H92.中国地方・四国・中部地方ドライブ(3)

1.動 機 
 今回は、1999年11月3日に横浜で高等学校の同期会、11月6日に広島県の三原で久井中学校の同期会が行われるとの案内が来て、ついでに四国と途中の中部地方を観光ドライブしてこようと11泊12日の二人旅を計画した。例によって写真が多いので、横浜、浜名湖、三原から、しらなみ街道までの@〜Dを第(1)報とし、四国地方のD〜Gを第(2)報、帰りのH〜Kを第(3)報と分割して報告します。
 これはその最終章第3報です。

2.データ
a)山域:b)登山日:(地図の観光地にNoを打ったので、計画表にもNoを付けました)
(中国地方・四国・中部地方ドライブ観光地点)

3.山行記録
H11月11日(木)
 尾道の千光寺にお参りして、瀬戸内海のしまなみ海道を走って四国に渡り(1報)、松山から四国カルスト、四万十川、桂浜、大歩危と四国を駆け巡って五色台で宿泊した(ここまで2報)。
 朝からどんよりと曇っていたが、何とか瀬戸大橋や瀬戸内海の島々が見えていた。四国から瀬戸内海を眺めるのはこれでお終い、パノラマ写真を撮っておいた。
(五色台休暇村の朝@瀬戸大橋)
(五色台休暇村の朝A)
 岬の先端の乃生岬にまで下ってみると、瀬戸大橋がもっとはっきりと見えてきた。
(乃生岬から瀬戸大橋)
 瀬戸大橋を走って最初の島、与島に渡って、与島パーキングから四国方向に瀬戸大橋を振り返ると、ポッコリと目立って見えている讃岐富士が、巨大な瀬戸大橋を惹きたてているように見えた。
 瀬戸大橋は、本州の岡山県倉敷市と四国の香川県坂出市を結ぶ10の橋の総称である。瀬戸内海をまたぐ本州四国連絡橋の児島・坂出ルートにあたり、橋の大部分は香川県に属する。1988年に全線開通。それにより初めて四国と本州が陸路で結ばれた。
 日本で最初の国立公園として指定された瀬戸内海国立公園。青い海に緑の島が点在する風景は、その昔から多くの人々を魅了してきました。
 昭和63年春、坂出の島々を渡って、本州と四国を陸路で結ぶ「瀬戸大橋」が開通しました。瀬戸大橋は、ただ大きく長いだけの橋ではなく,瀬戸内海の景観にあうようにデザインされていて,季節と時間によってさまざまな情景を楽しめます。
 3つの吊橋と2つの斜張橋、1つのトラス橋があり、この6つの長大橋とこれらをつなぐ高架橋を総称して「瀬戸大橋」と呼んでいます。道路、鉄道併用橋(上部が自動車道路、下部に鉄道)としては、世界最大級の橋です。
(与島パーキングから瀬戸大橋:四国方向)
 パーキングには大きなモニュメントが飾ってあり、その台座には「瀬戸大橋」の文字盤があった。このモニュメントが何を現しているのか? 魚を模ったという資料もあるが、どう見ても魚には見えない。”尾びれ”とか”胸ひれ”とか魚の部分を表してるのか。それでも瀬戸大橋とどういう関係があるのか、芸術的センスのない者には全く想定できない。
 与島の駐車場に犬島産の石があるというので、瀬戸大橋の中程にある与島のパーキングエリアへループ橋をわたって降りて見ました。第1駐車場にはレストラン、お土産売り場、遊園地等が設けられいます。ここに犬島産のさび石(赤みがかかった石)で記念碑を造っています。黒で造られている台座には瀬戸大橋と大きく彫られ、魚をモチーフにしたと聞いていますが、橋をバックに大きな記念碑が堂々と建っています。
 もう一つのモニュメント、こちらは瀬戸大橋の構造説明用模型と理解できる。鉄道と自動車道を吊り上げるメインケーブルには、写真のように直径1m以上ある太い鋼索が使われているという。機械屋だった私の計算結果は、いつもこれよりも二桁小さかった。計算結果を信じて、よくもこんな巨大な設備を造ることができたものだ。
 北備讃瀬戸大橋に続けて、坂出市の本州側に架けられた瀬戸大橋ルート最大の吊橋です。南北二つのケーブルを地面の一箇所で固定させる為に設けられた共用アンカレッジなど当時の世界最先端技術が駆使されており、その全長は1723m、中央支間長1100m、主塔の高さ194m、ケーブルの直径107cmです。
(与島Pにて:何のモデル?)
(与島Pにて:鋼索の実物大模型)
 香川県の与島からまた瀬戸大橋に乗って本土側児島ICで高速を下りて、倉敷市の景勝地鷲羽山山上の鷲羽山駐車場に車を入れた。鷲羽山の海側の第二展望台からは、瀬戸の島の中に瀬戸大橋が綺麗に見えていた。逆光だったが、橋も島ははっきりと写っている。
 一番手前の橋はICのある櫃石島、その向こうに薄く見える大きな島は本島か?
(鷲羽山第二展望台から瀬戸大橋:四国方向)
(鷲羽山第二展望台から瀬戸大橋:四国方向)
 児島ICから瀬戸中央高速自動車道に乗って北上し、倉敷JCTから山陽自動車道で東に向かい、三木SAで昼食休憩。次の関宿に行くのに、吹田JCTから近道使用と近畿自動車道に入って奈良に向かってたが渋滞で苦労。亀山ICで高速を下りて関宿に到着して、江戸時代の街並みを残す関宿の街をゆっくりと歩いた。
 関宿は、三重県亀山市にある江戸時代における東海道の宿場の呼称である。現在も、東西追分間の旧東海道沿いに、当時の宿場の古い町並みが残されている。国の「重要伝統的建造物群保存地区」および、旧建設省選定の「日本の道100選」のひとつ。
 関町(せきちょう)は、三重県鈴鹿郡にあった町。2005年1月11日に亀山市と合併し、新しい亀山市となったため廃止された。 中心地区である関宿は、江戸時代の東海道五十三次で鈴鹿峠越えを控え、大和街道・伊勢別街道へ分岐する宿場町として栄えた。
(積地蔵院:歴史の道碑:停車場道碑)
(屋上からの関宿の通り)
百五銀行(関宿の通り)みたらし団子
 関宿散策を終えて、亀山から伊勢道路を賢島へと走って賢島荘に泊まった。

