C13.水木文化財巡りと風神山(MAC)

1.動 機
 水戸アルパインクラブの1月例会は、茨地区担当の下山さんと平野さんと私とが担当となり、三者相談の結果、今回の計画は私が立案することになった。風神山は日常のリハビリウオーキングコースの山だったし、地元水木地区の文化財については、「日立のまち案内人の部屋」を参考にして自分で歩いてみたり水木交流センタ主催の「日立の魅力再発見ウオーク」で案内してもらったりして結構予備知識があったので、「大甕水木地区の文化財探訪と風神山登山」と題したウオーキングを立案した。素案を作って、平野さんに協力してもらって下見ウオーキングをした結果、朝9時にJR大甕駅に集合して、金砂神社磯出大祭礼の道で水木海岸まで歩き、泉神社と大甕神社にお参りしてから風神山に登って下山、日輪寺にお参り後、シイタケ菌床栽培のキノコランドで見学して大甕駅に戻ってくることにした。こんな計画で会員に参加募集をかけたところ、去年1月の東海村散策のときほど見所が多くなくて魅力度が低かったか、参加者は9名と少なかった。それでも、実際に皆さんを案内して歩いてみると、初めから終いまで和やかな笑い声が絶えず、今回の評判も悪くはなかったような気がしてホッとした。
 史跡の由来については色々と資料を準備はしていたが、「夫婦二人の山歩き」の前記のもろもろ山行記に記載済みだったこともあり、口下手な私が現地で詳しい説明はするのは遠慮した。折角集めた資料なので、まだこのHPに記載していないものについては、ここに掲載しておいた。

2.データ
a)山域:日立市水木地区、風神山(242)
b)登山日:2015/01/18(日)晴
c)コースタイム:自宅8:35 ---- 8:50大甕駅前9:10 ---- 9:30甕の原古墳9:35 ---- 9:45田楽鼻10:00 ---- 10:05異国船番屋跡碑 ---- 10:10津神社10:15 ---- 10:25泉ヶ森10:40 ---- 10:40イトヨの里公園10:50 ---- 11:10泉川道標11:15 ---- 11:15大甕神社11:35 ---- 11:40美かの(昼食)12:20 ---- 12:25明久稲荷神社 ---- 12:30祖霊殿 ---- 12:45一等基準点 ---- 13:15風神山(風神・雷神の碑)13:20 ---- 13:35砲台跡 ---- 13:40風の広場14:10 ---- 14:30飯縄大権現 ---- 14:40日輪寺14:50 ---- 14:55きのこランド15:30 ---- 15:45大甕駅 15:55 ---- 16:10自宅
d)同行者:水戸アルパイン会員7名(男性5名、女性2名)、和子
e)地形図:1/25000 「日立南部」「常陸太田」
(水木地区文化財巡りと風神山)

