C93.諏訪梅林と諏訪遺跡めぐり
(日立の魅力再発見ウオーク) 1.動 機
a)山域:日立市諏訪今年も日立の魅力再発見ウオークが始まり、一番は「諏訪梅林と水戸徳川家ゆかりの諏訪遺跡めぐり」である。前回は参加できなくてその後に個人的に回ったが、その時は公開されていなかった小野家住宅と多賀野家住宅を見てみたくて参加した。大勢の参加者と賑やかに歩き、案内者の懇切な説明を聞き、小野家の室内に飾られた多くの宝物類、多賀野家庭園の清らかな泉水、万年太夫の木造夫婦座像などをゆっくり観察しながらの楽しい一日のウオーキングになりました。 2.データ b)登山日:2015/9/21(月)曇 c)コースタイム: 自宅8:30 = 8:50諏訪交流センタ9:25 ---- 10:00東叡山石灯篭10:05 ---- 10:10 仏舎利塔 ---- 10:45諏訪梅林11:00 ---- 11:20諏訪水穴・厳島神社11:35 ---- 11:55諏訪梅林(昼食)12:30 ---- 12:40上諏訪神社12:45 ---- 12:50諏訪ふれあい橋 ---- 12:55小野家住宅13:20 ---- 13:25多賀野家泉水13:40 ---- 13:40諏訪神社第二宮13:55 ---- 14:00諏訪遺跡 ---- 14:05諏訪のヤマザクラ ---- 14:15諏訪交流センタ14:20 = 14:40自宅
e)地形図:1/25000 「日立南部」 3.山行記録 我家を8時半に車で出発して集合時間の9時少し前に諏訪交流センタに到着すると、交流センタの裏手に用意された臨時の駐車場に案内された。全員が集まり、定刻に役員紹介からコースの説明が行われ、トイレを使って幟旗を先頭に歩き始めた。 案内者の足は結構速く、平和台の登りになると汗ばんでくる。
県道に合流するとすぐに諏訪梅林に到着し、諏訪梅林に付いて詳しい歴史を聞かせて貰った。
諏訪の水穴(神仙洞)は、ここ諏訪町大平田にあり、普賢ヶ嶽(ふげんがたけ)のふもと、緑豊かな木々に覆われた清水湧き出る鍾乳洞です。
この水穴には、遠い昔、信州(長野県)諏訪大社の御分霊をこの諏訪の地に祀られた神官万年太夫 藤原高利夫妻が自分の木像を造り諏訪神社に納めて水穴に入り、再び帰らなかったという伝説があります。また水戸黄門 徳川水戸光圀公もこの水穴に入り、洞の狭くなった三の戸に「これから奥には入らぬように」と記されたとも伝えられています。 その後、水戸の学者や文人が訪れ、名勝として紹介してくれましたので、広く知られるようになりました。 ところがその戦後、下流に防災ダムが設置され水穴は砂利で埋没し、三十年もの間昔の面影を失っておりました。 この間、地元の強い復興運動が起り、県や市ならびに関係団体のご協力で、このたび水穴は立派に昔の姿に甦りました。 この価値ある天然記念物、史跡名勝としての「諏訪の水穴」を大切に守っていくのは私たちの責務です。 水穴見学の際は、充分安全に注意し、汚したり傷つけたりすることのないようお願いいたします。 昭和五十七年四月十八日 環境を守る日立市民会議 諏訪の水穴復元記念協賛会 黄門様が正室の子でなかったので、幼年期はこの諏訪の地に出されていたのだが、その時、この水穴の中にもぐりこんだとのこと。
諏訪神社に納められたという木像の万年太夫夫婦坐像は現存していて、今日はそれを見ることが出来るらしい。 地元の小学校の子ども会では、毎年夏になると育成会の指導のもと、この水穴に探検に入るとのこと。ほっておくとすぐに砂やごみが堆積して入れなくなるので、定期的な手入れが欠かせないとのことだった。 我々は水穴探検をすることなく、厳島神社についても簡単な説明があってから諏訪梅林に引き返した。
出発前に、道向かいの方の梅林の上に見える慰霊塔にお参りして列に入った。
中を見せていただくと、12畳敷の「ひろま」には山水画や詩歌の衝立、怪物を描いた額、立派な壺類、古色ある木製家具、など色々並べてあった。
左に清流が流れる表門、前回はここから中を盗み見しただけだったが、今日は右の入口扉を通って中に案内された。
家の左斜面には丸っこいツツジの樹がたくさん植えてあり、その上にはカエデの木が何本も繁っている。春のツツジ、秋の紅葉と四季を通して楽しめます。とおっしゃっていたが、落葉拾いだけでも大変でしょう。
泉水の庭を見せて貰い、その上に懇切な説明をいただいたことにお礼を言って、もう一度見事な庭を眺めながら外に出た。
立派な造りの拝殿前に来て、夫々二礼二拍手一礼のお参りをした。
拝殿左の屋根囲いの下に多くの末寺が並ぶ前に、小野家にあった大硯で書かれた大幟が横向きに飾られており、藤田彪の揮毫名があった。
階段をそのまま登って行くと諏訪小学校があり、その脇に大きな「諏訪遺跡」の説明板があり、「1975年の校庭拡張工事にともない発掘調査によって、小学校があるこの台地上に4500年前にあった縄文時代中期のムラの様子がわかった。」との説明があった。
そこから斜面に沿う道を下って行くと市街に出て交流センタはすぐだった。
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