C14.5億年前の花崗岩と田尻富士を訪ねて

1.動 機
 去年の年末「B124.田尻の石仏石塔巡り」の時に田尻交流センタからもらった「5億年前の花崗岩と田尻富士を訪ねて」の冊子を思い出し、ウオーキングコースをそのまま歩いてみることにした。田尻富士には6年前に登っており、種殿神社にはB124の時にお参りしていたが、あとの上の代遺跡、猿田彦太神碑、秋葉神社が未知のところだったし、鞍掛山の石が5億年前のものとは知らなかった。朝から快晴続きで、気持ちの良いウオーキングになった

2.データ
a)山域:田尻富士(260)
b)登山日:2015/1/25(日)晴
c)コースタイム:日立自宅 9:10 = 9:40スーパ駐車場9:45 ---- 9:50馬頭観世音 ---- 9:50種殿神社9:55 ---- 10:05上の代遺跡 ---- 10:10猿田彦太神碑 ---- 10:40鞍掛山霊園入口 ---- 10:55金網扉 ---- 11:05クリスチャンキャンプ場 ---- 11:10キャンプ場分岐 ---- 11:25林道終点 ---- 11:30田尻富士11:35 ---- 11:40林道終点(昼食)12:10 ---- 12:20キャンプ場分岐 ---- 12:40滑川橋 ---- ---- 13:10小祠 ---- 13:15秋葉神社13:25 ---- 13:35スーパ駐車場13:50 = 14:30日立自宅
(田尻富士と文化財巡りウオーキングコース)

(田尻富士と文化財巡りウオーキングコースの標高差)

d)同行者:和子
e)地形図:「日立」

3.山行記録
 家で調べてもはっきりできなかった「上の代遺跡」と「猿田彦太神」の場所を尋ねたいとの思いもあって、前回と同じように田尻交流センタの駐車場に車を停めさせて貰う積りだった。センタの前まで車で入ったが、今日は何か行事があるようで駐車場は満杯、事務所も忙しそうなので問い合わせは諦めて、そのまま近くのスーパの駐車場に向かった。
 スーパの駐車場の端に車を停めてトイレを使い、最初の目的地種殿神社に向かう。県道10号に出ると神社の手前の県道沿いに馬頭観世音碑がたっている。前回見つけ出すのに苦労したのが笑い話みたいである。
 県道沿いの石段の先に種殿神社の神社名を彫った立派な石柱があり、石灯篭と鳥居を通って拝殿にお参りする。
 田尻の守護神については、たじりの風土記にはこんな民話も書いてあった。
    むかし、種殿の神さまは、会議に遅れてしまったので、あわてて駆け出しました。しかし、 あまり急いだので、畑の畦道でササゲのつるに足を取られて転んでしまいました。そして、 ゴマのくきの先で目を突き抜いてしまったのです。それ以来、田尻の人たちは、だあれも片目が小さくなったということです。
(馬頭観世音碑)
(種殿神社入口)

 前回は下調べ不十分で、拝殿裏にある日立市の保存樹スダジイの木をよく見なかったので、今回はしっかりと写真に収めた。スダジイの大樹は2本あり、1本は本殿横に聳えていて幹に注連縄が巻いてあり、根元には小さな石祠も祀ってあった。ご神木なのだろうか。
 そのすぐ後ろにもう1本の大樹があり、根元に「指定保存樹62号 スダジイ 日立市」の立札が立っていた。いずれも、幹の周囲が4.1m、高さ18m、樹齢約350年以上とのこと。
(御神木スダジイ)
(保存樹スダジイ)

