G82.第33回日立市平和展

1.動 機 
 新聞に「日立市平和展」が行われているとの情報を見つけ、久しぶりに日立市中心部まで出かけて平和展を見てきた。日立市の戦争被害が思っていたより大きかったことに驚き、同時に行われていた原爆被害コーナでの痛ましい被害者の姿を見て反戦、反原発の思いを強くし、終戦記念日に報告すると丁度いい題材になると思ったのだが、相変わらずスローペース、間に合いませんでした。

2.データ
a)山域:日立市
b)登山日:2019/08/09 

3.山行記録
 日立駅前のビックセンタの会場に向かった。センタ入口には「第33回日立市平和展」の大きな看板が立っていた。
 中に入ってすぐ横の一階ギャラリーが日立市平和展会場で、壁にたくさんの写真が展示されていた。
(シビックセンタ入口の看板)
(日立市平和展会場)
 展示資料を一つ一つ読んで理解しながら歩けばいいのだろうが、めんどくさいところは写真に撮って後から読み直すのが私の手法、今回は展示されている写真もほとんど全部写真に撮った。私が日立に来たのは1962年、終戦後17年すっかり復興した工業都市になっていたので、ここで展示されていた戦災後の酷さは想像を超えていた。(何か資料を見たことがあるのか、記憶のどこかには残っているような気はするのですが----。)

開戦まで
 すぐ入口にあった「戦争のはじまり」の説明版。戦争は一度始めると終わることができない。表をクリックすると2倍の大きさで読めます。
   戦争のはじまり
 次に「日本の戦争と日立市での出来事の年表」があった。1965年の6月10日、と7月17日、7月19日に大きな爆撃を受けており、7月26日には原子爆弾の投下訓練も行われたらしい。表をクリックで2倍の大きさで読めます。
(日本の戦争と日立市での出来事の年表
 次には下に簡単な説明が付いた多くの写真が展示されていて、開戦時期から終戦、復興に至るまでの状況をよく理解できるように配置されていた。写真には一般市民から提供されたものも多かった。

支那事変から日米開戦へ
 1937年支那事変勃発、日立の青年団から出征する団員の安全祈願、武運長久を祈願する集会を地域の婦人部を主とするグループが行った時の写真。
 1939年には慰問袋を戦地に送る日立高等女学校の生徒たちの写真。これは私が生まれた年の写真だが、広島の山奥の山村でも太平洋戦争への慰問袋を作った記憶が残っている。
(1937/8支那事変出征団員武運祈願)
(1939/慰問袋を戦地に送る日立高女)
 1938年の写真には、銃剣を持って校旗を掲げて整列した凛々しい中学生、漢口陥落を祝って行進をする日立中学校の勇ましい生徒の姿がある。
(1938/校旗を掲げる日立中学生)
(1938/漢口陥落大行進の日立中学生)
 大甕駅で列車に乗った応召軍人を、国旗を振りながら見送る国民の姿を写した写真。
 軍隊に青年が入営するのを祝う親族の写真。この光景は私の故郷でも見た覚えがある。
(1940/応召軍人の見送り大甕駅)
(1943/鹿島町の入営祝)
 1942年12月8日には太平洋戦争開戦1周年の日、「米英撲滅」を願い子供たちを集めて、日立市役所前広場で市長が講演を行った時の写真。
 1942年宮田新町の防火演習の写真。我が故郷でもバケツリレーをしたり、屋根に上がって水を撒いていた覚えがある。
 日立鉱山大雄院精錬所の建設が1908年に始まり、周辺に従業員住宅が次々と建設され、人々の生活が始まった。生活に必要な物資や設備は会社が供給したが、その他多種多様な物資を購う商店街が出現し、これが通称「新町」だった。
(1942/12/8太平洋戦争開戦一周年記念 国民学校生)
(1942/宮田新町の防火演習)
 1941年に太平洋戦争が始まると、勤労奉仕を義務付けた国民勤労報国協力令が発令され、14歳以上40歳未満の男子と14歳以上25歳未満の未婚の女子を比較的簡単な作業に無償従事させた。旗色が悪くなった1945年3月には、国民全員を根こそぎ動員する国民勤労動員令に変わった。
(1944/日立工場工場実習生)
(1943/多賀工場女子勤労報国隊)
米軍の攻撃と被害
 次には日立市が受けた1トン爆弾投下、艦砲射撃、焼夷弾攻撃の3度の爆撃の概要説明板と、被害の具体的な人数、戸数などを載せた被災状況表示板が並んでいた。
 次には焼夷弾攻撃を受けた時燃え上がる日立市街の様子を撮った貴重な写真が展示されていた。掲載のために写真を縦長に加工しました。
(日立市の戦災:クリックで詳細件数表を表示)
1945/7/19 焼夷弾で燃え上がる日立市街
 1トン爆弾の被害
1945/6/10 1トン爆弾攻撃直後の海岸工場変圧器工場 黒煙立ち込めスレート吹き飛び骨組みだけにとなった建屋
1945/6 海岸工場で1トン爆弾の不発弾5発を命がけで掘り起こして処理した宇都宮36部隊:
 艦砲射撃の被害
(艦砲射撃の説明)
(1945/7艦砲射撃で破壊された多賀工場)
(艦砲射撃日立鉱山電錬工場1945/10)
(電線工場研究室1945/11)
 7月19日の127機のB29による焼夷弾攻撃では日立は焼け野原になってしまった。
(焼夷弾攻撃で焼け野原)
(焼け野原になった日立市街地:神峰・宮田町付近)
(3次にわたる米軍攻撃による日立市の被害)

