E53.宮島・岩国・萩・津和野ツアー(2)
3.2二日目
1)錦帯橋 バスは定刻にホテルを出て錦帯橋下の河原の駐車場に駐車した。ここからは中の3つの孤に比べ、両端の孤は弱い円弧になっている5連の太鼓橋・錦帯橋の全体像が良く分かる。
二つ目からは傾斜が急なので階段になっている。杖を突いた私にはこっちの方が歩きやすかった。
今は雨が少なく流れの巾は狭いが、水が透き通っていて鮎が泳ぐ姿も確認できた。
この松は、岩国武士の負けず嫌いを表徴する有名な槍倒 ( こか ) し松です。
昔諸国の大名が他藩の城下を通るときは行列の槍を倒すのが礼儀となっていたのですが、大藩が小藩の城下を通るときは、儀礼を守らず槍を立てたまま威風堂々と通ったものです。岩国藩が六万石の小藩であるため岩国の武士達はこれをみて憤慨し、そこでかなり成長した横枝のはった松の木をわざと橋の頭に植え、大藩といえどもどうしても槍を倒さなければ通ることができないようにしたものです。 今では昭和十年 ( 1935年 ) の河川改修工事により道路や人家が堤防の上に移りましたが元は川辺りにあって、ここの石段が坂道になっていましたから大名が槍を倒して坂を登るのを見て岩国武士達は溜飲を下げていたということです。 昭和十九年 ( 1944年 ) 頃、この地方に発生した松喰虫によって、この松も昭和二十七年 ( 1952年 ) 八月残念ながら枯れてしまいました。この松は初代の松の実から自生した直系のの松を昭和四十三年 ( 1968年 ) 二月十五日三代目槍倒 ( こか ) し松として吉香公園から移したものです。 樹齢 300年 樹の高さ 14.5m 幹の周囲 3.7m 樹冠の面積 323u
。 2)防府天満宮 次は防府に移って防府天満宮に案内された。市観光協会によれば、 学問の神様、菅原道真公を祀った神社で、京都の北野天満宮福岡の太宰府天満宮と共に日本三天神と称せられています。道真公は九州への西下の途中、防府に立ち寄りすっかりこの地が気に入り、自分が死んだら魂となって帰ってくると約束します。九州で公が亡くなった翌年(904)に、国司がこの地に松崎の社を建立し公を祀ったと伝えられ、日本で最初の天満宮として創建されたといわれています。
脇に防府天満宮と刻した大きな石柱を見て、石大鳥居の一の鳥居を潜って石灯籠の列に挟まれた石畳みの参道に入る。 青銅の二の鳥居を潜ると樹木に挟まれた石段の奥に赤い楼門が見えてきた。
楼門を潜った境内の奥に拝殿がありお参りする。
大專坊跡:かつての天満宮の社坊のひとつ。毛利元就はここに本陣を設置し、大内氏を攻めました。幕末には、この地を警護する諸隊の屯所となりました。
茶室芳松庵:菅原道真公はお茶に関する調査・研究をしていたことでも知られています。そこで、防府天満宮では、道真公と茶との深い関わりを後世に伝えようと、茶室設けています。 四季の移ろいを楽しめる美しい庭を観賞でき、誰でも気軽に抹茶の接待を受けることができます。
暁天楼は、天満宮表参道第一鳥居から東へ半丁、宮市前小路に営む大旅籠「藤村屋」の建物の一部で、階下は漬物置場、二階に隠れ座敷をもつ。幕末維新激動の際、九代当主藤村孫七が尊皇の志が篤かったので、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、坂本龍馬等の志士達が、東奔西走する活動の途次、しばしば投宿し密議を計ったと伝えられ、近代国家誕生の一端を担った貴重な史跡である。この楼は、もと適義楼と呼ばれたが、山縣有朋等の発意により「冥味中に光明発動する」の意をもって暁天楼と改称された。大正四年に酒垂山西麓の神苑内に移築されたが、老朽が甚だしくなり、昭和三十年に惜しくも解体された。昭和五十八年秋、藤村屋の後裔、十一代当主で横浜市在住の藤村造作氏がこの楼との旧縁を偲ばれて暁天楼復元の願主となり巨資を寄進され、此処、旧圓楽坊跡地に楼の絵図面のままに復元再建したものである。
