C46.竪破山

1.動 機
 町内のKoさんと久し振りに山歩きをすることになり、Koさんが「W11.奇石の山・竪破山(孫との登山No.6)」を読んだことがあり、面白そうなので登ってみたいとのご要望だったので、同じコースで竪破山を案内することになった。和子も久し振りにおしゃべりしながらの山歩きが出来て嬉しそうだった。

2.データ
a)山域:竪破山(658)
b)登山日:2015/04/19(日)曇
c)コースタイム:森山9:00 = 9:45竪破山駐車場9:55 ---- 10:50黒前神社下社10:55 ---- 10:00黒前神社上社 ---- 11:05竪破山山頂11:20 ---- 11:25胎内石11:30 ---- 11:45太刀割石11:55 ---- 12:15神楽石 ---- 12:30峠(昼食)13:05---- 13:35奈々久良滝14:00 ---- 13:50峠14:00---- 14:15竪破山駐車場14:05 = 15:00森山
d)同行者:Koさん、和子
e)地形図:1/25000 「竪破山」
(竪破山歩行ルート)
(竪破山歩行ルート)

3.山行記録
 我家の車に三人乗り合わせて9時に出発、久し振りなので道順が定かでないがカーナビを頼りに1時間ほどで竪破山登山口の駐車場に到着、二人のご婦人のおしゃべりで我が家の車としては珍しく賑やかな車中であった。

 駐車場には日立市の堅破山観光案内板があり、次のような説明が書いてあった。
    ・花園・花貫県立自然公園内 堅破山(たつわれさん)
    ・標高658メートル
    ・茨城県多賀郡十王町大字黒坂
    堅破山のいわれ:寛治元年(1087年)八幡太郎義家が奥州遠征の途中黒崎神社で一夜戦勝を祈ったところ神様が、夢に現れ一振りの刀を授けた。
    この刀で山中にある大石を斬りつけたところ真っ二つに割れ、この石が太刀割石を呼ばれ、山の名もそれが転化し、堅破山となったと言い伝えられる。
    また、「常陸国風土記」黒坂命が蝦夷を平定するため、「茨刺」(うばら)で穴を塞ぎ、敵を攻め滅ぼしたことにちなんで、「茨城」の地名が起こったとされている。
 その他に、黒前神社のいわれ、展望台と堅破山の名勝 @烏帽子石 A畳石 B太刀割石 C神楽石 D甲石 E舟石 F胎内石 G弁天池 H仁王門 の説明文がついていた。この説明文を以下それぞれの写真のところに添付する。

