H105.スペイン満喫10日間の旅(5日目)

1.動 機 
 スペイン旅行の5日目、グラナダ市内の旧市街の教会などを見てから、代表的観光名所、アルハンブラ宮殿とヘネラリフェ庭園をゆっくり見て歩いてマラガに移動。マラガでは、ピカソの生家のある旧市街、ローマ劇場跡、アルカサバを歩いた後、高台のヒブラルファロ城に登って展望を楽しんだ。この日は地中海海岸のトレモリノスのホテルに入った。

2.データ
a)山域:グラナダ、マラガ
b)登山日:2000年4月19日

3.山行記録
5日目:4月19日(水)
 朝一番はグラナダ市内観光。ホテルはグラナダの中心市街にあり、通りには歴史を感じさせる古典風の大きなビルが立ち並んでいた。
 広場にはロバと男性の像が立っていた。ロバには樽を4個背負わせ、男性も一つ背負っていた。
ホテル前のグラナダ市街)
(プラザデラローマニラのロバと男の像)
 日記には、グラナダではピカソの生家やピカソ美術館に案内されたことになっているのだが、写真は一枚も残っていない。それらしい建物の入口での写真があるが、NETで調べると生家でも美術館でもない。一番似ていたのが、サンミゲルアルト教会の入口なのですが、少し違うところもありました。
アルバイシン地区の1番高い所にある教会で丘の上に立っています。
行くまではちょっとしたハイキングのようなコースを辿りますが下からこの教会が見えてなかなか絵になります。
頑張ってたどり着いたのですが開いておらず中には入れませんでしたが教会前からはグラナダの街を見渡すことが出来る素晴らしい景色が広がっていました。
 市内での写真には、広場で撮った壮大なグラナダ大聖堂の写真もありました。
街のシンボルがアルハンブラ宮殿なら、グラナダの街の中心は市街に堂々と建つ大聖堂。
16世紀から18世紀初めにかけて建てられたスペインで最初のルネサンス様式の大聖堂で、5つの本堂を持つ壮麗な建物です。当初はにゴシック様式でしたが、後にルネサンス様式に移行しました。大聖堂の前は広場といえる広さではないので、その正面は写真におさまりきれないほど。
教会内は白で統一され、そのスケールの大きさと柱や天井まで優美な装飾に圧倒されます。そして、見どころは巨大な黄金色の主祭壇やパイプオルガン、そして装飾も見事な巨大な円蓋やステンドグラスなど。
(サン ミゲル アルト教会入口)
(市内広場からグラナダ大聖堂)
 広いアルハンブラ宮殿の敷地の一番西側に、四角い大きな塔を城壁で繋いだアルカサバが聳えていた。
現在のアルカサバはムハンマド1世によって建設されました。彼は城の周りを城壁で囲んで防御を高め、さらに三つの塔(ケブラーダの塔、オメナッヘの塔、ベラの塔)を建設しアルカサバを真の要塞に変えました。ムハンマド1世とムハンマド2世はナスル朝宮殿の建設が終了するまで(息子のムハンマド2世が統治をしている間)アルカサバを実際の住まいとして使用していましたが、宮殿の建設終了後は軍の要塞としてのみ使用されました。
キリスト教徒たちはアルカサバの大々的な補修工事を行いました。アルカサバは長い間、各時代で ―フランス人による占領の時期も含め― 監獄の役割を果たしていました。
アルハンブラと同様にアルカサバは長い間放置され、全く手入れされることがありませんでした。修復作業や調査は19世紀の終わりから20世紀の初めに始まりました。
