F61-3.伊豆兄弟会3日目 1.動 機 兄弟会三日目最終日、天城高原のホテルを朝出て1時間ほどで修善寺温泉に到着して、伊豆半島で最も古い木造建築物指月殿などにお参りし、ジオリアで今回歩いた伊豆半島の名所を思いだしながら勉強し、和の雰囲気あふれる竹林の小径を歩いた。その後、達磨山で西伊豆海岸の展望を楽しんでから十割そばを味わい、伊豆の国市に下って源頼朝配流の地蛭ヶ島、有形文化財旧上野家住宅などを見て、韮山反射炉やお台場建設で有名な江川江川太郎左衛門の生家江川邸を見学し、三島駅でジャンボタクシーともサヨナラして今回の兄弟会は解散した。 2.データ b)登山日:2018/6/3(日) c)コースタイム:かんぽの宿伊豆高原9:10 = 10:15指月殿・頼朝の墓・十三士の墓10:25 = 10:45ジオリア11:35= 11:45竹林の小道11:55 = 12:15達磨山レストハウス12:30 = 12:45ささや(昼食)13:20 =14:10旧上野家住宅14:20 = 14:25江川邸14:50 =15:25三島駅15:56 =16:33品川駅16:45 =18:22大甕駅18:30 = 18:50自宅 d)同行者:3兄弟2夫人、和子 3.山行記録 荷造りをし、朝食を済ませて9時過ぎに二日間お世話になったホテルを出発、また桜並木を走って伊豆高原ともサヨナラし、県道12号を走って松川湖の片隅を眺めて、
次は伊豆最古の木造建築物・指月殿に行ってみましょうと、狭く長い階段道を案内された。
指月殿は、修善寺温泉で暗殺された悲劇の鎌倉二代将軍源頼家を弔うために、母政子(源頼朝の正妻)が建立したもので、鎌倉時代初期建立、伊豆最古の木造建築。 安置されている迦如来座像は、通常は何も持っていない釈迦像が右手にハスの花を持っているのが特徴。
南想塔 太平洋戦争の慰霊碑である。昭和十六年秋名古屋にて編成された独立自動車四十五大隊は、大東亜戦争緒戦にジヤワ・スマトラ作戦に参加。後に主力はビルマ方面に転戦、戦運我になく戦友相ついで南雲の下に散る。昭和廿一年復員の後有志集い修禅寺に於て法要を重ね今日に至る。激戦の年より茲に廿三年英霊追善のため仏縁深き修禅寺に塔一基を寄す。
その横に「お伺い石」という去年修復されたばかりの真新しい石の置物があった。願をかけてこの石を持ち上げると、願いが叶う者には軽く持ち上がり、 叶わぬものにはずっしり重く感じられると云われ、持ち上がらない人はまた指月殿にお参りしなければならないとのこと。
熊野権現(湯谷権現)がこの地に祭られてありしは古く天明六年(1768)の記録にもあり古来 温泉の祭り神として人々の信仰篤く 祭礼等も行われ居りたるも戦後の廃社に伴い御神体は日枝神社に遷座奉安し今日に到れり されどここに志ある人々の奉仕を得 史蹟再現の意味もこめて新たに小祠を建立せしものなり。
その脇に竹筒から流れ出す「弘法の湯」があり、説明板に「余り飲み過ぎないでください」とあったが、一杯飲んでみた。御利益あったかな?
歴史を感じながら歩いた修善寺温泉を出てから、次は県道18号を西伊豆スカイライン近くまで登って達磨山レストハウスの駐車場に入った。展望台からは駿河湾が一望のもと、その向うに愛鷹山から箱根までの山並みが広がっていた。
昭和14年に開かれたニューヨーク万国博覧会へ、ここから撮影したさ2.7m、巾32.7mの及ぶ大パノラマ写真が、日本政府より出品され大絶賛を博しました。これは、日本を代表する富士山を世界に紹介するためにーーー。
製作 昭和52年4月 修善寺観光協会
駐車場出口に小さな公園「きよせの森」があり、そこに立っていた銅像を有名な外人宣教師の像かと思って見たが、像の下の名板には「交通安全達成の像」とあった。
修善寺に戻ると恰好のいい岩山が見えてきた。城山というロッククライミングの山らしい。
下田街道を北進し、伊豆の国市という初めて聞く名前の町の反射炉入口交差点を曲がって行くと、見たことのある韮山反射炉が見えてきた。 駐車場脇に見えていた壊れた木柱構造物の下に舞台があり、若者たちの演技が行われていた。構造物は何かを表現した芸術だったのか?
