E101-2.瀬戸内海と世界遺産3ヶ所を巡るクルーズ
(2日目:新宮熊野古道伊勢路)

 今回は2日目の新宮での「語りべと周る世界遺産熊野古道伊勢路」を紹介します。

b)登山日:2017/10/04(水)〜09(月)
c)旅程:
 10月4日:森山町出発=(マイカー)= 大洗港= (日本丸クルーズ)
 10月5日:新宮港着= オプションツアー語りべと巡る熊野古道伊勢路 = (日本丸)
 10月6日:宮之浦港着 = オプションツアー屋久島半日観光 = (日本丸)
 10月7日:青方港着 = オプションツアー上五島写真家同行ツアー = (日本丸)
 10月8日:日本丸船上から瀬戸内海観光
 10月9日:(日本丸)=大洗港着=(マイカー)= 森山町帰着
d)同行者:旅行参加者370名、和子
(世界遺産クルーズ観光ポイント)

3.山行記録
3.2 二日目ー10月5日(新宮、熊野古道伊勢路)
 新宮港からは、大阪門、那智の滝、熊野那智大社などの熊野古道の中辺路を歩く定員の多いオプショナルツアーがあったが、中辺路、大辺路は以前歩いたこともあるので、語りべさんの話も聴くというのに魅力を感じ伊勢路古道は歩いたことがないのでこのツアーに参加することにしたした。

7:00新宮港入港 =8:00バス発 = 8:50鬼ヶ城9:30 = 9:35獅子岩9:50 ----(七里御浜歩いて)---- 10:10花窟神社10:35 = 11:10熊野速玉神社11:30 = 11:50新宮港着= 12: 00乗船にっぽん丸出港
(熊野古道伊勢路観光ポイント)
 通常時間より1時間早く用意された朝食を頂いて、新宮港に着くと岸壁にはお土産店の出店がずらりと並び、平安衣装の女性のにこやかなお迎えを受けた。
 時間になって7号車に乗り込むとガイドさんの挨拶や新宮町の紹介があって発車、続いて紹介された語りべさんはしょっちゅう熊野古道をガイドして、いつもは10kmも歩くこともあるという明るくお元気なおばちゃん。
(平安衣装のお出迎え)
(語り部さん)
 左手に格好のいい山が見え、その手前には堰のある川が流れていた。山は熊野古道が通る熊野の山か?川にも昔私の仕事だった水車があるだろうか気になる。

 紀宝町に入ると道が海岸沿いになり、右手に砂礫海岸が見えるようになった。熊野市からこの紀宝町まで約22Km続く日本で一番長い砂礫海岸で、これまでに「日本の渚百選」や「21世紀に残したい自然百選」にも選ばれているとのこと。
 荒々しい黒潮を受けとめるこの浜には、熊野川の上流から新宮を経て、熊野灘の荒波に磨かれた小石が敷き詰められています。「みはま小石」と呼ばれる色とりどりの小石は、“拾い子さん”の手によって拾われ、アクセサリーなどに利用されているとのことだった。
(熊野の山?)