裏庭には御神木の樹令800年のクスノキの古木が立っていた。どうしてご神木がこんな目立たない所に立っているのか不思議に思ったが、昭和時代に暁天楼がここに復元されたものだと知って腑に落ちた。
次は山口市に移動して、西の京山口の瑠璃光寺を案内された。境内に入ると「二本の歴史公園100選 香山公園」の石碑が立っていた。奥に見えている五重塔を含めて、瑠璃光寺の境内全体が香山公園になっているらしい。
この木なんの木。左に進んだところに大きなサルスベリの木があり「ご進学に大人気! 滑りやすいサルスベリの木に 滑らずに大きく育つ松の木」と書いた板が取り付けてあった。上を見ると、サルスベリの木の途中から松の木が分れて大きく育っていた。
境内に入ったところには馬に乗った雄姿「大内弘世公の像」が立っていた。大内氏は南北朝時代、周防・長門・石見を守護した武将で、本拠を大内館から山口へ移転して、京都に倣って西の京として山口の市街を整備し、室町時代に栄えた大内文化の礎を築いた人とのこと。。
本殿は右のなで佛、左の布袋様を撫でてお参りした。
二階のレストランで頂いた牛鍋御膳のそば寿司が珍しく美味しい味だった。
昼食後は北西に山の中の道を延々と走って秋芳洞を案内された。岩手県の「龍泉洞」、福島県の「あぶくま洞」、高知県の「龍河洞」、山口県の「秋芳洞」、熊本県の「球泉洞」、沖縄県の「玉泉洞」石垣島鍾乳洞玉泉洞、黒谷入口から入ったが、その近くに来た時に見えていた秋吉台展望台に後ろ髪をひかれた。 黒谷口からコンクリートのトンネルに入ると階段を下りたところから左右にタイムトンネルの絵が描かれていて、現代から古代までだんだんと昔に帰っていった。
その入口に、上から垂れ下がっている鍾乳石と、その雫で下から盛り上がってくる石筍とが合体しそうな石柱があった。隙間は1cm程度?とすると、合体するまでにまだ50年以上かかるとのこと。
この先夥しい鍾乳石が垂れ下がり、両方の壁が迫ってくる狭い洞窟もあったが、狭い足場の通路は出口まで下り道が続いた。歩くのが楽なようにこの向きを選んでくれたのだろう。杖を突いてやっと歩いている私には有り難いかぎり。
天井から鍾乳石が無数に垂れ下がったところがあり「傘づくし」という名札が付いていた。
同じところに「青天井」の名板があり、「入口から入ってくる明かりで天井が青く見えるでしょ」とあり、目には確かに綺麗に見えていたが、写真には上手く写すことができなかった。下の方に崖を鎖を頼りに下ってくる男性の姿が写っている。
洞窟から出たところが一般的な秋芳洞入口で屋根つきの橋になっていた。
永遠(とわ)の国から 湧(わ)いてくる
愛の清水に 吸いよせられて 影がより添う 秋芳洞よ ああ この水の 流れのように 澄んだ私を あなたにあげたい 星野哲郎詞(歌手 入山アキ子) 途中でお土産屋に立寄って、街角で待つバスに乗った。
バスに乗って、次の秋吉台は車窓からの見物になった。「どこかに停まってカメラタイムを作ってほしい」と添乗員さんにお願いし「ガイドさんと相談してみます」の返事を貰っていたが、駐車場所がなかったようで駐車することはなかった。 我家の座席の反対側の右側の方が秋吉台が山になっていて眺めがいい。通路側に座った和子が、右座席の人の前からシャッタチャンスを狙った。
そんな左車窓からも長者ヶ森が見えたのが唯一の救い。ガイドさんの説明内容は忘れたが、NETでは 3億年前は、一帯が海だったと言われる日本最大のカルスト台地。その広大なカルスト台地で唯一の原生林なのが長者ヶ森です。
