C61.八重山四島
(石垣島・西表島・由布島・竹富島)
1.動 機
 地元の新聞店と新聞社共同企画の謝恩格安旅行のパンフが送られてきて、その中に「感動の楽園・八重山四島3日間」があった。旅費の安さも魅力だったが、石垣島などの八重山諸島には行ったことがなく、水牛車の写真に魅かれてすぐに参加申し込みした。一番安い6月1日発で申込みしたが、申し込み後沖縄は梅雨に入ったとの情報もあってお天気を心配していたが、幸い旅をしている間だけは雨が降らず、南国情緒一杯の八重山四島を楽しむことができた。

 2.データ
a)山域:石垣島、西表島、由布島、竹富島
b)登山日:2015/6/1(月)〜3(水)
c)日程:
6/1(月):計算センタBS = 水戸IC = 羽田空港 = 石垣空港 = 石垣鍾乳洞 = 石垣市ホテル(泊)
6/2(火):石垣港 = 西表島(仲間川クルーズ・由布島観光) = 竹富島(赤瓦集落・カイジ浜・コンドイビーチ)= 石垣港 = 石垣市ホテル(泊)
6/3(水): ホテル = 川平湾(グラスボート)= 石垣空港 = 羽田空港 = 水戸IC = 計算センタBS
(八重島四島観光ポイント 赤印
d)同行者:ツアー参加者45名(男性14、女性31)、和子
e)地形図:1/50000「石垣島」

3.山行記録
3.1 1日目 移動・石垣島
日立自宅 5:15 = 5:20 計算センタBS = 東海BS = 那珂BS = 勝田BS = 水戸BS = 赤塚BS = 6:45 水戸IC = 6:50 友部PA 6:55 = 7:30 守谷SA 7:45 = 8:50 羽田空港(10:15集合点呼 10:25チェックイン) 11:00 = 14:10 石垣空港 14:40 = 15:05 石垣鍾乳洞 15:50 = 16:10アパホテル17:45 = 18:10 あじ彩(夕食会) 19:15= 19:55 アパホテル(泊)

 茨城県から羽田空港まで送迎バス付で最寄りのバス停で拾ってくれるのも売りの一つ。我家を朝飯をとらないで歩き始め、予定時刻5時30分の10分前にバス停に近づくと、すぐ横をバスが通過するのが見えた。停車したばかりのバスに乗り込むと、ガイドさんに座席を指定される。磯原からやって来たバスは、このあと東海、那珂、勝田、水戸、赤塚と数人づつを乗せて、水戸ICで常磐道に乗り、友部PAで運転手さんの休憩を兼ねたトイレ休憩。ここからも乗合タクシで送られてきた6名の人が乗りこんできた。
 バスのガイドさんは羽田までを案内するだけで、羽田空港では別のガイドさんがチェックインまでを手伝ってくれ、石垣空港までの空路は直行便で、向こうに着いてから今回旅行のメインガイドさんが迎えてくれるとのこと。羽田まで別便で集まる人も数人いて、今回の参加者は総勢47名になるとのこと。
 友部PAの先で筑波山から愛宕山、難台山、吾国山、加賀田山あたりの山がくっきりと見えてきた。天気予報では今日は余りいい天気ではなかったのにラッキー!この先のお天気も期待させた。
(筑波山見えた!)
 守谷SAで休憩後、首都高に入ると渋滞は思ったよりも酷くなくて、バスに乗っていてもいらいらしないですんだ。
(首都高)
 羽田空港に着いたのは9時前、集合時間よりも1時間半も早かった。バスのガイドさんに案内されて指定場所に行ったが、空港担当のガイドさんはまだ来ていない。集合時間に再度集まるように指示されて後は自由時間。久し振りの羽田空港が珍しくて、展望台に上がってみたり、機内で食べる弁当を買ったりして時間を潰した。
 集合時間に再集合すると、空港担当ガイドさんは受付テーブルにちょこんと座っていたので、書面で指定されていた時計塔の下まで出てきてもらう。47名全員の顔が揃ったことを確認し、めいめいに往復の搭乗券を手渡しし、石垣直行便の乗り場など羽田空港内での注意事項、石垣空港で現地のガイドさんが待っている場所などを説明して、各自チェックイン、空港担当のガイドさんの仕事はここまで。
 飛行機に乗り込むとほぼ満席状態、座席は丁度翼の真上、眺めが良くない。東京湾の上は青空だったが、西の方が一面雲に覆われていた。それでも、前方の雲の間に富士山がわずかに姿を現わしてくれた。翼の前方にあるときは部分的にしか見えなかった富士山が、通り過ぎて翼の後になると全体が見えるようになっていた。
(羽田空港)
(富士山見えた!)
 その後、九州あたりまでずーっと厚い雲の上の飛行、何も見えないのでパズルなどしながら時間を潰す。初めてなのに、八重山諸島の情報誌を買うのを忘れていた。沖縄本島近くまで来ると島影が見えるようになってきたが、翼の真上で視界が制限されていた所為もあるが、地図がないので場所の特定ができなかった。反省!
 そのうち、石垣空港に着陸。空には一部青空も見えている。飛行機を下りると、外はむっとした感じで蒸し暑く、ここは沖縄だと実感させられた。いかにも沖縄を感じさせる顔つきの元気なお嬢さんガイドが待っていた。このお嬢さんは話し上手でバスの中でもしゃべりっぱなし、巧みな話術でみんなを笑わせながら、四島めぐりの間ずっと一行の面倒を良く見てくれた。ガイド嬢に案内されて到着ロビーに向かうと、通路脇にはヤシの木の列植やアリアケカズラ(地方名アラマンタ)の黄色い花の植え込みなどが続いて南国情緒一杯。ロビーに入って人員確認後すぐにバスに案内された。バスは47人で丁度満席。みんなウキウキ顔。