3.1 山行記録
 歩いてきた我が家以外は、参加者全員JR下りの電車の乗って大甕駅にやってきた。各ポイントの要点を書いた3枚ものコピーを配布して、その中の案内図で今回のコースを説明をしようと思ったが、駅前には綺麗で気の利いた「大みか案内マップ」があったのでこれを使わせてもらった。
 大甕駅前から広い駅前大通りの歩道を、お元気な皆さんに追い立てられるように歩いて20分で大甕の原古墳群に到着。日立市の指定史跡なので由来を説明しようと思ったが、皆さん、小高いところがあるとすぐに登りたくなる習性があるようで、史跡の説明板には目もくれず、草ぼうぼうの古墳に適当に取りついててっぺんに登って行った。
「日立のまち案内人の部屋」によれば
    甕の原古墳群(六つヶ塚・むっがつか):日立市指定史跡第6号、第7号
      甕の原古墳群は、前方後円墳1基、円墳5基以上からなる古墳群でした。このうち前方後円墳1基と円墳1基は、昭和51年の発掘調査終了後に消滅してしまいました。現在は、この 3基の円墳が残っているにすぎません。
     甕の原古墳群では、この群集墳の盟主とみられる前方後円墳(六ツケ塚二号墳)が調査されている。規模は、全長が33メートル(周溝部まで含めると41メートル)で、墳丘には埴輸が立てられていた(日立 市教育委員会『目立市六ツヶ塚遺跡発掘調査報告書』)。後円部の旧表土を掘り込んでつくられた横穴式石室からは、家族の追葬があったことを示す多くの人骨のほか、副葬品として、六世紀末葉の年代を示す鉄製の馬具、多数の大刀や鉄鏃などの武器類、耳環・管玉・切子玉などの装身具類、そして須恵器が見つかった。
     こうした副葬品のうち、実用的な馬具や豊富な武器類は、被葬者が時には武装を必要としたことを示している。この時期の古墳の被葬者は基本的には農民であったが、そうした被葬者たちも大和政権と無縁ではなかったことを思えば、その軍事体制に組み込まれていたものと考えられるのである。おそらく、政権から出兵要請があればそれに応じるような体制ができていたのであろう。これには、蝦夷との緊張関係や朝鮮半島の新羅との対立といつた、大和政権が抱える政治的な背景があったものと考えられる。
     また、この古墳の周溝内外からは、小さな石棺や、貧弱な品を副葬した土壙墓(どこうぼ)が見つかっている。これは、古墳には埋葬されない階層の人がいたことを示すと同時に、それらの人々がどのように葬られたかを物語るものである。              
(大甕駅前の案内マップ)
(甕の原3号古墳)

 次は古墳からR245の反対側、太平洋に出っ張った田楽鼻に案内した。田楽鼻は東西金砂神社の神輿を担いだ大行列が水木浜まで磯出する時に、昔からここで大田楽舞をしたところからこの地名がついた。
 昭和6年(1931)に行われた第16回大祭礼の記念碑には
    金砂神社ニハ東西ニニ社アリ、西金砂神社ハ久慈郡金砂村西金砂山ニアリ、東金砂神社ハ同郡天下野村東金砂山ニアリ、共に郷社タリ。コノ社伝説ニヨレハ、多賀郡坂上村水木浜ヨリ九穴ノ鮑ニ乗リ上陸、金砂山に祭祀タルヤニ伝ウ。故ニ水木浜ト金砂山トハ縁由浅カラス。金砂神社ノ創立ハ大同元年ニシテ常陸ノ古大社タリ。又大祭礼ハ仁寿元年三月ニ始マリ、ソレヨリ七十三年毎ニ挙行、即チ昭和六年マデ十有六度ナリ。必ス水木浜ニ渡御シ田楽祭事ヲ行フ故ニ水木浜ニ田楽ト称ス所アリ。斯ル縁由ニヤ金砂講社アリ。西金砂山ニハ毎年霜月十三日十二合祭事に講社代参人三十四名参列シ、東金砂山ニハ毎年旧正月三日嵐除祭ニ代参人参列スルヲ例トス。其起原幾百年昔ヨリ始リタルヤ文献ノ徴スヘキモノ乏ク為ニ不詳然レドモ、今ニ至ルマテ其ノ講中ノ断絶シタルコトナキハ敬神思想ノ発露ナリトイフヘシ。世ハ種々ニ変遷シ敬神ノ観念次第ニ薄ラキツツアルニ水木ノ講社ハ終始一貫変遷ヲ見サルハ世ノ亀鑑トスルニ足ル。之ヲ不朽ニ伝ヘント講社相計リ記念碑建設ヲ計画シテ予ニ其ノ碑文ヲ請ウ。依テ其ノ美挙ヲ賛シ浅学非才ヲ顧リ見ス之ノ文ヲ草稿スト爾云ウ                      昭和九年八月 郷社西金砂神社社司 中島幸親 撰文選書
 大祭礼の説明は適当に打ち切って、大きなアワビの上に西金砂神社と東金砂神社の田楽舞の人形が乗った第17回大祭礼(2003年)の記念碑の前で記念の集合写真を撮った。
 記念碑の隣に水木異国船遠見番所跡案内板があり、簡単に説明。公園の南端に赤い鳥居の玉澤稲荷神社が見えていたが、磯出大祭礼には関係なさそうなので案内は止めて、中央の展望台からは地球が丸く見える太平洋の大展望を眺めた。
 長塚節の歌碑を読んでもらい、公園の隣の荒地の一角が水木異国船遠見番所台場があったところだと説明し、その先の河村宅の庭に据え付けてある御番所跡碑を見せて貰った。以前私がこの碑を見にきた時には、ここのご主人に碑の由来を話して貰ったのだが、今回は案内なし。仲間が石碑の裏を覗くと由来書があった。
     寛永十年(1633)徳川幕府の政策として、外国との自由貿易、自由渡航を禁止、外来の思想学問を排除する為に鎖国令が施かれた。水戸藩では徳川幕府の親藩の一員としてこの政策遂行に率先協力し藩内の主たる要所に海防番所を設置し日夜海防監視を実施せしめた。
     文政七年六月には水木の台にも番所を置き特に厳重を極めその責任者として水木の郷士である河村平太夫に命じ番所業務の一切を取締らせたのであった。
     それ以来代々海防監視の任務を遂行してきたが、嘉永六年(1853)二百年の歴史ある番所が閉じられた。
                   昭和五十九年十月吉日 河村巳三夫
(大祭礼記念碑)
(御番所跡碑)

