D12.いばらきヘルスロード36&224
(日立市街・助川城址)
1.動 機
 山歩きにドクターストップがかかったが、平地歩きならいいだろうと判断、平地で面白いコースを探している時、去年暮れ町内のOmさんに貰った「いばらきヘルスロード・日立市内コースマップ」を思い出した。これを見て、NETで「いばらきヘルスロード」を検索すると「ウオーキングカード」に歩いた実績を記録していくと、歩いた距離に応じて賞品がもらえるらしい。励みにもなるなと「ウオーキングカード」を貰いに日立市保健センタまで出かけ、そのついでに、ここを出発点にして、No.36「日立新都市広場から市街地を巡るコース」と、No.224「日立市保健センタ・助川城跡公園往復コース」とを歩くことにした。実際には途中で足腰の具合がおかしくなって、No.224は次の日に歩くことになった。

2.データ
a)山域:日立銀座通り&平和通り、助川城跡公園
b)登山日:2016/01/04(月)晴、05(火)晴
c)コースタイム:
1月4日:森山11:00 = 11:30日立保健所11:35 ---- 11:45日立市保健センタ12:00 ---- 12:20ヨーカ堂(昼食)13:20 ---- 13:25新都市広場 ---- 13:30日立駅13:40 ---- 14:00R6平和通り交差点 ---- 14:05日立市保健センタ前 ---- 14:15日立保健所14:20 = 14:50森山
1月5日:森山9:55 = 10:25日立市保健センタ11:05 ---- 11:20日病入口交差点 ---- 11:35助川城跡入口 ---- 11:35養正館跡12:00 ---- 12:05助川城跡公園12:20 ---- 12:45日立市保健センタ12:50 = 13:20森山
(いばらきヘルスロードNo36&224歩経路)
d)同行者:和子
e)地形図:1/25000 「日立」

3.山行記録
3.1 1月4日
 11時になって我が家を出発して、保健センタがあるだろうと思っていた日立保健所に30分ほどで到着した。事務所に入ったが、「日立保健センタはここではなくて、以前の日立中央郵便局跡が日立保健センタになっていますよ」と教えられた。
 保健所の駐車場が空いていたので、車はここに置かせてもらったままで、歩いて保健センタに向かった。裏通りを歩いて行くと、目印として教えて貰った幼稚園があったが、その看板を見ると茨城キリスト教大学付属聖児幼稚園となっていて、我家の近くのある大学の名前がこんなところにあって驚く。
(日立保健所)
(裏通りを行く)
 保健所から10分ほど歩くと、入口に「日立市保健センタ」とあるコンクリート敷きの駐車場があり、駐車場を通って保健センタの建物に入るとその階には何もなく、一階まで下りてやっと事務所に辿りついてウオーキングカードを手にすることができた。ついでに茨城県全体のマップなどの資料が欲しかったのだが、ここにはなくて「水戸の県立健康プラザに行けばあるだろう」と紹介された。
 前に出て保健センタの建物を見返す。全体は15年前に出来たらしいが、右のガラス張りの建物が私の記憶にある昔の郵便局の一部のような気もした。
(日立保健センタ駐車場)
(日立保健センタ正面)
 予定通りコースNO.36を歩くことにして、目の前の日立銀座通りに入っていった。
 少し歩くと、昔テニスやスキーなど色々なスポーツ器具を買い込んだ懐かしいスポーツ店の看板が見えてきて、店はまだ正月休みだったがまだ健在のようで嬉しい気持ちになった。
(銀座通りへ)
(懐かしいスポーツ店も健在)
 そのすぐ先に、年末のカルタウオーキングの時に見たふれあいの像があり、反対側から眺めるとおっぱいを掴んでいるように見えちょっとエロチックな感じ。
