E101-4.瀬戸内海と世界遺産3ヶ所を巡るクルーズ
(4日目:上五島) 今回は4日目の上五島での写真家同行コースの様子を紹介します。 c)旅程: 10月4日:森山町出発=(マイカー)= 大洗港= (日本丸クルーズ) 10月5日:新宮港着= オプションツアー語りべと巡る熊野古道伊勢路 = (日本丸) 10月6日:宮之浦港着 = オプションツアー屋久島半日観光 = (日本丸) 10月7日:青方港着 = オプションツアー上五島写真家同行ツアー = (日本丸) 10月8日:日本丸船上から瀬戸内海観光 10月9日:(日本丸)=大洗港着=(マイカー)= 森山町帰着 d)同行者:旅行参加者370名、和子
3.山行記録
3.4 四日目ー10月7日(軍艦島周遊、上五島ツアー) 4日目は、日の出前からにっぽん丸のデッキの上から1時間以上軍艦島を眺めながら周回し、その後3時間航行して上五島の青方港に入港してから船上で昼食後バスに乗って、島の東端からキリシタンの島だった頭ヶ島に渡って天主堂を見学し、帰り遠浅の美しい蛤浜で遊び、レンガ造りで美しい青砂ヶ原天主堂を眺め、矢堅目で公園からトトロ岩を見て、製塩工場の見学をした。 6:10軍艦島7:30 = 11:50上五島直方入港 = 12:30バス発 = 13:20頭ヶ島天主堂13:50 = 14:20蛤浜14:40 = 14:55青砂ヶ原天主堂15:20 = 15:30矢堅目公園15:45 = 16:10矢堅目製塩所16:30 = 16:45上五島直方着= 16: 50乗船にっぽん丸出港17:00
(軍艦島) 4日目の日の出前に軍艦島が見えるようになり、前夜講義して貰った講師と一緒に、島の周りを周遊してくれるにっぽん丸の上デッキから1時間以上眺めていた。 見え始めた時、軍艦島の左に中の島が見えていたが、軍艦島に近付いて船が島の周りを右回りに回り始めると中の島はだんだんと右後に移動し、それに従って軍艦島の形も変わってきた。 端島(はしま)は、長崎県長崎市(旧高島町)にある島である。明治時代から昭和時代にかけては海底炭鉱によって栄え、東京以上の人口密度を有していたが、1974年(昭和49年)の閉山にともなって島民が島を離れてからは、無人島である。軍艦島(ぐんかんじま)の通称で知られている[2]。2015年、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、軍艦島を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録された
明るくなると昨夜の講演者が現れて、実際の軍艦島を前にしての説明が始まった。スライドよりも実物で説明された方が現実味があって分かりやすい。
しばらく停船していた船はまた右回りに動きだして説明が続いた。
一番右端は端島病院と隔離病棟、 その左に立つ大きな建物は9階建でコの字型をしている、 その前に7階建ての端島小中学校、 丘の頂上近くに端島神社の社だけが残ってぽつんと立っている。 丘の上の建物群が目立って見えるが、これらは日給鉱夫の社宅、 その左の丘の上に見えるのは職員の木造の役宅跡、その上に灯台が白い頭を出している。 丘の崖下左に見えるのが、大正時代に建てられた日本最古の7階建て鉄筋コンクリート造りの高層アパート。 軍艦島はもともと小さな岩礁で石炭の採掘を行っていたが、明治時代に三菱炭鉱に移ってからの長年の埋め立て工事により3倍の広さになり、全周堤防で囲まれた。外洋に面する西側の堤防の方がく、いところは15mに達する。軍艦島は全体に経年劣化して手直しが入っていて、無傷で残って世界遺産に認められているのはこの堤防のほんの一部だけ。 軍艦島の周りの海底1000m以上の深部広くに広がっていて、陸地から800m近い竪鉱を掘って、四方に2000m以上の水平坑道を何本も掘って採掘していた。 Wikipediaによれば 端島(はしま)は、長崎県長崎市(旧高島町)にある島である。明治時代から昭和時代にかけては海底炭鉱によって栄え、東京以上の人口密度を有していたが、1974年(昭和49年)の閉山にともなって島民が島を離れてからは、無人島である。軍艦島(ぐんかんじま)の通称で知られている。2015年、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、軍艦島を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録された
奥に大きな火口がある山が見えてきて雲仙岳かと思って見ていたが、このとき雲仙が見えるはずはなかった。何処を航行しているかもわからないまま景色だけを楽しんでいて、こんな思い違いをしていた。
