C53.第6回水戸八景(山寺晩鐘・太田落雁)

1.動 機
 新聞に「第6回水戸八景ウオーク」の案内が出ていて、他の山行と天秤にかけながら考えていたら、幹事の横山さんから電話があり「水戸八景ウオークは今回が最後です」とのこと。このウオークは何回も繰り返し行われるのだろうと思って他の計画と迷っていたのだが、今回が最後だと聞いて即参加に決定した。3年前にこの会の「第3回水戸八景ウオーク:水門帰帆・巌船夕照・広浦秋月」に参加して、時速5kmの快速に疲れながらも各名所で専門家による説明があって充実した気分になったのを覚えている。今回は常陸太田のパルテイホールから那珂市の一ノ関親水公園までバスで移動し、ここから常陸太田まで18kmのロングコースのウオーキング、相変わらずの快速には少々参ったが、色々珍しい名勝を案内して頂いて充実した面白い一日になりました。

 2.データ
a)山域:山寺晩鐘・太田落雁
b)登山日:2015/5/17(日)晴
c)コースタイム:
    日立自宅8:00 = 8:20パルテイホール8:35 =(バス)= 8:55一ノ関親水公園9:10 ---- 10:00ビール工場10:15 ---- 10:35阿弥陀寺10:45 ---- 10:45額田城跡 ---- 10:55鈴木家住宅11:15 ---- 11:30額田神社11:40 ---- 11:55防人の碑(昼食)12:45 ---- 13:00幸久公民館13:10 ---- 13:30坊扇歌の碑13:35 ---- 14:15山吹運動公園 ---- 14:20山寺晩鐘 14:30---- 14:35雪村の碑14:40 ---- 15:00若宮八幡宮15:10 ---- 15:25太田落雁13:35 ---- 15:40パルテイホール15:55 = 16:20日立自宅
(第六回水戸八景の歩行軌跡)
(第六回水戸八景の歩行軌跡の標高差)
d)同行者:ウオーク参加者53名、和子
e)地形図:1/25000 「常陸太田」「常陸久慈」

3.山行記録
 当日8時に我家を発車したが今日は日曜日、渋滞はなくて集合時間の8時半に十分に間に合った。幹事さんや会長さんの挨拶、説明者やリーダの紹介があって、大型バスに乗り込んでウオーキング出発地点の那珂市の一ノ関親水公園に向かう。この会のウオーキングは好評で参加者が55名と多く、まごまごしている我家は補助席に座ることになったが、乗車時間は20分ほどなのでなんてことはない。
(常陸太田パルテイホールに集合)
(バスで移動)
 茅葺屋根の曲り屋や白鳥が泳ぐ溜池のある一ノ関親水公園は、水戸アルパインクラブの総会が行われる那珂市中央公民館前にある。
 公園の広場で簡単な準備運動をして歩き始めた。
(一ノ関親水公園)
(準備運動)
 歩く道は昔の太田街道とのことで、今は国道349になった部分が多いが歴史の道である。
(那珂市役所前通過)
(R349)
 水郡線の踏切りを渡り常磐道を潜り、車道沿いのウオーキングに飽き飽きしてきたころ、左手にいくつもタンクが立っているビール工場に到着した。
 今日は日曜日なので工場はお休み、工場内を見学することは出来なかったが、可愛いお嬢さんが写真パネルを持って、ビールの製造工程を丁寧に説明してくれた。美味しい味が評判で輸出も多くされており、近くに日本酒の工場もあるとのこと。
(ビール工場へ)
(工程説明)
 長い車道歩きが続くが、道傍にはヤマボウシやレンゲなどたくさんの花が見られ、田圃にはシラサギの姿などもあって目を慰めてくれた。
(ヤマボウシ)
(シラサギ)
 間もなく阿弥陀寺に到着。親鸞上人ゆかりのお寺で本堂脇には上人の像も立っている。シダレザクラが有名で4月2日に満開のシダレザクラを見たばかりだが、今はすっかり葉桜になっている。