反射炉から少し行ったところに蛭ヶ島公園があり、蛭ヶ島の説明板があった。蛭ヶ島が初耳だったので転写する。 蛭ケ島(ひるがしま)(源頼朝配流の地跡)
このあたりを、韮山町四日町字蛭ケ島といい、平治の乱で敗れた源義朝(よしとも)の嫡子、兵衛佐頼朝(ひょうえのすけよりとも)配流の地といわれている。狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河(ふるかわ)・和田島(わたじま)・土手和田(どてわだ)等の地名が現存するところから、往時な大小の田島(中州)が点在し、そのひとつが、この蛭ケ島であったことが想像される。永暦元年(1160)14才でこの地に流された頼朝は、治承4年(1180)34才で旗挙げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流20年間における住居跡等の細部は詳らかではない。しかし、「吾妻鏡(あずまかがみ)」治承4年によれば、山木攻め(頼朝旗挙げ)ぃの頃は、妻政子(まさこ)の父、北条時政の館(当地より西方約1.5粁の守山(もりやま)北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの約17年間を、ここ蛭ケ島で過ごしたものといえよう。当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2年(1790)豆州志稿(ずしゅうしこう)の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、韮山町の有形文化財に指定されている。また、この碑の西側にある高い碑は秋山富南の頌徳碑で、豆州志稿の増訂に当った荻原正夫が、明治26年に建立したものである。 伊豆の国市
「蛭島碑記」の石碑が立っていたが、古びていて何が描いてあるのか判断出来なかった。
最後にこの地の名家江川邸、広い枡形の広場の片隅にあった券売所で入場券を買って、表門から邸内に入った。入口に古い解説板があったが、NETを見るともっと分かりやすい説明があった。 指定史跡「韮山役所」の中にあり、国指定重要文化財
主屋は単層入母屋造りの壮大な建物で、「小屋組づくり」と呼ばれる幾何学的な屋根裏の木組みは、今日でいう免震構造になっています。三和土の土間には立ち木をそのまま柱にしたと伝えられる「生き柱」や、日蓮直筆の「火伏せの護符」を納めた棟札箱が見られます。これまで一度も火災にあっていないことから、文書類・書画・武具を始めとする様々な品が残っており、その一部は屋内に展示されています。 江川家は42代・900年続く大和源氏の末裔で、江戸時代には旗本として11代273年間、天領伊豆の代官を務めました。歴代の代官はいずれも治安維持と民政に意を注ぎ、百姓一揆は一度も起きていません。特に36代江川太郎左衛門(坦庵)は名代官として知られ、海防の必要性から沿岸測量、韮山反射炉やお台場の建設、わが国最初の様式帆船建造や種痘の実施、パン製造など多大な業績を残しました。邸内には「パン祖の碑」が立てられています。 門を入ると正面に大きな母屋を見えたが、見学コースは右に曲って庭の中へ。
母屋内に入ったところは古い竃があり、行事の時には火が入るとのことだったが、大丈夫なのかな?
台所に上がって大きな茶釜が下がった囲炉裏などを見て、次の部屋へ移ると多くの書物や書画が数多く展示されていた。数人の入場者の前で説明員が話をしている姿があったので、ここから一緒に付いて歩いた。
土間から外に出たところの裏門前に「パン祖江川坦庵先生邸」の名板が取り付けられた記念碑が立っていた。
幹事役の三男夫婦とも、品川駅で我が家が一足早く下りてサヨナラ、常磐線特急に乗って大甕駅に18時22分到着、和子が重いバゲージをガラガラ引っ張って我が家に無事到着、楽しく嬉しい三日間でした。 |