I11月12日(金)
 朝から小雨が降っていたので、今日の一番は鳥羽水族館に入って室内歩き。
 鳥羽水族館は生き物の飼育種類数1200種と日本一、広い館内に水槽の数も多く、真っ暗にした水槽を泳ぐ海底生物、アシカショウなど楽しみ、日本ではここにしかいないというジュゴンも見ることができた。
(鳥羽水族館:海底の魚たち)
(鳥羽水族館:ジュゴン)
 次は二見ヶ浦、二つの岩が一本の注連縄で繋がれた夫婦岩があり、中学校の時に京都、大阪、奈良、伊勢の名所を連れて歩いてもらった時に案内されたことがあるような気がするが、そんなゆとりはなかったかな?
(二見ヶ浦:夫婦岩)

 次には伊勢神宮。内宮への入口、五十鈴川にかかる宇治橋の写真がある。大勢の観光客が橋を渡っている。
 次には五十鈴川の写真。
 神路山を源流とし、支流島路川と合流、皇大神宮(伊勢神宮内宮)の西端を流れており、御手洗場(みたらしば)が作られている。この御手洗場では、かつては手洗いだけではなく、口濯ぎまで行われた。現在でも伊勢神宮の公式ウェブサイトで「神聖な川、清浄な川として知られる五十鈴川の水で心身ともに清めてから参宮しましょう」「天気のいい日は五十鈴川「御手洗場」で、口と手を清めることをお勧めします[2]」と記載され、推奨されている。
 この川に架かる宇治橋は、聖俗界を分ける境界といわれる。
(伊勢神宮宇治橋)
(五十鈴川)
 宇治橋を渡って玉砂利を敷き詰めた長い参道を進むとそこは神域。「心のふるさと」と称される日本の原風景が広がりました。
(伊勢皇大神宮)
 宇治橋を渡って内宮の中を歩いて、一番奥の玉垣南御門から外に出た。板垣南御門の奥にある茅葺き屋根の建物が、外玉垣南御門<とのたまがきみなみごもん>です。
 内宮参拝の後は宇治橋を渡って外に出て、すぐ近くにあった江戸時代の街並みを残している商店街「おかげ横丁」で伊勢うどんを頂いた。
 参拝のあとは、おかげ横丁へ。50軒の専門店がみなさまのお越しをお待ちいたしております。お食事やご休憩、名物や美味しいものの探索、伊勢路の名産品のお買い物、暮らし文化を感じる市・まつり・芸能などを、どうぞごゆっくりお楽しみください。
(外玉垣南御門(内宮))
(伊勢の街並みおかげ横丁)
 内宮参拝を終わったら、次は4kmほど離れた外宮参拝に。外宮の表参道は火除橋(ひよけはし)。
 火除橋の名前の由来は、火事の際に使用される神宮の堀川に掛けられた橋なので「ひよけはし」と呼ばれている。外宮の火除橋は境内入口にあるが、内宮のは境内にあります。江戸時代には内宮では宇治橋を渡った境内にも民家や商家が立ち並んでいたので、火除橋を境内に作っていたが、外宮では境内には民家がななく、火除橋が表参道になった。
 外宮の境内には勾玉池があり花ショウブの名所だが、残念ながら晩秋には見ることができず、水鳥が泳いでいるのが写っている。
(外宮表参道火除橋)
(勾玉池)
 外宮にも、内宮にあった「外玉垣南御門」という門があった。鳥居の形も中の茅葺の門も、内宮も外宮も全く同じように見える。
(外宮外玉垣南御門)
 珍しい四角い灯台を見るために、志摩市の入江・的矢湾の東の先端・安乗岬に行ってみた。天気が悪かったせいか、写真の出来が今一つ。
(安乗崎灯台)
(安乗崎)
 的矢湾の安乗岬から南下、横山ビジターセンタ脇から入って展望台手前の駐車場に車を入れた。
 駐車場に上がって英虞湾を見下ろすと、湾に浮かぶ60もの小島とリアス式海岸の突き出た半島が幾重にも重なって見えていて、まさに絶景の展望台だった。
 この展望台から山道を登っていくと第二展望台、さらに登っていくと第三展望台があり、それぞれ高さの異なる味のある展望を楽しむことができ、道なき山道を苦労して登った甲斐があった。
(横山第一展望台)
(横山第二展望台)
(横山第三展望台)
 英虞湾の展望を堪能してから、志摩半島(?)の南東端の大王岬に出て、遠州灘と熊野灘の断崖に打ち寄せる荒波と太平洋の大展望とを楽しんだ。
