F101-6.にっぽん丸でゆく秋の日本一周クルーズ
(6日目:広島市内観光)

1.動 機 
 六日目の朝にっぽん丸は広島の宇品港に接岸した。疲れが出たのか午前中寝入ってしまい、午後無料巡回バスを使って、広島城、原爆ドーム、平和記念公園とみて歩いて、またバスでにっぽん丸に帰った。夜は台風の影響が来ない瀬戸内海を東走、落語や歌姫を楽しんでいるうちに来島海峡大橋の下を通って、四国の東端の小松島に向かった。

2.データ
a)山域:広島市
b)登山日:2018/10/06(土)
c)旅程:
 10月6日:にっぽん丸宇品港接岸7:40----フリーバス13:00〜13:40広島城14:50----15:15原爆ドーム15:25----15:30平和記念公園15:50----16:00フリーバス16:30〜にっぽん丸宇品港出港18:00〜22:20来島海峡通過〜
(6日目の広島市内観光ポイント)

3.山行記録
 夜が明けると大きな島影が見えていて、TVのにっぽん丸航行図を見ると宮島のある厳島だった。今日はこの宮島参りをするオプショナルツアーも企画されていて、「屋久島へ行くよりも良かった。」と喜んでいる声も聞こえていた。
(厳島6:33)
(にっぽん丸航路6:46)
 唐津産鯵の干物や小豆と大根とお粥などの朝食を頂いて、一人4階展望デッキに出てみると、廿日市や広島の多くの河口を見ながら航行して元宇品港に着いた
(朝食6:59)
(元宇品港7:22)
 左に宇品島、右に金輪島を見ながら入港、防波堤のない外港に接岸した。急なことなので歓迎会はない。外港の船の向こうには黄金山の鉄塔と、手前の広島高速3号の宇品大橋が目立っていた。
(広島港入口の金輪島7:41)
(宇品外港7:41)
 海側を眺めると朝日の眩しい光を映す海の向こうに金輪島、その右は江田島、瀬戸内海に水平線はなかった。
(海側パノラマ:宇品大橋・黄金山〜朝日〜正面金輪島・江田島7:41)
 陸地側にはオプショナルツアーのバスが待機していて、左には市営桟橋の入り江、背の高い先の尖ったパラダイスタワーが目立っち、右側には宇品の白い工場群が立ち並んでいた。後ろの山は雲に隠れて見えなかった。
(陸側パノラマ:パラダイスタワー・待機バス・宇品の街と工場7:44)
 4階デッキから降りて部屋に入った時に、「私はトイレから出てベッドに横になっていきなりグーグー鼾をかき始めたので、そのまま寝かせておいた。」と和子の弁。にっぽん丸では定期的に観光地を巡回する乗り降り自由のフリーバスを用意していて、前夜、きょう午前中の予定も立てていたのだがオジャン、船の昼食を頂いてからやっと市内観光に出かけることになった。
(昼食12:42)
(午後から無料バスに乗って13:03)
 バスは京橋川沿いなど市内のメイン通りを走って広島城の駐車場に入った。ガイドさんには城内mapが立っているお堀端まで。
    広島城は毛利輝元によって築かれた城です。聚楽第を手本にしたといわれ、築城の際には黒田官兵衛がサポートしたそうです。完成当初は当時の大坂城に匹敵する規模の城だったといわれており、大坂城や岡山城らとともに初期近世城郭の代表的な城として知られています。戦争で倒壊した天守は1958年(昭和33年)の「広島復興大博覧会」開催にあわせて再建されました。二の丸の平櫓・多聞櫓・太鼓櫓および表御門も1989年(平成元年)から行われた改修の際に再建されており、内部を見学することができます。水堀越しに見る天守の美しさは格別です。
(京橋川13:24)
(駐車場を出て13:43)
 城内にあった広島城の歴史を記した説明版の写真を参考に添付します。
(史跡広島城跡の歴史13:49)
 お堀を渡る御門橋入口から表御門を見ると、右の平櫓と合わせてお城の風格十分、期待感が高まる。
 表門を入ったところは二の丸だったが、ここは出るときに見ることにして本丸に向かう。二の丸から本丸の中門へは橋ではなく両側を石垣で固められた広い道、樹木の茂る本丸は風情も風格もあるように見えた。
(御門橋を渡って表御門へ13:43)
(二の丸から本丸へ)
 堀沿いに延びる石垣に古木の枝が垂れ下がっていていい風情。
 本丸に入ると左手に広島護国神社の大きな鳥居が立っていた。鳥居の中の広い敷地には立派なつくりの拝殿、本殿が見えていた。お参りはパス。
