D94.いにしえの会瀬の浦をめぐる

1.動 機

 今年の「日立の魅力再発見ウオーク」の第一回目「いにしえの会瀬の浦をめぐる」が全行程約4.0kmとなっていて、私にも付いて歩けそうなので早速参加申し込みした。年配のガイドさんの面白い話を聞きながら、会瀬の浜から相賀の丘まで楽しく一回りした。

2.データ



(いにしえの会瀬の浦をめぐるの歩経路)

3.山行記録

 集合場所の会瀬公民館(会瀬交流センタ)に着くと、玄関前にガイドさんが待っていて、参加者名簿にチェックを入れながら説明資料を手渡していた。
 全員集まるとコース説明と配布資料の説明が行われた。

 説明によれば、公民館のすぐ山側に見える崖は「坊崎常雫」と呼ばれ、次のような謂れがあるそうです。
 坊の上は昔相賀館という館が置かれていた台地で、木の内クラブ近くの カンショの坂の途中には天王様が祀られています。 このあたりの絶壁を坊崎といい、ここからいつも雫が垂れていたので、これが「坊崎の常雫」の由来となりました。
 説明が終わると向かいの青少年の家との間を通って海側に向かって出発。青少年の家の部屋はそれぞれ家族連れで埋まっていているようで賑やか。青少年でなくても利用できるらしい。

 海側の広い運動場の前まで来て、またリーダのお話。リーダは皆川さんとおっしゃり「ふるさと会瀬」という本を発行する等会瀬の歴史に通じた神様らしい。81才になる今も日立各所の案内役で活躍されているとのことで、これから先でも写真を見せながらそらで話しされた。
 大震災の時には会瀬の浜は大きな津波に襲われて甚大な被害を受け、広い運動場には今もその痕跡があちこちに残っていた。

 会瀬漁港近くまで歩くと、津波で使い物にならなくなった浮玉や綱、漁網などが山積みにされていて、痛ましい光景が続いた。
 漁港広場には漁を終えた漁網が拡げられており、その向こうの漁港越えに漁協の建物が見えて漁村らしい風景になっていた。

 漁港を囲む防波堤(突堤)の付け根には大きなテトラポットが二つあった。大震災前には、手前のテトラポットも突堤入口に並んでいて突堤への車止めになっていたものが、津波でここまで動かされたとのこと。とても人力では動かせないので、重機がここまで入ることが出来る時を待っているとのこと。
 ここから突堤の先まで歩いていくらしいが、突堤のどこかで説明があってからここまで引き返してくることは確かなことので、私は一寸でも楽しようとここで待っていることにした。

 一人で突堤付け根近くをウロウロしながら、周りの風景を眺めながら待っている。一行を見ていると直線部分を突き当たったところで引返すものと思っていたのに、しばらく何やら説明があってから、そこで曲って更に先に歩いていく。
 こんなに先まで行くのだったら、ペースはゆっくりなので私も付いて行くのだったかと思っても後の祭り。三つ目の曲がり角まで歩いてから、代わる代わる堤の上に上がって何やら眺めてやっと引返し始めた。ここからの帰りは歩く速さが結構速くて、やはり付いて行かなくてよかったのだと自分に言いきかせ、漁港入口など眺めながら待っていた。

 ここからの4枚の写真は、和子が突堤歩きの途中で撮った写真と記憶です。
 突堤の先まで歩いていくと、手前に津神社とその前の海面に見える岩礁群の向こうに、六号国道の海上バイパスが綺麗に見えていましたた。この岩礁群は昔はもっと大きくて陸続きで、日立鉱山の社宅に住んでいた小学生時代、鉱山電車に乗って海水浴に来た時に浜から歩いて渡った記憶があります。

 突堤の二つ目の曲がり角あたりから北東には高鈴山から風神山にかけての山並みが見えて、手前には会瀬の街があり、漁港内を見ると向かい側の突堤の先にも大きな岩礁がありました。鵜島と呼ばれる岩礁で釣りの名所だそうです。

 突堤の三つ目の曲がり角が漁港の一番奥にあたり、ここから陸側へ続く突堤歩道は少し先で切れていて、漁船の入口になっていました。
 突堤歩きはここでお終いで「この少し沖にたこ島が見えるよ」と言われ、入替りしながら堤防に上がてみると、押し寄せる荒波の波間に二つの岩が見え隠れしていました。震災前にはもっと大きかったとのことです。