一番高いベラの塔は縦横が16m、高さが26,80mになっており、また四階建てで、柱付きのアーチがあります。一時この塔は要塞としてではなく住居として使用されたので、本来の塔とは様相が変わってしまいました。
(アルハンブラ宮殿・アルカザバ)
(アルハンブラ宮殿・アルカサバ入口)
(ナスル朝宮殿)
 アルカサバの中庭を通過し、ナスル朝宮殿を通ってライオン宮の中庭に入った。
イスラム王朝最後の砦のアルハンブラ宮殿は繊細な装飾が施されているイスラム建築の最高峰の建築物で素晴らしい宮殿でした。アルハンブラはアラビア語で赤い城塞の事だそうです。名前からもわかる様に宮殿と言うよりも要塞の様で、中には様々な施設がありひとつの都市が形成されています。年代ごとに色々な建物が増築されていったそうです。
スルタン(王)の居住区として14世紀後半に建設された「ライオン宮」の真ん中に位置するのが「ライオンの中庭」です。12頭のライオンがシンボルになっており、コーラン(イスラム教の聖典)に書かれている天国をイメージしてつくられたのだとか。現在は石敷きですが、かつては草花であふれた庭園だったといわれています。
(アルハンブラ宮殿・ライオン宮の中庭@)
(アルハンブラ宮殿・ライオン宮の中庭A)
 アルハンブラ宮殿の敷地の北西からは、白壁で統一された建屋が立ち並ぶグラナダのアルバイシン地区を展望できた。
アルバイシンは、迷路のような細い路地に、アラブ商店街やパティオのある高級住宅が整然と入り組むように建てられていて、その眺めはスペイン・アンダルシア地方独特の素晴らしさです。
15世紀後半、レコンキスタによりカスティーリャ女王イサベル1世がイスラム教徒からグラナダを奪還すると、アルハンブラ宮殿はイスラム王朝の終焉を迎える悲しみの場となりました。
グラナダ最古の街並みが今も残るアルバイシン地区では、最期の抵抗を試みるアラブ人たちの凄惨な流血で、美しい白壁と石畳が赤く染まったと言われています。
(アルハンブラ宮殿からグラナダ市街展望)
 ヘネラリフェの入口近くの道の下に広い草地が見えていたが、これがジェネラライフシアターという野外劇場だった。
国際音楽とダンスフェスティバルの開始のために、ヘネラリフェの庭園が南に拡張され、保守的な建築家フランシスコプリエトモレノの作品であるナザリリヤドの古典的なレイアウトに触発された広々とした劇場が屋外に建設されました。劇場は、フェスティバルバレエの公演の本部として1954年にオープンしました。
建設以来、その場所の素晴らしさと比類のない性格に応じて、ますます複雑な興行のためのスペースを確保するために、いくつかの設備が作られてきました。
(Generalife Theatreジェネラライフシアター)
 ヘネラリフェの入口の前庭からは、向かいの丘にアルカサバなどアルハンブラ宮殿の建物群が見え、その右肩にはグラナダの街並みが見渡せました。
(ヘネラリフェ植物園から見たアルハンブラ宮殿の丘)
 アルハンブラ宮殿に続き、同じ敷地にあるヘネラリフェ庭園を案内された。
ヘネラリフェとアルハンブラ宮殿とはかつては、現在では両者を分ける峡谷をまたぐ歩道で結ばれていたと考えられている。
今日のヘネラリフェの姿になったのは、1931年から始まった補修作業によることが大きい。その作業は1951年に完了した。歩道は、伝統的なグラナダの様式のモザイク歩道であり、白色の石は、グラナダを流れるダーロ川から集められ、黒色の石は、グアダルキビール川の上流の支流であるGenil川から集められた。

