C21.那珂湊の文化財と寺社巡り
1.動 機
寒くて夫婦二人の山歩きをする気が起らず、楽ちんな平地を歩くことになる。折角歩いたらこのHPに記録を残したいが、日立や東海の中では種切れ気味になってきた。図書館で茨城歴史探訪ウオーキングの本を借りてみると、那珂湊駅からスタートして「まちかど博物館」「山上門」「反射炉」「華蔵院」「湊公園」「おさかなセンタ」「水門帰帆」とまわる周回コースが紹介してあった。地図を開いてみると、この周辺にはこの他にも数多くの寺社が載っており、これらにも立ち寄りながら歩けば面白そうだ。ピークハンタの癖である。 2.データ a)山域:那珂湊 b)登山日:2015/2/4(水)晴 c)コースタイム:日立自宅 9:30 = 10:05那珂湊駅近傍駐車場10:10 ---- 10:13@勇稲荷神社 ---- 10:22Aまちかど博物館 ---- 10:29B反射炉10:39 ---- 10:43C西滝不動尊10:47 ---- 10:50D横堀稲荷神社(水神宮) ---- 10:56E華蔵院11:05 ---- 11:11F天満宮 ---- 11:17G宇賀魂神社 ---- 11:24H湊公園11:50 ---- 11:30I葵神社 ---- 11:55J鐘馗神社11:35 ---- 11:58K横穴群 ---- 12:00K草薙神社 ---- 12:05L銭座稲荷神社 ---- 12:08M金山神社 ---- 12:11N八百穂神社 ---- ---- 12:15Oおさかな市場(昼食)13:00 ---- 13:15Pふるさと懐古館 ---- 13:23Q橿原神宮13:28 ---- 13:31R富士坂暮雪 ---- 13:41S法華寺 ---- 13:46(21)水門帰帆13:48 ---- 13:52(22)津神社13:54 ---- 14:05(23)六丁目中 ---- 14:11(24)光明寺14:13 ---- 14:23那珂湊駅近傍駐車場 = 15:00日立自宅
d)同行者:和子
e)地形図:「ひたちなか」 3.山行記録 朝の寒さが緩んだ9時半に我が家を出発し、那珂湊駅近くのスーパの駐車場に車を置いて10時過ぎに歩き始めた。ポケナビが故障して、今日は地図だけが頼りの探訪ウオーキングである。なんとも心もとない。 駅前通りを歩くとすぐのところに鳥居が見え、その奥に@勇稲荷神社があった。社殿は三角形で一見洋風の形をしているが、その前を狐のような形の狛犬が守っており、左には手入れの良い日本風の松の木があり、その下には御嶽山大権現・八海山・三笠山の石碑も立っていた。
歴史探訪の本によれば、次のAまちかど博物館は駅前通りを歩いた突き当り近くの左にあるはずだ。ウロウロしてみたが博物館らしき建物が見つからず、商店に入って尋ねると「以前うちわ屋さんだった家で、角から三軒目の家ですよ」とのこと。それはレトロな感じの家で、ガラス戸には「まちかど博物館」の小さな張り紙があった。昔私が育った田舎にもこんな感じの商店があったっけ。
張り紙には「この町の歴史や店の昔話など聞けるので気軽に声をかけてください」とあったが、我家はウオーキングが目的なので、わざわざ奥から出て貰って話をして頂くのには気おくれして、綺麗な絵柄のうちわや扇子などの展示物をガラス戸越しに眺めさせていただくだけで次に向かった。
角を博物館と反対方向に歩いて行くと、左上に反射炉の高い塔が見えてきて、やがてB「山上門・反射炉」の道標があった。左の路地に入って行くと一帯が公園になっており、石段の上に瓦葺の山上門があった。説明板によれば、山上門はもと江戸の水戸藩小石川邸の正門右側にあり、勅使奉迎の為に特に設けられたもので、後に小石川邸の山上に移されたので山上門と言われるようになった。昭和11年に当地に移築され、小石川邸で唯一現存している貴重な建築物で、ひたちなか市指定建造物になっている。とのこと。
石段を上がって山上門を潜ると、右の広場に古びた無縁堂が見えていた。
更に石段を登った広場の右端に登り窯が見え、もう一段上の一番高いところに高さ15mの2本の反射炉煙突が聳えていた。
反射炉の説明板によれば、水戸藩主斉昭が異国船対策のための大砲を鋳造するために建設したもので20数門の大砲が作られたらしい。元治甲子の乱(天狗党の乱1864)で破壊され、目の前に聳えているものは昭和12年に復元されたものだという。反射炉の前には斉昭公の偉業を讃えて東郷平八郎が揮ごうした「護国」の文字を彫り込んだ記念碑があり、鋳鉄製の大砲も一門据え付けてあった。