(石垣島空港)

(ヤシの木)
(明るいガイドさん)
(アリアケカズラ=アラマンタ)
 バスは海辺に道や街路樹が整然と並んだ気持ちの良い道を走っていき、20分ほどで石垣市の市街が見えてくる。以前は市街のすぐ傍に小さな空港があったが、拡充するために2年前に今の場所に新空港が建設されたとのこと。
 石垣市街入口で北に向かい、最初の観光場所の石垣鍾乳洞に案内された。駐車場すぐ前に沖縄風情を感じさせる石垣島物産館の建物があり、鍾乳洞入口はそのすぐ手前を左手に入ったところにあった。出口は物産館の売店の中に通じているとのこと。ガイド嬢さんから入場券を貰って後は各自勝手に鍾乳洞観光。貰った入場券を見せながら沖縄風の入口門を通過してから、石段で少し下って鍾乳洞の中に入る。外ほど熱くはないが涼しいというほどではない。この鍾乳洞は全長3.2kmのうち660mが遊歩道として整備されているという。
(石垣島物産館)
(鍾乳洞入口)
 内部は想像以上に広く、色々な形をした無数の鍾乳石群が垂れ下がり、あるいは立ち上がり、素晴らしい巨大な地底空間になっていた。通路が整備され、適度に照明もついていて安心して歩ける。順路表示に従って歩いて行く。
(鍾乳洞周遊)
 今までに見たどこの鍾乳洞よりも規模も大きく色合いも素晴らしいように思った。感動して二人で撮り捲ったショットを何枚かご紹介。




 ゆっくりと鍾乳洞を一回りしてから、バスに乗って石垣市内のホテルに入る。ホテルは徹底的に簡素化されたつくりで、室内にはバストイレ、ツインベッド、クーラ、テレビなど最小限のものはあって清潔さもに保たれているが、電話はまだしもクローゼットとテーブルがないのは少々不満だった。
 八重島舞踊が見られる市内のレストランにバスで移動して夕食会。入口では八重島衣装を着た可愛いお嬢さん(青年?)が案内役をしていた。訊くと、ただ今見習い中でまだ舞台には出られないとのこと。
(ホテル2泊)
(バス一行が抜けた後)
 料理は琉香豚のロース焼肉がメインの郷土料理、沖縄の地酒オリオン生ビールを飲みながら美味しく頂いた。
 食事が終わった頃合いから、舞台で八重山舞踊ショーが始まった。5人の役者が民謡を口ずさみながら色々な踊りを見せてくれた。
(夕食頂きながら)
(沖縄踊り)
 最後にオールキャスト総出の踊りが終わると、役者は舞台をおりて通路で愛嬌を振りまき始めたが、会場から観光客が3人ほど舞台に上がって調べに合わせて踊り始め、賑やかにフィナーレを迎えた。
(オールキャスト)
(飛び入り)
 八重島の料理と踊りに満足してホテルに戻り、綺麗だった鍾乳洞の光景を思い出しながら眠りについた。