 水木浜に下る途中から石段を上がったところに津神社があり、ここの境内から風神山から高鈴山の山並みを眺め、水木浜の全景を俯瞰した。大祭礼の祭事が行われた広場まで片道15分、今は草もはびこっていて、それを示す何物も残っていないので、そこまで往復することは省略して、ここからすぐに泉ヶ森に向かうことにした。
(津神社)
(水木浜)

 大震災で壊れたであろうブロック塀の修理跡を見たり、その中の手入れの良い庭木を眺めて感心したりしながら歩いてR245を渡るとすぐに泉神社の入口に着く。左に震災を受けたまま修復されないでいる聖徳太子堂があり、鳥居の奥にはいつも真新しい幟が立ち並んでいる泉神社の参道がある。
 泉神社境内に入って拝殿にお参り。境内には藤田東湖や中納言兼輔、栗田寛、内藤義泰、安藤朴翁、奥田寛などの数多くの歌碑や、神木の櫻が寄生した樹令450年の杉の古木(落雷で一部のみ保存)など珍しい見ものもあったが、やはり一番目を惹いたのは、中央に弁財天が祀られた池の透き通った水の清らかさ、その池の底で砂を巻き上げながら水がこんこんと湧きだしている泉の光景だった。
 「この水は飲めるのか?」との質問があったが、「この池の水は全量、前のイトヨの里公園に流れ込んでいるが飲用不適です。公園の水口からは同じ水脈の水がいつも流れ出していて飲むことが出来ます。」
(泉神社)
(砂を巻き上げながら湧き出す泉)

(1/23撮影の泉)

 向かいのイトヨの里公園に入ると、平成名水百選や「泉のはじまり」の碑の前にアヒルの親子の像があり、その前の竹の水口から水が流れ出している。大震災で一週間水道が止まったときに、ここに行列を作って水を貰った思い出話をする。
 イトヨという魚は綺麗な水でしか生きられない全国でも珍しい珍魚で、昔からこの公園の池に生息していた。地域の方々に大事に守られてきたが、数年前の大雨で池が溢れてイトヨもホタルも全部流されてしまって、今はその姿を見ることが出来なくなった。綺麗な流れを見ながら公園を一回りしてもらった。
(泉のはじまりの碑)
(イトヨの里公園)

