C23.城里町の文化財探訪と浅房山登山

1.動 機
 図書館で借りてきた「茨城県自然紀行」の本を開くと、テレビの日立コマーシャルの「この木なんの木」にそっくりな木の写真が出ており、それは城里町役場にあるスダジイの木とのこと。見たことがあるような気がしたが、実際にこの木自体を見たのか、孫と一緒にハワイに行った時のモンキーポッドと混同しているのか定かでない。これを確かめようと、そのページに出ている「小坂神社の笠懸の松」「清音寺の古内茶の母木」「小松寺の平重盛墳墓」「藤井川ダムの自然」を一緒に廻ろうと考えたが、車で走る廻るだけでは面白くない。近くの浅房山に吉田神社から周回すれば、ウオーキングを兼ねた文化財探訪になる。4年前に木葉下から浅房山を周回した時とは反対から登ることになって、これも面白そうだ。はっきりと記憶に残っている小松寺と藤井川ダムは省略することにして、城里町役場、小坂神社、清音寺の文化財巡りと浅房山登山を組み合わせて出かけてきた。

2.データ
a)山域:城里町、浅房山(201)
b)登山日:2015/2/21(土)晴
c)コースタイム:日立自宅 9:45 = 10:45@城里町役場11:05 ---- 11:25吉田神社P ---- 12:40A浅房山13:20 ---- 13:50B八幡神社 ---- 14:00C吉田神社 ---- 14:20D清音寺14:40 ---- 14:50E小坂神社 ---- 15:30常陸太田16:10 = 16:30日立自宅
(城里町の文化財巡りと浅房山ウオーキングコース)

(浅房山ウオーキングコース)

(浅房山ウオーキングコースの標高差)

d)同行者:和子
e)地形図:「徳蔵」

3.山行記録
@城里町役場
 城里町役場の駐車場に入ろうとすると、今日はライブコンサートが開かれるとのことで、係員が駐車場所の指定をしてくれる。
 駐車場脇に円い柵で囲われた「この木なんの木」そっくりの大木が見えた。早速、近くまで行って記念写真。柵内には「町指定天然記念物 スダジイ」の標柱と木の大きさなどの説明板が立っていた。樹令400年、樹高11.5m、枝張8.1mとあった。
 庁舎は建て替えが終わったばかりのピーカピカ、古い庁舎だった時にここで役場の人に「小松寺には是非寄ってみなさい」と薦められたような気がする。車からも目立って見えていたスダジイの大樹を近くで見ようと思って立ち寄ったのだろう。
(@町指定天然記念物:スダジイ)
(@この木なんの木、気になる木の仕様)

 役場のすぐ脇に「愛宕山大権現薬師寺」の石柱が立っていて、その奥に赤い鳥居と社があった。社の後には「茨城百景石塚薬師那珂西城址」の石碑も立っていた。まさか、このお社が薬師寺と言うわけではないだろう。
(@愛宕山大権現)
(@茨城百景碑)

 お社と通りを挟んで反対側、役場の後に広い敷地を持った新しそうなお寺があって、敷地内には「薬師寺」と「十二神像」の由来書が立っていた。昭和40年に再建されたという本殿の中を覗くと、正面の祭壇の両脇に町文化財の「十二神像」を6体ずつ祀ってあるのが見えた。国指定重要文化財の「木造薬師如来像と両脇侍像」の実像は見えなかったが、中央祭壇の上にその写真が飾ってあるのが見えていた。
(@薬師寺)

(@重要文化財薬師如来像・両脇侍像と町指定文化財十二神将像)

A浅房山
 城里町役場の駐車場を出てから、次の浅房山登山の登り口近くに駐車場所を探しながらR61を走って行くと、吉田神社下に駐車場が見えた。一台の車が停まっているのが見えたので、我が家も車を入れさせて貰った。
 身支度をして交差点向かいの部落道を歩いて行き、少し先のところから左の分岐に入る。街並みの後には山間の田圃の脇に農道が延びていた。オオイヌノフグリやオドリコソウなどの野の花を愛でながら歩いて行き、田圃で作業中のご夫婦に「この道で浅房山に登れますか」と尋ねると、「この先に(浅房山へ)の道標がある。その先分岐があるが登れるはずだ」と教えて貰えた。
(C吉田神社駐車場)
(A浅房山へ)