3.2 2日目 西表島・由布島・竹富島
アパホテル 7:40 ---- 7:50 石垣港 8:15 = 9:00 西表島大原港 9:15 = 仲間川クルーズ = 10:10 大富 10:15 = 10:30 美原 10:40 =(水牛車)= 10:55 由布島(11:10(昼食)11:40) 12:40 =(水牛車)= 12:55 美原 = 13:15 大原港 13:25 = 14:10 竹富島港 14:20 = 14:25 赤瓦集落水牛車 14:50 = 15:10 カイジ浜 15:20 = 15:30 コンドイビーチ 15:35 = 15:50 竹富島港 16:05 = 16:15 石垣港 16:20 ---- 16:50 アパホテル 18:30 ---- (神社巡り) ---- 19:20 レストラン 20:00 ---- 20:15 アパホテル (泊)

 通常よりも早めに開いた朝食会場でバイキングの朝食をとり、出発時間まで時間があるので屋上に上がって石垣市を展望してみようと思ったが、上に上がる階段がない。廊下の端の締切になった扉のガラス窓からの眺めで満足するしかなかった。
 石垣市は市とは言っても鄙びたところで、古い民家がひしめく昔の街並みが残っているのだろうと想像していたので、こんなに近代的なビルが立ち並ぶ様を眺めて驚いた。不勉強!
(ホテルからの石垣市街展望)
 今日は石垣港の離島ターミナルから高速船に乗って西表島に向かう。ターミナルまで近いのでバスの迎えはなくてみんな揃って歩いていく。
 桟橋近くに石垣島出身の名ボクサー具志堅用高の実物大の像が立っていて、脇に立ってポーズを取ってみる。
(石垣港)
(具志堅用高像)
 西表島行の高速船に乗って、折角なので周りの景色を楽しもうと、500円也を払って2階の展望室に席を取った。
 高速船は船足が速く、すぐに港出口の灯台を通過する。
(出港)
(灯台通過)
 乗船時に貰ったマップ「八重山の島々」を見ながら景色を楽しんだ。最初に見えた竹富島は山がなくて真っ平。船が竹富島の近くを航行したので、波に洗われてできた岸辺の荒々しい岩礁の連なりの迫力を感じることができた。
(竹富島)
 右の小浜島と左の黒島との間を通って西表島に近づいて、左に新城島(バナリ)が見えてくると、西表島と小浜島の間に小さな由布島も見えていた。と思ってシャッタを押したのだが勘違いだったかも。
(西表島と小浜島の間に由布島?)
 石垣港を出てから45分ほどで西表島の大原港(仲間港)に到着した。船から降りると、すぐ近くの岩壁に待機していた仲間川クルーズ船に2班に分かれて乗り込んだ。
(大原港)
(仲間川クルーズ船)
 クルーズ船は河口近くを渡る立派で長い仲間橋の下を通過して仲間川をさかのぼって行く。間もなく両側にジャングルのようなマングローブの林が見えるようになる。後部で船の運転をしている若い女性が色々と説明をしてくれた。
 マングローブは熱帯、亜熱帯地方の海岸、入江、河口泥湿地で、満潮時に海水に浸る場所に生育している樹木類の総称とのこと。仲間川のマングローブは6種類あり、河口から上流に向かってマヤプシギ、ヤエヤマヒルギ、オヒルギが主に分布しているとのこと。中でもオヒルギが一番多くて7割を占めているとのこと。
(マヤプシキの呼吸根)
(ヤエヤマヒルギ)
(マングローブの代表格・オヒルギ)
 説明の合間に「これが仲間川のシジミですよ」と大きな貝をみんなに廻してくれた。ハマグリよりも大きくてみんなびっくり
 右や左にマングローブ、花の咲いている木、パイナップルもどきの実などを見ながら仲間川を30分ほどさかのぼっていくと上流の桟橋が見えてきた。
(巨大シジミ)
(川上の桟橋)
 この桟橋からは、少し奥に立つ巨大な板根を持つサキシマスオウノキを見るための木道が敷かれていた。このサキシマスオウノキは樹令400年、幹回り3.6m、樹高20mの巨木で「森の巨人たち百選」にも選ばれているとのこと。
 遊歩道脇にユウナの花が咲いていてシャッタを押す。ユウナの花は船からも見えていて、最近よくテレビにも出てくる佳子様のお印だとの説明を聞いたのだが、船からでは遠くて花の形までは判らなかったのだ。

