E101-2.瀬戸内海と世界遺産3ヶ所を巡るクルーズ
(2日目:新宮熊野古道伊勢路) 今回は2日目の新宮での「語りべと周る世界遺産熊野古道伊勢路」を紹介します。 c)旅程: 10月4日:森山町出発=(マイカー)= 大洗港= (日本丸クルーズ) 10月5日:新宮港着= オプションツアー語りべと巡る熊野古道伊勢路 = (日本丸) 10月6日:宮之浦港着 = オプションツアー屋久島半日観光 = (日本丸) 10月7日:青方港着 = オプションツアー上五島写真家同行ツアー = (日本丸) 10月8日:日本丸船上から瀬戸内海観光 10月9日:(日本丸)=大洗港着=(マイカー)= 森山町帰着 d)同行者:旅行参加者370名、和子
3.山行記録 3.2 二日目ー10月5日(新宮、熊野古道伊勢路)
時間になって7号車に乗り込むとガイドさんの挨拶や新宮町の紹介があって発車、続いて紹介された語りべさんはしょっちゅう熊野古道をガイドして、いつもは10kmも歩くこともあるという明るくお元気なおばちゃん。
紀宝町に入ると道が海岸沿いになり、右手に砂礫海岸が見えるようになった。熊野市からこの紀宝町まで約22Km続く日本で一番長い砂礫海岸で、これまでに「日本の渚百選」や「21世紀に残したい自然百選」にも選ばれているとのこと。 荒々しい黒潮を受けとめるこの浜には、熊野川の上流から新宮を経て、熊野灘の荒波に磨かれた小石が敷き詰められています。「みはま小石」と呼ばれる色とりどりの小石は、“拾い子さん”の手によって拾われ、アクセサリーなどに利用されているとのことだった。
ここからも更に折返しの石段を下っていった。
魔見ヶ島は、鬼ヶ城の沖合約1.5kmに浮かぶ無人島で、地元ではマブリカと呼ばれ磯釣りやダイビングの人気スポットになっています。
桓武天皇のころ、将軍坂上田村麻呂が鬼ヶ城の鬼の征伐を命じられた際、沖の魔見ヶ島に童子が現れ舞い唄い、鬼が油断して岩戸を開く一瞬に将軍が神通の矢を放ち、見事一矢でしとめたという伝説が残っています。 そこから回り込んだ広場に「鬼ヶ城」の看板が立っていて、後ろに大きな口を開いて今にも喰らい付きそうな鬼の岩が見えていて、ツーショットの記念写真を撮ってもらう。
岩棚に作られた遊歩道を進んでいくと、鬼の口の下に丸いトンネルが見えてきて、ここを潜った。
更に奥に行って見返すと、広場は千畳敷のように見えた。岩肌にも「千畳敷」の名板が埋め込まれていたが、千畳敷の名前は隣県の白浜にもあったのを思い出す。
語りべさんが少し左から「こっちの方がベストポジションですよ」とおっしゃるので行ってみると、なるほど下の崖の岩肌の裂け目が見えなくなり、獅子の口も空中により突き出して見えて怖そうだ。熊野市観光協会のHPには ■熊野灘に向かって吠える獅子の岩■
世界遺産、そして天然記念物及び名勝「獅子岩」は、地盤の隆起と海蝕現象によってうまれた高さ約25m、周囲約210mの奇岩です。昔から南側に位置する神仙洞の吽(うん)の岩(雌岩)に対して阿(あ)の岩(雄岩)と呼ばれ、井戸川上流に位置する大馬神社の狛犬として敬愛されていました。このため、大馬神社には今も狛犬が設置されていません。毎年8月17日に開催される「熊野大花火大会」では、多くのカメラマンが集まる絶好の撮影スポットとなります。
浜に降り立ってみると、足元には色とりどりの小石だらけだが、小石は全部丸く削られすべすべに磨かれた綺麗な石だった。岸近くにはハマゴウの花も咲いていた。
拾った石は持ち出し禁止で、拾った白い石を雄岩にある神仙洞のお宮に納めて浜を出るのが習わしとのこと。白い綺麗な石は沢山あったので、大きくて綺麗な石を拾い集めて花の窟神社に奉納した。