(七里御浜)
 海岸沿いを説明を聞きながら走るうちにバスは北上して今回の最北端、鬼ヶ城の駐車場に着いた。駐車場からは舗装された遊歩道が整備されていて、階段を下りて遊歩道を海辺に向かって下っていくと、可愛い鬼丸君、鬼姫ちゃんの案内板が迎えてくれた。
 ここからも更に折返しの石段を下っていった。
(鬼ヶ城遊歩道)
(階段下りて)
 突き当りに真っ黒い鬼のモニュメントがあり「魔見ヶ島(マブリカ)」の説明板があった。
     魔見ヶ島は、鬼ヶ城の沖合約1.5kmに浮かぶ無人島で、地元ではマブリカと呼ばれ磯釣りやダイビングの人気スポットになっています。
     桓武天皇のころ、将軍坂上田村麻呂が鬼ヶ城の鬼の征伐を命じられた際、沖の魔見ヶ島に童子が現れ舞い唄い、鬼が油断して岩戸を開く一瞬に将軍が神通の矢を放ち、見事一矢でしとめたという伝説が残っています。
 そこから回り込んだ広場に「鬼ヶ城」の看板が立っていて、後ろに大きな口を開いて今にも喰らい付きそうな鬼の岩が見えていて、ツーショットの記念写真を撮ってもらう。
(魔見ヶ島:右手の小島)
(鬼ヶ城看板)
 ここで語りべさんが数枚の写真を出して説明があった。印象的だったのは鬼ヶ城の手前の急な崖に多くの人が座っているモノクロ写真、遊歩道整備に協力した地元の人たちの写真だと聞いたような気がする。
 岩棚に作られた遊歩道を進んでいくと、鬼の口の下に丸いトンネルが見えてきて、ここを潜った。
(語りべさん説明)
(鬼ヶ城へ)
 トンネルから出た先には広い岩棚があって、上を見上げると岩が波に浸食されたか岩肌は縞模様、ぶつぶつの瘤だらけになっていて、表面の薄い層だけ残されて垂れ下がって鬼の歯のようになっていた。
 更に奥に行って見返すと、広場は千畳敷のように見えた。岩肌にも「千畳敷」の名板が埋め込まれていたが、千畳敷の名前は隣県の白浜にもあったのを思い出す。
(鬼の歯?)
(上から見ると千畳敷の広さ)
 バスに戻って少し引返すと獅子岩の駐車場があり、崖の上に「獅子巌」の名板が立っていて、向こうの崖に正に獅子が吠えているような形をした岩が突き出ていた。
 語りべさんが少し左から「こっちの方がベストポジションですよ」とおっしゃるので行ってみると、なるほど下の崖の岩肌の裂け目が見えなくなり、獅子の口も空中により突き出して見えて怖そうだ。熊野市観光協会のHPには
      ■熊野灘に向かって吠える獅子の岩■
    世界遺産、そして天然記念物及び名勝「獅子岩」は、地盤の隆起と海蝕現象によってうまれた高さ約25m、周囲約210mの奇岩です。昔から南側に位置する神仙洞の吽(うん)の岩(雌岩)に対して阿(あ)の岩(雄岩)と呼ばれ、井戸川上流に位置する大馬神社の狛犬として敬愛されていました。このため、大馬神社には今も狛犬が設置されていません。毎年8月17日に開催される「熊野大花火大会」では、多くのカメラマンが集まる絶好の撮影スポットとなります。
(獅子岩の看板)
(ベストポイントから)
 この崖下の浜から急坂を下って浜にでるが、その前にモデルサービスをしてもらった。
 浜に降り立ってみると、足元には色とりどりの小石だらけだが、小石は全部丸く削られすべすべに磨かれた綺麗な石だった。岸近くにはハマゴウの花も咲いていた。
(語りべさんとツーショット)
(七里御浜の砂礫)
 語りべさんは浜の中ほどまで入って、「これが那智黒石です、みんなも探しみて。」と皆を誘う。近くに実家のある語りべさん、お婆さんが“拾い子さん”を生業として育ててくれていたが、今は那智黒石は殆ど拾い尽くされてなかなか見つからないとのこと。私も那智黒石探しをしたが、黒っぽい石も一杯ころがっているが、那智黒ほど真っ黒い石は見つからない。数人の人が「うん、それですよ」と言われている人もいた。和子も「これ本物だって」と嬉しそうに見せに来る。
 拾った石は持ち出し禁止で、拾った白い石を雄岩にある神仙洞のお宮に納めて浜を出るのが習わしとのこと。白い綺麗な石は沢山あったので、大きくて綺麗な石を拾い集めて花の窟神社に奉納した。
(七里御浜で那智黒石探し)
 浜を200mぐらい歩いてから車道沿いの遊歩道に上り、歩道をしばらく歩いていくと、向かいの達磨の形をしたい岩崖の上から、3本の飾りを吊るされた注連縄が海に向かって引かれているのが見えた。この崖が花の窟神社の御神体だとのこと。
 注連縄は一本の高い柱で一旦固定されてから向きを道沿いに変え、道を渡った向かいの地面に立てられた短い丸い支柱に注連縄の端が巻きつけられて固定され、支柱の上には榊が祀られていた。
(注連縄に三流の幡)
(注連縄の固定点)
 もう一度道の反対側に戻って見直すと、向きを変えた注連縄は支柱なしで松の木の上を跨ぎながら伸びてきていた。
(注連縄長さ170m!)
