F101-5.にっぽん丸でゆく秋の日本一周クルーズ
(5日目:唐津市内観光)

1.動 機 
 五日目の朝にっぽん丸は唐津港に接岸、すぐにシャトルバスで呼子の朝市通り周りを1時間歩いてにっぽん丸に帰り、午後はオプショナルツアー「歴史ある町唐津半日観光」に参加して、唐津城〜虹の松原〜旧高取邸〜曳山展示場を見て回った。函館観光をダメにした台風24号に続いて25号が近づいてきて、次の寄港地は屋久島から瀬戸内海の広島になり、夕方唐津湾を出たにっぽん丸は、西に向かわず東に向かい関門海峡を通過していったのでした。

2.データ
a)山域:唐津市
b)登山日:2018/10/05(金)
c)旅程:
 10月5日:にっぽん丸唐津港接岸7:45〜唐津港バス8:30〜8:50呼子朝市・愛宕神社9:40〜10:00唐津港・にっぽん丸13:10〜13:20唐津城14:25〜14:30虹の松原15:00〜15:10高取邸16:05〜16:10曳山展示場16:35〜16:40唐津港・にっぽん丸17:10〜22:35関門橋下通過〜
(5日目の唐津市内観光ポイント)

3.山行記録
 朝になって日の出とともに陸地が見えてきて、和子が部屋の窓から写真を撮っていた。この記録を格好良く書くために、地図と突き合わせてみたがどの辺りか見当がつかないままになっている。時間から見て九州の陸地であることは確かだが。
 朝食はいつものように品数たくさん。
(朝日6:30)
(朝食7:13)
 朝食を終わった頃唐津港に入港接岸、4階デッキに上がって外を眺めると、正面に大島が大きく見え、その前に全農唐津石油基地のタンク群が立ち並んでおり、左の船首方向にロープで繋がった引き舟が見え、その後ろに相賀崎と神集島が見えていた。
(唐津湾:右引き舟と、中央大島の前の全能石油基地7:43)
 反対側のデッキに出ると大きな鋼鉄の構造物がぎっしりと並んだ広い工業港があり、その前に数人の紳士が黄色い歓迎幕を掲げて手を振ってくれていた。市長さんもおられるようだったが、人数少なく少々淋しい感じ、港近くは工場ばかりで商店や民家が見えず、人集めがままならなかったようです。
(工業港での歓迎式7:45)
 接岸後間もなく呼子朝市への無料シャトルバスの出発時間、これに乗って唐津北部の呼子漁港に向かった。漁港には「イカ踊る町呼子」の大きな看板が立っていた。呼子朝市は知っていたがイカ漁が名所の漁港でもあるらしい。
(船を降りてバスに乗って8:24)
(イカ踊る町呼子8:53)
 漁港すぐわきの呼子朝市通りを歩くと、ずらっと並んだ出店の中に生のイカやイカの加工品を売っているお店が多かった。
(呼子朝市通り9:21)
(呼子の朝市通り8:59)
 笑顔のみっちゃんの店に並んでいた一夜干しのイカが大きいのに驚いていると、すぐわきの情報ステーションには2m以上あるデッカイイカが2匹並んでいた。呼子朝市のゆるキャラで、ケンくんとサキちゃんという名前が付いていた。二人の名前を合わせると剣先イカになるのです。
(イカ売り8:59)
(ケンちゃんサキちゃん9:08)
 朝市通りを出たところに愛宕神社の石の鳥居があり、その奥に、怖そうな面構えの対の狛犬さんに守られた長い石段が続いていた。登って愛宕神社にもお参りしたかったがバスの時間が迫っている。ほかの面白そうな観光地があったので、お参りして次のバスに乗る手もあったが、午後のオプショナルツアーのために体力を温存しておいた方が良さそうなので、諦めてバス停へ引き返すことにした。
(愛宕神社9:24)
(石段9:24)
 呼子漁港に戻って、漁港の風情を眺めて無料シャトルバスに乗ってにっぽん丸に帰った。
(呼子漁港9:28)
 にっぽん丸に帰ってゆっくり休んでから、7階デッキまで上がって唐津西港を上から眺めた。想像以上に広い港にも驚いたが、この膨大な鋼材何のため?
(にっぽん丸7階デッキから唐津妙見埠頭を俯瞰10:49)
 速めに昼食を頂いて午後のオプショナルツアー「歴史ある町唐津半日観光」のバスに乗った。
(昼食12:08)
(市内半日観光バス13:02)
 最初に立ち寄ったのは、海に突き出た岬に建っている唐津城。街のレベルから見るとずいぶん高いところに堂々と立って威容を誇っているように見えた。市の案内書によると、この天守閣は当初の唐津城にははなかったもので、昭和41年に観光施設として建てられたものとのこと。