 田圃道を進むとやがて平地は終って山道になり「朝房山へ」の道標があって、気持良くして緩やかな山道を歩いて行った。
 ナビで浅房山の方向をチェックしながら歩いているうちに登山道を右にそれてきて、そのうち藪っぽい所も出てきた。
(A山道の始まり)
(A迷い道)

 引返すのも癪で、ナビを頼りに少し左の踏み跡に方向修正して闇雲に進んでいくと、正規の登山道に戻ることが出来た。
 安心してどんどん歩いて行くと分岐があり、気持がいい尾根筋を進んでいたら方向が怪しくなってきた。分岐に引き返して出直すとすぐに次の分岐があって「浅房山」の表示板があり、それが示す登り道を進んだ。後で調べたら、この分岐点の左から来る道が4年前に歩いてきた木葉下から歩いてきた道だった。
(E正規の山道に戻って)
(E浅房山分岐)

 分岐から数分登ると広場のようになっていて、三等三角点の標石があり、見覚えのある休憩舎や小さな石祠、浅房山と彫られた立派な標石が立っていた。弁当を広げてから、その標石の前でツーショット写真を撮ってすぐに下山にかかった。
 途中の案内板にも、山頂にも「浅房山」と「朝房山」と異なる漢字名が混在しており、前回は地形図に出ている「朝房山」を使ったが、今回は山頂の大きな山頂標石の「浅房山」を採用することにした。
(A朝房山山頂標と石祠)
(A浅房山山頂標)

 右に下る林道もあったが、正面の急坂を下ると石の鳥居がある。
 鳥居に出て林道を右に歩いて行くと、左手に雑草で覆わた放棄地と思われる農耕地跡が続いた。
(A浅房山の鳥居)
(A放棄地沿いの林道歩き)

B八幡神社
 静かな林道を15分も歩いて行くと集落が見えてきて地図では大橋という部落らしい。地図ではこの部落の先に八幡神社があるはず、右手を気にしながら10分も歩いて行くと、少し入ったところに木の鳥居があり、その奥に地味で小さな社が建っていた。予想よりも小さく、何の表示も見つからなかったが、これが八幡神社らしい。
(A大橋部落に出る)
(B八幡神社)

 車道に出て左に曲がると、右に旧校舎を活用したような大橋公民館があり、その向かいに一三夜尊の石碑群が並んでいた。
 この道沿いにもオオイヌフグリなどの野の花がいろいろ咲いていて目を楽しませてくれた。歩いているから味わうことが出来る楽しみだ。
(A十三夜尊)
(Aオオイヌフグリ)

C吉田神社
 R61の交差点に戻って、そのまま前の吉田神社の石段を登って行った。下からは見えなかったが、上にも石段が続いていて、数えたら140段もあった。最後にこの登りはきつかった。
 拝殿は地味だが、裏には立派な本殿が建っていて、山手には「王将」と刻印された小さな石碑も祀ってあった。
(C吉田神社:140段の石段)
(C吉田神社:拝殿)