 年に2回の注連縄張替の時には、7人の男たちが長い注連縄を御神体の崖の上に担ぎ上げて端を固定し、下の男たちが海の中まで注連縄を引っ張り、途中の柱の上を通して方向変換、下の支柱に右回りに七曲り半させて固定するお祭りがあるとのこと。
(花の窟神社お網かけ神事:神社境内にあった説明板)
 注連縄の支柱脇の道を入っていくと花の窟神社の石柱と鳥居が立ち、その先に参道があり青い幟が立ち並んでいた。
(花乃窟神社鳥居)
(参道)
 途中にの横合いには赤い鳥居が立ち並ぶ稲荷大明神の参道があったが、ここはパス。
 その先、対の狛犬さんの先に入口門の様な社務所があった。
(途中には稲荷大明神の赤い鳥居が立っていて、)
(社務所)
 社務所を通ると神社の境内で、向かいの崖の窪みの前に大きな紙垂が祀られていて、囲いの前の標識には伊弉並尊(イザナミノミコト)と書かれていた。
 手前側にも小さな崖があり、その下には軻遇突智尊(カグツチノミコト)を祀ってあった。軻遇突智尊は伊弉諾尊と軻遇突智尊(イザナギノミコト)と伊弉並尊とのお子様。
(祭神伊弉並尊)
(祭神軻遇突智尊)
 正面の囲いの中を覗くと紙垂の前に「花乃窟神社」と彫られた標石があり、後に見える崖が御神体で、上を見るとこの崖の一番上から長い注連縄が引っ張られているのを確認することができた。
(花乃窟神社標石)
(御神体の上の注連縄を確認)
 駐車場前のお土産物屋さんには那智黒石で作った真っ黒い大黒天や蛙の置物が置いてあったが、お値段も立派だった。
 熊野川沿いまで戻ると紀勢線近くの小高い丘の上に大規模な石垣が見えてきた。これは新宮城跡の石垣とのことで、新宮城とは
    新宮城は紀州藩主浅野長晟の重臣・浅野忠吉によって築かれた城です。1600年(慶長5年)に築城し、いったんは1615年(元和元年)の一国一城令で廃城となりますが、1618年(元和4年)に再び築城しています。その後、徳川頼宣が紀州藩主として入国して以降は、付家老・水野重仲が城主となり、水野氏の居城として明治維新を迎えました。現在は、本丸跡付近が丹鶴城公園として整備され、「和歌山県朝日夕陽百選」にも選定されています。2003年(平成15年)8月には国の史跡に指定されました。また新宮市では天守の再建も視野に入れた整備計画が進行しているそうです。
(那智黒石の置物)
(新宮城跡の石垣)
 すぐに熊野速玉神社の駐車場に着いて境内に向かうと、まずは御神木の梛の古木を案内される。手書きの説明板には平和を祈るお言葉があった。
    御神木 梛
      熊野から世界へ捧げる平和の祈り
     熊野は祈りの聖地として憧れの異界であり「梛」の葉は霊感ある熊野詣の御守りとして古から大切にされてきました。
     熊野速玉大社の御神木 梛は、樹令約千年、日本一の梛の大樹として 崇められています。
     昭和四十七年、沖縄が本土に復帰した年、このご神木の苗木が沖縄の地に植樹され、四十年後、各地の農林高等学校で発見されました。立派に根づいているその姿に、沖縄の苦難の歴史が重なり一入感慨深く、当大社宮司のもとに平和を願う心ある人々が集い、平成二十四年六月「世界平和の祈り」が捧げられました。
     平重盛公が国安かれと御手植えされた梛の御神木は、千年の時を刻んで平和を象徴する霊木となり、訪れる人々を見守り続けています。
     どうか、心静かに手を合わせ、全ての命あるものを慈しみ、世界の平和を鬼の利ください。