    唐津城は、豊臣秀吉の家臣、寺沢志摩守広高(てらざわしまのかみひろたか)によって慶長7年(1602)から7年の歳月を費やして築城されました。東西に伸びる松原が両翼を広げた鶴のように見えることから、別名「舞鶴城」と呼ばれています。
    その城主には寺沢、大久保、松平、土井、水野、小笠原の諸氏が任ぜられています。
    唐津城築城当初は、天守閣はありませんでしたが、昭和41年(1966)に文化観光施設として天守閣を建てました。天守閣内は郷土博物館になっていて、唐津藩の資料や唐津焼などが展示され、唐津の歴史に触れることができます。また、展望所からは玄界灘と虹の松原の雄大な景観や、松浦川と城下町唐津の風景を見ることができます。
    唐津城では現在、石垣修復工事を行っていますが、天守閣には通常通り入場できます。(平成31年度(2019)に工事完成予定です。)
 ガイド嬢に連れられて坂道登ったり石段登ったりーーー
(唐津城13:23)
(石段登り13:27)
 東城内の立て札が立つ広場に上がって歩いていくと、斜めに動く変わったエレベータに案内された。これに乗って一つ上の舞鶴公園まで楽ちんに登ることができた。
(東城内13:31)
(斜めエレベータ13:34)
 舞鶴公園からは、右に唐津港に続く虹ノ松原が見え、左に高島がぽっかりと浮いているのが眺められた。
(舞鶴公園から13:37)
 舞鶴公園は天守閣が立っている台地、堂々とした風格を間近から見上げることができた。
(展望広場から天守閣と化粧櫓13:42)
 天守閣の5階が展望台になっていて、東西南北見渡すことができた。西には西浜の左に城下町唐津市街が広がっており、浜の先に見えるのは衣干山。
(天守閣5階から西13:49)
 北方向には唐津湾が広がり、大島、鳥島、高島が目立って浮いている景色が素敵だった。火力発電所の2本の煙突の向こうが呼子朝市の町の方向だ。
(天守閣5階から北13:48)
 東方向には虹の松原の湾曲した長い砂浜が見え、その右に台形の山が目立ている。鏡山または領巾振山(ひれふりやま)とも呼ばれる虹ノ松原の裏山、学生時代九州一周旅行に出かけた時に登った覚えがある。
(天守閣5階から東13:48)
 南東方向には大河・松浦川が伸びていて、両側に城下町下達の市街が広がっている。手前の長い橋がこれから虹ノ松原に渡る舞鶴橋、その向こうに見えるのは松浦橋、その向こうは筑肥線の鉄橋。
(天守閣5階から南東13:49)
 四方の展望を楽しんでから階段を下りていくと、3階に古唐津焼の展示があり茶器もあったりして和子興味津々、2階には唐津の歴史を紐解く展示物が並び、
(唐津焼フロア13:56)
(唐津の歴史フロア13:58)
 一階には唐津の観光資料が展示されていた。
 外に出ると石垣修復のための大きな石が転がっているのに気が付いた。
(唐津観光案内フロア14:10)
(石垣修復中14:11)
 観光バスに戻って松浦橋を渡って虹ノ松原の松林の中の道に入った。。
(バスに乗って14:30)
(松林の中を走る14:31)
 駐車場でバスを降りて、ガイドさんに連れられて広い松林の中の遊歩道を歩いて砂浜に出た。
(松林の中を歩いて14:36)
(砂浜に出た。14:39)
 砂浜からは左の小山に唐津城天守閣、右に向かって発電所の煙突、鳥島と大島との重なり、高島と並んで見えていた。
(砂浜游歩14:41)
 記念写真を撮ったり、貝を拾ったり、めいめい遊んでバスへ引き上げ、
 我が家はガイドさんとは違う松林の中の狭い遊歩道を歩いてバスに戻ってみた。
(説明終わり14:41)
(松林の中一人歩き14:48)
 次は旧高取邸の見学でした。唐津市のHPには
    旧高取邸は、杵島炭鉱などの炭鉱主として知られる高取伊好(たかとりこれよし:1850〜1927)の邸宅です。唐津城本丸の西南の海岸沿い、約2300坪の広大な敷地に、大きく2棟の建物が建っています。
    平成6年から平成7年にかけて行われた国の近代和風建築総合調査でその重要性が確認され、平成10年12月に国の重要文化財の指定を受けました。
    和風を基調としながら洋間をあわせ持つという近代和風建築の特色を備える一方、大広間には能舞台を設けるなど独特のつくりになっています。
    また、杉戸絵や欄間などの意匠にも見どころが多いのが特徴です。

