D17.MAC那珂湊ウオーク
(那珂湊の文化財と寺社巡り) 1.動 機
去年の2月、和子と二人で歩いた「C21.那珂湊の文化財と寺社巡り」を下敷きに、9月に共同幹事の平野さんと「C95.那珂湊下見ウオーク」をして、この一月例会の案内書を作成した。ところが、直前のMAC忘年山行の無理がたたって私が案内役を務めることができなくなり、平野さん一人に幹事役をお願いすることになった。那珂湊の歴史を研究している会員の高畑さんからの資料送付があり、私からもいくらか追加ポイントの提言もして、平野さんは直前にもう一度一人で下見ウオークをして、綿密な時間割と絵地図を作製して案内に臨まれた。 当日、仲間10名と一緒に私も参加して、幹事資料や高畑さん作成の資料を貰って賑やかに歩いていったが、海側を一周して那珂湊駅近くまで来たところで、私だけ大事をとって途中脱退、名平洞と七つ寺への周回コースへ向かう皆さんを見送った。和子は所要で参加できなかった。 2.データ a)山域:那珂湊 b)登山日:2016/01/17(日)晴後曇 c)コースタイム:日立自宅 8:45 ---- 9:05大甕駅9:14 = 9:29勝田駅9:32 = 9:48那珂湊駅10:05 ---- 10:10勇稲荷神社 ---- 10:10明石屋10:15 ---- 10:25C山上門・反射炉10:30 ---- 10:40西滝不動尊 ---- 10:45稲葉屋10:55 ---- 11:00大洪水記念碑 ---- 11:05華蔵院11:20 ---- 11:30文武館址 ---- 11:35天満宮 ---- 11:40あさ川11:45 ---- 11:50湊公園ふれあい館12:05 ---- 12:10湊公園日和山12:15 ---- 12:25鐘馗神社・金龍水 ---- 12:25あさ川 ---- 12:30おさかな市場(昼食)13:35 ---- 13:45水門帰帆13:55 ---- 13:55津神社 ---- 14:05橿原神宮14:10 ---- 14:20嬬恋稲荷 ---- 14:25四郎介神社14:30 ---- 14:35P名平洞分岐 ---- 14:40@那珂湊駅14:53 = 15:07勝田駅15:17 = 15:31大甕駅 ---- 16:10日立自宅
d)同行者:水戸アルパインクラブ会員10名(男性6名、女性4名)、和子は不参加
e)地形図:「ひたちなか」 3.山行記録 特急で東京に向かう和子を大甕駅で見送って普通電車に乗る。次の東海駅で平野さんと合流の積りだったが姿見えず、電話の話をいい加減に聞いて、私は海浜鉄道湊線の電車に発車前3分に勝田駅に着く電車に乗ったのだが、責任感の強い平野さんは一つ早い電車に乗ったのだった。那珂湊線の電車に乗り込むと、今回の参加者は11名、湊線の途中駅で乗りこむ2名、車で那珂湊駅に向かった1名を除いた7名が揃っていた。 那珂湊駅で全員揃って、平野さんから計画書や案合図など配られてコースの説明が行われ、高畑さんから追加の資料配布と説明があって歩き始めた。 私は用便したくなり駅のトイレに入ってうんうん云っている間に初めから間があいてしまった。私は勇稲荷神社の前を素通りしたが、皆さんにはここで御嶽山大権現の碑を造った大内石可などについて説明があったらしい。
角を曲がってまちかど博物館の明石屋の前に向かうと、向こうから平野さんに先導された一行がこっちに向かって歩いてきた。平野さんが見つけた稲野辺木工所があって、ここが案内されたのだった 明石屋の店内にはお爺さんがちょこんと座ってお留守番していた。中に入って綺麗な団扇や扇子、カレンダーなどを見せて貰ったが、話し上手な女性会員はお爺さんと上手に会話、職人がいなくなって今は団扇や扇子は作っていないとのことだった。
古い石造りの家を見たりしながら広い車道脇の歩道を歩いて行き「反射炉」の道標で左に入っていくと山上門の前に出た。山上門に付いて説明を聞いて石段を登って山上門を潜る。 無縁堂を見送った先で右に曲がると大きな登り窯に着く。反射炉の白色耐火煉瓦を作るために建設されたものの復元模型だとのことだが、良くできている。
反射炉の前に上がって、その前に飾られた大砲の周りに集まって集合写真を撮った。
次の西滝不動尊では御霊泉の井戸の水が柔らかくて美味しいと皆さんの評判が良かった。