登り窯に戻って説明板を見ると、反射炉に使われた4万枚もの白色耐火煉瓦を作るために建設されたもので、これも復元模型だとのこと。
登り窯に沿って脇を下って無縁堂にお参りして車道に出て、少し歩くと住宅街の一角に地図には出ていないC「西滝山不動明王」の石柱が立っていた。細い通路を入って行くと井戸小屋のようなものがあり、二人のご婦人が何本ものペットボトルに水を入れていた。入口の不動明王の石柱の前に軽自動車が停まっていたのは、この水を運ぶためだったようだ。お二人の話では、大震災の時にもこの水のお世話になったとのことだったが、目の前の銘板にも次の記述があった。 西滝不動尊の御霊水
不動明王(お不動様)は私たちの迷いを立ち切り知恵と生きる勇気を授け、あらゆる願いを叶えてくれる霊験あらたかな仏様です。古来よりこの西滝不動尊へは地元参拝者はもとより、遠方からの信者参拝者が多く訪れ、お不動様のご利益に浴した。 ここのお不動様の御霊水は昔より一時もかれることがなく、こんこんと湧き出る御利益のある湧水で、今日に至るまでも飲料水として使われ、地元の人々はそのありがたき恩恵を受けている。 御霊水脇の石段を登っていくとお不動様の社があり、奉剣の碑や大正9年の建立記念碑が立っていた。
Y 字路を左に入ると華蔵院の道標があったので、道標のまま枝道に入って行くとそこには広い墓地があった。それでもその先に寺院の堂宇が見えていたので、そのままお墓の間を歩いて行った。
院内には本堂のほかに薬師堂、太子堂、弁財天、六角堂、龍王殿など多くの立派な造りの建物がたち並んでいた。
出るときは仁王門を潜って外に出た。全体を鮮やかな赤色に塗られた門の姿は堂々としており、周りは手の込んだ彫り物で飾られていた。中の仁王様も拝見したかったが、全面金網入りのカラスで囲われていて見えづらく殆どその姿を見ることはできなかった。 次は湊公園入口を通り過ぎてF天満宮にお参りする。入口の碑には下記碑文があった。 天満宮は、菅原道真公を奉斎した神社で、今から七百余年前の鎌倉時代、海上に種々の奇端が現われ、神託を乞うや、道真公の神霊が、この地に降ったとのことであった。時の領主は、北野山満幅寺泉蔵院を創建して守護させ、神領として二十五貫文の地を寄せられた。
それ以来、住民の信仰が篤く、南北朝時代の頃には、神前で大般若経の転読が催された記録が見える。神仏混淆の時代には、久しく仏像を安置しておいた。 時が移り江戸時代になると、第二代徳川光圀公は、元禄年中に寺社改革(神仏分離)を行ない、家臣東條常言に命じて、菅公の御神像を造らせ、神宝を添えて遷宮の式を行なわせた。また祭礼の式も改め、社職を泉蔵院別当から柏原明神(現在の橿原神宮)の社守鈴木長門に命じた。 爾来、歴代の藩主は、とくに天満宮を尊崇し、祭礼の式は幾度か改められ、数百年を経た現在も伝承されている。
天満宮の大鳥居から一寸歩いたところに「和田町若者中」と彫られた自然石の碑があり、そのすぐそばには地図にない赤い鳥居のある小さな石祠があり、こちらには「出世稲荷大明神」の石柱があった。
地図を頼りに和田町若者中の先の十字路を右に曲がって行くとG宇賀魂神社が見えてきて、石段を上がった広場に鳥居と狛犬さんに守られた社があった。入口の左の石柱には「釈迦町・字仲町・氏子中」の刻印があったので、この里の氏神様なのだろう。
文武館は、安政四年(1857年)に設立された水戸藩郷校である。水戸藩第9代藩主徳川斉昭は、天保6年(1835年)に藩政改革の一環として、現在の八幡町に郷校「敬業館」を建設した。やがて、激動する幕末には、水戸藩の藩校再編の中で、従来の敬業館とその敷地では規模が不足することから、敬業館の学問所としての機能に、新たに武館機能を加えて山の上に移し、「文武館」と称した。初代の館主は雨宮鉄三郎であった。文武館の施設は、本館、館守舎、井戸等からなっており、文庫の書籍は敬業館から移管されたものである。敬業館と明らかに異なる点は、鉄砲場が設けられていることで、鉄砲の操練が重視されていた。藩士ばかりではなく、商人をはじめ相当の数の人が学んだといわれているが、元治甲子の乱(1864年)でことごとく破壊されてしまった。
向かいの高みにひたちなか市指定文化財「い賓閣跡」の石碑や説明板があり、2年前の水戸八景ウオーキングの時に受けた説明では