    この邸宅は、伊好が自宅兼迎賓(げいひん)のために明治38年(1905年)に建てたものです。大広間棟にある板敷きの能舞台、植物の浮き彫りや型抜きの動物を施した(ほどこした)欄間(らんま)、杉板戸の絵など和風を基調としながらも洋館を設けるなど当時の最新の優れた意匠を見ることができ、近代和風建築のすばらしさが堪能できます。
    特に藤、山桜、垂れ桜、菊、松、紅葉が描かれた29種類72枚の杉戸絵は京都四条派の絵師:水野香圃(みずのこうほ)が約半年くらい滞在して描いたと言われています。自然の豊かさがいっぱいです。
    来賓用の玄関と主人用、家族用と3つもある玄関があります。風呂も、家族用と使用人用と別々にありました。外にはワインセラーの建物もあり、当時の豪商の凄さを伺うことができます。
    平成13年から17年度にかけて文化庁の指導のもと修復・復原工事を行い、建築規模が最大になった昭和初期の状態に復元しました。
 バスを降りて屋敷の塀周りの道を歩いていくと受付があって入っていく。中の広い庭には松を配置した素晴らしい眺めだったが、見どころは屋敷の内部だった。市の説明にもあるように、いろいろな趣向を凝らした部屋が続き、中に控えていたガイドさんの後をキョロキョロしながら歩いていたらすぐに1時間も過ぎていた。
(旧高取邸外塀15:19)
(高取邸庭園16:01)
 玄関わきにあった案内図を載せておきます。物凄い部屋数の邸宅であることが分かってもらえるでしょう。案内図をクリックすると2倍の大きさになり、説明文も読みやすくなります。
(玄関わきに立っていた旧高取邸の案内図:クリックで2倍15:19)
 肝心の部屋の中は撮影禁止だったので、屋敷の外回りの写真だけで豪華さを感じてください。
(高取邸裏15:58)
 (高取邸表玄関16:02)
 次は曳山展示場、唐津市の祭りで大勢に担がれて町中を練り歩くメインの曳山を展示してある。
      城下町としての唐津の町は、慶長の頃(西暦一六〇〇年頃)寺沢志摩守広高が唐津城を築いた時に始まりますが、唐津っ子の産土神である唐津神社の秋祭は、築城前の古くから行われていました。町人衆の篤い敬神の誠は、文政二年(一八一九年)刀町の赤獅子の奉納に現われ、以来明治九年までの五十七年間に十五台の曳山が次々と奉納され(うち紺屋町の黒獅子は明治中期に損滅)これらの貴重な町人文化の遺産は、幾多の苦難に耐えて守り継がれ、曳き続けられてきました。豊穣の秋祭「唐津くんち」は、毎年11月3・4日に行われていますが、2日の夜は宵曳山と呼び、14台の曳山は飾り提灯に彩られ、万燈に映える金銀丹青も鮮やかに華麗なる巡行が展開されます。
 秋例祭、唐津くんちの大きな絵巻の展示もあった。
(曳山展示場16:11)
(唐津くんち情景画16:12)
 鯱や鯛などをもじった大きな曳山が一堂に展示されていて圧巻。輪島のキリコ会館には囲いがなかったが、ここの曳山は全面ガラスで守られていた。。
(鯱:水主町16:16)
(鯛:魚屋町16:18)
(源頼光の兜16:16)
(亀と浦島太郎:材木町16:18)
 最後は唐津神社。唐津の町の中心部にある唐津神社は、入口にそびえたつ白い一の鳥居が印象的、そのの後ろにも二の鳥居、三の鳥居と一列に並んでいてその奥に拝殿が見えていた。
 建てられたのが奈良時代といわれる古い社で、拝殿は歴史を感じさせる風情があった。唐津の最大のお祭り「唐津くんち」は、唐津神社の秋季例大祭で、11/2〜4に14台の曳山が唐津のまちを練り歩きます。とのこと。
(唐津神社一の鳥居16:26)
(唐津神社拝殿16:23)
 境内には多くの境内社があり、正一位稲荷社の社は鳥居の右にあり、その後ろに赤い鳥居の火伏神社が、
 その隣に廿日恵比寿神社が並んでいた。
(正一位稲荷社・赤鳥居の火伏神社16:24)
(廿日恵比寿神社16:25)
 バスでにっぽん丸に帰って一休み後、2階ダイニングルームに入って、夕食時は毎度賑やかに回ってくるにっぽん丸バンドチームのハッピーバースデーソングを聞きながら、海の幸いっぱいの夕食を美味しくいただいた。
(夕食前菜17:56)
(ハッピーバースデイバンド18:01)
 台風25号が日本に近づいていて、これから予定の屋久島に向かうとちょうど台風を直撃される。にっぽん丸は台風が来ても波の静かな瀬戸内海に進路を変えた。夕食後にドルフィンホールで三遊亭歌奴さんの独演会を聞いた後、「夜10時半ごろ関門橋の下を通過する」との船内放送があり、みんなデッキに出てその時を待った。10時までなら関門橋がライトアップされていたのだが30分過ぎていた。交通安全のための照明だけが頼り、撮影には無理だった。前後に撮った写真が写っていれば格好いいのだが、それと分かるのは真下から撮った一枚だけだった。
 関門海峡を夜中に通過した証拠には、カメラの写真より、テレビに映っていたにっぽん丸現在位置表示を撮った写真の方がいいかも。
(関門橋下通過22:35)
(にっぽん丸現在位置表示22:37)
(関門橋下通過前22:35)
(関門橋下通過寸前22:35)
 関門海峡通過を確認してからお風呂に入っていい気分になってベットに入った。いい一日でした。


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