 イトヨの里を出ると、次は、旧国道(陸前浜街道)から泉ヶ森までの昔の参道の分岐点がある泉川道標まで、20分の長い舗装道歩き。日立市の新交通システムBRTの工事が進みつつある日立電鉄線跡や、近年幼稚園から大学までと拡張されてきた茨城キリスト教学園など見ながら歩いて行くと、目の前に日立市指定天然記念物第一号の大甕神社境内樹叢が見えてくる。
 大甕神社手前までくると、分岐点に日立市有形文化財の標柱が立ち、その後ろに須賀川の人により江戸時代につくられた泉川道標と、国道工事のため一時大みかクラブに移設されていた道標を、昭和38年にここに戻したという復元の記の碑がある。
 日立製作所の大みかクラブの説明をして、すぐ先の石段から大甕神社の境内に入って拝殿にお参り。神社にまつわる伝説を少しお話したが、悪い神様がいたなんてと笑われた。
        由緒 大甕神社HPより
    『日本書紀』神代下にあるいはいう。経津主神・武甕槌神の二神は邪神や草木・石に至るまで皆平げられた。従わないのは、星の神香香背男だけとなった。そこで建葉槌命を遣わして服させた。
    『日本書紀』神代下の一書に「天神が経津主神・武甕槌神を遣わされて、葦原中国を平定させられた。ときに二柱の神がいわれるのに。「天に悪い神がいます。名を天津甕星といいます。またの名は天香香背男です。どうかまずこの神を除いて、それから降って、葦原中国を平げさせて頂きたい」と。このとき甕星を征する斎主をする主を斎の大人といった。この神はいま東国の?取(香取)の地においでになる。」とある。
     天津甕星の荒魂を封じ込めた宿魂石の上に建葉槌神を祀る奥宮が鎮座しているのが当社。
(泉川道標)
(大甕神社幣殿へ)

 拝殿脇の建葉槌命が甕星香々背男を退治している彫り物を見て貰い、神輿倉のガラス窓越しに6年に一度久慈浜まで運ばれるお祭りがある「八角神輿」を眺めてから、宿根石頂上にある奥ノ院のお参りに向かう。この宿根石は奥ノ院が祀られる岩山全体を指しており、鎖も取付けてある岩場がある。山の会の面々、今日唯一の岩場を大喜びで登ってきた。
 奥ノ院参りを終えて宿根石を下り、甕星香々背男を祀る小社前を通って、大甕神社境内樹叢の説明板を読み、久慈港の漁民が奉納したと思われる夥しい錨のお供えを眺めてから国道沿いの大鳥居を潜って大甕神社の境内を出た。
 皆さんお元気で快足、予定よりずいぶん早かったが、すぐ下のレストランに入って昼食休憩にした。いつもは屋外で持参の弁当を広げるのが習わしだが、今回は寒い日になることを心配して、暖かい室内で各自払いの食事を取る予定にしていた。今日はお天気が良くて風も無くて暖かい、皆さんの反応を心配したが、部屋の中での賄い料理に話に花が咲いてなかなか評判が良かった。
(建葉槌命が甕星香々背男を退治)
(大甕神社奥ノ院への岩場)

 レストランでゆっくりと休憩してから国道6号を渡って大甕神社祖霊殿への参道に向かうと、その入口に久慈稲荷神社が建っている。この神社は以前は久慈の郷社明久稲荷神社だったが、場所を移す必要から境内社として久慈漁民の信仰が篤い此の地に移されたらしい。
 沢山の灯篭が立ち並ぶ祖霊殿参道を登り、日研出勤道路を登ってエネ研正門を過ぎたところに立派な基準点標石がある。日立の敷地内なのでエネ研建設の関係で測量し直したものかと思ったが、日立の総務に問い合わせたところ、関係資料は何もないという。
(明久稲荷神社)
(基準点)

 基準点の先で山側道路を橋で渡ると風神山の登山口になる。ここから風神山まで110mの登り、舗装された緩やかな登り道だが、風も無い好天気、すぐに汗ばんでくる。速足の男性3人は快調に登って行くが、久し振りの山登りという人は私よりもゆっくり、山頂に着いた時には随分と差が付いていた。
 山頂駐車場には風神山自然公園の案内図があり、あちこちに休憩所になる広場があると説明したが、風神山のおくりがなに「かぜのかみやま」と余り聞いたことがない読みがふってあった。
 三角点がある山頂の神の広場に集合して、山頂の風神・雷神の碑の前で2枚目の集合写真を撮った。 
(かぜのかみやま自然公園)
(風神・雷神の碑)