(遊歩道)
(ユウナの花)
(サキシマスオウノキの板根)
 サキシマスオウノキを見てから船に戻って、またマングローブを眺めながら仲間川を下り、仲間橋の手前で左岸の大富の船着き場に上がった。
 そこにはカヌー教室が開かれているようで、順番を待つ男女の生徒が列を作っていた。
(仲間橋)
(カヤック)
 船着き場にはバスとガイド嬢さんが待っていて、みんなが乗り込むとバスは南に向かって走り出した。沿道にはサトウキビ畑が広がっていた。
 稲の田圃もあってもう実っていたが、背丈が随分と短い。ここでは稲は2期作で収穫されるが、度々襲ってくる台風で倒れないように短く品種改良された稲だとのこと。
(サトウキビ畑)
(短寸のイネ)
 海岸近くを走ると、引き潮で浜は遠くまで砂地を表していた。
 道路傍に大きな猫の写真看板があり、絶滅危惧種イリオモテヤマネコが車道に飛び出したときに、車で轢かないようドライバーに注意を促す看板だった。
(引き潮の浜)
(イリオモテヤマネコ)

 バスに乗って15分も走ると、由布島入口の看板がある浜に着いた。
 海辺には何台もの水牛車が並んで待機しており、海の向こうすぐ近くに平らな由布島が見えていた。
(由布島入口)
(待機している水牛車)
 由布島へ渡る水牛車に乗ることが今回の楽しみの一つ。15人ほどの乗客が乗り込むと、御者の合図で水牛はゆっくりと歩き始め、海の中へと進んで行った。今は引き潮の時間帯で水位が低いので水牛も楽そうだが、満潮の時には台車の底まで水面が来るらしいので大変だろう。
 中ほどまで来た時に、御者が水牛のお尻を板で隠した。台車を引いている最中に時々おしっこをもよおすとのこと。あちこちから三線の音と沖縄民謡が聞こえてきて、我が御者さんも三線を奏でながら民謡を歌い始めた。「新米なのでまだ沢山は弾けないんです」と謙遜していたが、なかなかいい雰囲気だった。
(水牛車に乗る)
(三線)
 15分ほどで由布島の浜に渡りつくと、水牛は水牛車の向きを西表島方向に方向転換した。良く躾けられている。
 上陸した浜の先に水牛車待合所が建っていて、植物園入口の表示もあった。由布島は島全体が亜熱帯植物園になっている。
(由布島上陸)
(水牛車待合所=植物園入口)
 待合所で待っていた案内人が島の中ほどにあるレストランまで案内してくれ、昼食後は各自自由に島内を歩いて1時間半後にこの待合所まで戻るよう指示される。
 すぐのところに枝を八方に張った大きな木があり、ここで最初の説明が始まった。樹に巻き付いているのはポトスの蔓とのことで、葉っぱの大きさは説明者の顔よりも大きい。葉の形も見慣れたものとは違うが、ところどころに我家で見慣れた大きさの葉も見られた。
 近くに立派な水牛の碑があり、次のような島の生活になくてはならなかった水牛に対する感謝の気持が記されていた。
    由布島を繁栄せし大五郎 花子を祖先とする水牛一家に対し感謝の碑を建立す
       2001年10月
(ポトス)
(水牛之碑)
 この他に記念写真用の実物大の水牛車の模型、丸々と立派なトックリヤシ、ブーゲンビリアのピンクの花、残念ながら休園中の蝶々園、珍鳥バリケンの模型が飾られた休憩舎などを眺めながらレストランに入った。
 広い食堂のテーブルに用意された料理は八重山の郷土料理定食で、「海ぶどう」「じーまみ豆腐」や「黒紫米入り御飯」などの珍味が並んでおり、皆さんと品定めをしながら賑やかに美味しく頂いた。
