E53.宮島・岩国・萩・津和野ツアー(2)

3.2二日目
    ホテル8:05 = 8:25錦帯橋9:05 = 10:15防府天満宮11:00 = 11:35瑠璃光寺12:15 = 12:20長州苑(昼食)13:15 = 14:00秋芳洞15:00 ---- 15:05土産物店15:30 = 15:30秋吉台15:50 = 16:20萩城下町17:10 = 17:15松陰神社17:55 = 18:05ホテル
1)錦帯橋
 バスは定刻にホテルを出て錦帯橋下の河原の駐車場に駐車した。ここからは中の3つの孤に比べ、両端の孤は弱い円弧になっている5連の太鼓橋・錦帯橋の全体像が良く分かる。
(河川敷駐車場から見る錦帯橋)
 河床から道路に上がって斜めから眺めると錦帯橋の姿が格好良く、下を流れる錦川と上の岩国城の建つ山並みと組み合わせて正に絶景になっていた。
(錦川左岸から見た錦帯橋)
 各自錦帯橋を往復してくることになり、私も杖を突いて和子の後を追って歩き始めた。最初の太鼓は板張りのままだが、傾斜が緩やかなので滑る恐れはない。雨や雪が降ったりしたら気を付けないと危なそうだ。
 二つ目からは傾斜が急なので階段になっている。杖を突いた私にはこっちの方が歩きやすかった。
(第一太鼓はなだらか)
(第二太鼓からは急坂で階段付)
 橋の上からは河原の広い駐車場に停まっている我がバスも見えていた。
 今は雨が少なく流れの巾は狭いが、水が透き通っていて鮎が泳ぐ姿も確認できた。
(河川敷駐車場)
(鮎が泳ぐ錦川の清流)
 ガイドさんから「対岸に着いたら有名な槍倒し松を見てきなさい」と言われていた。なかなか姿のいい松だったので錦帯橋との組み合わせを試みたが、松も橋も格好良く写ってなくて残念でした。槍倒し松の案内板
    この松は、岩国武士の負けず嫌いを表徴する有名な槍倒 ( こか ) し松です。
    昔諸国の大名が他藩の城下を通るときは行列の槍を倒すのが礼儀となっていたのですが、大藩が小藩の城下を通るときは、儀礼を守らず槍を立てたまま威風堂々と通ったものです。岩国藩が六万石の小藩であるため岩国の武士達はこれをみて憤慨し、そこでかなり成長した横枝のはった松の木をわざと橋の頭に植え、大藩といえどもどうしても槍を倒さなければ通ることができないようにしたものです。
    今では昭和十年 ( 1935年 ) の河川改修工事により道路や人家が堤防の上に移りましたが元は川辺りにあって、ここの石段が坂道になっていましたから大名が槍を倒して坂を登るのを見て岩国武士達は溜飲を下げていたということです。
    昭和十九年 ( 1944年 ) 頃、この地方に発生した松喰虫によって、この松も昭和二十七年 ( 1952年 ) 八月残念ながら枯れてしまいました。この松は初代の松の実から自生した直系のの松を昭和四十三年 ( 1968年 ) 二月十五日三代目槍倒 ( こか ) し松として吉香公園から移したものです。
    樹齢 300年  樹の高さ 14.5m  幹の周囲 3.7m  樹冠の面積 323u
(対岸の槍倒し松)
 岸の左右から眺めてみたり、河床に降りて下から見上げてみたり十分に楽しんでから、もう一度太鼓橋を渡って戻った。期待通り橋の眺めも良かったが、橋全体で飲食持ち込み禁止になっているせいか、ゴミが全く目に入らなかったのも気持ちのいい要因だったと思う。

2)防府天満宮 
 次は防府に移って防府天満宮に案内された。市観光協会によれば、
    学問の神様、菅原道真公を祀った神社で、京都の北野天満宮福岡の太宰府天満宮と共に日本三天神と称せられています。道真公は九州への西下の途中、防府に立ち寄りすっかりこの地が気に入り、自分が死んだら魂となって帰ってくると約束します。九州で公が亡くなった翌年(904)に、国司がこの地に松崎の社を建立し公を祀ったと伝えられ、日本で最初の天満宮として創建されたといわれています。
 脇に防府天満宮と刻した大きな石柱を見て、石大鳥居の一の鳥居を潜って石灯籠の列に挟まれた石畳みの参道に入る。
 青銅の二の鳥居を潜ると樹木に挟まれた石段の奥に赤い楼門が見えてきた。
(防府天満宮石鳥居)
(参道の石段)