 神の広場から引き返して少し下ったところにある砲台跡に立ち寄ってみた。太平洋戦争の時に艦隊を攻撃するために設置されたものと水木学区のウオーキングの時に教わったが、その他に資料は見つからなくてあまり自信はない。
 風の広場まで登り返してベンチに陣取ってテイータイム。目の前の太平洋を見渡しながら、いつまでもあれこれと話が弾んで際限がない。キノコランドの約束時間を気にして適当に切り上げて貰って下山開始。
(砲台跡)
(風の広場)

 下りは、私の風神山周回コースの山道を下るが、一日前の雨でぬかるんでいたり凍っていたりしたら、下るのに時間がかかると心配して、テイータイムを適当に切り上げて貰ったのだが、道は綺麗に乾いていて、枯葉を踏みながら快調に下ることができ、反って早く着き過ぎて時間つぶしに気を遣うことになった。
 山道を下って生活道路に出たところに小さなお社がある。なんでもない社に見えるが、これは「飯縄大権現」という大そうな名前の神社で、その前には二つの立派な石碑が立っている。
       飯縄大権現御縁起
     夫れ権現とは仏が衆生済度の為に権に神の御姿を以って此の世に現れ給うを云う。
     数多権現のまします中に、飯縄大権現は大日如来の教令輪身たる不動明王が、迦楼羅天、叱枳尼天、弁財天、歓喜天の四仏に我が身を合体させた五相一体の姿で本朝に化現された神である。
     衆生の祈る処いずこにも飛び行かんが為に啄と羽翼ある迦楼羅形をとり、降魔調伏、煩悩退散の為に不動明王の大火焔を背負い剣と牽とを持す。白狐に乗り頭に白蛇を頂くは、叱枳尼即ち稲荷天の福徳円満と弁財天の愛嬌具足の利益を授けんが為なり。胸中に歓喜天の無辺の御心を抱いては無数の願に応う。あまつさえ、左右には大天狗子天狗を従えて信徒加護の任に当たらせ給う。来世の衆生を救わんと、五仏の本誓を一身に兼ね具え給えば神力は広大にして誓願甚だ深重なり。この神を一心に念ずる者に開運招福、家内安全、宗門隆昌、請願成就の利益有らざるは無し。
     常州森山庄の住、森山氏、はるか信濃の国飯縄山より此の地に大権現を勧請し奉って久し。而して今、分家六代目当主登氏、社殿新造、神域整備の淨行を完成さるるに当り、小袖、縁起の贊述を求められ、辞するに由なく拙文を撰す。
         昭和六十二年「卯十月吉日
         日輪寺第五十九世 利通 撰文
         森山分家六代目当主 登 書並建立

       飯縄山本宮参拝記念碑
     森山家氏神飯縄大権現は、旧信濃の国上水内郡芋井郷にそびゆる飯縄山頂に鎮座し給う。標高1917mの山頂より飯砂を出し、山籠の行者これを採って食すに因んで飯縄の神号を称す。山上に小池あって、形の芋のごとく、よって「芋井の池」という。これより流れ出づる水脈は八方に分れ、山麓数十ヶ村の田を潤すにより芋井郷の名称起これり。山頂を望む長野市芋井荒安の地に里宮あり、火難消除、福徳円満、子孫繁栄はじめ十三の神徳は世にあまねく、誠を尽くして祈らん者にはその感応、響きの声に応ずるがごとし。
     森山家当主登氏、この地に末社殿新造、神域整備の淨行をなしてここに七年、かねて大権現の霊威を喝迎して本宮登山の大願を発す。すなわち今年六月五日、春季恒例祭、山開祭の神事に臨み、泉久・宮田康司の両氏と語らいて宿願達成を図る。走行すること三百四十余キロにして本社里宮に至る。これより奥宮を目指して岩にすがり、草を掴んで登攀すること三時間、大権現の加護と同行二氏の助勢を得てついに山頂に至り、赫赫たる奥宮の尊容を拝し奉りぬ。
     時に昇翁世壽八十有六、泉氏春秋七十一にして宮田氏は六十五年の齢歯を数る。米寿になんなんとする老翁の奥宮登嶺は快挙と言うべく、その感激は伺うるものなし。
     よって、この天佑を永く後世に伝るべく記念碑一基を建立す。
         平成五年歳次祭酉十月吉日
         日輪寺第五十九世  瀬谷利通 撰文
         森山分家六代当主  森山昇  建立
 飯縄山は1917mの信州の霊山、86才でここに登ったとは超お元気、山の会の目標にもしたいお方である。

