E12.ヘルスロード165(水戸桜川・備前堀コース) 1.動 機 HPに穴をあけるのが気になって、またヘルスロードを歩くことにしてガイドを見ると、「No.165桜川・備前堀」として水戸市駅南を歩く3.8kmの手ごろなコースがあった。添付されたマップでは桜川沿いの両岸を歩くことになっているが、マップ通りに駅南平和公園通りを歩くとこれは成り立たず、無理してダブりを入れると歩行距離が長くなりすぎるので、桜川南岸歩きは割愛することにした。水戸駅駅南がS&G地点になっているが、車で出かけたいので、地図を見て、周回路の近くのスーパの駐車場を使わせて貰うことにした。 2.データ b)登山日:2017/1/12(木) c)コースタイム:森山11:10 = 11:15薬局11:20 = 11:55スーパ駐車場12:00 ---- 12:20三叉水門12:25 ---- 12:40竃神社 ---- 12:50幸楽苑(昼食)13:30 ---- 13:45城南平和公園13:55 ---- 14:10駅南大橋14:15---- 14:25柳堤橋 ---- 14:35石垣橋 ---- 14:50スーパ駐車場 = 15:20スーパ15:30 = 15:40森山
3.山行記録 我家を11時過ぎに出発し、薬局に寄って常用薬を買い込んで、12時前にスーパ裏の駐車場に車を入れて歩き始めた。 駐車場から県道に出て、すぐの交差点で右折した車道には左側にタイル張の歩道があり、柵の左に水路が真直ぐに伸びていた。まだガイドマップのコースには着いていないが、既に備前堀沿いの道を歩いているのだった。備前堀については、水戸商工会議所のHPに次の説明がある。 千波湖の増水が下市に被害を与えたため、水戸初代藩主頼房の時の慶長15年(1610)徳川家康の家臣で関東郡代の伊奈備前守忠次により造られた治水と利水を兼ねた灌漑用水です。現在新水戸八景に選定され市民の憩いの場となっており、道明橋には伊奈備前守忠次の銅像が建立されています。
大正初年、第19代横綱常陸山が先祖の墓所酒門無所(酒門共有墓地)へ墓参のために来水した折、旧酒門街道筋の備前堀にかかっていた老朽化した木橋を見て新しい橋に架け替えを約束、しばらくして大金を投じて立派なコンクリートの橋にしたので、この橋を常陸山橋と名付けた。photo現在の橋は平成13年(2001)3月に竣工され、装いも新たに欄干の両側には右に常陸山の力士像を、左に行司の軍配がデザインされている。なおこの橋のすぐ下流の新道に、同じ常陸山橋と称する昭和30年(1955)2月竣工の横断橋がある。
新しい常陸山橋が歩き始めに見えたはずだが気が付かなかった。
明治43年に瓦谷不動尊の下市信徒有志によって礼拝に遠回りしては不便であると、寄進によって造られた橋であるという。「金剛」とは仏教用語で、たいそう堅くてどんなものにも壊されぬ堅固の意を表す。金剛乗教や不動明王の左手に持つ金剛索、修行者の用いる金剛杖などにちなんで名づけられたといいます。
備前堀三叉水門の由来
備前堀は水戸初代藩主徳川頼房公の時、関東郡代伊奈備前守忠次によって、下市及び以東の村々に対する用水と千波湖の溢水対策のために、利水と治水を兼て開削したものである。そして備前堀が江戸時代に農業用水としてのたらした恩恵は、流域21カ村に及んだという。しかし細谷、吉沼、渋井地区は、本流より1米以上高地のため、水門を二つ築き、水門の開閉により水量の調整をし導水を図った。その水門の箇所で二俣に分かれ、下市中央部を流れる掘割が「町裏江」と呼ばれ、今は水門だけが残っている。備前堀より枝分かれし、水の流れが三叉であったので、三叉水門、三叉橋の名で現在も呼ばれている。 その奥に立派な「県営水質障害対策事業竣工記念碑」が立っていた。那珂川、千波湖を含めてこの地区の灌漑システムを整備する中で、この三叉分岐が廃止され揚水機場に入替ったことなども書かれている。
その先に広い「道明橋」があり、橋の中ほどに伊奈忠次の銅(?)像が立っていた。伊奈忠次は最初の引用文にあるように、備前堀を造った人。
佐竹氏が常陸太田に祀っていたものを、水戸城主となって城東竹隈に遷座し、寛永年間(1624-43)に現在地に移ったものです。
御祭神は市杵嶋姫命で、毎年1月8日の初市(だるま市)には、本町通りに御輿を出社するほか市(いち)を守護する「市神さま」として厚く信仰されています。 次の「銷魂橋」には高札場跡の副題があり、水戸商工会議所のHPの記述 備前堀に掛かる七軒町橋は、江戸との出入口にあたり藩の禁令や法度など高札が立てられていました。元禄3年(1690)光圀公は、この地で別れ泣き悲しみ魂を消すという意味から銷魂橋(消魂橋)と改め、三宝荒神を赤沼より移して樹木を植え、水茶屋などを置いたといいます。
