H91.中国地方・四国・中部地方ドライブ(2)

1.動 機 
 今回は、1999年11月3日に横浜で高等学校の同期会、11月6日に広島県の三原で久井中学校の同期会が行われるとの案内が来て、ついでに四国と途中の中部地方を観光ドライブしてこようと11泊12日の二人旅を計画した。例によって写真が多いので、横浜、浜名湖、三原から、しらなみ街道までの@〜Dを第(1)報とし、四国地方のD〜Gを第(2)報、帰りのH〜Kを第(3)報と分割して報告します。
 これはその第2報です。

2.データ
a)山域:b)登山日:(地図の観光地にNoを打ったので、計画表にもNoを付けた)
(中国地方・四国・中部地方ドライブ観光地点)

3.山行記録
D11月7日(日)
 尾道の千光寺にお参りして、瀬戸内海をしまなみ海道を走って四国に渡った(ここまで1報)。
 愛媛県庁裏の駐車場に車を入れて城山公園に入ると、松の木や桜の木が綺麗に整備されていて、その上に松山城が見えていた。
城山公園は、明治7年(1874年)に本丸が「松山公園」として開設されましたが、明治19年(1886年)に廃止されました。
 明治43年(1910年)に再開されるとともに、新たに県庁裏と古町から登れる道が造られました。
 昭和23年(1948年)に都市計画公園緑地「城山公園」として告示され、堀之内には野球場・庭球場・ラグビー場・弓道場・県民館・陸上競技場が整備され、昭和31年(1956年)に都市公園になりました。公園のほとんどは、昭和27年(1952年)に国の史跡に指定されています。
 なお、この公園の一部は、財務省(四国財務局松山財務事務所)から土地を無償で借り受けて設置しています。
(城山公園 松山城)
 城山公園から松山市街を展望した写真には、左端に立つ高い鉄塔が目立って見える。これはNHKテレビの送信鉄塔らしい。
(城山公園から松山市街 )
 城山公園の脇の二之丸史跡庭園に入って整備された庭園を見学した。松山城二之丸の整然とした史跡に池や樹木を整備した庭園だった。
(二之丸史跡庭園)
(二之丸史跡庭園)
 二之丸史跡庭園から出て、城壁脇の登城道を上っている写真と松山城の奥にある乾楼門での写真があるが、他に松山城の写真がない。撮影禁止だったのか、お城に入る時間がなかったのか?

(二之丸史跡庭園入園券)

(乾楼門)
(松山城登城道)
 この日は予約してあった松山市の民宿まつやま、市内を探しながら走ってやっと到着でき、2段ベットでお休みした。

E11月8日(月)
 セルフの朝食をとって、7時45分に民宿出発、四国カルストに向かって石鎚山を眺めながら山の中の道を走って、先ずは八釜渓谷の甌穴群。渓谷入口の看板前での記念写真はあるが、肝心の甌穴群の写真がない。案内板には「行き20分、帰り30分」とハッキリ書いてあるので、これを見て恐れをなして、記念写真を撮っただけで通過したのだろう。
(四国カルスト県立自然公園:八釜の甌穴群)
(八釜渓谷)
 次には深い渓谷、黒川渓谷(柳谷キャニオン)を車道から撮った写真がある。八釜の甌穴群もこれと同じ川筋の河原にあるのだから、ここまで下って登り返すだけで一日仕事だったかも。
(柳谷キャニオン:黒川渓谷)
 次には折り重なる四国山地をバックにした地芳峠での写真がある。地芳峠は下を国道の地芳トンネルが通っている険しい山地の峠だ。ここから尾根沿いの四国カルストの絶景を楽しみながら走るドライブルートになり、愛媛県と高知県の県境を縫っていた。
(四国カルスト:地芳峠)
 地芳峠から東に3kmほど走ると姫鶴平の展望台があり、行く手には天狗高原迄いたるところに石灰岩が転がっているカルスト台地が広がっていた。こんな山奥にも大きな風車が立ち並んでいるのも目を惹いた。
(四国カルスト:姫鶴平から天狗平方向)
 姫鶴平の展望台近くの丘の上には一面石灰岩が埋め尽くしていていい眺め。その周りをぐるりと回る車道も造られていて、一層その存在を目立つものにしていた。。
(四国カルスト:姫鶴平から石山)
 更にその先には五段高原にも展望舎があった。。
(五段高原から)
 もちろん、石灰岩のすぐそばまで行って、記念写真を撮った。
(四国カルスト)
 四国カルストの東端である天狗高原まで走って、南に分かれる道を下って行った。
(天狗高原から)