 楼門は二階建ての様に見え、左右のガラス張りの中に弓矢を持った衛士が座していた。
 楼門を潜った境内の奥に拝殿がありお参りする。
(楼門)
(拝殿に参拝)
 境内の左手に二階建の春風楼があり、五重塔を建設の途中で断念した時のものを組み込んだ楼閣様式のお籠堂だとのこと。床下の組み物がそのものとのことだったが、欄間に飾られていた彫刻も手の込んだものだった。

(春風楼)
(床下と欄間の彫刻)
 おどうの一階は4面吹き通しで、この楼から眺める防府の街並みやその向こうに広がる瀬戸の風光は気持良く、春風楼という名が付けられたのがわかる様な気がした。。
(春風楼回廊からの防府市街展望)
 境内には「筆塚」や「野村望東尼像」「茶釜塚」「毛利重就像」など色々な碑が建っているのが見られ、色々由緒がありそうだ。
(筆塚)
(野村望東尼の像と茶釜塚)
(野村望東尼歌碑説明板)
(毛利重就像)
 天神本地観音堂や太鼓堂を眺めて境内を出ると、
(天神本地観音堂)
(太鼓堂)
 参道脇に大專坊跡と茶室芳松庵とが向かい合っていた。観光協会のHP
    大專坊跡:かつての天満宮の社坊のひとつ。毛利元就はここに本陣を設置し、大内氏を攻めました。幕末には、この地を警護する諸隊の屯所となりました。
    茶室芳松庵:菅原道真公はお茶に関する調査・研究をしていたことでも知られています。そこで、防府天満宮では、道真公と茶との深い関わりを後世に伝えようと、茶室設けています。
    四季の移ろいを楽しめる美しい庭を観賞でき、誰でも気軽に抹茶の接待を受けることができます。
(大專坊跡)
(茶室芳松庵入口)
 普段友人と茶道を楽しんでいる和子に「芳松庵の中に入って見たら」と薦めたが、周りを気にしてかその気がなさそう。私一人中庭に入って見ると、左に暁天楼の看板がある建物があり、中が休憩所のように見えたので入って見た。これは私の早合点、芳松庵の茶室はもっと庭の奥にあり、この建物・暁天楼は歴史のある建物で別物だった。一階には色々な古い民具が並べられ、壁には竜馬など大国人物の写真が飾れていた、部屋を通り抜けて裏庭に出ると暁天楼の案内板があった。
    暁天楼は、天満宮表参道第一鳥居から東へ半丁、宮市前小路に営む大旅籠「藤村屋」の建物の一部で、階下は漬物置場、二階に隠れ座敷をもつ。幕末維新激動の際、九代当主藤村孫七が尊皇の志が篤かったので、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、坂本龍馬等の志士達が、東奔西走する活動の途次、しばしば投宿し密議を計ったと伝えられ、近代国家誕生の一端を担った貴重な史跡である。この楼は、もと適義楼と呼ばれたが、山縣有朋等の発意により「冥味中に光明発動する」の意をもって暁天楼と改称された。大正四年に酒垂山西麓の神苑内に移築されたが、老朽が甚だしくなり、昭和三十年に惜しくも解体された。昭和五十八年秋、藤村屋の後裔、十一代当主で横浜市在住の藤村造作氏がこの楼との旧縁を偲ばれて暁天楼復元の願主となり巨資を寄進され、此処、旧圓楽坊跡地に楼の絵図面のままに復元再建したものである。
 裏庭には御神木の樹令800年のクスノキの古木が立っていた。どうしてご神木がこんな目立たない所に立っているのか不思議に思ったが、昭和時代に暁天楼がここに復元されたものだと知って腑に落ちた。
(暁天楼)
(御神木樹令800年クスノキ)
3)瑠璃光寺 
 次は山口市に移動して、西の京山口の瑠璃光寺を案内された。境内に入ると「二本の歴史公園100選 香山公園」の石碑が立っていた。奥に見えている五重塔を含めて、瑠璃光寺の境内全体が香山公園になっているらしい。
(瑠璃光寺入口)
(境内は香山公園)
 五重塔は境内のどこからでも見られ、この寺を有名にしているシンボルだ。池を前にした眺めが一番で逆さ塔も見られる。
 この木なんの木。左に進んだところに大きなサルスベリの木があり「ご進学に大人気! 滑りやすいサルスベリの木に 滑らずに大きく育つ松の木」と書いた板が取り付けてあった。上を見ると、サルスベリの木の途中から松の木が分れて大きく育っていた。
(五重塔)
(この木なんの木)