 駐車場からすぐのところに、直進「奈々久良の滝まで1300m」、右分岐「黒前神社1080m」の道標があり、右の黒前神社へ向かう。
(案内図)
(登山道入口)
 杉林の中、何回か上りと下りに別れる緩やかな道を5分も登っていくと、不動石が現れた。横長の大石の真ん中付近が黒くなっていて水が流れている。涙石とでも名付けたい風情、以前はなかったと思いながら石の上を見ると、お不動さんの石碑の下にパイプがのぞいていて、そこからちょろちょろ水が流れ出ていた。登山道を登って行くとずっと上の方に裸になっているパイプが現れてきて、これで水が引かれているようだった。
 さらに5分も登っていくと烏帽子が見えてくる。
    @烏帽子石:八幡太郎義家が堅破山の神霊に参拝したときにかぶっていた烏帽子に似ていたことから名付けられた。
(不動石)
(烏帽子石)
 少し登ると、道の左に手形石が転がっている。横面にその気で見れば手の平の形に見える跡がったが、これが八幡太郎の手形だとすると随分と大きな人だったらしい。
 その先で左下を覗くと畳石が見え、道沿いの看板に、登山口の説明板よりも詳しく下記説明があった。
    (横8m×厚さ2.46m)畳を積み重ねたように大きな石が4段に裂けるように割れています。
    八幡太郎源義家が腰をおろして休んだので「腰掛け畳石」と呼ばれたことに由来しています。後に、堅破山で修行をしていた修験僧が座禅をした石とも言われています。
(手形石)
(畳石)
 次には雷杉が現れ、雷で咲かれた幹に取り付けられた看板には
    この杉は、昭和30年代に落雷を受け、木の先端から根元まで稲光が走り、ふたつに割けました。片方が残り、その傷跡を包み込むように新しい樹皮が覆っています。
 雷杉のすぐ先に炭焼窯跡があり、青いビニルシートで覆われていた。
(雷杉)
(炭焼窯跡)
 その先、左下に小さな池があり、その畔に小さな祠と弁天池の看板があった。
    G弁天池:水源は池の上台に繁茂するブナの原生林といわれ、標高5百メートルの高所に湧き出た水とされている。池の側には弁天社が祀ってある。
 弁天池の向かいから右に登る階段が始まり、石の鳥居の向こうに仁王門が建っている。
(弁天池)
(鳥居と仁王門)
 仁王門の正面側はガラスが光ってよく見えなかったが、とても仁王様とは見えない極彩色の像が祀ってあった。裏側にも部屋があり、暗い部屋を小さな窓から覗くと仁王様らしき木像があった。目ではよく見えなかったが、カメラにははっきりとした像が写っていた。
    H仁王門:門前には、仁王様の姿がなくて左大臣の木像があります。これは、仏教を抑圧する「廃仏毀釈」の中にあって仁王様を守ろう、後ろに隠して密閉し、表には右大臣、左大臣の木像を安置して、随神門と名前を変え、門前に石の鳥居を建てて神社形式にするという苦肉の策できりぬけ現存しています。
(仁王門裏右側の木像)
(仁王門裏左側の木像)
 仁王門を潜って山道を登ると黒前神社の下社があり、お賽銭をあげてお参りした。
    黒前神社のいわれ:崇神天皇の時代、多歌群の角枯の山(現在の堅破山)は、戦勝の地として知られ、(クロサカノミコト)が蝦夷征伐の凱旋の途中、この山をわざわざ訪ね戦勝祈願をしており、平定後、そのお礼参りのために立ち寄り、この時黒坂命は病気にかかり亡くなったとされている。角枯の山は黒前の山と名付けられ、現在、この堅破山には黒坂命が祀られている。
 その前庭に甲石と舟石とが並んでいた。
    D甲石:「堅破和光石」といって、薬師如来が隠されている石として信仰され正面に石をくりぬいた祠があり、その中に薬師如来の12神将像(現在は6体)が祀られている。「堅破山」の名に由来した石である。
    E舟石:舟形をしていることから名付けられた。
(黒前神社下社)
(舟石・甲石)
 下社から本社への石段は狭くて登りづらい。200段近い石段を「歩きにくいね」とぶつぶつ言いながら登って、本社にもお参りしてから右手の山頂に向かう。
 堅破山山頂にはらせん階段の付いたい展望台があるが、今日は霞がかって遠望が利かない。八溝山がやっと見えていた。
    展望台:堅破山の頂上、標高658.2mにあり、晴天の日には富士山を見ることもできる。前方の山並を越えて太平洋が一望でき、ここから見る日の出の景観には素晴らしいものがある。遠くの福島県の小名浜海岸、常陸神峰山、大煙突、常陸太田の真弓山、大洗夏美の海岸等、遠望できる。
(黒前神社への石段)
(山頂展望台)
 堅破山山頂標の前で記念写真を撮って、その先の胎内岩に下って行った。大きな岩の重なりのような胎内石の隙間を覗いてみるが、先の方は狭くてとても潜れそうになかった。
    F胎内石:黒坂命が陸奥遠征の帰路、山の麓で疲れていた体を休めていた時、一人の童子が馬を引いて通りかかり、あまりにも疲労した様子の命を見て、その馬の背に乗せ、急坂の山肌を一気に駆け上がり、この岩窟に命を休ませたといわれている。
(竪破山山頂)
(胎内石)
 胎内石から山頂に戻り、歩きづらい石段を避けて本社手前からの山道を歩いて下社に下り、太刀割石に向かった。堅破山で一番の見もの、太刀で一刀両断に切り裂いたような形の二つの大岩を眺めてKoさんもご満悦。
    B太刀割石:八幡太郎義家が、陸奥の蝦夷の乱を鎮めるため、堅破山に登り戦勝祈願をした折り、太刀の前庭に陣を引いて野宿した。義家は深い眠りの中で「黒坂命」と出合い、目が覚めると、一振りの黄金づくりの刀があった。その刀を振り下ろすと大石は、びしっびしっと不気味な音を発し真っ二つに割れた。一説にはこのことにより、「堅破」の名が起こったともされている。大きさは7m×6m、周囲約20m
 次の軍配石は平らな変哲もない石。
(太刀割石)
(軍配石)
 神楽石のところでは、この岩の上で神楽が舞えるかなと言いながら周りを歩いてみたが、説明板でもこの上で舞をしたとは書いてなかった。
    C神楽石:「堅破山絵図」(元禄4年)では「まいまい石」といわれていた。堅破山の神霊が浜降りの時、折橋の氏子に神輿をここで渡し、一休みをしながら、お神楽を奏し、神楽舞をしたといわれている。
 急坂を下って峠で弁当を広げて一休み。ゆっくり休んでから奈々久良滝まで下ってみた。滝の周りは除草など綺麗に整備されていて、水量は多くはなかったが、それなりに見られる滝だった。
(神楽石)
(奈々久良滝)
 奈々久良滝から峠まで登り返し、駐車場まで緩やかに下って、今日の6kmほどの竪破山ウオーキングはお終い。
 車に乗りこんだら雨が突然パラパラと降りだした。危うくセーフだったが、我家に干した洗濯物が気になってそのまま一気に森山まで走った。道中、車の中は明るい笑いが絶えず、雨は降ったり止んだり、我家に帰り着いて洗濯物を取りこんだらまた降り出した。ラッキーで楽しい一日でした。




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