 くねくねと県道を下っていくと、四万十川の源流部が見えてきた。ガラガラ石の河原を縫うように水が流れていた。
(悠久の大河四万十川上流部@)
(悠久の大河四万十川上流部A)
 くねくねとうねる四万十川に沿う道を下っていくと、段々と川幅が広くなって、水深も深くなって大河の様相を示してきた。
(悠久の大河四万十川中流部)
 四万十川を渡る田舎道の多くの橋は、高い橋桁を造るほどの建設費を掛けることができないので橋桁は低く、増水時には流れに沈んでしまう沈下橋になっていた。
(四万十川の沈下橋)
 どこまで行っても蛇行を続ける四万十川に沿って太平洋近くまで下っていくと、地名は四万十市になってきた。
(悠久の大河四万十川)
 河口近くで四万十川に合流する支流の後川が見えてきて、その脇に巾11mという小川があり、ここ小川にカタコトコットンの田舎水車がたくさん並んで回っていた。これが「安並の水車」、いい眺めでした。
 水車の里と呼ばれるこの地の水路工事は、周辺の四つの村に十分な水を供給したいということが理由でした。その規模は長さ160m、幅11mにもなります。四つの村とは安並・秋田・佐岡・古津賀となり、このうちの安並で見ることが出来るのが「安並の水車」なのです。
水路はかつて「溝」と言われており、四つの村に利用されたことから四ケ村溝と呼ばれていました。現在は約15基となっていますが、明治の頃には約50基が回っていたのです。
で は、なぜ数多くの水車が設置されたのでしょうか。それは水路だけを敷設するのでは、稲作用として水の利用が困難だったからです。この付近は平たんな地形となっており段差が少ないことから、数多くの水車を利用して水を高い所にくみ上げ、それを田んぼに流すようにしたのです。
(安並の水車@)
(安並の水車A)
 安並の水車から四万十川の火口に出て、少し南にある足摺岬まで走って国民宿舎に泊まった。

F11月9日(火)
 翌朝は足摺岬からの日の出を見ようと、朝食をキャンセルして6時20分宿を出た。海上の雲が高く、予定の6時30分になっても薄暗いまま、6時50分になってやっとオレンジ色の姿を見せてきた。
(足摺岬の日の出@)
(足摺岬の日の出A)
(足摺岬の日の出B)
(足摺岬の日の出C)
(足摺岬の日の出D)
 日の出を楽しんだ後、しばらく足摺岬を散策した。
 足摺岬の手前にはジョン万次郎の銅像が立っていた。ジョン万次郎は土佐の漁村に生まれ、後、いろいろな奇跡的な出会いもあってジョンマンの名前を貰って日本人として初めてアメリカに渡り、勉学に励んで優等生で卒業、捕鯨船に乗って資産を得て船を購入して日本に帰国した。帰国後は琉球、薩摩、長崎を経て土佐の藩校の教授になった。その後幕府に招聘されて江戸で日米の懸け橋として活躍した。とのこと。詳しくはジョン万次郎資料館のHPを開いてみてください。


(足摺岬)
(ジョン万次郎銅像)
(白山洞門)