 その奥に「うぐいす張りの石畳」があった。ガイドさんが石畳みの上で足踏みしたり、手拍子を打ったりすると、向かいの石段の方からこだまが帰って来る。「皆さんもやってみて」と言われて、石畳の上に上がってみんな揃って足踏みしたりしたが、どれがこだまか判らなくなった。
 境内に入ったところには馬に乗った雄姿「大内弘世公の像」が立っていた。大内氏は南北朝時代、周防・長門・石見を守護した武将で、本拠を大内館から山口へ移転して、京都に倣って西の京として山口の市街を整備し、室町時代に栄えた大内文化の礎を築いた人とのこと。。
(うぐいす張り)
(大内弘世公の像)
 境内の奥には「保寧山」の懸額が掛かった山門を通ると、右に閻魔大王の後生車、左に身代り地蔵がある石段を登ったところに本殿があった。
 本殿は右のなで佛、左の布袋様を撫でてお参りした。
(保寧山瑠璃光寺山門)
(瑠璃光寺本堂)
 境内を一回りして外に出ると、すぐ前の道路向かいにお土産食事処の長州苑があり、ここで昼食休憩になった。
 二階のレストランで頂いた牛鍋御膳のそば寿司が珍しく美味しい味だった。
(長州苑)
(昼食・牛鍋御膳)
4)秋芳洞 
 昼食後は北西に山の中の道を延々と走って秋芳洞を案内された。岩手県の「龍泉洞」、福島県の「あぶくま洞」、高知県の「龍河洞」、山口県の「秋芳洞」、熊本県の「球泉洞」、沖縄県の「玉泉洞」石垣島鍾乳洞玉泉洞、黒谷入口から入ったが、その近くに来た時に見えていた秋吉台展望台に後ろ髪をひかれた。
 黒谷口からコンクリートのトンネルに入ると階段を下りたところから左右にタイムトンネルの絵が描かれていて、現代から古代までだんだんと昔に帰っていった。
(秋芳洞黒谷入口)
(タイムトンネル)
 タイムトンネルを過ぎるとまた階段があり、下ったところから洞窟が始まった。適宜照明が点いているので歩くに心配はない。
 その入口に、上から垂れ下がっている鍾乳石と、その雫で下から盛り上がってくる石筍とが合体しそうな石柱があった。隙間は1cm程度?とすると、合体するまでにまだ50年以上かかるとのこと。
(下りの始まり)
(鍾乳石と石筍が繋がった)
 少し進んだところに初めて名前のついたマリア観音と言う石像があった。これが石筍だとしたら、どんな仕掛けでこんな形が出来てきたのだろう。
 この先夥しい鍾乳石が垂れ下がり、両方の壁が迫ってくる狭い洞窟もあったが、狭い足場の通路は出口まで下り道が続いた。歩くのが楽なようにこの向きを選んでくれたのだろう。杖を突いてやっと歩いている私には有り難いかぎり。
(最初の造形・マリア観音)
(狭い洞窟が続く)
 そこから「石灰華の滝」や「大仏岩」「黄金橋」「空滝」など大きな造形が続いた。
(石灰華の滝)
(大仏岩)
(黄金柱)
(空滝)
 鍾乳石が天井から床まで繋がった「大黒柱」があった。下になるほど細くなっているので鍾乳石が下に伸びただけの世に見える。ここにも石筍があって繋がったのかなあ。
 天井から鍾乳石が無数に垂れ下がったところがあり「傘づくし」という名札が付いていた。
(大黒柱)
(傘づくし)
 天井からの滴で出来た石筍とは思えない「蓬莱山」「や「洞内富士」という名札が付いた盛り上がりがあった。洞窟が誕生した時に出来たものでしょうね。
(蓬莱山)
(洞内富士)
 何枚もの皿の様な池が集まった百枚皿も絶景、中国四川省を旅した時の黄龍の五彩池を思い出す。
(百枚皿)
 出口に近付くと「秋芳洞冒険コースの案内板があり、崖を登っていく踏み段が取り付けられていた。9:00〜16:00とあり、数年前なら迷わず登っていくところだが、今はその元気はない。
 同じところに「青天井」の名板があり、「入口から入ってくる明かりで天井が青く見えるでしょ」とあり、目には確かに綺麗に見えていたが、写真には上手く写すことができなかった。下の方に崖を鎖を頼りに下ってくる男性の姿が写っている。
(秋芳洞冒険コースと青天井)
 皆さんの後を追って洞窟の出口まで辿りついたところで、ホッとした私の姿を和子が撮ってくれた。
 洞窟から出たところが一般的な秋芳洞入口で屋根つきの橋になっていた。
(鍾乳洞歩き終わり)
(秋芳洞入口)
 料金所の前に「秋芳洞愛歌」の石碑が立っていた。
    永遠(とわ)の国から 湧(わ)いてくる
    愛の清水に 吸いよせられて