 熊野灘と遠州灘を二分する大王埼灯台がある志摩市大王町は“絵かきの町”として知られている。大正2年、日本画家・土田麦遷が文展に発表して以来、藤島武二など古今東西の画家たちの創造意欲をかきたててきた。断崖に打ち寄せる波涛、暗礁を照らす白亜の灯台とともに、彼らが愛してやまない風景が、迷路のような石坂の町並みである。
平地がほとんどない波切では、斜面に石垣を築いて家を建て、主道間を結ぶ坂道には石段が巡らされている。石積みの技術は、大正から昭和初期の築港で得られたもので、“波切の石工”は伊勢志摩地方では熟練者の代名詞となっている。
(絵描きの岬大王崎)
(大王崎灯台)
 この日は賢島荘に連泊した。

J11月13日(土)
 朝焼けの富士山を眺めようと、早起きして朝食前5時50分に宿を出て大王岬に向かった。雲が厚くて富士山は見えず、雲の上にお日様が出たのは6時30分だった。しばらく朝焼けの日の出の変化を楽しんだ。お日さまの大きさと色合い、空の朝焼け、波打つ海面の色合いが時々刻々変化して見飽きない風景だった。
(大王崎の日の出@)
(大王崎の日の出A)
(大王崎の日の出B)
 朝の英虞湾の景色を、昨夕の横山展望台とは反対側の西にある登茂山展望台から眺めてみた。島々の間で朝日に輝く海面が綺麗だった。
(朝の英虞湾:登茂山展望台から)
 賢島荘近くに戻ると志摩マリンランドのコスモス畑が満開で綺麗だった
(満開のコスモス畑)
 賢島荘に戻って朝食をとって再出発、伊勢湾フェリーに乗るために鳥羽港に向かいたくてカーナビに従ってパールロードに乗ったが、行き止まりになってパールロード料金を2度も払ったこともあったらしい。道中での車窓からの眺めも良かったが、途中にある相差展望台に停まって的矢湾の眺めなどの展望をゆっくりと楽しんだ。
 パールロードは鳥羽市内から志摩へ続く三重県の県道128号線です。特に鳥羽を抜けてからは海沿いの山々を登るのですが、途中所々見える海やリアス式海岸、真珠の養殖などの風景が見れます。鳥羽展望台を越えて志摩スペイン村方面へは下り基調なのですが、こちらも眼下に綺麗な海が見れる場所もあるので走って気持ちの良い道だと思いました。
(相差展望台)
 何とか鳥羽の伊勢湾フェリー乗場に到着して車と共にフェリーに乗り、伊勢湾の出口の対岸伊良湖港迄、船上からゆっくりと海の絶景を楽しんだ。
 伊勢湾フェリー株式会社は、三重県鳥羽市に本社を置く海運会社。鳥羽と愛知県の伊良湖(田原市)を結ぶ定期航路(フェリー)を運航している。
(伊勢湾フェリーで鳥羽から伊良湖へ)
 フェリーで伊良湖港に着いてから、伊良湖岬を通り過ぎて渥美半島の太平洋側に出ると広い砂浜があった。ここが恋路ヶ浜で、名前に惚れて記念写真を撮った。
(恋路ヶ浜)
 恋路ヶ浜沿いの道を走って行き、写真に写っている高台のホテルの下に見える車道を回り込むと駐車場があり、日出園地という公園に下りると、島崎藤村の椰子の実記念碑がたっていた。大きな石の記念碑に彫られた歌詞は、達筆すぎて読みにくい。写真では判読不能。隣の黒い板には読みやすい文字で歌詞が書かれていた。
  椰子の実
        島崎藤村
 名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
 故郷の岸を離れて、汝はそも波に幾月〜
(石門園地:椰子の実記念碑)
 椰子の実記念碑の日出園地から東方を望むと、波が打ち寄せる堀切町海岸の砂浜が長く伸びていていい眺め。その向こうに山並みのある岬が飛び出しており、MAPで見るとこの最高峰は大山328mと思われる。
(日出園地から堀切町海岸)
 更にその下の磯まで下りると、大きな岩塊の下に穴が開いていた。日出の石門といい、岸の石門と隠岐の石門の二つの門が空いていた。沖の石門は少し低いところにあって、石門の中まで荒波が押し寄せていた。