先ずは足摺岬の東先端にある足摺岬灯台展望台。
 足摺岬の断崖にたつ白亜の灯台。高さ18m。光度46万カンデラ。光達距離38km。わが国でも最大級の灯台のひとつで、大正3年(1914)に点灯されて以来、すっと沖をいきかう船の安全を見守りつづけている。太平洋の大パノラマや詩情あふれる風景が楽しめ、ロマンチックムード満点。岬のシンボルとなっている。
(足摺岬灯台展望台から)
 次は足摺岬の中央部の急坂を下って、白山洞門の入口まで下りてみた。
 足摺岬は海蝕による洞窟、洞門に恵まれているが、白山洞門はその中でも最も大きく、高さ16m、幅17mの大きさがあり、花崗岩洞門では日本一の規模と言われています。この洞門は、今日なお基底を波に洗われており、かつ容易に近づける場所にあるので、研究にも観光にも恵まれた洞門です。 海岸に続く遊歩道があります。高知県の天然記念物に指定されています。
(白山洞門)
 足摺岬観光を7時半にきりあげて出発、四万十市を通り過ぎ、土佐市の横浪黒潮ライン、リアス式海岸を持つ横浪半島の尾根伝いを東西に走るドライブコースを、右に太平洋、左に内浦を見ながら気持ちよく走った。
(横浪黒潮ライン)
 次は高知市の海岸、よさこい節の桂浜で遊んだ。
 桂浜の丘には幕末の志士坂本龍馬の巨大な像が立っていた。像の高さは5.3m、台座を含めると13.5mもあるとのこと。
(桂浜)
(坂本龍馬像)
 桂浜で遊んでからは太平洋沿いから離れて、山中の道に入って吉野川奥の大歩危渓谷まで走った。渓谷には「岩に題す 天下第一 歩危の秋 新平」の大きな句碑があった。この句は、明治42年、時の逓信大臣後藤新平が紅葉に染まった大歩危峡の渓谷美に心をうたれて詠んだ句で、この句によって大歩危小歩危が景勝地として認知された。とのこと。
 大歩危渓谷は2億年もの間、吉野川の激流によって削られて造られた渓谷で、そそりたつ岩碧と清らかな流れが美しい調和を見せる素晴らしい渓谷だった。
 大歩危峡を形成しているのは、砂岩が変成してできた砂質片岩(さしつへんがん)表面は風化が進んでいて淡い青灰色だが、中には鮮やかな緑色をしている。岩質は硬くこの砂質片岩で出来た分厚い地層が波状に曲がりひびが入って、浸食されて大歩危峡が生まれました。
(大歩危峡)
 観光船で川下りをしようと思って船乗り場に行ってみたが、間に合わず残念!
 四国のまんなかにある大歩危峡(徳島県・大歩危祖谷温泉郷内)は、剣山国定公園の一角に数えられ、吉野川を挟んで両岸の岩は国指定(平成26年3月18日認定)の天然記念物になっております。大歩危峡は現在でも国道とJR以外では険しい道、断崖の場所にあります。大歩危峡はその名前の通り、ぼけ(崖)道で大股で歩くと危ない場所であり、断崖の渓谷美と険しい秘境が今でも残っている西日本有数の景勝地として知られています。大歩危の観光を満喫するには、大歩危峡観光遊覧船(川下り)に乗り、長い年月(2億数千年前)を経て侵食された岩の彫刻美と、紅葉や新緑の美しさなど、四季折々の景色をご堪能下さい。
(大歩危峡)
 吉野川の大歩危から隣の祖谷渓まで県道で山越えした。長さ45mの木製吊橋のかずら橋と紅葉との調和が素晴らしい。
(祖谷渓かずら橋)
 入場料を払ってかずら橋を渡ってみた。
(祖谷渓かずら橋)
 足場の丸太の間隔が広くて下が透けて見え、それも間隔が不ぞろい、手すりのかずら掴みにくく、心底びくびくしながら渡ったような気がする。
(祖谷渓かずら橋)
 かずら橋から祖谷渓沿いの道を下っていくと、車道沿いに「剣山国定公園」の広場があり、脇に立っている小便小僧が谷に向かって放尿している像が面白い。
(剣山国定公園)
 紅葉を楽しみながら祖谷渓谷沿いの道を下って行った。
(紅葉の祖谷渓谷)
 祖谷渓谷沿いの道は渓谷を削って造られたところもあり、道に覆いかぶさるような絶壁が続くところが続いた。
 祖谷渓谷沿いにある西祖谷山村の中には、急斜面の山地にジグザグの道で集落が作られているところもあった。観光地としては素晴らしいところだが、生活するのは大変なところのようだった。
(絶壁)
(西祖谷山村の民家)
 祖谷渓谷を下って吉野川沿いの道に出て、阿波池田の街まで走ってカンポ祖谷池田に泊まった。