 みんなが突堤入口に帰ってきてからは私も一緒に歩く。突堤から北の海岸沿いにあったという堤防は津波で完全に破壊されていた。浜に打ち上げられた堤防基礎だった底石が集められて網の中に入れられていた。浜はごろ石だらけで歩きにくかったが、これも網が破れて出てきたものとのこと。
 その先は会瀬海水浴場とのことだが、その砂浜にも小石が散らばっていて裸足で歩いたら危なそう。リーダさんも市に使用中止を進言しているとのこと。その先に岩礁と白い津神社が目立っていた。

 海水浴場の砂浜から道路に出るために山側に歩いていくと、鰐の形をした細長い流木があった。面白い造形が出来たものだ。その後ろには、道路際に大きな土嚢を積み重ねた防波堤が見えていた。
 リーダさんがここで会瀬海水浴場が賑わっていた時代の古いモノクロ写真を手提げから出して見せてくれた。こんな写真を各所で見せて貰えたが、いろいろ調べておられる熱心さに頭が下がる思いがした。

 あらためて海水浴場を振り返ると、その向こうにテトラポットで守られた突堤が見えていた。
 浜から道路に出て海岸沿いを歩くと津神社のすぐ前を通った。津神社の由緒に付いての話は聞いただけで、お参りしないでそのまま通り過ぎた。

 津神社の先には擁壁が出っ張っているい岬があった。海上バイパス道路は今は日立駅近くの旭町で終わっているが、更に南に河原子まで延ばす計画が進んでいて、この丘で一旦陸上の道にすることになっているとのこと。
 津神社の前の道から海を見下ろすと、大きな岩礁が並んでいる。これが「磯の会瀬旧述」にある五奇談の一つ「津の神の手洗い場」だったのかなあ。津神社の先に釜の様な大きな岩が三つあり、波が入ると渦を巻くので津の神の手洗い場という。とある。

 岬の先で車道から分れて海岸沿いの遊歩道に入った。
 防波堤の内側沿いに下り坂の遊歩道を進むと、当然防波堤は段々と高くなってきて海が見えなくなってきた。

 浜に下り口のところで下を覗くと、調査中の旗を立てて海を眺めながら何やら調査している二人組が見えた。
 その先、以前何度もお世話になったことがある初崎保養所あった場所を通ったが、完全に撤去されていて今は何も残っていない。3年前に歩いた時には撤去作業中だった(a86.日立市の自然・文化財(4))。左に撤去跡を懐かしく眺めて通り過ぎたところで、左手の分かれ道に案内された。

 感慨深く初崎保養所跡を眺めているうちに、海岸沿いからの良いところで写真を撮るのを忘れていたので、分かれ道に入ったところでシャッタを押してみた。土手の上に本館だった広い原っぱがあったのに、ここからでは写らず残念。
 それでもリーダさんはここで初崎保養所の事を説明してくれていた。この坂の名前は潮音坂といい、上の車道から下の道に下りる坂道が外に二つあるとのこと。

 潮音坂を登っていくと右に湾曲するようになり、左の崖に洞窟が見えてきた。これは戦時中に掘られた防空壕で、小学生だったリーダさんが空襲を受けた時に、ここに入り込んで危うく難を逃れたとのこと。

 その一寸先にも防空壕跡があり、こっちの入口はセメントで蓋がされていた。
 蓋の裂け目から中を覗いて見ると、奥の方が明るくなっていて、内部の様子を見ることができた。さっきの防空壕の奥が見えているのであって、二つの出口が繋がっているのだとのこと。

 潮音坂を登りきって車道に合流すると、v字に引き返すように折り返す。
 折り返した右手に空地が続き、ここは笹沼別荘地という所で、谷崎順一郎がノイローゼになった時にここに来で休養したことがあって勇名になったとのこと。日立鉱山もここに保養所などを作ったとのことだが、和子も鉱山電車に乗って海水浴に来た時に何度か使ったことがあるという。 リーダさんの家もすぐ上に見えていて、ここから防空壕に駆け降りたらしい。
 防空壕の内部を覗いた時に、岩盤をくり抜いた作業は手作業では出来そうにもないものに見えたが、日立鉱山が鉱山で使う機械を持ち込んで固い岩盤を掘り抜いたものだとのこと。