注連縄は一本の高い柱で一旦固定されてから向きを道沿いに変え、道を渡った向かいの地面に立てられた短い丸い支柱に注連縄の端が巻きつけられて固定され、支柱の上には榊が祀られていた。
その先、対の狛犬さんの先に入口門の様な社務所があった。
手前側にも小さな崖があり、その下には軻遇突智尊(カグツチノミコト)を祀ってあった。軻遇突智尊は伊弉諾尊と軻遇突智尊(イザナギノミコト)と伊弉並尊とのお子様。
熊野川沿いまで戻ると紀勢線近くの小高い丘の上に大規模な石垣が見えてきた。これは新宮城跡の石垣とのことで、新宮城とは 新宮城は紀州藩主浅野長晟の重臣・浅野忠吉によって築かれた城です。1600年(慶長5年)に築城し、いったんは1615年(元和元年)の一国一城令で廃城となりますが、1618年(元和4年)に再び築城しています。その後、徳川頼宣が紀州藩主として入国して以降は、付家老・水野重仲が城主となり、水野氏の居城として明治維新を迎えました。現在は、本丸跡付近が丹鶴城公園として整備され、「和歌山県朝日夕陽百選」にも選定されています。2003年(平成15年)8月には国の史跡に指定されました。また新宮市では天守の再建も視野に入れた整備計画が進行しているそうです。
御神木 梛
熊野から世界へ捧げる平和の祈り 熊野は祈りの聖地として憧れの異界であり「梛」の葉は霊感ある熊野詣の御守りとして古から大切にされてきました。 熊野速玉大社の御神木 梛は、樹令約千年、日本一の梛の大樹として 崇められています。 昭和四十七年、沖縄が本土に復帰した年、このご神木の苗木が沖縄の地に植樹され、四十年後、各地の農林高等学校で発見されました。立派に根づいているその姿に、沖縄の苦難の歴史が重なり一入感慨深く、当大社宮司のもとに平和を願う心ある人々が集い、平成二十四年六月「世界平和の祈り」が捧げられました。 平重盛公が国安かれと御手植えされた梛の御神木は、千年の時を刻んで平和を象徴する霊木となり、訪れる人々を見守り続けています。 どうか、心静かに手を合わせ、全ての命あるものを慈しみ、世界の平和を鬼の利ください。 根本熊野大権現 熊野速玉大社 その前に神宝殿があり、その前を武蔵坊弁慶が守っていた。この神宝殿には、室町時代に足利義満公が奉納したと伝えられる調度品を中心に、約千二百点にのぼる古神宝類を所蔵しており、いずれも国宝に指定されているとのこと。
赤い神門には「日本の祈り」と書いた大きな旗が垂れ、門の上に張られた注連縄は門の巾には不似合いなほど太かった。
拝殿前でお参りしながら太い注連縄の上を見ると「日本第一大霊験所根本熊野権現拝殿」という懸額が掛かっていた。
神倉神社は、熊野大神が熊野三山として祀られる以前に一番最初に降臨された聖地です。天ノ磐盾という峻崖の上にあり、熊野古道中の古道といわれる五百数十段の仰ぎ見るような自然石の石段を登りつめた所に御神体のゴトビキ岩があります。
その巨岩群が神倉神社の御神体で、ゴトビキ岩と呼ばれています。 語りべさんの大サービスで港に着いたのは出港時間ぎりぎりになっていた。今更のように日本丸の大きさを感じながら船に戻った。
銅鑼が鳴ってテープを投げていよいよ出港、可愛い黄色い声で「サヨウナラー、また来てね」と名残り惜しい。
日本丸が通る紀伊半島の南端沿いを眺めていると、白いアーチ橋が見えてきた。紀伊大島と串本とを繋ぐ橋だった。
デイナータイムになって美味しく食事していると、バンド隊が入ってきて賑やかな曲を奏でながら歩いていき、数か所のテーブル脇にとまって「ハッピーバースデイ トウ ユー」を唄いはじめる。誕生日がクルーズ期間中であれば誰でも申請して祝ってもらえるので、毎夜行われる誕生日セレモニーだ。
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