G11月10日(水)
 カンポ池田を8時出発、琴平町金毘羅山に8時50分到着。早速金毘羅宮にお参り。
「さぬきこんぴらさん」で有名な金刀比羅宮は、象頭山の中腹に鎮座し、古来より海の神様、五穀豊穰・大漁祈願・商売繁盛など広範な神様として全国津々浦々より、善男善女の信仰をあつめてまいりました。
 参道口から御本宮までは785段、奥社までは1,368段の石段があり、参道には旧跡や文化財が多数あります。また、裏参道は、春は桜、初夏のつつじ、秋の紅葉など四季折々に変化し、悠久の時の流れは今もかわることなく、穏やかに過ぎてゆきます。
 金毘羅山には小学校6年生の修学旅行でお参りしたことがある。記念写真は本宮前で撮られたものだが、この時奥社まで登ったのかどうか記憶が定かでない。四国には船で渡った記憶がある。
(修学旅行の記念写真)
 参道入口から御本宮まで石段の数は785段(奥社まで行けばなんと1,368段)。頑張りましょう!
(一の坂)
 「一の坂」を登った先にあるのは荘厳な雰囲気「大門」。高松藩初代藩主・松平頼重侯により奉納された門と聞く。ここまで365段。振り返ると琴平の街並みが下に見え、随分登ってきたなあと実感。
(大門)
 大門を通って境内に入ると、商売禁止で商店はない。唯一物売りを許されている五人百姓の女性たちが大きな傘の下で加美代飴を売っていた。
(五人百姓)
 大門から石段を登ったり鳥居を潜ったりした先の右手に表書院があった。中に入って襖絵など鑑賞する時間はなかった。
(表書院)
 その先に五間幅の二階建て、全体が木彫りの彫刻物で飾られた大きくて豪華なお宮、旭社が建っていた。
金刀比羅宮の旧神宮寺の金堂として建立された。下重が方五間の大規模な二重仏堂で、明治に仏壇を廃して神座に改めている。意匠や細部手法がきわめて近世的で、上重の彫刻化した尾垂木や板軒、随所に嵌め込まれた彫刻等は、よく江戸時代末期の特徴を示している。
(旭社)
 「旭社」を通り過ぎると「御前四段坂」と呼ばれる石段が見えてきた。きつい「御前四段坂」を登りきると、やっと本宮に到着。全部で785段、修学旅行の小学生がよくここまで登ってきたもんですねえ!
(御前四段坂)
(本宮)
 本宮の右手に展望台があり、琴平の街並みの中に讃岐富士(飯野山422)がくっきりと見えていた。瀬戸内海はちょっと霞加減。
(本宮横の展望台からの眺め。讃岐富士(飯野山)をはっきり望めます)
 本宮からは少し自然の森に入った感じの道にいくつかの小宮を見ながら583段の石段、麓から合計1368段を登りきって、赤が目立つ奥社まで辿り着きました。
 奥社の脇には断崖迫っていて、岩の上の方にカラス天狗と天狗の彫り物が見えていたはず。この写真では小さすぎて、どこにあるのか分からない。(写真をクリックすると拡大写真が出てきます。) 
(赤い奥社)
(天狗とカラス天狗)
 下りに絵馬堂に立ち寄ると、海洋冒険家堀江健一さんのモルツマーメイド号の実物が展示されていた。