那珂川沿いを歩いて行ってふるさと博物館稲葉屋に入り、可愛い絵を描いた色紙や古い和菓子つくりの道具などを見て、棚に並んだ色々な和菓子の品定め、各々買い込んで早速味見しながら歩いて次に向かった。
那珂川沿いの道からYの字に左に別れ、しばらく歩いていった先の十字路向かいに私が見たことがない石柱が立っていた。石柱には「大洪水位記念碑」の刻印があり、裏に「昭和十六年七月二十三日」、横面に「茨城県」とあった。この石柱のさまで水かさが上がったとすると、この辺りがみな床上浸水する大洪水だったと思われるが、NETで那珂湊の洪水記録を調べても、昭和16年に洪水があったとの記録は見つからない。昭和十六年は石柱を立てた日付だろうか。 路地を少し進むと両側がコンクリートで護岸された川があり、「万衛門川」という運河で物資を運ぶ運河として利用されていたとのこと。地図を見ると、ここ那珂川河口から、おさかな市場の先の那珂湊港の灯台広場まで伸びており、那珂湊の商家の重要な水運を担っていたことがうなずける。
すぐの角を曲がると、正面に白壁塀に囲まれた華蔵院の境内の中に、多くの堂宇や広い墓地が見えていた。山門を通り、正面の本堂にお参りし、太子堂、横綱常陸山による遭難漁民追悼の碑、大正時代の大震災狹死者供養碑、六角堂、梵鐘などを見ながら仁王門から退出した。 仁王門の仁王像の反対側、境内側の大黒天や三宝荒神などの木像が3つの顔を持っていることを目敏い女性会員が気付いた。変わった木像だ。
仁王門を出て墓地を抜けて広い参道をゆくと湊公園に突き当り、左に歩くと那珂湊第一小学校の校庭横に出た。那珂湊第一小学校は水戸藩の文武館址に建っている。校庭の中に入ると、文武館址」の石碑があり、脇に説明板が立っている。 次は湊公園入口を通り過ぎて天満宮に入って、菅原道真公のご利益で頭が良くなるようお参りする。
天満宮を出た交差点を直進すると、すぐにふるさと博物館あさ川のレトロな建物がある。店に入って古い家具など見せて貰って、甘い和菓子を買いこんで引き返す。
初めて中に入ったが、先ほど見てきた反射炉や、今は湊公園になっている黄門様のい賓閣の復元立体模型、大漁で賑わうなかみなと漁港の様子などみんな興味深く見て回った。
イワレンゲ自生地を見てから街に下ったが、振り返った時の湊御殿の松が見事、寄り道してシャッタを押してみんなの後を追った。
その先の辻にさの屋があり、その前両側に古いコンクリと製の四角い天水桶が雨どいの水を受けていた。昔の那珂湊には火事が頻発して天水が消火に必須だったらしいが、その後区画整理などのためほとんどが撤去されたとのこと。
食事を終えて、おさかな市場のはずれにあるトイレに入って出てくると、もう全員揃っていて、今にも出発しようとするところだった。
石段を登りきって右手に歩いて水門帰帆の展望台に出て、那珂湊の街並みの先に那珂川河口と那珂湊港を眺める。昔の人はここに帆船が帰って来るのを見たのだろう。
篠でできた大きなわっかがあり、みんなこれを潜ったが、中には何度かぐるぐるわっかを回る仲間もいた。
橿原神宮の表参道の石段を下って街に出て、しばらく車道を歩いて交差点を曲がった次の路地の奥に妻恋稲荷神社があった。これは私が地図を眺めていて気付き、「妻恋」の名前にみなさんも喜ぶだろうと提案したのだが、三連の石鳥居と狐の狛犬さんの奥に小さなお社がある雰囲気のいいお稲荷さんだった。鳥居などの寄進者には皆水産会社の名前があり、漁師や漁業関係者が建てた神社らしかった。
その道向かいに入ったところの四郎介神社にも立寄る。こちらは結構大きな神社、境内社もあり、神社の社誌を記した大きな石碑も立っている。
四郎介神社の次は、那珂湊駅裏にある名平洞と館山七つ寺を回ってもう1時間歩くことになっているが、ここまで結構歩いたので私の腰にはオーバロードになるだろう考えて、ここで離脱することにした。その歩き方なら大丈夫そうだよと励ましてくれる仲間もいたが、那珂湊駅近くまで歩いたところで皆さんとサヨナラし、一人で電車に乗って我が家に帰った。
ナビの記録では7.2km、今年の最長距離、歩数計も1万3千歩を越えていた。オーバを心配したが、翌日は何の痛みも感じなかった。ところが3日後に脚が物凄く重くなった。歳を取ると数日たってから疲れが出てくるものだ。 |