(本丸の石垣13:44)
(広島護国神社13:50)
 護国神社の建つ本丸下段からまた石段を登って本丸上段に上がると目の前の樹叢の上に天守閣が見えてきた。写真の手前に見える石碑には城内の配置図が描かれているように見える。歩いている時には気に留めなかった石碑だが、ずいぶん古そうに見える。いつ頃の作だろう。
 天守閣の敷地はまた一段と高くなっていて、近くで見る5階建ての天守閣は一段と迫力がある。観光協会のHPには
    廃藩置県後は城内に陸軍の施設が置かれ、徐々に城内の建築物も失われていきましたが、天守閣や、いくつかの城門、二の丸の櫓群などは残されていました。しかし、昭和20年(1945)8月6日の原子爆弾投下により、これらの建物は壊滅しました。現在の天守閣は昭和33年(1958)に外観を復元して建てられ、内部は武家文化を中心に紹介する歴史博物館となっています。広島城関連遺跡からほぼ完全な形で出土した貴重な金箔鯱瓦は時期を限定して公開しています。人気の体験コーナーでは、よろいかぶとや、裃、打掛などの時代衣装を身に着けて記念写真の撮影もできます。昭和28年(1953)に史跡指定された城跡内では、往時の石垣や残された内堀を見ることができます。また、平成6年(1994)までに二の丸の建物が木造で再建され、内部を見学することができます。 (1〜4階はコンクリート造りだが最上階の5階だけは完全木造とのこと。)
(天守閣へ13:53)
(天守閣へ石段登って13:55)
 天守閣の中に入ると、1階から4階の各階に巻物や鬼瓦、武家屋敷の部屋などいろいろな展示物があったが、撮影禁止ですでに記憶おぼろ、記念写真用の武家の衣装だけ撮っておいた。
 5階まで上り下りする階段は広く、上り下りで右左に分離されていて手すりはピカピカ、1958年60年前に再建されたものとは思えない。
(記念写真用貸衣装14:03)
(中の階段14:07)
 5階は展望台になっていて、南北東西の出入り口の上にポイント名板入りの展望図が掛かっていた。
(北方向:市営基町高層アパート14:10)
(南西方向:リーガロイヤルホテル・原爆ドーム・大アリーナ14:11)
(南東方向:RCC中国放送・合同庁舎14:12)
(東方向:広島ガーデンシチー・RCC中国放送14:12)
 天守閣からの展望を楽しんでから下に降り、本丸を歩いて二の丸跡に戻った。二の丸の両端に建つ平櫓と太鼓櫓をつなぐ廊下が通る長い多門櫓を見ただけ。そこにあった説明版を転記しておきます。
     史跡 広島城跡二の丸跡
     この石垣と建物に囲まれた二の丸は馬出しの機能をもつ郭(くるわ)で、全国の近世城郭の中では特異な配置であり、広島城の特徴とされています。
     この郭は、毛利時代(16世紀末)に築造されたもので、外側から内部が見えにくく、本丸からは内部が見える構造としており、防御機能を考慮したことがうかがえます。
     郭内には、表御門、太鼓櫓など近世初期の建物が残っていましたが、原爆により倒壊、焼失しました。現在の建物は、築城400年を契機に、江戸時代の姿を復元整備したものです。 広島市教育委員会
(二の丸跡へ戻る・突当り多門櫓14:36)
(二の丸跡説明版14:38)
 次の原爆ドームに向かうべく、表門を出て御門橋を渡って駐車場とお堀の間の小公園の道をまっすぐ歩いていくと、黄色い花が咲いて綺麗な花壇があり、真ん中に綺麗な裸女像が立っていた。精花苑というらしい。
 「文化の道」の刻印が埋め込まれている歩道を歩いていくと、広島城の平櫓から太鼓鼓とその間をつなぐ多門鼓がお堀に沿って格好のいい被写体になっていた。
(精花苑14:50)
(表門・平櫓・多門櫓・太鼓櫓14:51)
 原爆ドームに向かうために、ここで城南道を地下道で渡った。向かいには広島美術館があったが、今日は美術鑑賞の時間はない。
(地下道を歩いて14:53)
(ひろしま美術館14:57)
 美術館の隣にリガホテルの高いビルがあり、その近くの歩道に変わった形のモニュメントが立っていた。名前、いわれは不詳。
 原爆ドームの隣接地に屋上まで伸びる高いショウウインドウに大小の折り鶴を飾ってある「おりづるタワー」というビルがあった。展望は近くの広島城で済ませていたのでパス。
