齢は推定550年といわれております。
              日立市教育委員会
 拝殿の正面に参道が登って来ていて、覗いてみると、長い石段の向こうに長い石畳の参道が伸びていて。これを下って行くと、長い参道の両脇に切株が続いていた。往時は参道の両側を大樹の列が覆っていたらしい。
(駒つなぎのイチョウ)
(参道を見下ろす)

 鹿島神社の長い参道を出てから、次は愛宕神社を目指して右往左往していると、角に「暇修館へ230m」と刻まれた石の道標があり、これを見て和子が行ってみようと言い出した。今日は神社参りだけの予定だったが、急遽予定を変更して少し寄り道。ここから先に道標がなくて少しまごついたが、「史跡大窪城跡・暇修館跡」の説明板が立つ広場前に着いた。
     この場所を中心として、東西220m南北150m一帯が大窪城の範囲と考えられ、西
    側に張り出す尾根上に築かれた天神山城とその南方の愛宕山城と合わせて大久保城とも呼ばれています。各城郭はお互いに密接な関係を持っていたと考えられています。
     大窪城は、永承元年(1177)平氏一族の大掾宗幹(だいじょうむねもと)が大窪郷の愛宕山に築いたのが始まりとされ、14世紀ごろ奥州の石川冠者有光の14世詮光(あきみつ)の三男光治が、佐竹氏に仕えて初代大窪城主となりました。以後、大窪郷を支配すること8代200年に及びました。
     戦国時代の16世紀頃、城は愛宕山・天神山に加えて現在の地へも造られ、地域支配と防衛の拠点となりました。今でも山頂から東側を眺めると、二重の濠跡(ほりあと、斜面4〜7m)や土塁跡(高さ1〜2m)がその面影をとどめています。
     暇修館は水戸藩の郷校で、天保10年(1839)に元の城郭の一部が藩に提供され、学問研修の施設として造られました。
     水戸藩に設立された15の郷校のうち5番目に古いもので、初代館守大窪光茂のもと、身分を分かつことなく医学・剣術・弓術・射撃訓練などが行われました。日立市教育委員会
その奥に暇修館の建物があり、その前の岩に「暇修館復元の記」がはめ込まれていた。
    天保10年ここ大窪城跡に水戸藩立郷校が創立され興芸館と名付けられた。数年後暇修館と改められ、文庫には和漢の書籍数千冊を蔵し庶民研修の処として整備され、安政3年には式場の新設に伴ない名も大久保郷校となったが藩末の内乱で衰微した。維新後再興されたが間もなく廃校となった。 その後建屋は改造されて学校役場等に用いられ暇修館の名を以て親しまれてきた。
    終戦後老朽甚しく地元大久保協同組合等の切なる要望もあり日立市当局は文化財保護の方針により復元を期して解体した。偶々天保11年この地を視察した筑波山麓の学者長嶋尉信の見聞記が発見され復元計画はにわかに進み茲に心籠る工事の完成をみたのである。
    水戸藩の郷校15を数えるなかで暇修館の存在は極めて大きい。学問尊重の意味と教育が一部の特権層に限られず広く庶民に普及した歴史的意義に思いを致し乞われるままに一文を草して暇修館復元の記とする
     昭和48年8月 茨城大学教授 瀬谷義彦撰文 日立市教育委員会教育長 軍司勲一郎書
(史跡大窪城跡・暇修館跡)
(復元された暇修館)

 次の愛宕神社を求めて歩いて行き、近くに来たと思った時に、出会ったご婦人に「愛宕神社に行くにはどう行けばいいですか」と尋ねると「愛宕神社なんて聞いたことありませんわ、すみません」といって家に入ってしまわれた。地図の見間違いかと心配しながら歩いて行くと、山裾に鳥居が見えてきて、「これだ!」と近づいてみると、鳥居から上の階段は崩れてなくなっていた。鳥居に神社名を示す懸額はなく、上に見えている小さなお宮まで上がるには山登りが必要だ。
 地図に出るほどの神社ではなさそうだと訝っていると、二人連れのご婦人が歩いて来れれたので、「これが愛宕神社ですか?」と聞くと、一人のご婦人は「愛宕神社かどうかは知らないが、一つ手前の角を左に曲がってすぐのところ個人で作られた小さなお宮があります」とおっしゃり、もう一人は「個人のかなあ、鳥居に愛宕神社という立派な神社札が懸かっていますよ」と教えて貰えた。
 少し引返して左を見上げると、ブロック塀に囲まれた小さな森があり、その中に鳥居が見えた。鳥居には「愛宕神社 大沼家」という懸額があり、その奥には鈴がぶら下がった小さな石の祠があり、その右に「大沼家一族氏神愛宕神社改修昭和四十七年二月」と記した石碑が立っていた。個人の氏神様が地図に載るとは。
(山神社)
(愛宕神社)

 愛宕神社にお参りして、今度は国道6号の南部にある六反地蔵尊に向かう。国道を渡って30分近く歩いて大川の手前まで来ると、通りの向かいの橋の辺に小さな祠があるのが見えた。車の通りも多くて車道横断が面倒なのでお参りは省略して写真だけ撮っておいた。
 小さな大川を渡ったところが六反地蔵尊の敷地だった。「六反地蔵尊入口」の石柱が立っていて、その奥に小さな正月飾りが祀られている六反地蔵尊の社があった。
(通りの祠)
(六反地蔵尊)