    影がより添う 秋芳洞よ
    ああ この水の 流れのように
    澄んだ私を あなたにあげたい
        星野哲郎詞(歌手 入山アキ子)
 途中でお土産屋に立寄って、街角で待つバスに乗った。
(秋芳洞愛歌)
(バス乗り場へ)
5)秋吉台 
 バスに乗って、次の秋吉台は車窓からの見物になった。「どこかに停まってカメラタイムを作ってほしい」と添乗員さんにお願いし「ガイドさんと相談してみます」の返事を貰っていたが、駐車場所がなかったようで駐車することはなかった。
 我家の座席の反対側の右側の方が秋吉台が山になっていて眺めがいい。通路側に座った和子が、右座席の人の前からシャッタチャンスを狙った。
(右車窓からの秋吉台(1))
(右車窓からの秋吉台(2))
 左の秋吉台は平地になっていて頭を出した岩の数も少なく、それも陽を背に受けて暗くて目立たない。
 そんな左車窓からも長者ヶ森が見えたのが唯一の救い。ガイドさんの説明内容は忘れたが、NETでは
    3億年前は、一帯が海だったと言われる日本最大のカルスト台地。その広大なカルスト台地で唯一の原生林なのが長者ヶ森です。
    昔、この地に住んでいた長者がいつしか没落し、それから幾年月、かつての長者屋敷の跡が森になったと伝えられています。
(秋吉台)
(秋吉台長者ヶ森)
(左車窓からの秋吉台)
 次の萩城下町に向かうと、萩駅前の広場に綺麗な花壇があち、そこに井上勝の像と機関車の動輪が飾られていた。井上勝は萩市出身で日本の「鉄道の父」と称される人とのことだった。
 萩駅からしばらく線路沿いを走って玉江橋にかかると、橋本川の河口の先に日本海に浮かぶ島がうっすらと見え、右に指月山が目立っていた。指月山の麓に萩城があったとのこと。
(萩駅と観光協会)
(橋本川と指月山)

6)萩城城下町
 玉江橋を渡ってすぐバスから降ろされ、城下町の案内が始まった。江戸屋横丁に入って旧野田家住宅脇を通ってところに円政寺金毘羅社の石鳥居があり、古びた「世界遺産 萩城下町」の立札と、真新しい「高杉晋作と伊藤博文両公幼年勉学之所」の立札が立っていた。参拝料要となっていて中には入らなかった。
(旧野田家住宅)
(円政寺金毘羅社)
 次は青木周弼青木周弼旧宅の前で説明。青木周弼は13代藩主・毛利敬親の侍医だった。日本屈指の蘭学医として有名だったらしく、全国から門下生が集まった大きな屋敷だったが、やはり中には入らなかった。
 次はよく聞いたことがある木戸孝之の旧宅。庭に入っただけで、広い屋敷の中は見学しなかった。
(青木周弼旧宅)
(木戸孝之旧宅)
 江戸屋横丁を行き止まって左に歩いていったところに「菊屋家住宅」の看板がある大きな家があった。
    藩の御用商人を務めていた豪商・菊屋家。屋敷は江戸初期の建築で、現存する商家としては最古の部類に属し、400年の歴史があります。主屋をはじめ5棟が国指定重要文化財に指定されています。
 菊屋の角を曲がってもしばらく菊屋の蔵などなまこ壁が並び、菊屋横丁の名で日本の道100選にもなっているとのこと。
(菊屋家住宅)
(なまこ壁・菊屋横丁)
 道路この道は上のマンホールの蓋にはなまこ壁の塀と夏みかんの絵が描かれていた。夏みかんは萩の名物の一つとのこと。
 菊屋横丁の中ほどに高杉晋作誕生地の石柱が立つ屋敷があり、説明があって通り過ぎた。
(なまこ壁と夏みかん)
(高杉晋作誕生地)
 角に晋作広場という公園があり、高杉晋作立志像がった。左手に刀を持った姿を真似して、杖を持って真似してみたが無理でしたね。
 駐車場のある中央公園に着くと、中央に馬に跨った勇ましい銅像が立っていた。山形有朋は日本の総理大臣になり、日清戦争の司令官まで務めた軍人だった。
(高杉晋作立志像)
(中央公園・山形有朋銅像)

6)松陰神社
 次は今日最後の松陰神社、城下町から阿武川を渡った先でバスを降りると、「(祝)松下村塾世界遺産登録」と書かれた標柱が立っていた。話によれば、2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として正式登録された、とのことだが、産業革命と松陰とは関係なさそう、これもどなたかのお声がかり?