(シダレザクラの阿弥陀寺)
(親鸞聖人像)
 この阿弥陀寺の墓地には、ここ額田村の鈴木家に嫁いだ黄門様の養女の万姫様のお墓があり案内された。「万姫の墓」というので若死にされたのかと思ったら、没87才とのこと。
 阿弥陀寺の奥には「額田城跡」があるが、今回はその分かれ道で説明を受けながら、遠くからその山容を眺めるだけで通過。
(万姫の墓)
(額田城址の説明)
 阿弥陀寺墓地からすぐのところに県指定文化財「鈴木家住宅」をあった。お庭には根回り5m、樹高10mの樹齢300年といわれる、瘤だらけのモチノキの古木が2本立っていた。一本は落雷に遭って、幹は皮だけになっていたが、それでも上には立派に葉を鬱蒼と茂らせていた。
(鈴木家住宅)
(樹令300年のモチノキ、二株)
  古民家の中に上がることができ、管理者のご婦人が身振り手真似、雄弁に説明された。中身は記憶できなかったが、那珂市HPを引用すれば
    鈴木家は、水戸藩時代庄屋を務め、徳川光圀の娘を嫁に迎えたほどの旧家であり、光圀が西山荘への往復途中立ち寄り、その宿泊にも用いたとされる書院がある。書院は主屋などとは別に離れ座敷として建っていて、貞享4年(1687年)光圀が宿泊するために建てられたと伝えられる。
    屋根は寄棟造・茅葺で、木舞裏には化粧垂木を用い、3面に拭い板の槫縁を巡らす。縁の板は奥の間の前が特に古い。内部は8畳2室で、敷居の真下、縁板との間に切目長押に釘隠しの金具を打ち、竿縁天井を張る。ただし、江戸後期の数寄屋造りの座敷と違って、面皮付きの内法長押や竿縁に多少野性味があり、建築年代の古さが感じ取れる。両室境には格式ある笈欄間を入れ、奥の間背面には右側に床の間と左側に押入を並べ、脇に平書院を設ける。書院の流水に浮かぶ花をあしらった板欄間は注目される。
(熱弁)
(室内装飾)
 次は額田小学校の先に額田神社があった。 長い参道には、杉木立の中に、椿、桜、樫、銀杏、榊の木の他、様々な樹木がたち並んでいた。
 縁起は神社のHPによれば
    鹿嶋八幡神社は、地域住民の氏神様として古くから親しまれ愛されてきました。鹿嶋神と八幡神の二大神を奉っているためこの名称が授けられました。地元では古くから額田神社と呼ばれております。
    @鹿嶋宮は、西暦八〇六年、五一代平城天皇の時に御祭神:武甕雷男神(たけみかずちのみこと)を奉遷後、後世、佐竹昌義が本殿を造営されました。
    A八幡宮の御祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)です。
    八幡宮は、康平6年8月 西暦1063年御冷泉天皇の時、源頼義が奥州で前九年の役を平定し帰京の途中、西馬場の地に勧請して戦勝を謝し、永保元年 西暦1081年には源義家が境内や参道を修造しました。
    後世、佐竹義直により再建されました。
    江戸時代に入り、慶安元年(1648年)徳川将軍家光公より鹿嶋宮にご朱印地15石、八幡宮には20石が授けられました。
    また、元禄7年(1694年)徳川光圀公が八幡宮と鹿嶋宮を合祀し社殿を改築し額田神宮の称を承り、国家安泰・五穀豊穣を祈願参拝されました。
    又、神社の扁額は、水戸藩学者:会澤正志斎の筆で「額田神宮」と記され、明治元年(1868年)6月に奉納されたものです。)
    のちに、茨城県より村社として定められ名称も鹿嶋八幡神社と改められ、茨城県の特別神社にも指定されています。
 お祭りも盛んなようで、神輿倉には金ぴかの御神輿が見えていた。
(額田神社参道入口)
(額田神社鳥居)