 別荘地の先で津神社に下る道と合流したが、直進方向に民家の道に入って行くと海側に広場があって、その奥に大きな樹が茂る森があった。丘の上にあるこの広場は、戦国時代にできたという三つの相賀の舘のうちで一番大きい新城の武士の舘があったところで、当時土を盛って作った土塁跡を、後の森の中に見ることができるとのこと。
 森の中を覗くと5mぐらいの高さの土塁が見え、その上に三角点標識の様な白い棒が見えた。三角点となると目の色が変わる私、一人で急な崖を攀じ登り始めた。ここまでよたよた歩いていた爺さんの急変に驚いた女性が「危ないよ。危ないよ。」と声をかけてくれる。へまは出来ないので慎重に足場を選んで登りきると、そこには立派な三角点標石があった。国土地理院地図を見ると、会瀬という二等三角点で標高29.16mとあった。

 新城の舘跡の広場の先には、滑り台のある「あいが児童公園」があった。その公園の先はt字路になっていて、左手の海に向かって進んだ。

 民家の脇を進んで狭い坂道を下ると、左脇に石柱に囲まれた古い石碑があって説明が始まった。太陽信仰の場所で、女性だけが集まって念仏を唱えお酒を飲みかわす行事が伝統となっていたが、4年前から途絶えているとのこと。男性は漁で海に出ていたのだろう。
 前に回って見ると、石柱に掘られた文字は朽ちて読みにくかったが「奉唱日天念仏供養塔」「昭和拾年 旧二月弐八日」と読めた。リーダの説明内容をメモしていなかったので、netで調べたが何も出てこないので間違っているのかもしれない。

 供養塔から更に下ると突き当りは崖の上、民家の塀越しに会瀬漁港が良く見え、その手前に出発点の青少年の家が見えていた。

 t字路に戻って直進すると、二つ目の坂道「舟入に坂」があった。この坂道には下らないで、そのまま進むとすぐ先に相賀町集会所があって、ここで左の住宅街の中の道に入った。

 住宅街を進むと、左の海側に広い空き地があった。ここは相賀の舘の一つ「坊の上」があったところで、以前、日立の木ノ内クラブがあったはずだが、ここも撤去されたらしい。
 空地に先には三つ目の下り坂「かんしょの坂」があった。

 かんしょ坂のすぐ先で左に向かって進むと、会瀬公民館を真上から眺められ、下から上がってくる「かんしょ坂」の道が見え、坂の途中から左の崖上にある小さな神社に上がる石段が見えていた。
  展望所から住宅街の道に入って進むと、駐車場の奥に赤い鳥居に守られた小さな神社があった。こんない近くに同じような神社が見られるのは漁村の信仰心の篤さ故か、集落が急斜面で分けられている所為なのか。

 その先は崖上の曲がり角になっていて南方の展望が開けていた。そこからは会瀬の浜の右に真直ぐに伸びるR245が見え、その左にはJR常磐線の土手が見えていた。

 角を曲がればそのままr245に出るのかと思ったら、直前で左に折れ曲がる下り坂になった。
 その先の突き当りに大きな樹タブノキが立っていて、なにか詳細な説明が語られていたが残念ながら聞き取れなかった。

 タブノキを見て右に曲ると今度こそr245に出て、国道の歩道を歩いていって会瀬の交差点前で左の脇道に入った。

 脇道は沢沿いの道になっていて、沢はその先で道路下に潜るトンネルになっていた。

 トンネルの上の道は、今朝、会瀬公民館に来る時に車で通った道だった。
 そのすぐ先に空地があり、その先に坊崎常雫の断崖がみえ、その左にかんしょ坂の上の展望所から見た赤い鳥居と石段の上に小さな神社が見えていた。

 空地の先の民家との間に避難路の立札が立っている分岐があり、奥の方に「かんしょ坂」の案内板が立っていた。大震災後に右に折れてかんしょ坂に繋がる避難路が作られたとのこと。
 すぐに会瀬公民館に帰り着き、リーダさんから次に案内するウオーキングの紹介などあって解散になった。

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