 この「モルツマーメイド号」は、一九九六年に南米エクアドルから東京まで、約一万六千キロに及ぶ太平洋を単独で横断した際、百三十八日間行動を共にした相棒だ。地球の環境保全と資源の有効活用をテーマに、船体に、ビール缶にして二万二千個分のアルミ材を再利用して造った船で、世界で初めての試み。もちろん動力源には、太陽電池を使ったソーラーボートだ。長さ九・五メートル、幅一・六メートルほどの大きさだが、最先端の技術が詰まっている。アルミはリサイクルの優等生。それを実証してみせた船だ、とも自負している。
 そんな思い出深いモルツマーメイド号の落ち着き先が、九六年暮れ、正式に金刀比羅宮に決まった。奉納は一年後の九八年一月二十二日。全国で唯一、本物の船の奉納だ。船体の一部が奉納、紹介されている例はあるが、一艇まるごととなると金刀比羅宮だけ。海にゆかりのこんぴらさまに、私の分身である船を預かっていただくことになり、大変光栄なことだと思っている。 堀江謙一
(絵馬堂のマーメイド号)
 本宮迄下ってくると、丁度紅葉祭りに神事が始まるところだった。時間を見計らっていたのかもしれない。白い衣装の巫女さんたちが、紅葉の枝をもって奏上する姿は清らかで見ていても気持ちいい。

毎年11月10日、紅葉祭を齋行いたします。春の桜花祭と共に、金刀比羅宮の優雅な特殊神事です。
午前9時半より、神職・巫女の行列が、伶人の奏楽を伴い、大門から御本宮まで優雅に参進します。神職は冠に紅葉の小枝を差し、巫女は手に紅葉の枝を持ちます。
御本宮での祭典では、紅葉の小枝を飾った神饌を奉り、斎主が祝詞を奏上、引き続き「八少女舞」を奏進いたします。
祭典の後、緑黛殿での直会(なおらい)にて、「今様」(いまよう)を奏上いたします。明治15年頃、琴平明道学校教授であった国学者 水野秋彦の作歌を今様歌とし、以来、桜花祭と紅葉祭で奏するようになりました。
(紅葉祭り)
 場所はどの辺りだったか分からないが、石垣下にさざれ石の塊があり、脇に「国歌に詠われているいるさざれ石の由来」を説明した記念碑が立っていた。「岐阜県春日村の産」とあるが、奉納者の名前のところが写真から外れている。
(国歌に詠われているいるさざれ石の由来碑)
 金毘羅山の石段を下って、高松市の港近くにある栗林公園に入った。
国の特別名勝に指定されている文化財庭園の中で、最大の広さを持つ栗林公園は、高松藩主松平家の別邸として、歴代藩主が修築を重ね300年近く前に完成しました。緑深い紫雲山を背景に6つの池と13の築山を巧みに配し、江戸初期の回遊式庭園として、すぐれた地割り、石組みを有し、木石の雅趣に富んでいます。
春夏秋冬と四季折々の風物にも恵まれ、ここに咲く花々は、一千本もの見事な手入れ松とともに一歩一景といわれる変化に富んだ美しさを醸し出します。
(栗林公園入口)
(栗林公園)
(掬月亭から渚山方向)
(芙蓉峰から?)
 栗林公園のすぐ近くの屋島に登り、かわらけ投げにも興じた。
(屋島ドライブウエー)
(かわらけ投げ)
 屋島は源平合戦の古戦場、展望台の名前にもこの名前が付いていた。多くの島々が浮かぶ瀬戸内海の眺めが絶景だった。
(源平古戦場展望台)
 屋島の真ん中にある真言宗準大本山屋島寺は四国霊場第84番。四国八十八ヶ所参りのお遍路さんの姿が見られた。
(真言宗準大本山屋島寺)
 屋島から少し引き返して五色台スカイラインのゴール五色台に上がった。
(五色台展望台)
 五色台からは瀬戸内海の向こうの岡山県が意外と近く、夕日の中に玉野市辺りの街も見えていた。
(大崎の鼻展望台)
 西に目を向けると、見えるのははるか遠くまで瀬戸内海の島々、瀬戸内海に落ちる珍しい落日を見ることができた。
(五色台日暮れの展望@)
(五色台日暮れの展望A)
(五色台日暮れの展望B)
(五色台日暮れの展望C)
 夕日がすっかり瀬戸内海に落ちて空が赤く染まるまでゆっくりと落日を楽しんでから、近くの五色台国民休暇村に入った。
 ここまでで(2)部の四国観光はお終いで、次最終回(3)は瀬戸大橋を渡り、鳥羽、伊勢から江籠湾、山中湖と遊びながら日立に帰った道中を(3)として報告します。


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