 おなかも空いてきたので、新都市広場の手前のデパートに入って、ウインドショッピングしてから最上階のレストランで昼食をとった。私は四川風マーボ豆腐を注文して美味しく頂いたのだが、予想以上に辛くて頭から汗が噴き出して和子に笑われた。
(ふれあいの像・裏側から)
(昼食とって)
 新都市広場を通過して日立駅前広場に出ると、この前は気付かなかった平和の鐘が目に入った。平成7年8月15日、終戦50年の記念に、永久に戦争のない平和な世界の実現を願う日立市民のシンボルとして建てられたものとのこと。知らなかったことが恥ずかしい。
(新都市広場)
(日立駅の平和の鐘)
 日立駅に入って中央通路を歩いて行って、太平洋の大海原、日立セメントの煙突群、神峰山から鞍掛山にかけての山並みを眺めて引き返した。
(バイパス国道6号)
(鞍掛山ー日立セメント)
 帰りは国道6号まで日本さくら名所百選のサクラ並木が両側に立ち並ぶ平和通りをゆっくりと歩いて帰った。和子に「コースマップでは途中で市民会館側に折れて市役所駐車場に帰ることになっているよ」と注意されたが、今日は足腰の具合が良くない、近道で良い事にして、そのまま国道6号沿いを南下して、日立保健所の表示のある交差点を右折して保健所の駐車場に戻った。ナビの記録は4.2kmになっていた。
 当初はNo.224コースで助川城跡公園まで歩く気合だったが、足腰の具合がそれを許さず、そのまま我家に帰ったのでした。
(平和通り)
(国道6号)

3.2 1月5日
 次の日もいいお天気、昨日諦めたNo.224「日立市保健センタ・助川城跡公園往復コース」を歩くことにして10時前に我家を出発した。今日は直接健康センタ裏の駐車場に入って、健康センタのトイレを使って国道6号に出て国道沿いに歩いて行った。
 助川小学校近くまでくると右手に助川城跡の石碑と案内板が立っていた。案内板の地図は薄くなっていてはっきりとは読み切れなかったが、その規模はこの国道近くまで伸びる広いもののように見えた。歴史についての説明では、斉昭公が異国船を監視するために設けた海防城で、家老山野辺義観を総司として住まわせたとあった。
       助川海防城跡
     水戸藩第九代の藩主徳川斉昭公は、天下に率先して海防の重要性を強調し、天保七年(1836)家老山野辺義観を海防総司という新設の重職に任命し、太平洋を一望におさめるここ助川(介川)村の高台、要害の地形に拠って城郭を築いて居住させ、異国船の無断侵入に備えさせた。これが助川海防城である。これを海防城と通称するのは、一大名の城と異なり、わが国にも当時例のない海防を目的とする城郭だったからである。
     この城は完成までに五年の歳月を要し、総面積は約六十八万平方メートル(二十余万坪)で、助川小学校の校門付近にあった館入口(城の表門)から三の丸(一部は助川小学校敷地)、二の丸(一部は太陽の家)本丸と進むに従って高く、本丸には異国船を見張る櫓もあった。海防城は元治元年(1864)9月、幕末水戸藩の内乱の時に焼失し、当時の遺構としては本丸表門の礎石の一部と、二の丸にあった鳩石だけとなった。しかし茨城県史跡に指定された二の丸の一部と本丸跡等には百余年前の城郭の面影を偲ばせるものがある。ちなみに、大彿次郎氏は、昭和四十年十二月中旬にこの城跡を訪れて調査をされたが、その直後に執筆された氏の歴史小説「夕顔小路」に、この海防城の落城前後の模様が興味深く書かれている。
(国道6号に沿って)
(助川城跡案内板)
 助川小学校下を通り過ぎて交差点を右折して、日立病院沿いの緩やかな登り道をゆくと、現在建設中の10階建ての巨大な本館が迫ってくる。茨城県北部地区の地域医療を担うという意気込み、日立製作所はまだ元気なのだと力強く感じ入った。
 日立病院の広い駐車場を過ぎて、御殿山団地沿いの道を少し登ると、左手に「助川海防城跡190m」の標柱が立っていた。そちら側から施設の子供たちらしい一団が歩いてきたので、助川城跡を見学してきた帰りかと思ったのだが、このすぐ上に日立重症心身障害児を守る会の太陽の家があったので、この施設の子供達がお散歩に出掛けるところだったらしい。