 やがて久慈川を渡ることになったが、これにかかる幸久大橋は長さ1100m以上もある長大な橋、県内2位の長さとのこと。私たちが歩く歩道とR349の車道と水郡線鉄橋の三本が平行に走っている。真ん中の車道は老朽化のため通行止めになっていた。
(幸久大橋歩道)
(幸久大橋車道(旧349)は通行止め)
 長い橋を渡ったところがロードパークのようになっていて、ここに久慈川改修記念碑と防人の歌碑が立っていた。
 久慈川改修記念碑の最上部には「窮無澤恵」の4文字があり、当時の内閣総理大臣岸信介の書によるものだとのこと。碑文は読めないので説明看板の文字を写す。
    久慈川の水害対策は地元住民の悲願でした。明治以降昭和二十年代まで三十四回の大洪水や風水害が記録されている。
    昭和に入り、幸久村長の森山左重氏等を中心にして、久慈川の全面改修運動を展開し、久慈川改修期成同盟会が六七ヶ村の加盟のもとに結成された。
    工事が本格化したのは終戦後の昭和二十三年から二十六年には、久慈川下流の洪水の恐れはほとんどなくなっている。
                        上河合町会
 防人の歌碑には久慈郡出身の防人である丸子部佐壮が詠んだ歌が刻まれていた。
    久慈川は 幸くあり待て 潮舟に ま梶しじ貫き 我は帰り来む
    (久慈川よ,清い流れのままで変わらず待っていてくれ,私は潮舟に梶をいっぱい通し,急いで帰ってこよう)
 歌碑の後には細くて背の高い自然石の碑が立っていて、この碑を建てた人の息子さんがいろいろと謂れを説明された。
幸久鉄橋)
(防人の碑)
 防人の碑の広場に座り込んで昼食をとって、少し歩いた先の幸久公民館に立ち寄ってトイレを使わせてもらった。
 公民館を出ると、田園風景の中の農道を歩いて行く。見渡す限り田植えが終わったばかりの田圃が広がり、その中に立派な農道が真直ぐに伸びていて、高鈴山を真正面に見ながらの気持ちのいいお散歩になった。
(幸久公民館)
(真直ぐな田圃道)
 農道から旧R349に戻って少し歩いて行くと、右手に都都逸坊扇歌の碑が立っていた。専門家による説明が行われたが、傍に立っていた説明板によれば
    都都逸の創始者都々逸坊扇歌は、文化元年(1804)医者岡玄策の二男として、常陸太田市磯部に誕生、幼名を子之松、のちに福次郎と改めた。幼少の折、病により失明同様となったが、芸の道を志し、30歳のとき江戸に出て、船遊亭扇橋の弟子となった。その後、寄席芸人としての修行が続き、天保9年(1838)一枚看板をゆるされ、当時流行していた「よしこの節」「いたこ節」などを工夫して、新しく「都々逸節」を作り都々一坊扇歌と名のった。
     扇歌は、講座にあって聴衆からのナゾかけを即座に解いてしまう頭の回転の速さが、江戸庶民の評判になったというが、当時の政治や社会を批判したため、江戸追放の身となった。その発端となったのは、「上は金 下は杭なし 吾妻橋」の一句であった。
     江戸を追放された扇歌は、姉の嫁ぎ先府中香丸町の酒井長五郎の旅宿に身を寄せ嘉永5年(1852)48歳で没した。
     昭和10年、都々一坊扇歌を記念し、町内有志の呼びかけにより扇歌堂が建立された。
 坊扇歌の碑の説明を聞いてから、旧R349を北上して佐竹高校入口交差点を左折すると立派な造りの地蔵堂が建っていて、鶴提地蔵堂の扁額がかかっていた。写真だけ撮って通り過ぎたが、帰宅後NETで調べると、御贔屓の黄門様に縁がある地蔵堂らしかった。
     水戸の黄門様が西山荘に隠居されていた頃の話です。
    むかしの磯部たんぼのあたりには鶴が沢山飛んでいました。黄門様は鷹を使ってその鶴を捕まえることを楽しみにしていました。