(バリケンの休憩舎)
(郷土料理)
 昼食が終わってから、ガイドさんから貰った由布島のマップを見ながら二人で島内の遊歩道を一回りした。
 ブーゲンビリアの花やオオタニワタリという大きなシダの葉を見ながら歩いて行くと、山門風の建物がたつ角の脇に「イーストビーチ」の道標があり、「マンタの浜まで1分」とあった。その方向に歩いて行くと由布島小中学校跡の説明板があった。左の門に由布中学校、右の門に由布小学校と書かれた対の門柱の中にトックリヤシの美しい並木があった。今は校舎は残っていないとのことだが、すぐ傍に由布公民館の看板ある古い建物があり、これが学校の建物の一部のようにも見えた。校門脇の説明板には
    昭和23年島分教場が開校。当時の校舎は島の住民による木造かや葺のものでした。幾度も台風による被害に会い建て替えられました。
    昭和26年モルタル瓦葺きの校舎完成。
    昭和34年中学校の校舎完成。
    昭和44年台風エルシーによる高潮で島全体が水没、島ぐるみの移転を決める。
    昭和45年島民の移転にともない閉校。
    現在では当時の校門と校舎の写真だけが残されています。
公民館内には「由布物語」と題した由布島の歴史説明板
    由布島はものもと無人島でした。
    人が移り始めたのは、竹富島、黒島の季節農家が西表島・与那良水田を耕作する際に、 当時、西表島で流行していた「マラリア」を防ぐため、蚊のいない由布島に仮住まいを建てて住んだのが始まりといわれています。
    ■昭和20年: 終戦後より昔から通っていた竹富島、黒島の移住者が由布島を開拓し、農業を営む人が増える。 定住者は増え続け、部落、公民館を形成するまでになった。
    ■昭和23年: 分教場開校 児童生徒12名 先生2名。のちに島小中学校→由布小中学校へと改名。
    ■昭和30年:マラリアの終息で新たな産業(パイナップル・サトウキビ)も生まれ島は活気づいていきました。 経済的にも豊かになった島民は各世帯で水牛を持つようになりました。
    ■昭和33年: 石垣島と由布島を結ぶ定期船(春風丸)が就航。 春風丸は月に4回。 遠浅で港のない由布島は大潮の満潮時には着岸でき、それ以外の時は船を沖に停泊させ、 潮が残っているときは「はしけ」で、潮のないときは水牛車で人や物資を運んでいました。
    ■昭和38年: 由布中学校→西表島大原中学校に統合。
    ■昭和40年: 人口111名 25世帯、 元々、竹富島からの移住者が多かったこともあり、由布島でも「由布種子取り祭」が行われて いました。 島には商店や季節的に食堂や衣類を販売する店ができるほど賑わっていました。
    ■昭和43年: 西表島から電話線がひかれ放送が流されるようになる。
    ■昭和44年9月26日: 大型台風11号(エルシー)による高波で大きな被害を受ける。この惨事により、ほとんどの住民は、台風の恐怖と将来への不安から島を出る決意をしました。
    ■昭和46年8月8日: 由布小学校→西表島古見小学校へ統合。3世帯を残し、由布集落から対岸の美原集落へと移住。 由布集落廃村。
    ■昭和47年:由布島に残った西表正冶おじぃは「南国の楽園」を夢見てこの年から10年に渡ってヤシを植え続ける。
    ■昭和53年:町水道共用。 由布島は1m掘ると真水が出るためそれまでは井戸水を使って生活していました。