    広島の新たなランドマークとして、2016年に世界遺産の原爆ドームや平和記念公園のすぐ隣に建てられた高さ51.5メートル、地上14階、地下2階の複合商業施設です。カフェ、物産館、おりづるの壁などの観光施設の他、オフィスや貸会議場なども兼ね備えています。屋上の展望台「ひろしまの丘」からは広島の街を眼下に、その風を肌で受け止めながら時間の流れとヒロシマを知ることができます。
(リガホテル・基町クレド前のモニュメント15:03)
(おりづるタワー15:12)
 原爆ドームの敷地に入ると「慰霊」と大きな文字が彫られた岩の碑が立っていた。これは
     広島県地方木材統制(株)慰霊碑
    建立年月日 昭和42年(1967年)8月6日
    広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)の中に、広島地方木材株式会社の本社がありました。原爆の直撃を受け、役職員百余名がドーム内外で被爆殉職しました。
 ドームの周りには多くの石碑が立っていたが、原爆ドームが世界遺産に登録されたいきさつ。
     世界遺産原爆ドーム
    人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える歴史の証人として、また 核兵器廃絶と恒久平和を求める誓いのシンボルとして「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)」に基づき世界遺産一覧表に記載された。
    平成8年(1996年)12月7日 広島市
(広島県地方木材統制株式会社慰霊碑15:14)
(世界遺産原爆ドーム15:16)
 原爆ドーム全体が見えるところにあった碑文
     原爆ドーム
    昭和20年8月6日、史上はじめての原子爆弾によって破壊された旧広島県産業奨励館の残骸である。
    爆弾はこの建物のほぼ直上約600メートルの空中で爆発した。 その1個の爆弾によって20万をこえる人々の生命が失なわれ半径約2キロメートルに及ぶ市街地が廃墟と化した。
    この悲痛な事実を後世に伝え人類の戒めとするため、国の内外の平和を願う多数の人々の寄金によって補強工事を施し、これを永久に保存する。  昭和42年8月6日 広島市
(原爆ドーム15:16)
 原爆ドーム横の元安川に架かる現相生橋の下流側には「橋銘板碑」が立っている。これは被爆後に補修された2代目の橋の橋名板を、現橋架け替えの際に再利用したものである。橋の歴史を刻んだ説明板も設置されている。というが、説明が漢文なので判読不可能。
 その南にはこの近所(旧・猿楽町、現在の紙屋町2丁目)で生まれた鈴木三重吉の「鈴木三重吉文学碑」が置かれている。下流側は赤い鳥の表紙を模し、上流側は三重吉直筆の詩が刻まれている。
    「私は永久に夢を持つ
     ただ年少時のごとく
     ために悩むこと浅きのみ
           三重吉」
(旧相生橋碑15:18)
(鈴木三重吉文学碑15:18)
 原爆ドームの周りを歩いてみたが、ドームの格好いいもの2枚。
(北側から:原爆ドーム15:13)
(北西側から:原爆ドーム15:15)
 ドームの南側に回り込むと広くなっていて芝生の中に数本の柱だけが立っていた。何らかの建物が建っていて、原爆で上部が完全に吹っ飛ばされた残骸と思われ、原爆ドームがドーム部分まで綺麗に残ったのは奇跡的なことなのだろうと思われた。
 次は元安川対岸の平和記念公園、原爆ドームから出て元安橋に向かうと橋のすぐ手前に綺麗な噴水があった。何か謂れのある噴水だと思ってシャッタを押しておいたが、特に名のある噴水ではなさそうだった。
(南側の芝生にあったモニュメント15:21)
(元安橋袂の噴水15:23)
 樹木の多い平和記念公園を眺めると、4本柱の平和の鐘が見えていた。4本の柱に支えられているドーム型の屋根は宇宙を表現していて、この鐘の音を広島から世界のすみずみまで、ひびきわたらせ、全人類のひとりひとりの心にしみわたらせることを願っております。とのこと。今日はコースに入れていない。
(対岸の平和記念公園:樹間に平和の鐘15:23)
 元安橋を渡って歩くと北側の公園の中に「原爆の子の像」が見えてきた。