    ある日のこと、黄門様は磯部宿の中ほどにある延命地蔵さんの前で休んでいました。すると一羽の鶴が舞い降りて、しきりに何かを訴えているように見えました。「仲間の鶴たちが鷹に捕まるのを見て、命乞いに来たに相違ない。」黄門様は大層哀れに感じました。そこで、「今まで殺した鶴の霊を慰めよ。そして今後は誰も鶴を捕まえてはならぬ。」と命令を出しました。村人たちも千羽鶴を折ってお堂に下げ、ねんごろに鶴を供養しました。それから、この延命地蔵さんを鶴提地藏さんんと呼ぶようになったそうです。
    黄門様は、「水戸に移して、もっと大事にせよ。」とお命じになりました。こうして水戸に持っていって立派なお堂を建てて、お地蔵さんをお納めしました。しかし、どういうわけか、いくら南向きにおいても、一晩のうちに北向きになってしまいます。それに、耳をすますと、「磯部恋し、磯部恋し、。」とつぶやく声もかすかに聴こえてくるのです。お地蔵さんがあまりにも磯部を懐かしがることを知った黄門様は、不憫に思い、家来に命じて磯部に持ち帰らせたということです。
(都々逸坊扇歌の碑)
(鶴提地蔵堂)
 鶴提地蔵堂を過ぎて民家の花々を愛でながら歩いて行くと、水郡線の踏切りを過ぎて右に曲がったところに坊扇歌の父、岡玄作の墓の案内板が見えた。
 佐竹高校前を通って更に太田市街に近づくと、左手に山吹運動公園が見えてきて、リーダはその中の道を進んでいく。
(岡玄作の墓)
(山吹運動公園)
 黄色い菖蒲の花が咲く池の畔を通ると丘に登る階段があり、登り口に「山寺晩鐘の碑」の案内板が立っていた。息を切らせながらこれを登っていくと、見覚えのある「山寺晩鐘」の碑が立っており、その先には西山研修所の建物も見えていた。このあたりは4年前の「Y32.常陸太田・歴史の里ウオーク」の時に歩いたことがある。
 案内板の前で専門家による説明があったが、由緒版には
    この地は、旧久昌寺の三昧堂檀林(僧侶の学校)のあった所で、天和三年(1683)に水戸第二代藩主徳川光圀卿が、檀林を開かれてから天保一四年(1843)に廃されるまで160年間にわたって、全国から学僧が集りその盛時には数千人の学僧が修行に励んだといわれている。天保四年(1833)水戸第九代藩主徳川斉昭卿(烈公)は水戸八景のひとつとしてこの地を選んだ。当時、周囲の寺々より打出す鐘の音を、松籟[しょうらい]と共に聞き、「山寺の晩鐘幽壑に響き」と詩に詠み、「山寺の晩鐘」と命名した。 斉昭卿は、水戸藩子弟たちを、八景勝地約八十キロを一日に一巡させ、自然への親しみと心身の鍛練をさせることを計った。
     つくつくと聞くにつけても山寺の 霜夜の鐘の音ぞ寂しき  斉昭
 説明者はこの研修所に何度も宿泊したことがあるが、お寺の鐘の音を聞いたことは一度もないとのこと。地形も昔とは少し変わったのだろうか。
(山寺晩鐘)
(西山研修所)
 研修所前を通過して丘を少し下って登り返すと、雪村の碑がある。専門家による面白い説明があったが、常陸太田市のHPには
    雪村周継は,室町時代末期に活躍した水墨画家です。
    佐竹氏一族の出身で,雪舟に師事した後には独自の画風を確立し,数多くの優れた作品を世に送り出しました。茨城県の郷土工芸品である「雪村うちわ」は,遍歴の途中にあった雪村が,瑞龍町の耕山寺に滞在していた時に創始したものとも言われています。
    西山研修所の入口にあるこの石碑は,昭和19(1944)年に雪村顕彰会のメンバーによって建立されたもので,刻まれている文字は横山大観が揮毫しています。
 もともとの由来記は文字が消えてしまって読めなくなっていて、最近復元された碑が立っていた。