    水牛車 ■昭和56年:由布島植物楽園開園。 水牛2頭・水牛車2台。
(小中学校跡)
(公民館)
 その先に由布物語に書いてあった井戸跡があり、井戸の上にあった手押しポンプが昔の私の生家を思い出させた。
 その先には「貝の舘」という小さな博物館のような建物があり、中に入ってみると近海に生息する貝を中心に、熱帯魚や海亀などが綺麗に展示してあった。
(井戸跡)
(貝の舘)
 その先の辻から100mも歩いて行くと遠浅の浜辺に出る。ジュースを売っている茶屋もあり、海の向こうには小浜島の島影が見えていた。砂浜の表面はサンゴのかけらだらけ、綺麗な破片を探してしばらく歩き回った。
 浜沿いの道を北に歩くと大きなマンタを載せた台があり、この浜で時々マンタを見ることができるので「マンタの浜」とも呼ばれるらしい。
(イーストビーチ=マンタの浜)
(マンタのモニュメント)
 ハマユウやツンベルギアなどの花を愛でながら更に北に歩いて行くと「ブーゲンビリアガーデン」の温室があった。中には色々なブーゲンビレアの花が色鮮やかに咲いていた。
 ブーゲンビリアガーデンを出てからは、時間に遅れないようにと琉球イノシシへの分岐に入らないで待合所へと急いだが、途中の分岐から砂浜が見えていたので寄り道してみるとマングローブの群生地だった。手入れされた遊歩道が整備されていた。
(ブーゲンビリアガーデン)
(マングローブ)
 小さな池の畔に大株の黄色いアラマンタの花を眺め、トックリヤシの木の林の中を歩いて待合所に戻った。
(アラマンタ)
(水牛車乗り場へ)
 まだ少し時間があったので、近くの水牛が休んでいるという池を覗いてみた。水牛車御者の青年の言では、運が良ければ生れたばかりの可愛い赤ちゃん水牛が見られることがあるらしいが、実動部隊になりそうな大人の水牛だけが気持ちよさそうに休んでいた。
(水牛の池)
 由布島から再び水牛車に乗って西表島に戻り、バスで大原港に移動、高速船で石垣島の手前の竹富島に上陸した。竹富島港にはマイクロバスが待っていて島内巡りに出発。バスの運転手は慣れたもので、バスガイド兼運転手。ツアーガイドさんも出る幕無し。
 観光センタに入って受付して水牛車に乗る。水牛車は琉球石灰岩の石垣に囲まれた赤瓦屋根と伝統的民家が立ち並ぶ保存地区を一回りした。白い砂を敷き詰めた道、道路の両側や石垣越しに四季を問わず咲く花々も南国特有の雰囲気を醸し出していた。喋りっぱなしの御者さんによれば、年に2度浜から砂を運んで集落の道や民家の庭に敷き詰めたり、建物の建設や建て替えに厳しい制限をもうけたりと、島民の協力によって伝統的風景が守られているとのこと。
(竹富島遊覧バス)
(赤瓦集落巡りは水牛車)
 赤瓦の屋根にシーサーを飾るのは魔除けのためと言われるが、石垣の上には酔っぱらって寝そべっている呑み助シーサもいた。
 この水牛さんは何度も立ち止まってはおしっこをし始めたが、御者はその度にバケツでそれを受けていた。陽射しが熱くて嫌なのか、日陰から日向に出る時は嫌がって立ち止まってしまい、御者さんが鞭で打ってもなかなか動こうとしない。随分怠け者のような水牛さんだったが、何度もある保存地区内の曲がり角を御者に指示されることなく曲がっていくし、長い水牛車の内輪差をちゃんと考えて曲っていくのには感心させられた。センタに戻ってから、この怠け者の水牛さんと並んで、御者さんに記念写真のシャッタを押してもらった。
(呑み助シーサ)
(記念写真)