(原爆の子の像)
    「原爆の子の像」、三脚のドーム型の台座の上に少女の像が立っている。この像を建てるに至ったきっかけは佐々木禎子さんという少女の死が関わっている。佐々木禎子さんは2歳の時に原爆に被爆したが、その時は外傷もなく元気に成長した。しかし、10年後の小学校6年の昭和29年(1954年)の秋に突然白血病を発病し、8ヶ月後の昭和30年(1955年)10月に死去した。
     禎子さんの死を知った一青年と禎子さんの同級生が、原爆で亡くなった全ての子供達のために慰霊碑を作る計画を立て全国に呼びかけ、海外からの支援も受けて、昭和33年(1958年)5月5日にこの像が完成した。
     像台座の下に置かれている石碑には『これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための』と刻まれている。

     写真で像の後方にカラフルな物が入ったボックス様の物が見えるが、これは折り鶴置き場である。折り鶴は最初、像の下に置かれていたが雨よけや度重なる放火事件の対策としてこの置き場が平成14年(2002年)4月に設けられた。
 右公園奥にある平和の橋には行かないで、左の公園に入るとコンクリートの細長い池が見えてきた。池の入口には両手の手のひらを天に向けて開いている様を模したというコンクリートのモニュメントがあり、その中心に赤い火が燃えていた。
 細長い池の先には平和記念公園のシンボル「原爆死没者慰霊碑」があった。向こう側に回ってのぞき込むと、屋根型の慰霊碑の向こうに平和の灯と原爆ドームが見えていた。着想が素晴らしい。

(平和の灯15:32)
 平和の灯
今も火が灯り続ける
灯が1日でも早く消される日がくることを祈って核兵器廃絶を願って1964年8月1日に点火された灯は、世界から核兵器がなくなるまで燃やし続けられています。台座は大空に向けて手のひらを広げた形を表わしています。

 原爆死没者慰霊碑
材質:みかげ石「黒髪石」(石室部分)
みかげ石「稲田石」(屋根部分)(1985(昭和60)年の改築工事まではコンクリート製)
形態:屋根の部分は、はにわの家型(犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちからこの型にした)
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」(雑賀さいか忠義ただよし) 本人揮ごう
碑文の趣旨
碑文については主語をめぐるさまざまな議論がありましたが、広島市は碑文の趣旨を正確に伝えるため、日・英の説明板を設置し、「碑文はすべての人びとが原爆犠牲者の冥福を祈り戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である 過去の悲しみに耐え憎しみを乗り越えて全人類の共存と繁栄を願い真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている」と記しています。

(原爆死没者慰霊碑15:35)
 慰霊碑の横に「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」の円環状の建物があり、その中に水が流れ出す円形の池の中に変わったモニュメントが目立って見えた。8時45分を指している時計だと言われて納得。
 記念館祈念館の入口には若い人たちの行列ができていた行列が出来ていた。
     国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
    被爆体験記等を見ることにより、理解が深まる
    原爆死没者の追悼と恒久平和を祈念するための施設です。原爆投下時刻の8時15分を示すモニュメントがあります。館内では、被爆体験記や、原爆死没者の遺影などを見ることができます。
(8時15分のモニュメント15:38)
(国立広島原爆死没者追悼平和祈念館15:40)
 祈念館から振り返ると、原爆死没者慰霊碑を真横から見ることになった。埴輪の家はこんな形だったのか。切れ目が目立つのは御影石で作ったからかも。
     広島平和記念資料館
    原爆による被害の実態を世界の人々へ伝え、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現を訴えることを目的に、1955年に開館されました。東館と本館に分かれ、被爆者の遺品や、写真等の被爆資料を展示し、被爆の実相や原爆投下の経緯、広島の歩みなどについて紹介しています。
 平和祈念公園を南に向かうと、公園の全幅をふさぐように広島平和記念資料館が建っていた。現在耐震リニューアル工事中と書いた幕が張られて立入が制限されていた。
(真横から見た原爆死没者慰霊碑15:43)
(広島平和記念資料館工事中15:44)
 資料館の前で巡回フリーバスに乗ってにっぽん丸に4時半に帰りついた。3時間半ほどの広島観光、結構充実した気分、夕食も美味しくいただいた。ナプキンのバラのつぼみ折り、綺麗だったけど自分で折れるかな?
(パラのつぼみ折りのナプキン17:43)
(前菜:ナマズ型竹炭ソース17:56)
 夕食後、三遊亭歌奴の落語に笑い転げ、吉村美紀コンサート”洋上の微笑み”の美声に聞きほれているうちに「間もなく来島海峡大橋の下を通過します」のアナウンスが流れ、7階デッキに上がってだんだん近づく来島大橋にシャッタを押したが、橋が写っているのは数ショットだけだった。
(来島海峡大橋22:20)
(来島海峡大橋22:20)
 大橋下通過後お風呂に入ってベットイン、波穏やかな瀬戸内海の航行で安らかな眠りにつけました。


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