「江戸街道起点」の石柱も立っていて、次の説明があった。 水戸〜江戸間、二十九里十九町(約百十六キロ)を結ぶ街道は、五街道に次ぐ重要な幹線道路で江戸街道または水戸街道と呼ばれた。その起点は江戸は日本橋、水戸はこの地点で、宿駅は十九箇所、行程は通常二泊三日であった。この地には広場が設けられて高札が立ち、備前堀に架けられた橋は、ここで共に別れを惜しんだので銷魂橋と呼ばれていた。
鳥居の奥には竃神社の拝殿があり、由来や御神徳を書いた看板が3枚かけてあったが、水戸商工会議所のHPの説明文は 御祭神は奥津彦命・奥津姫命・中御方命で、初め水戸城地内に祀られていましたが、寛永3年(1626)赤沼(現城東)に移り、更に元禄3年(1690)に2代藩主光圀により現在地に遷座されました。
三宝荒神は、仏・法・僧の三宝を守護する神ですが、火の神・かまどの神と慕われ、天保年間(1830-43)に竈神社と改称されました。
児童公園を突き抜けるとすぐに広いR51に出て、左の伊奈橋を渡ってそのまま進んだ。
次の信号のある交差点で右折して城南平和公園通りに入ると、まもなく城南病院があり、道向かいにこの病院の広い駐車場がたくさんあった。この辺りの中核病院なのだろう。
入口に「碧翔」の看板があったので見てみたくなり、中に入ると公園はものすごく広く、広場の向う端にそれらしきものが見えていた。
一つには平和都市宣言 核兵器廃絶平和都市宣言
世界の平和は全人類の願いである。しかし、核兵器保有国間の果てしない核軍備拡張競争は、今や人類生存の脅威となっている。
このような憂うべき世界情勢の中で、我が国唯一の核被爆国として全世界に対し、核兵器全面廃止の実現に向けて訴え続けることは、国民的使命である。 よって、我が水戸市は、世界のすべての国に対し、核兵器の全面廃絶を求めるとともに、核兵器廃絶平和都市となることを宣言する。 昭和60年7月1日 水戸市 も一つに碧翔についての説明 平和の像について
水戸市は 日本国憲法に掲げられた恒久平和主義の理念に基づき 唯一の被爆国として二度と戦争の悲劇を繰り返さない願いを込め 昭和60年7月「核兵器廃絶平和都市」を宣言い たしました この宣言のもと 私たちは市制施行100周年に当たる平成元年を機に 改めて永遠に戦争のない平和な世界の実現に向けて努力することを誓い その心の表象を市民の拠金と水戸市との共同事業により 平和の像として建立することといたしました
幸いにも 私たちの願いは賛同の輪となって幾重にもひろがり ここに念願の平和の像の設置をみるに至りました 像は 平和を希求する市民の心と未来に向かって飛躍する水戸市を表現したもので 空を飛び 陸を駆け 海に潜ることができる万能の力を有する不死鳥(フェニックス)に生命の源で ある乙女が座し 平安の彼方 宇宙に向かって飛翔する姿を表しています 平成3年8月1日 水戸・平和の像を建てる会
すぐに桜川を渡る「えきなんおおはし」。
一段下の川沿いにも遊歩道があってウオーキングしている人の姿もあったが、眺めの良い堤防の上を歩くことにした。堤防には桜の並木が続き、春には綺麗な花見ができそうだが今は何もない。道沿いのところどころにある石の四角な椅子の一つ一つの上面に、懐かしい童謡が描かれていて、その歌を口ずさみながら歩いていった。
交差点の信号が青になるのを待って、その先にも続く堤防の道を歩いていった。
横断歩道を渡ってところで桜川を見ると、川底を浚って掃除しているグループがあり、その向うに川から分岐するトンネルが見えた。備前堀への入口だった。
近づいてみると、橋には水門橋の名板があり、その前に水浜電車軌道敷跡の石碑立っていた。水浜電車が何かとNETを調べると、那珂湊に行っていた電車らしいが乗った覚えがない。 水浜線(すいひんせん)は、かつて茨城県の水戸市と那珂湊市(現在のひたちなか市)を結んでいた、茨城交通の路面電車である。1966年(昭和41年)に全線が廃止された。
栗田寛は、幼少より読書を好み石河明善に師事し、藤田東湖や会沢正志斎に学んだ。
特に、彰考館総裁豊田天功に才能を認められ修史の事業に参加し、幕末水戸藩の党争にもとらわれず学問探究の道を邁進した。 また子弟教育のため家塾「輔仁学舎」を開き清水正健・菊池謙二郎などの後進の養成に力を注ぐ一方、未完成のままであった『大日本史』編さんの継続と完成のために尽力した。 今から70年程前、小学校がこの地に移転して以来浜田区のシンボルとなっている。住処を譲ってくれたかえるに感謝し、子供達の健やかな成長と安全―無事かえる―を願い、此処にこの像を設置する
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