港には出店の長いテントが出来ていて、歓迎の人も集まっていた。屋久島より人口が多いだけ賑やかで、向かいの港には他の大きなクルーズ船も入っていた。
中村さんが「ここが好きな撮影ポイントです。」言ってバスと停め、みんなバスを降りてシャッタを押した。
重厚な感じの天主堂の外観に対し、中に入ると礼拝堂は優しい華やいだ感じ、特に太陽を受けたステンドグラスの窓が綺麗だったが撮影禁止。 この天主堂の歴史について、ながさき旅ネットによれば 1軒をのぞいて皆キリシタンだったという頭ヶ島。五島崩れの時、信徒は牢から全員逃げ出して島を離れ、迫害が終わってからこの地に戻ってきた。頭ヶ島天主堂は、鉄川与助の設計施工により、近くのおくろ島から切り出した石を、信者らが船で運び組み立てた。 2001年に国の重要文化財に指定、世界遺産登録を目指している。
カトリック弾圧は、この最果ての島にまで及び、とらえられた信者は、はげしい拷問を加えられ、棄教を迫られました。「算木責め」という拷問では、角に削った材木を5本並べた、その上に座らせられ、1枚45sほどある板石を次々にひざの上に乗せてゆかれます。気絶すれば水をかけられ、正気に戻され、痛みを増すために石を揺すられたりもしました。板石は、ついには顎にまで達しますが、それでも、けっして「転ぶ(棄教する)」とは言わなかったといいます。
キリシタン墓地についてながさき旅ネットによれば、 弾圧の中で強く生き延びた信者たちの歴史を、その多くが海辺から物語っている。日本の墓地にある石碑と同じ形状のお墓だが、石の上にはクルスが添えられている。頭ヶ島墓地では5月頃に咲くピンク色のマツバギクが訪れる人を楽しませてくれます。その他にも、いろとりどりの花に囲まれる墓地は、町内の29ヵ所ある教会とともにある。
砂紋の中にヘビがいるのに気が付いて「ヘビがいるよ!」と和子に大きな声で呼びかけたら、和子だけでなく近くの女性たちも一斉に「いやー!」と言って遠のいていた。ちっとも動かないので近くで良く見たら海藻だった。
浜の入口に戻ると、草地の中にハマユウの群落があり、一株だけ咲き残っていたので一枚パチリ。
青砂ヶ浦天主堂は赤いレンガ作りの美しい教会で、中村さんのお奨めのポジションから鐘楼も入れてシャッタを押してみた。この天主堂についてWikipediaの記述 青砂ヶ浦天主堂は、長崎県を中心に数多くの教会堂建築を手がけた鉄川与助が建てた3つ目の教会堂であり、煉瓦造りの教会としては2つ目となる。ユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載が決まった「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する教会の一つであったが、構成資産の見直しにより外され、「世界遺産の構成資産と一体的に保存・継承していく資産」とされている。 平面規模は間口11.3メートル、奥行23.4メートル。外壁はイギリス煉瓦積。西側正面は3層に区切り、バラ窓や縦長のアーチを設ける。正面入口左右には柱頭に葉形装飾のある円柱があり、その上部を尖頭アーチとする。内部はアーケード(連続アーチとそれを支える柱列)によって身廊と左右の側廊に分け、身廊、側廊ともに天井は四分割リブ・ヴォールトとする。内部壁面は漆喰塗で、側廊窓にはステンドグラスを設ける。この天主堂は内外ともに意匠が優れ、日本人の手になる初期煉瓦造キリスト教建築の代表的作品の一つである。 礼拝堂の中にも入って見ると、頭ヶ島天主堂に劣らず綺麗だったが、ここも撮影禁止。
下の道にカーブミラーがあり、中村さんから「これに写る天主堂もいい被写体ですよ」と教えられて写真にしてみた。中村さんも一緒に写っている。
トトロ岩が見え隠れする奈摩湾沿いを走っていくと、突き当りに矢堅目公園の駐車場あって、そこから石段を登っていった。
左右に綺麗な海が見えていて、青砂ヶ浦が気になって右の奈摩湾の写真ばかり撮っていたが、この矢堅目公園は東シナ海に沈む夕日で有名で、撮った写真には「矢堅目の入日は、大変美しい景観である。」との記載があった。左側は逆光で眩しかったのか東シナ海の写真は残っておらず、記憶も定かでない。
五島列島の清冽な海水から作りだされる塩。工場の見学と観光スポットの写真展、五島茶のサービス、塩や五島うどん、お菓子が並ぶ物産館などがある。 矢堅目の塩とにがり入りのソフトクリームもおすすめ。
工房案内が終わって売店で矢堅目の塩の入ったソフトクリームを買ってのどを潤し、五島うどんなどなどのお土産を買ってから、二階の展示場で上五島の写真展を眺めた。上五島にキリスト天主堂が多いのを今更のように認識させられた。
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