(日立病院脇を登る)
(助川海防城跡へ190m)
 左折して190mいくと「助川海防城跡」の石碑と地図付案内板があり、石段脇には「助川城跡公園」の表示板が立っていた。
 石段を登って行くと鎖で囲われた大きな石があり、脇に「鳩石」の説明板が立っていた。総司の山野辺義観が、可愛がっていた鳩の死をいたんで、庭石にその鳩の姿を自分で彫り刻んだものと言われているとのこと。その気で見ると石の真ん中に鳩の形がくっきりと 見えた。写真をクリックすると大きな写真が出てきます。丁寧に彫られた鳩の姿を見てみて下さい。
(助川城跡公園入口)
 鳩石の先は広い高台広場になっていて、茨城百景の石碑と、養生館跡の標柱と説明板がが立っていた。茨城百景碑には「助川城跡と海と山の公園巡り」の但し書きがあり、養生館跡の説明板には下記の説明があった。
    養生館は、水戸藩藩主徳川斉昭から新設の海防惣司という重職に任命され、この地に海防城を築き、水戸より家臣と共に移住した家老山野辺義観(やまのべよしみ・1万石)が、天保8年(1837)に開設した家臣の子弟教育の施設です。館名は中国の古典に由来し、正道を修め養う意味です。教育内容は文武一致等を方針とし、四年後に開館された水戸の藩校・弘道館に先駆けたものでした。しかし、時代の急迫と共に武術の修練に重点が置かれるようになったことは推察に難くありません。教育に熱心だった水戸藩の政治の実体を知る上で、養生館依存の意義は大きいのです。
 広場の東側には日立の市街と太平洋の大展望が広がり、正面すぐ下には日立病院の病棟が立ち並び、その向こうに古巣日製の日立工場群が見えていた。一段下にベンチがあって、これに腰かけてしばしコーヒタイム。
(養正館跡・茨城百景碑)
(日立市展望)
 入口のトイレを使い、脇の道を行くと遊園地があり、その先の十字路に助川城跡公園の案内標柱が立っていた。ここは5年前、石切山と助川山を周回した時に通ったところだ。
 材木の階段を登る途中に大きな石碑があり、上に横書きで「尊王攘夷」の題字があり、下には縦書きで「助川城跡碑 蘇峰 徳富猪一郎題額」に続いて長い漢文の文字列が並んでいた。
(助川城跡公園)
(尊王攘夷の碑)
  その先を登ると、石垣で囲まれた高台があり、助川小学校のところにあったと全く同じ助川城跡の説明板があり、その先に「史跡 助川城跡 指定茨城県教育委員会」と書いた立派な標柱が立っていて、その向こう高台に上がる石段があった。
 石段を上がると本丸館跡の標柱が立っており、ここに初代海防総司の山野辺義観の屋敷があったらしい。
(助川海防城跡)
(本丸館跡)
 左奥に竹の柵で囲われた??の木があり、脇に山辺町友好都市提携記念樹の標柱が立っていた。
 右奥には茨城県指定史跡22号「表門礎石跡」と日立市指定史跡第1号「遠見番所跡」があった。
(山辺町友好都市提携記念樹)
(遠見番所跡)
 留魂碑などの石碑を見ながら下ると、右手に日立工業高校の上に小平会館が望めた。日立に入社時、ここで入社式が行われて社長の訓示を聞いたのはもう55年も前の話だ。
 御殿山団地脇を下って、国道裏の車道を歩いていく。
(日立工高の上に小平会館を望む)
(御殿山団地脇を通って)
 道沿いの民家の庭先には、早咲のロウバイや、咲き残りのサザンカの花が目を楽しませてくれた。
(ロウバイ)
(サザンカ)
 先日車を置いた日立保健所前を通って、日立保健センタの駐車場に12時45分到着、歩程3.6km、1時間40分の休みながらのゆっくりウオーキングでした。
(日立保健所前を通って)
(日立保健センタに戻る)


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