(日出の石門の岩塊)
(沖の石門)
(岸の石門)
 日出の石門から駐車場に上がって、豊川ICから御殿場ICまで高速に乗り、渋滞にあいながら山名湖湖畔の日立保養所の茶屋の段寮に入った。

K11月14日(日)
 寒さに負けず、朝のドライブ。先ずは湖畔のママの森展望台から富士山展望。山中湖の上は朝もやが立ち込めていたが、富士山は綺麗に頭を出していてナイスショット!
(ママの森展望台からの富士山)
 それではと三国峠近くのパノラマ台迄絶景を期待して登ってみたが、山中湖の朝もやが上に上がってしまっていて、山中湖は見えていたが、富士山は靄の中だった。
(ママの森見晴らし台)
(パノラマ台)三国峠近く
 一旦茶屋の段寮に戻って朝食をとって出直し。茶屋の段寮前で記念写真を撮り、近くの林の中の紅葉が朝日に当たって綺麗だったのでもう一枚。
(茶屋の段寮保養所)
 パノラマ台に上ってみたが、富士山は霞み加減。それでも山中湖湖面の青と、周り一面の紅葉の林とのコントラストが綺麗だった。これに富士山が見えていたら素晴らしい景色だっただろうに、残念!
(パノラマ台から山中湖と富士山)
 それでも富士山の方に明るさを合わせてシャッタを押すと、富士山は何とか姿を現した。林の紅葉は真っ黒になってしまったがーーー。うまい方法はないものか、今でも分からない。
(パノラマ台から山中湖と富士山)
 一旦山中湖に下ってから山伏峠に上り、道志川沿いを下って道志村に向かった。道志村は「緑と清流と歴史の里」と言われて観光地になっている。中でも二つの吊り橋が有名で、広い道志川を渡るので橋が長く、細くて長い橋を渡っていると揺れが大きくて足がすくみました。
 上流の久保の吊り橋は、全長71m、高さ34mで床が鉄製の吊り橋、 野原の吊り橋は全長76m 、高さ37m、床が木製の吊り橋でした。
(久保の吊り橋)
(野原の吊り橋)
 道志川沿いの車道の周りは、色々な木々が紅葉に色づいていて最高だった。何枚も写真を撮った。
(水源の森道志川@)
(水源の森道志川A)
(水源の森道志川B)
(水源の森道志川C)
 道志川沿いの紅葉に満足して、そのまま同志川沿いの県道を下って相模原ICから中央道に乗って、環状8号、外環、常磐道と走って守谷SAで昼食をとって、日立南ICで高速を下りてスーパで買い物、16時30分に我が家に無事帰ってきました。長い運転は結構大変だったが、面白く大満足の旅でした。元気だったころが懐かしい。
 次は2000年2月7日〜9日に行った房総半島の旅を報告します。



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