 バスは次にカイジ浜へ案内してくれた。立札にも「星砂浜」とあり、星砂がよく採れることで有名な所とのこと。手の平を砂に押し付けると、砂に混じって綺麗な色をした小さな星形のものが混じっている。海の眺めも素晴らしいのだが、みんな眺めはそっちのけで砂浜にしゃがみこんで星砂採りに夢中になった。
 浜に立っていた説明板には
     皆治浜は、星砂のある場所として知られています。星砂は、海藻などに付着した有孔虫の遺骸が砂浜に打ち上げられたものです。幸福をもたらすといわれている星砂ですが、島には「海の大蛇に食べられた星の子供の骨が流れついた」という悲しい民話があり、古くから竹富島の人々の間でよく知られていました。
    周囲の海岸線には亜熱帯地方特有の植生が見られ、竹富島の防風、防潮林の役割を果たしています。
(星砂採取に夢中)
(星砂)
 次は少し北に走ったコンドイビーチという浜に案内された。コンドイビーチには立派な「西表石垣国立公園・コンドイビーチ」の看板があり、まぶしいほどの白い砂と透き通った青い海が美しいビーチでだった。遠浅で波が少ないので海水浴には絶好のポイントとのことで、水着姿の外人女性の姿もあった。
(コンドイビーチ入口)
(コンドイビーチ)
 港に帰るバスの車窓から沖縄のお墓「カミヌク(亀甲墓)」が見えた。運転手さんによれば、
    沖縄のお墓カミヌク(亀甲墓)は中国から伝えられた。年に一度は血縁者が各地から広い墓前に集まって、掃除をし、香をたき,泡盛や重箱を供えて,にぎやかに酒を酌み交わす。
 竹富島を去る前に集合写真が撮られた。最前列の真ん中付近に座った和子は、カメラマンに色鮮やかな沖縄衣装を着せられていい記念写真ができました。(集合写真をクリックすると沖縄衣装が現れます)
(亀甲墓)
(集合写真)クリックで夫婦拡大
 竹富港から高速船で石垣港に戻って、オプションの豪華夕食を頼んでいない者はここから自由行動。マップを頼りに市街地を歩いてホテルに戻った。
 途中、昨日のバスの中で説明された730交差点に寄道。交通法規がアメリカ流の日本式に変わった日を記念して建てられた碑と聞いたが、NETによれば
    730とは7月30日を意味しています。その日は、沖縄が本土に復帰して6年後の昭和53年(1978)7月30日で、俗に「ナナ・サン・マル」と呼ばれ、沖縄県下で一斉に交通方法の変更が行なわれました。それまで沖縄県は米国統治の名残が残っており、「人は左、車は右」となっていましたが、その日を境に「人は右、車は左」となりました。
    交通方法が変更される際には、前日の29日午後10時から変更当日の30日午前6時までの間、緊急自動車やバス、タクシーなどの指定車両を除くすべての車両が通行禁止および駐車禁止となり、当日、午前6時を期して消防署のサイレンが鳴りひびくなか、白バイに誘導されたタクシーなどが、これまでの右側通行から一転して左側通行へと移行していきました。
    沿道には、その歴史的瞬間を見ようと人垣ができたほか、変更直後からは、左側通行を初体験しようとするマイカーが繰り出し、思わぬラッシュもみせました。また、心配されていた交通事故は、石垣市では平年並みで、沖縄県全体では、交通方法変更後、その年の年末までの事故は、むしろ減少したとの報告もあります。
    その「ナナ・サン・マル」を記念した「730記念碑」が交差点の側に設置されたのは、同年9月のことです。また、730記念碑の周辺がポケットパークとして新たに整備され「730シィーシィーパーク」(730獅子公園)と命名されたのは、交通方法変更後30周年にあたる平成20年(2008)7月30日のことで、やはり「ナナ・サン・マル」にちなんだ日を選んで小公園の竣工が祝われています。その後、最近では、石垣島を訪れた記念撮影の場所として利用している観光客の姿が目につくようになってきています。
(竹富港)
(730交差点)
 ホテルに戻って風呂に入って汗を流し、帰りに目途を付けていた近くのレストランに行くことにした。マップを見るとホテルの近くに鳥居マークが8個もあって、外はまだ明るいので、夕食前のお散歩に一回りすることにした。
 石垣島の神社は日本の神社よりもずっと地味で簡素で神聖さは感じられなかった。氏子が減っているのか手入れも行き届いていないようで、社が見つからない神社も2社あった。
 一回りした県道沿いに「大浜信泉像」が立っていたが、その時は何者か判らなかった。翌朝バスの中での説明を受けると、大浜信泉さんは石垣島出身で第7代早稲田大学総長になった偉い人とのことで、像の後の建物は記念館だったらしい。
(美崎御嶽)
(大浜信泉像)
 記念像の道向かいのレストランを予定していたのだが、扉は閉まったままで御休みみたい。しかたなく石垣港近くまで歩いて行って、行き当たりばったりのレストランに入った。若い夫婦二人でやっているお店のようだったが、料理の味が良く、乾杯用に頼んだオリオン生ビールがキンキンに冷えていて美味かったのでお代わり、おつまみも追加した。
 機嫌よくホテルへ帰る途中、石垣港近くで雲間に満月が顔を出して明るくなった。明日の空模様も大丈夫だろう。
(夕食)
(石垣港からの満月)