 大権現から少し歩いた国道沿いに真言宗豊山派の古刹、日輪寺がある。境内には、横一列に十二支守本尊蔵が並んでいる八体仏や、子安地蔵、水子地蔵、弘法大師修行像、救世観音像などが立ち並んでいる。時間つぶしに弘法大師一千百五十年御聖忌記念、日輪寺客殿・施餓鬼堂建設記念碑の碑文などを読んでもらう。
    そ礼来迎山日輪寺は古刹なり。由来は遠し。けだしその草創は平城帝の御守、弘法大師の開基し玉うところなり。くだりて応永年中、尊秀上人中興し玉いて、寺基漸く定まると雖も、元禄元治再度の回禄の災禍ありて、隆替常ならず。
    然礼ども昭和堯季の今日に及びて、参賽者その数を増し諸堂狭隘を告ぐるに至る。
    依て檀徒一同相語らい、客殿並に施餓鬼堂の建立を発願し、現住利通和尚を扶けて挺身以て募財に及ぶ。仏天この淨業に感じ冥衆影向して衛護し玉う。然れば即ち募財倉廩に満ち、浄財山を成す。工匠は招かざるに集いて鉋斧を振い、画匠は銀泥を障壁に塗澤して、両堂正に竣成す。
    著礼ばそ礼客殿の青甍は滄海の??を巌頭に瞰下す。紅梁は碧空に春暉をもてあそんで靉々たり。
    正に日立市無双の精舎、弥陀仏止住の宝刹たり。
    この秋、あたかも弘法大師一千百五十年の聖忌に相当り、檀信徒一同の造営の懇志、聊か以て大師の恩徳に報じ奉るに足るならん。
       真言宗長者 豊山派元管長 総本山長谷寺 第七十六世化世
                      大司教 大僧正 川田聖見 撰文
       昭和五十八年四月二日 建立  日輪寺 第五十九世 利通 代
(飯縄大権現)
(日輪寺)

 日輪寺を出てすぐのところにキノコランドがある。約束の時間よりも少し早かったが、作業中の人に声をかけると部長さんがにこやかに出てこられた。案内をしてもらう前に、帰るまでに袋詰めしておいてもらうよう各自お土産用のシイタケを注文した。
 入口での説明の後、靴を消毒して工場内に入り、菌床栽培の現物を見ながら説明が続く。既に今日の収穫作業が終わっていたので、ほとんどの菌床ブロックにはシイタケの姿はなくなっていたが、一区画だけ、にょきにょきとシイタケが頭を伸ばしている菌床を残してくれてあった。部長の説明が一段落してから、皆さんも興味を持ったようで質問が相次いだ。案内役が気になってメモを余り取れなかったので、水木ウオーキングの時の社長の説明を再録しておきましょう。
    2012年6月に障害者就労継続支援(A型)事業として開業
    障害者40名、所員9名が交代制で働いている。
    菌床はブナやナラの木のチップを固めたものにシイタケ菌を植えたもの。
    菌を植えた菌床は北海道から仕入れていたが今は群馬産。
    昼20℃、夜10℃にコントロールしている。
    1週間から10日で発芽、4日間で1回目の収穫、12時間浸水して10日後2回目発芽
    これを繰り返して2か月ぐらい収穫している。
    収穫物は市内のスーパや直販店などに卸している。工場に来れば直販もできる。
    用済み菌床は産業廃棄物として処分場に持ち込んで処分。
    菌床は無料で支給、しばらくは収穫可能。砕けば畑地改良剤にもなる。
 皆さんの質問もあって部長の説明は何時までも続きそうだったが、大甕駅の電車の時間が気になって来て、適当なところで切り上げて貰った。
 お土産のシイタケを受け取って大甕駅まで歩き、改札口まで皆さんを送って、我が家だけ歩いて家路についた。合計歩行距離14km、楽しかったけど少々疲れました。
(キノコランド)
(大甕駅)


 

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