 六反地蔵にお参りして、次の熊野神社はすぐ近くのはず、街中に入って角を曲がると左の民家の間に狭い石段があり入口に「熊野神社」の石柱が立っていた。御神灯の提灯には灯が点いており、上に見える鳥居には大きな注連縄が張ってあった。
 石段を登って石の鳥居をくぐると、狭い境内に地味なお宮がひっそりと建っていた。名前から推して、相当に大きな神社を予想していたので意外だった。
(熊野神社入口)
(熊野神社境内)

 家並みの続く道を歩いてきたので小用を足すところがなくて困っていたので、ここで多賀駅の公衆トイレは有り難かった。
 多賀駅から東に少し行ったところに「鹿嶋神社」の石柱が立っている石段があるのは以前から知っていたが、お参りしたことはなかった。初めて石段を登ってみると、上の境内は広く、鳥居の奥に狛犬さんに守られた立派な造りの社殿があった。日立には鹿島神社が7社、大久保、下孫、成沢、助川、会瀬、石名坂、制矢にあるとのことだが、ここは下孫の鹿嶋神社。下孫とは聞かない地名だが、鳥居前のバス停に下孫の字があった。
 境内にあった「鹿嶋神社修築造営記念碑」によれば
    当鹿嶋神社は約三百年前正徳元年に鹿島神宮の御分霊を旧下孫字今ヶ島の現在地に勧請し、以来部落の鎮守として氏子の崇敬をあつめてきたのである。しかるに戦災による荒廃甚だしく困難な状況下において修復を行ったが、近年老朽化が目立ち、氏子らの改修の願い切なるものとなった。氏子総代は神社運営委員会を招集して協議を重ねた結果、本殿、拝殿を銅板葺とし本格的修復を施すことに決し、下孫鹿嶋神社修築工事特別委員会を組織して、氏子住民の奉賛を求めることにしたのである。氏子崇敬者各位の社殿修復に対する熱意により多額の浄財が寄進されたため多年の懸案であった神域の整備も同時に実現されたので、この事業の経緯と工事の概要を記して記念の碑とする。 昭和六十年三月吉日
 他に平成二十五年の「本殿改修並びに大震災復興記念碑」も立っていた。
(鹿嶋神社入口)
(鹿嶋神社)

 鹿嶋神社に並んで、市杵島姫命を御祭神とする一回り小さな厳島神社も建っていた。
 本殿裏の古木も見られる鎮守の森は多賀駅から見ても目立つ森だったが、厳島神社の脇に「日立市指定保存緑地」の看板が立っていた。特に境内にある椎のご神木は、樹齢450年ともいわれる木で、太くて立派な老木だった。
(厳島神社)
( 御神木(椎))

 鹿嶋神社のお参りを済ませて、裏参道を下って街通りに出て、よかっぺ通りを歩いて一旦病院前に戻り、そこから国土地理院の地形図にだけ鳥居印が出ている神社を探して少し東に歩いた。鳥居印のところまで歩くと、意外に立派な「宗教法人上孫伏見稲荷神社」の石柱が立っていて、石段の上には白赤白三つの鳥居の奥に対の狐に守られた赤い社があった。
 境内の由来記には
    上孫伏見稲荷神社は明和年間(1764)京都伏見胡桃稲荷大社威福院より分霊され、多賀郡国分村大字大久保字孫1484に祠をたてて祀り、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛の守護神として尊崇してきた。天明2年(1782)の大飢饉には町内あげて飢饉退散を祈願御利益があり、以来氏神として代々旧暦2月初午を例祭日と定めた。明治38年頃ご神体が紛失している。昭和32年6月5日町内氏子協議の上、京都伏見稲荷宇賀御霊命の分霊を奉斉し今日に至っている。
    昭和32年茨城県都市計画日立市区画整理により、日立市大久保町字孫1214番地に移転する。昭和43年(1968)には宗教法人として茨城県知事より認証され、同年2月14日日立法務当局に法人登記する。
 鳥居脇には、こんなところにと言う感じだが「日立のささら(大久保散々楽)」の説明板が立っていた。
    大久保ささらは、古くから大久保鹿島神社の露払いとして神輿の先導をしてきた風流系の一人立ち三匹獅子舞いです。
    大久保ささらは、古くから大久保鹿嶋神社の出社の際に、露払いとして御輿の先導をしてきた風流系の一人立ち三匹獅子舞いです。
    旧大久保村の上孫地区に古くから伝えられてきたことから、地元では「上孫ささら」と呼ばれています。
    大久保鹿島神社では、大正15年(1926)以来出社がなく、ささらの奉納も途絶えていましたが、昭和38年(1963)に大久保鹿島神社上孫散々楽保存会が結成されて保存継続が図られることになりました。
    等々               日立市教育委員会
茨城県HPによれば「日立のささら」は県無形民俗文化財に指定されており、大久保のほかに宮田・助川・会瀬・成沢・諏訪・水木の各町に残されているとのこと。
(上孫伏見神社入口)
(上孫伏見神社)

目標の神社を回って病院の駐車場に戻り、一万歩ほどのウオーキングに満足したのでした。




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