3.3 3日目 石垣島・帰路
アパホテル8:20 = 9:00 川平湾 9:10 ---- 9:15 グラスボート 9:40 ---- 9:45 川平湾P 10:00 = 10:40 石垣空港 12:10 = 14:40 羽田空港 15:20 = 16:35 友部PA 16:55 = 17:05 水戸IC = 水戸BS = 那珂BS = 東海BS = 18:45 計算センタ前BS ---- 18:50 自宅

 今日は旅の最終日、殆どが乗り物の中で運動することがなさそう、朝食後、バスの出発前にホテルの海寄りを歩いてみることにした。
 ホテルのすぐ南側に八島緑地公園があり、その中に立派な尖閣列島開拓記念碑があった。頭に尖閣島の模型が乗っており、碑文には古賀辰四郎とという人物が尖閣列島を開拓したと書いてあったが、碑の建立は平成7年、どうして今頃になってから建てたのだろう。(記念碑の写真をクリックすると碑文が現れます)
 海辺まで歩くとホテルの窓からも見えていた美しいサザーンブリッジを間近に見ることができた。
(尖閣列島開拓記念碑)
(サザーンゲートブリッジ)
 バスは空港に行く前に、島の北部の川平湾に向かった。石垣島観光のハイライト。途中、車窓から眺める名蔵湾や崎枝湾の眺めが綺麗だった。
 駐車場に着いて、ガイドさんに案内されながら川平観音堂沿いの道を歩いて行くと、目の前に絵葉書のような川平湾の光景は広がった。みんなが散らばる前に全員集合の記念写真が撮られた。
(川平湾へ)
(集合写真)
 その後みんなあちこちに散らばって、夫々に絶景写真を撮り捲った。奥さんを立たせて構図を考えている人や、ツーショット写真のシャッタをを撮ってもらっているご夫婦などいろいろ。

(和子撮影中)
(一寸だけ上から撮影)
 草を分けて少し高いところに上がってシャッタを押していたら「次はグラスボートに乗りに行きま〜す」とガイドさんの声。慌てて下りて砂浜を歩いて行く皆さんを追う。こちらに来てから海岸を歩いても、あの海独特の潮の匂いがしないのが不思議だったのだが、ガイドさんの話では「内地での潮の香りは海藻が死んだ匂いで、沖縄には海藻が繁茂していないので潮の匂いがしないのです」とのことだった。。
 砂浜に船首を向けて数台のグラスボートが待っている。ボートに乗り込むと、中央の船底がガラスになっていて、両側に手摺、通路、ベンチが平行に並んでいる。ベンチに座って手摺に腕をかけてガラス面を覗きこむようになっている。覗いている光景を撮らなかったのが残念、どなたかのHPから借用。
(砂浜を歩いて)
(グラスボート)
 ボートが動きだすと、見えてくる海底の様子が面白く目が離せない。船頭さんが綺麗なサンゴや魚などの説明をしながら次々とポイントを移動していく。随分沖にも海底が見えるほどの浅瀬があるのに驚く。

(魚群)

(イラブチ)
(シャコガイ)
(ジャガイモサンゴ)
 ボートを下りたところに、仲間川ではうまく撮れなかったアダトの赤い実があり、青空とのコントラストが南国らしくてシャッタを押した。
 ここで南国の砂浜を眺めるのもお終い。綺麗な海よ、サヨウナラ。
(アダト=パイナップルもどき)
(八重山の砂浜サヨウナラ)
 駐車場に戻って南国の紅いもソフトを舐めてからバスに乗り、ヤラブやヤシの並木、サトウキビ畑など南国らしい景色を眺めながら40分で空港に到着、3日間明るく案内をしてくれたガイド嬢のお礼を言ってお別れした。出発まで時間があり、お土産や機内で食べる沖縄弁当を漁り、石垣島最高峰と教えられた526mの於茂登岳等の山並みを眺めながら過ごした。
(空港へ)
(石垣空港)
 離陸した時丁度雲が切れていて、眼下に空港あたりが綺麗に見えて、石垣島最後の嬉しい光景にシャッタを押した。
 それから30分も経ってからやっと沖縄本島が見えてきて、石垣島はずいぶん遠いんだと改めて再認識させられた。
(石垣空港付近)
(沖縄本島)
 その後は見えるのは雲ばかり、飛行機は房総半島まで飛んでUターンして羽田空港に向かう。眼下の富津岬と東京湾の向こうに富士山が見えていた。
 羽田空港に無事着陸、チェックアウト後待っていた旅行社のガイドさんの点呼を受けて、バスの運転手さんに引き継がれた。ここからは運転手さん一人で茨城まで連れて帰ってくれた。首都高からは東京タワーが霞んで微かに見えていた。
(富津岬と富士山)
(スカイツリー)
 首都高の混雑も少なく、常磐道を快調に走って友部PAに予定よりも30分早く到着。運転手さんは乗合いタクシの連絡に追われていた。
 水戸ICで一般道に下りると、丁度退勤時間になったこともあって水戸から日立まで大渋滞、八重山四島では見られなかった車の行列を見た。それでも、出発前の天気予報では今日の午後は雨の予報になっていたのに我が家まで雨に会わずに帰ることができてラッキーでした。
(筑波山見えず)
(国道6号は通勤渋滞)
 

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