(雪村の碑)
(雪村の碑由来記)
 山寺晩鐘の丘を一旦下って、太田二高前から右折して太田市街の石畳みの道を登っていって市中を通るR293沿いを歩いて行く。太田市の街並みは丘の稜線上に伸びている。
 国道が曲る角のところに若宮八幡宮の十段ほどの石段と鳥居があった。
(常陸太田市市街)
(若宮八幡宮鳥居)
 境内には県指定文化財の樹令640年のケヤキなど6本のケヤキの巨木が立ち並んでいる情景は荘厳。我家から近い常陸太田の市街にこんな立派な神社があるとは知らなかったが、謂れは
     応永年間(1400年頃)佐竹義仁公が鎌倉鶴岡より居城青龍城(舞鶴城)中に若宮八幡宮・稲荷大明神両社を奉斎し、佐竹氏代々の祈願所であった。当社勧請の折、鶴子なる者供奉して来り数世祭祀を司った。世俗で、居鶴(鎌倉鶴岡)、舞鶴(常州太田)、立鶴(羽州秋田)を三鶴と称す。慶長十四年冬、水戸初代徳川頼房公七歳時病を祈り霊験快癒崇敬厚く圭田を寄進した。元禄五年(1692年)水戸光圀公、命じて太田一郷の鎮守とされた。明治十四年郷社に列す。
     並び祀る太田稲荷神社は、創祀は遠く太田大夫通延が始めてこの地に居城を構えた頃に遡ると考えられ、今から一千年の歴史を閲している。元禄五年春光圀城中に桜花を尋ね、古来より聞こえた稲荷の御神体を拝し感激、幣礼を致す。安永五年京師に上り、神階宣下を蒙る。
     宝永五年(1708年)両社を居城の地より今地に造営奉遷す。斯く由緒深い太田稲荷が百年振りで本殿の復興新築を見、当地方稲荷信仰の中心神社として愈々御神威・霊験あらたかである。
    御祭神:大鷦鷯命(おおささぎのみこと)  仁徳天皇
(大ケヤキ)
(若宮八幡宮拝殿)
 太田落雁は水戸八景の一つであることは知っていたが、今まで訪れた事はなかった。太田市街から狭い脇道に入って東側の斜面に出ると、右手に展望台があり、ここに太田落雁の碑が立っていた。
 自然石の碑に彫られた斉昭の自筆の太田落雁の字は風化で見えにくくなっている。由来書には
     天保4年(1833年)に,水戸9代藩主徳川斉昭(烈公)が,領内の景勝地を巡視して選定されたものである。
     水戸八景設定の大きな目的は,藩内の子弟に八景めぐりをすすめて,自然観賞と身心の鍛練とを図ることにあった。太田落雁は,そのひとつである。阿武隈の連山を背景とした稔りの秋のすばらしい眺めや,雁が刈田におりる情景を公は,
      さして行く 越路の雁の 越えかねて 太田の面に しばしやすらふ
    と詠み,太田落雁と命名された。
     碑の大文字は,烈公の書で,その書体は水戸八分といわれ,「大」は「太」の古字である。
     また,付近に湧井があるが,これはもとの太田御殿の「お茶の水」としても使われ今に伝える名水である。
(太田落雁へ)
(太田落雁の碑)
 太田落雁から少し下って、朝バスで出発したパルテイホオールに到着した。本日の歩行距離は幹事情報では14kmだったが、ポケナビデータでは18km、歩き甲斐がありました。この金砂大田楽研究会首掌の水戸八景ウオークは全90kmを6回に分けて実施されてきたが、私たちは一回分だけで十分に応える。この全行程を一日で歩き通した昔の人の健脚ぶりに恐れ入りました。
 このウオーキング6回全部に参加された方が9名おられて、解散式で紹介され記念品の贈呈が行われたが、みんな明るくてお元気な方ばかり。我が家は私の腰椎骨折で中断し、参加は2回だけだったが、歩き甲斐があって有益な情報も入って面白いウオーキングでした。


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