 種殿神社の境内樹叢脇の道を登って行った奥の団地が上の代団地である。その入口で出会った男性に「上の代遺跡」と「猿田彦太神碑」について尋ねると、夫々への道順を細かく親切に教えて貰えた。「この後に富士山に登る積り」と言うと「田尻富士」をご存じなくて「冬の富士山に!?」とびっくりされていたが、「上合団地の上の小さな山」と告げると「猿田彦太神碑からすぐに上合団地に出るよ。お互い暇つぶしに苦労するね」と言われて笑顔で分かれた。
 少し先に金網で囲われた広場があり、片端に遺跡の説明板が立っていた。
     田尻町上の代遺跡
    この台地は縄文時代の集落があったところです。昭和四十六年市営住宅が建設されることになり、この区域を発掘調査し竪穴式住居跡多数を検出しました。この時の出土品は縄文前期・中期・後期の土器や石器類など大量に発見され、土偶も数個出土しました。
    これらの遺物からむかしここに住んだ人びとは狩猟や漁労を営み、または草木の実などを取りこれを食料として生活していたと思われます。復元した住居は縄文中期(約五千年前)の竪穴式住居の想像家屋です。
    その側に玉石で示した形は、地面から約1.5m地下ローム層に周溝と柱の穴のあることを表示したものです。
 何かで縄文式竪穴住居の写真を見たことがある気がするが、今は朽ち果てて撤去されたらしく広場の真ん中にちょっとくぼんだ所があるだけだった。説明板と周溝跡を示すという玉石の列を入れた写真を撮っておいた。
 遺跡の広場を過ぎて団地の外周道路を歩いて行くと、駐車場の先に次の広い団地が見えてきて、その公園の一角に笹竹を飾られた猿田彦太神の石塔あった。「5億年前の花崗岩と田尻富士を訪ねて」の冊子によれば、
    猿田彦太神は日本神話に出てくる神ですが、江戸時代神道系の人たちによって神道庚申講の主尊として広められました。庚申講は十干十二支の組み合わせによる、庚申=カノエサルの晩に行われた民間信仰です。
    石塔の裏面に「万延元年十一月」という建立年月があります。万延元年は西暦1860年です。この年に「桜田門外の変」という大きな事件が起こりました。桜田門外の変は、安政7年=1860年3月3日、江戸城桜田門外で水戸浪士らによって井伊直弼大老が暗殺された事件ですが、この15日後の3月18日に「万延」と改元されました。田尻宿の神道庚申講は、庚申の日に関係なく毎年12月上・中旬庚申講が行われています。万延元年(1860)庚申歳を記念して石塔が建立されたものと思います。
    なお、石塔に使用されているのは、日高地区で通称「小木津石」と言われている5億年前のカンブリア紀の花崗岩だそうです。
(上の代遺跡)
(猿田彦太神碑)

 猿田彦太神から小公園を下って上合団地の一角に出た。団地の向こうに常磐道と、その上にこれから登る田尻富士が見えていた。
 上合団地はものすごく広い団地、団地内の生活道や、県道から神峰公園に抜ける車道をどこまでも歩く。
(上合団地へ:向かいに田尻富士)
(どこまでも続く上合団地)

 猿田彦太神から30分も車道を歩いてやっと鞍掛霊園の入口に着いた。今日も告別式が行われるようで、車が次々と入って行く。
 冊子を読んで初めて知ったが、この霊園は5億年前のカンブリア紀層を切り開いて作られたとのこと。霊園周りのあちこちに自然石が並べてあるのを見たことがあるが、これらが全部5億年も前の岩石だったのかと今更のように驚く。
     鞍掛山霊園はカンブリア紀地層
    あるグループで日立市郷土博物館特別専門員田切美智雄先生を講師に「ジオパークとカンブリア紀地層めぐり」を行った時の資料に「鞍掛山霊園はカンブリア紀層の山を切り開いて作ったところです。霊園の銘板がはめこまれている大きな石は5億年前の花崗岩です。祭場の周囲に置かれている自然石もすべて5億年前の岩石です」と記述されております。平成20年9月18日の新聞記事によると「これまでの記録は、飛騨山地(岐阜県)の約4億9000万年〜4億4000万年前の地層でした」とあります。カンブリア紀は、5億4000年前〜4億9000年前だそうです。記事最後に「本州の一部が5億年以上前に存在したことは、日本の成り立ちを知る重要な手掛かりになる」とあります。
(鞍掛山霊園入口)
(古代石に入った霊園銘板)

 霊園のトイレを使い、整然と並んだ夥しい数の規格墓石が並ぶ区画を登り切り、自由墓地区域に入ると、その奥が霊園境界になっていて金網のフェンスがある。扉を開けて霊園の外に出ると、クリスチャンキャンプ場への山道になる。
 6年前には正面の尾根筋を登ったが、今回は左に下る正規の道に入った。少し歩いたところに「ようこそ日立クリスチャンキャンプ場へ」の立札があり、道は沢に沿って伸びていて、何度も沢を渡渉することになった。冊子によれば、この沢の石も5億年前のカンブリア紀のものとのこと。
(金網フェンスの扉)
(くり返し渡渉)