 その奥に松陰神社の石鳥居が立っていた。
    吉田松陰は次々と新しい国の形についての意見を示し、ついには江戸で当時の江戸幕府に処刑されます。しかしその思想は弟子たちに脈々と受け継がれ、多くの志士を生み、彼らによって明治維新がなされたのです。弟子たちは明治新政府で要職につき、彼らは師であった吉田松陰を祀って「松陰神社」を建立しました。松下村塾のあった場所が、そのまま神社になっています。
(祝松下村塾世界遺産登録)
(松陰神社鳥居)
 境内に入ると「明治維新胎動之地」と刻まれた大きな石碑があり、明治維新100周年を記念して建てられたもので、この文字は当時の総理大臣佐藤栄作の書だとのこと。
 近くに松陰の歌碑があり、江戸伝馬町の獄中から萩の父杉百合之助に送った歌で、処刑を覚悟して書いた詩とのこと。
 親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん
(明維新胎動之地の碑)
(松陰辞世の句)
 その奥に松下村塾があって中まで案内された。
入口の部屋の壁には松陰先生を中心に多くの有名人の写真が飾ってあった。高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋など
(松下村塾)
(松陰に師事した有名人)
 写真の部屋の柱には傷がついており、塾生がままならぬ世に腹立ちまぎれに刀で切りつけた跡とのはなし。
 その奥には松陰が講義を行ったという少し広い部屋があった。
(刀傷)
(講義室)
 塾の奥には松陰が幽閉された杉家の生家があった。広い家で、外見では判らなかったが、二階の部屋もあった。
    松陰の生家である杉家の家族たちが住んでいた吉田松陰幽囚ノ旧宅。
    伊豆・下田で密航に失敗し自首し、江戸伝馬町の牢に捕らえられた。その後、萩に送られ野山獄に入れられた松陰。 安政2年に釈放となり、松陰の父・杉百合之助預けとなり、この一室に謹慎して読書と著述に専念した。
    この旧宅で家族に孟子や武教全書を講じるようになり、やがて松下村塾での門人たちへの教育へと発展していくこととなる。
(松陰幽閉の旧宅)
(部屋)
 幽閉されていた部屋は三畳ほどの狭い部屋。
 鬱々とした毎日を送っていた松陰に杵で米を撞かせると、物思いにふけりながら何時までも撞くので、米粒が半分にまですり減ったとのはなし。
(松陰幽閉室)
(米つき杵)
 杉家住宅の向かい側が松陰神社の本殿、その脇に門下生を祀った少し小ぶりな松門神社があった。
(松陰神社本殿鳥居)
(松門神社)
 今日は色々見学し結構歩いて満足いっぱいの一日でした。萩のホテルに入って外を眺めると丁度日没の時刻、日本海に沈む夕日を楽しんだ。
(ホテルの部屋からの夕日)
 夕食も豪華なふく尽くし膳、ビールを追加して賑やかに美味しく頂きました。
 隣の部屋から美声が響いてきて、カラオケ宴会が始まったなと思っていたら、その歌声の主は美形の女性でこっちの部屋にも移ってきて美声をを振りまいてくれた。
(ふく尽くし膳)
(美声のサービス)

 3日目へ

inserted by FC2 system