終戦から復興へ
 壊滅的な被害を受けた日立市でも、終戦の翌年には、進駐軍に収める大きな天井扇を製造したり、5月1日には労働組合がメーデーを行ったりしている。
(進駐軍納入天井扇1946/7)
(戦後初のメーデー1946/5/1)
 1946年の11月には昭和天皇が国民学校や日立工場などに行幸された。
 日立町と助川町が1939年9月1日に合併して日立市になりました。その10周年記念博覧会が1949年に行われました。
(天皇陛下の宮田国民学校視察1946/11/18)
(市制施工10周年記念博覧会1949/9/1)
 国の事業「戦災復興都市計画事業」に旧日立市と多賀町河原子、豊浦町川尻の市街地が指定され、これが新しい街づくりの出発点になった。これによって作られた1950年頃の今の日立市銀座通りになっている助川新道、平和通りになっている日立停車場線の写真があった。私が日立に入社した1962年には綺麗な舗装道路になっていた。
 今日立の名物になっている桜並木は、この時すでに植えられていたようだ。
(助川新道・銀座通り1950/)
(平和通り1952/)
 日立駅の駅舎は日立鉱山電車を通すために海岸口にあったが、今の平和通り正面に移ったのは1952年5月1日。写真にある駅前広場の円い池は、私が日立に移った時に残っていたかな?
 その隣には今も日立駅前に残っている平和の鐘の写真、戦後50年の1955年の建設。
(日立新駅1952/5)
(平和の鐘1995/)
 
 次のコーナーには広島と長崎に落とされた原子爆弾による痛ましい被害の写真が展示されていた。

原発被害:広島
(広島・長崎原爆投下パネル展)
(太田川畔テント救護所)
(原爆ドーム)
(全身熱傷の女子生徒)
(全焼全壊した市内電車)
(山口町建屋の上から南を望む)
(広島市の原爆被害)
原発被害:長崎
 
(きのこ雲)
(着物の柄が皮膚に焼き付き)
(岩川町から南方を望む)
(全身熱傷の被爆者)
(長崎市の原爆被害)
 悲惨は原爆被害の写真を見ていると、二度と原爆を使ってほしくないとの思いが強くなったが、原爆コーナの出口にナビタンのパンフレットが貼ってあった。ナビタンは日本比較宣言自治体協議会が発行する新聞のペンギン親子の愛称とのこと。知りませんでした。
 ギャラリーの一角にテレビ放映コーナがあり、地元で戦災の被害を受けたお年寄りの体験談が放映されていた。専門家ではないが、戦災の写真を見た後だったので、お話は真に迫っていた。
(ナピタンのへいわ小学校パンフ)
(日立被災者の体験談放映)
 2時間ほど平和展を見て外に向かうと、センタ入口広間には日立のお祭りを飾る華やかな日立風流物の実物が飾ってあり、外の新都市広場の真ん中にある噴水プールでは水浴びを楽しむ子供たちの姿があった。今の平和のありがたさを強く感じました。
(日立風流物)
(新都市広場の噴水プール)



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