 10分も沢沿いを歩くと、管理棟やバンガローが立ち並ぶクリスチャンキャンプ場に到着。昭和30年に「日高のキリストの教会」が国有林滑川山3000坪を借地して造られたとのことだが、寒い今の時期、人の姿は全くない。キャンプ場から少し坂を登って行くと林道に出たが、とこちら側にも分岐点に「日立クリスチャンキャンプ場」案内板が立っていた。
 林道に出て少し引返す方向に歩いたところにまた分岐があり、6年前はここを直進して時間をロスしたが、今回は間違えずに右に曲がり、後は曲がりくねった林道を道なりに歩いていった。
(クリスチャンキャンプ場)
(林道歩き)

 林道の途中には山側に露岩が見えており、これも5億年の石なのかとしげしげと見つめた。
 10分も歩くと林道終点の広場になり、行く手の樹間に日立北部の街並みと太平洋が広がっている。
(カンブリア紀の地層?)
(林道終点)

 田尻富士への登り口は広場の左端にあり、取付いて植林の中を一頑張りですぐに石祠のある山頂に登りついた。展望皆無なので、ツーショットの写真だけ撮ってすぐに下山、広場に下って日だまりで弁当を広げていると、10人ほどのグループがやってきて、中には顔見知りの人もいて「お元気そうで何より」と挨拶を交わした。
(一寸だけ登り)
(田尻富士)

 ゆっくりと弁当を食べてから林道を引返し、キャンプ場分岐のところを直進すると落葉でふかふかの気持ちの良い山道になる。
 中央に焚火跡らしき跡がある小広場があり「日立クリスチャンキャンプ場へ」の立札が立つ細い分岐道もあったので、ここがキャンプ場のキャンプファイヤー場所と思われた。 
(ふかふか道)
(キャンプファイヤー場?)

 すぐに右下に広大な鞍掛山霊園が見えてくる。ずっと霊園を右に見下ろすように登山道が伸びており、ところどころ倒木の跡があるが、すべて切断されて歩くに支障の無いように処理されていた。
(霊園脇を歩いて)
(倒木も処理済)

 気持良く下っていくとゴーゴーと言う車の音が聞こえるようになり、常磐高速の上を橋で渡ることになった。橋の欄干には「滑川橋」の銘板があり、橋の上からは、西側に霊園下を潜るトンネルが見え、東側には上合団地の上に太平洋が広がって気持ちの良い眺めだった。
(滑川橋上から常磐道の眺め)

 滑川橋を渡ると、すぐに上合団地の端に出て、後は長い舗装された車道歩き。30分近く歩いて県道出口近くのY字路に来ると、右の分岐の先に地図にない小さな社があった。近くに行ってみたが、個人のお宮なのか何の表示もなかった。
 県道を渡ると少し入ったところに左に登る石段があり、その上に石の鳥居と大きな椎の木が立っているのが見えた。地図では秋葉神社に違いないが何の表示もない。
(県道出口の小社)
(秋葉神社入口)

 石段を上ると広場になっていて、更にその先に石段があって、立派な社があった。石段を上ってお参りしたが、ここにも秋葉神社の表示はない。
 下の広場の左には庚申の石塔があり、その後ろに大きな「田尻村の古き学校・発蒙舎跡地ここにあり」の石碑が立っていた。下の庚申塔の写真をクリックすると、この学校跡の碑文が出てきます。
(秋葉神社)
(庚申塔:クリック!)

 庚申塔の更に左には不動堂があり、ガラス戸越しに中を覗くと、真ん中に不動明王像、両側に木造の仏様の姿が見えていた。この不動堂は地域のお祭りの会場になっているようで、詠いの文言がカナ入りで書いたものも貼りつけてあった。下の不動堂の写真をクリックすると、不動堂の由来や庚申石塔発見の経緯などを書いた案内板が出てきます。
(不動堂:クリック!)
( 不動堂の中)

 たじりの風土記を見ると、秋葉神社の北にもまだ見ていない史跡が何カ所かあるようだったが、今日は孫のアキちゃんの誕生日、日立のレストランで誕生日祝いをしようと、水戸の娘一家が我が家に来てくれることになっている。遅れたら大変と、予定のコースを歩き切ったことに満足して駐車場に戻り、スーパで買い物して急いで我が家に帰った。
 アキちゃんといってももう高校一年生、ちゃん付けはおかしい。今高校の登山部に入って頑張っているのは、何度か日立のジジババと山歩きを一緒にしたのを覚えていてくれた証だろうとジジババは喜んでいる。大学受験で忙しい姉のサーちゃんも時間を割いてくれ、水戸のジジババも一緒にお出でになり、賑やかで楽しい誕生日祝いが出来ました。




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