手入れの行き届いた恰好のいい松が立ち並んでいて「市指定天然記念物湊御殿の松」の説明板が立っていた。黄門様が300年以上も前の元禄11年にい賓閣をここに建て替える時に植えた松の一部であり、天狗党の乱でも難を免れ、近年の松くい虫の被害にも遭わないで生き延び、樹形、風格に優れており、歴史的にも貴重である。とのこと。
公園の一角には湊八景日和山秋月の標柱が立っており、那珂湊の街並みの向こうに開門橋のかかる那珂川の流れが見渡せる。右端遠方には筑波山の双耳峰も見えていた。
入口と反対側のあった狭い階段道を下って公園を出て、住宅街を少し右往左往してJ鐘馗神社を探し当てた。神社の右には井戸があり、「金龍水松影ノ井戸跡・俗称大井戸」の石碑が立っていて小屋には説明板が取付けてあった。
御殿町片町に有り、此井清泉にして国主御殿御成りには御上り水に掬せられ、何程旱魃と雖も水涸れることなし。 井上子篤述 那珂湊名所図
開門橋への交差点のところには、崖に造られた小広場にK草薙神社が建っていた。神社前に登る石段はなく、ただコンクリートを均しただけの急坂、社殿も古びて手入れも行き届かない風情に見えたのでお参りは止めにした。
おさかな市場に着いて海辺まで歩き、ガラガラで只っ広い駐車場に入って那珂湊漁港の全景を眺める。眺めているだけで気持ちが良くなった。
食事前に市場を一回りしたが、お店の数はものすごく多いのに、日立のおさかなセンタのように威勢のいい呼び込みの声がかかってこないので落ち着いて歩くことが出来た。
ゆきあたりばったり入った食堂で「いらっしゃい!」と威勢のいい挨拶を受けて顔を見ると、そこには親しい知人の笑顔があった。お奨めの那珂湊の新鮮なお刺身がてんこ盛りの定食を食べて腹いっぱいになり元気をもらいました。 美味しい昼食に満足して歩き始め、次の地図に出ているPふるさと懐古館を目指す。県道6号手前、郵便局のあるブロックにあるはずだと見当をつけ、ブロックを一回りしたが懐古館らしき建物は見つからない。郵便局に入って尋ねると、若い局員は御存じなかったが、局長さんが「大震災で被害を受けて閉館、今は更地になっていますよ」とのことだった。そう言えば歩いている途中に広い空き地があった。改めて写真を撮りに行った。
次は(21)水門帰帆を目指して歩いて行ったが、曲がりを間違えてQ橿原神宮の鳥居前に着いてしまった。ポケナビを持たないとこんなもんかと自分ながらにがっかりし、「歩きに来たのだから多少歩行距離が長くなるのは悪いことではないよ」と自分を励まして神宮の境内に入った。
大鳥居の奥右手にもう一つの鳥居があり、石段を上ったところが境内で、手水場、社務所、拝殿と続き、その奥に威厳のある本殿が建っていた。一度炎上したらしいが、江戸時代に再建されてからも300年以上が経ち、鬱蒼とした樹叢と相まって荘厳な雰囲気を醸し出していた。
境内を裏から出て県道6号を東に向かうと、Y字路のところにR「湊八景・富士坂暮雪」の標柱が立っていた。説明板はなく謂れは判らない。
その先で支所に入り、その脇の路地裏に法華寺があった。日蓮宗なのでお寺の雰囲気はなく、近くで市職員らしきユニフォームの人に「法華寺はどこ?」尋ねた時も御存じなかった。
法華寺から海側に歩いて行ったところに(21)水門帰帆の広場がある。「水戸八景・水門帰帆」の自然石の碑のほかに「湊八景・和田帰帆」の標柱もあった。
広場の休憩舎奥の柵際からは、那珂湊の街の向こうに180°太平洋を見渡せ、まさに地球は丸いを実感させられた。
水門帰帆沿いの道を西に歩くと、すぐに石の鳥居が見えてきた。場所からして(22)津神社に違いない。この鳥居まで来ると、海側に50段以上ありそうな急な石段が街から登ってきており、反対側鳥居の50mも北にもう一つの鳥居が見えていた。その鳥居まで歩くと、奥には石灯篭、狛犬さんと続き、社殿には津神社の懸額があった。漁師さんたちの信仰の厚い神社で、お祭りの時には先ほどの急な石段を威勢よく神輿を担ぎ上げるという話を聞いたような。
次の(24)光明寺を目指して県道6号に出て、脇道に入っていくと地図にない神社があった。神社名はどこにも見つからなかったが、石鳥居の柱に「六町目中」「大正十五年五月建立」の文字が彫られていた。この辺りでは中とは神社のことか?
ひたちなか海浜鉄道の線路を超えた北にも八幡神社などの寺社が沢山あるが、時間は14時を回った。今日は多くの寺社を探訪できたことに満足して、線路際を歩いて駅近くの駐車場に戻って家路につきました。
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