        根本熊野大権現 熊野速玉大社
 その前に神宝殿があり、その前を武蔵坊弁慶が守っていた。この神宝殿には、室町時代に足利義満公が奉納したと伝えられる調度品を中心に、約千二百点にのぼる古神宝類を所蔵しており、いずれも国宝に指定されているとのこと。
(御神木梛の古木)
(神宝殿前の弁慶像)
 社殿の方に向かうと、手水舎があり、その奥に神門が見えた。
 赤い神門には「日本の祈り」と書いた大きな旗が垂れ、門の上に張られた注連縄は門の巾には不似合いなほど太かった。
(狛犬さんの間を通って)
(大きな注連縄の神門)
 神門を潜ると、一番有り難そうなご拝殿を前にして記念写真を撮ったが、その右にも赤い社が続いて綺麗だった。
(拝殿)
(右には多くの相殿)
 さらに境内の右側には新宮神社・恵比寿神社の二つの境内社の灯籠や鳥居も立っていた。
 拝殿前でお参りしながら太い注連縄の上を見ると「日本第一大霊験所根本熊野権現拝殿」という懸額が掛かっていた。 
(新宮神社・恵比寿神社)
(拝殿にお参り)
 バスに乗って速玉大社から南に向かうと、左上の山の中腹に大きな長い岩が乗っかっていて、その前に小さな社が見えていた。これは速玉神社よりも以前に神様が降臨した由緒ある神社との説明だったが、HPには次の記述があった。
    神倉神社は、熊野大神が熊野三山として祀られる以前に一番最初に降臨された聖地です。天ノ磐盾という峻崖の上にあり、熊野古道中の古道といわれる五百数十段の仰ぎ見るような自然石の石段を登りつめた所に御神体のゴトビキ岩があります。
    その巨岩群が神倉神社の御神体で、ゴトビキ岩と呼ばれています。
 語りべさんの大サービスで港に着いたのは出港時間ぎりぎりになっていた。今更のように日本丸の大きさを感じながら船に戻った。
(巨岩群を背にする神倉神社)
(日本丸は大きい)
 舟に乗るとすぐに出港見送りセレモニー、今日の主役は保育園児の鼓笛隊だった。向きを間違える子もいたりして、先生は動き回って指導するのに大変だった。
 銅鑼が鳴ってテープを投げていよいよ出港、可愛い黄色い声で「サヨウナラー、また来てね」と名残り惜しい。
(保育園児の鼓笛隊)
(サヨウナラー)
 港を出たら今日の昼食は六階レストランでの洋食、昼でも色々と皿が出てきたが、追加を頼んだがとても美味しかった。
 日本丸が通る紀伊半島の南端沿いを眺めていると、白いアーチ橋が見えてきた。紀伊大島と串本とを繋ぐ橋だった。
(ランチ)
(くしもと大橋)
 昼食が終わると17時半までフリータイム、紀伊半島を過ぎると陸地が見えなくなったので、デッキで行われる輪投げゲームに参加して楽しんだり、15時から入れる風呂に入って汗を流したり、後はベットに横になってゆっくりと休んでいた。
 デイナータイムになって美味しく食事していると、バンド隊が入ってきて賑やかな曲を奏でながら歩いていき、数か所のテーブル脇にとまって「ハッピーバースデイ トウ ユー」を唄いはじめる。誕生日がクルーズ期間中であれば誰でも申請して祝ってもらえるので、毎夜行われる誕生日セレモニーだ。
(輪投げゲーム)
(デイナー時に誕生日祝いバンド)
 今夜は夏川リミのコンサート、沖縄などのお話もお上手で面白く、歌の声も良く通って臨場感いっぱい、素晴らしいコンサートだった。撮影禁止。


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