D清音寺
 吉田神社の駐車場で車に乗って、R61を町役場方向に引き返していくと、左手の分岐に「清音寺」の道標が立っていて部落道に入っていくと、左に「清音禅寺」右に「大石山」の立派な石柱が立っていた。その脇に駐車場があり、お寺の由来書板が立っていた。消えかかっていたが、判読すると
      清音禅寺(禅臨済宗南禅寺派)
     前半は仁明帝の勅願寺,後半は復庵大光禅師の古 禅林護国の海印道場で太古山獅子院清音禅寺という。
     草創大同四年(809)弘法太師草庵を構え,承 和四年(837)真雅僧正が堂宇を建立し,東国鎮 護の修法道場とし浄光寺と号す。仁明帝より東夷鎮 護山の勅額を賜る.源頼義,頼朝,実朝厚く崇敬 す。嘉禎三年(1237)罹災。
     創建吉野朝時代文和元年(1352)常陸領主佐 竹義敦が復庵大光禅師を招き開山す。後兵火に二 回罹り,佐竹氏秋田へ移封後衰う。然し徳川家康の 助力に拠り,慶長七年(1602)復興。水戸義公 も来遊し名吟其の他などを残す。明治維新の際寂(おとろ)え 名宝四散す。昭和十五年罹災。昭和二十六年再興 同三十二年一応整備成る
    一.史蹟  宝篋印糖(石造)墳墓三基
          菩提 常陸守佐竹貞義公
          当山開山 復庵大光禅師
                城里町指定有形文化財
    一.事績  古内茶発祥の地
          名茶母木「初音」水戸光圀命名
    一.名所  「古内の里」水戸領三十二景の一つ
              水戸義公指定 (郷光遺聞)
     太古山風致山林一円は自然環境保全地域として寺境内
      に武家文化ラインとして各々の県の指定となっている
                城里町教育委員会
 もう一枚、太古山風致保護林の説明板があった。
     太古山風致保護林
    場  所 東茨城郡常北町下古内 太古山国有林
    面  積 15.00ヘクタール
    設定目的 この森林は、スギ、ヒノキの高齢(約110〜160年)人工林にもモミ、スダジイ等の天然木が混成し、清音寺周辺の景観の保護をしています。
    昭和62年3月 東京営林局
 石柱の間を通り、スギの巨木の間の参道を歩いて行くと、右手の林の中に「太古山風致保護林」の標柱が立っていて、お寺を囲む鬱蒼とした森にはスダジイ等の広葉樹の大木も見えていた。さらに奥に進んでいくと右手に鳥居と社があり、更にその先、山門をくぐった本堂の手前には「太古山の晴嵐碑」が立っていた。
(D清音寺入口)
(D太古山の晴嵐碑)

 その右手には、新しい太古山清音寺の由来書が立っていた。駐車場の由来書板とほぼ同じだが、少し補足されている様だった。
(D太古山清音寺の由来)

 開山堂の懸額のあるお堂の裏の高みに古い墓地があり、一番前に史跡である三基の宝篋印塔が並んでいた。この寺の歴史を感じさせていた。
(D清音寺の宝篋印塔)

 本堂の脇には「古内茶の母木「初音」」の標柱が立っていて、木柱で囲まれお茶の古木があった。今ではこの古内地区は奥久慈と猿島と並んでお茶の茨城の三大銘茶産地の一つになっているが、復庵禅師が中国から持ち帰った実が育ったもので、古内茶の一番先祖になる木とのことだが、意外と小ぶりなのに驚かされた。
 その近くに、延命地蔵が祀ってあり、先週の房総アルプスの時にバスの運転手さんに飲ませて貰った「延名水」を思い出しながら、元気に長生きをお願いした。
(E古内茶の母木「初音」)
(D清音寺の延命地蔵)

E小坂神社
 R61を更に戻り、水戸レイクスGCの手前の信号で左折して小坂地区に入り、更に狭い枝道を入っていくと小坂神社があり、拝殿脇に石柱で囲まれた大きな松の木の切株があり、これが「茨城県自然紀行」に大きく書かれている笠懸の松で、脇に消えかけた説明板が立っていた。
     茨城の指定天然記念物
     名称 笠懸の松
     幹囲 五米五〇糎
     樹高 五十米
     指定年月日 昭和三十七年二月二十八日
     所有者 宗教法人 小坂神社
     沿 革
    太古手力男の命この地に憩い傍らの松に笠を掛けたことから「太古手力男の命笠懸の松」と称せられた。爾来星霜移りて幾百千年松は遂に枯死してしまった。後冷泉天皇の御代源頼義等が前九年の役に命を受けて安部氏追討の途笠宮神社に奉塞し戦勝の祈願を込められ勇躍境にいり大いに戦果をあげて凱旋のみぎり謹んでこれを奉告して久しくこのまゝになっていた松の枯木の側に新に苗を植えられたのがこの大樹であると言い傅えられる。
     昭和五十四年六月一日設置   飯田二郎 書
(E小坂神社拝殿)
(E県指定天然記念物:笠懸の松)

 笠懸の松の前には町指定文化財「神像」の説明板が立っていたのだが、神像については「茨城県自然紀行」に何の記述もなかったので、てっきり笠懸の松の説明板だと思い込んで読みもしないで写真を撮るだけにしていた。貴重な神像がどこに祀られていたのか分からないが、これを拝むことが出来なかったのは残念。
(E小坂神社の神像の説明板)

 お目当ての文化財を見学し抵当にウオーキングもして、充実した気分になって帰路につき、途中常陸太田の直販店で買い物をして我家に帰ってきた。




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