昔、この地に住んでいた長者がいつしか没落し、それから幾年月、かつての長者屋敷の跡が森になったと伝えられています。
萩駅からしばらく線路沿いを走って玉江橋にかかると、橋本川の河口の先に日本海に浮かぶ島がうっすらと見え、右に指月山が目立っていた。指月山の麓に萩城があったとのこと。
6)萩城城下町 玉江橋を渡ってすぐバスから降ろされ、城下町の案内が始まった。江戸屋横丁に入って旧野田家住宅脇を通ってところに円政寺金毘羅社の石鳥居があり、古びた「世界遺産 萩城下町」の立札と、真新しい「高杉晋作と伊藤博文両公幼年勉学之所」の立札が立っていた。参拝料要となっていて中には入らなかった。
次はよく聞いたことがある木戸孝之の旧宅。庭に入っただけで、広い屋敷の中は見学しなかった。
藩の御用商人を務めていた豪商・菊屋家。屋敷は江戸初期の建築で、現存する商家としては最古の部類に属し、400年の歴史があります。主屋をはじめ5棟が国指定重要文化財に指定されています。
菊屋の角を曲がってもしばらく菊屋の蔵などなまこ壁が並び、菊屋横丁の名で日本の道100選にもなっているとのこと。
菊屋横丁の中ほどに高杉晋作誕生地の石柱が立つ屋敷があり、説明があって通り過ぎた。
駐車場のある中央公園に着くと、中央に馬に跨った勇ましい銅像が立っていた。山形有朋は日本の総理大臣になり、日清戦争の司令官まで務めた軍人だった。
6)松陰神社 次は今日最後の松陰神社、城下町から阿武川を渡った先でバスを降りると、「(祝)松下村塾世界遺産登録」と書かれた標柱が立っていた。話によれば、2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として正式登録された、とのことだが、産業革命と松陰とは関係なさそう、これもどなたかのお声がかり? その奥に松陰神社の石鳥居が立っていた。 吉田松陰は次々と新しい国の形についての意見を示し、ついには江戸で当時の江戸幕府に処刑されます。しかしその思想は弟子たちに脈々と受け継がれ、多くの志士を生み、彼らによって明治維新がなされたのです。弟子たちは明治新政府で要職につき、彼らは師であった吉田松陰を祀って「松陰神社」を建立しました。松下村塾のあった場所が、そのまま神社になっています。
近くに松陰の歌碑があり、江戸伝馬町の獄中から萩の父杉百合之助に送った歌で、処刑を覚悟して書いた詩とのこと。 親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん
入口の部屋の壁には松陰先生を中心に多くの有名人の写真が飾ってあった。高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋など
その奥には松陰が講義を行ったという少し広い部屋があった。
松陰の生家である杉家の家族たちが住んでいた吉田松陰幽囚ノ旧宅。
伊豆・下田で密航に失敗し自首し、江戸伝馬町の牢に捕らえられた。その後、萩に送られ野山獄に入れられた松陰。 安政2年に釈放となり、松陰の父・杉百合之助預けとなり、この一室に謹慎して読書と著述に専念した。 この旧宅で家族に孟子や武教全書を講じるようになり、やがて松下村塾での門人たちへの教育へと発展していくこととなる。
鬱々とした毎日を送っていた松陰に杵で米を撞かせると、物思いにふけりながら何時までも撞くので、米粒が半分にまですり減ったとのはなし。
隣の部屋から美声が響いてきて、カラオケ宴会が始まったなと思っていたら、その歌声の主は美形の女性でこっちの部屋にも移ってきて美声をを振りまいてくれた。
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