ヘネラリフェは、アルハンブラ宮殿の北、チノス坂をはさんだ北側の太陽の丘に位置する。別荘内のアセキアの中庭(Patio de la Acequia)は細長い池を囲むように花壇、噴水、柱廊が設けられている。アセキアの中庭は、アンダルシア地方におけるイスラム建築において、もっとも保存の状態が良いものの1つである。

 ヘネラリフェでは色々写真を撮ってあり、NETで調べながら写真ごとに色々解説を試みましたが、NETを見直すごとに少し違うところが目についてきて、順番も怪しくなって説明を付けるのは諦めました。
(ヘネラリフェ庭園@)
(ヘネラリフェ庭園A )
(ヘネラリフェ庭園B)
(ヘネラリフェ庭園C)
(ヘネラリフェ庭園中庭D)

 グラナダ観光のあとはマラガに移動。最初は、ヨーロッパの各都市からコスタ・デル・ソルに直行便が到着する玄関口マラダ港だった。大型クレーンが貨物船から貨物を上げ下ろししていた。手前の網駕籠を持った漁師像が目立っていて、謂れがありそうだが下の説明文が読み切れない
世界中から観光客が集まるスペインのビーチリゾート、コスタ・デル・ソル(太陽の海岸)の中心都市マラガ。その歴史は古く、紀元前にフェニキア人によって町が建設され、その後、ローマ、イスラムの支配を受けた。また、スペインの天才画家パブロ・ピカソの出身地で、ピカソはこの町で幼少時代を過ごした。美しいビーチだけではなく、ルネサンス様式の壮麗なカテドラルや、町を一望できるヒブラルファロ城、アルカサバ、そして闘牛場など、観光の名所も多い。ピカソ・ファンにはピカソの生家やピカソ美術館もおすすめだ。
(マラガの港)
 次いで、マラガのメインストリート「マルケス・デ・ラリオス通り」、古いビルの立ち並ぶ歴史が感じ取れる通りだが、一階にはブティック・お土産屋さん、カフェにレストランが並んでいた。
 通りの少し横にマラガの大聖堂の高い塔が聳えていた。エンカルナシオン大聖堂の名前が付いている。
この大聖堂には、北と南に塔があり、北の塔は、87メートルある。アンダルシアにある大聖堂の中で、一番高さの高い大聖堂とされている。南の塔は、まだ完成していない。完成するためのお金を、アメリカの独立戦争時に寄付金として使ったといわれているそうだが、確かではない。この、まだ完成していないポイントから、大聖堂は、LA MANQUITA(ラ・マンキータ/片腕の女性)と言われている。差別的観点からではなく、愛情を持ってつけられたニックネームだ。何故、女性なのかというと、カテドラル(CATEDRAL)が女性名詞だからだと予測される。
(マラガの旧市街・マルケス・デ・ラリオス通り)
(エンカルナシオン大聖堂 )
 マラガの大聖堂に繋がるお城のような建物は、塗りがはげ落ちて廃墟のようだが、この大聖堂は反対側が正面で、NETには綺麗に保守されている写真がでている。
(エンカルナシオン大聖堂)
 マラガの砦アルカサバにも案内された。城壁の脇の石段を登っていくので、石組みを間近に見て、その高さに威圧され、さわっても見たことだろう。
イスラム教徒支配時代の11世紀に建設されたアルカサバ(城塞)。フェニキア人によって建設された要塞が起源とされています。宮殿やきれいな中庭が見所。博物館などもあり、城塞全体でみると規模は大きいです。イスラム建築のレベルの高さを感じることができる建物であり、マラガの文化を知る上でも訪れておきたい場所になります。

(マラガの砦@)
(マラガの砦AB)
 マラガ砦の隣にローマ劇場の遺跡があった。
マラガ古代ローマ劇場は、何世紀にもわたって土の中で眠っていました。
街の西部、アルカサバ城塞下にマラガ古代ローマ劇場はあります。 何世紀にもわたって土の中で眠っていた古代ローマ劇場は、1951年に発見されました。 紀元1世紀、アウグストゥス皇帝によって建設され、 3世紀まで使用されていました。 後に劇場の柱頭、柱の胴部分は、アラブ人たちによりアルカサバの出入り口に見られる馬蹄型アーチの部材へと姿を変えたのです。 その大きさは、半径31メートル、高さ16メートル、オーケストラは15メートルを有します。 劇場の観客席は三つに分かれ、それぞれに入口(ヴォミトリウム)が設けられています。
(ローマ劇場)
 バスはくねくねとした山道を登って、裏山ヒブラルファロ山の頂上まで案内してくれた。
マラガ随一の有名ランドマーク、ヒブラルファロ城はヒブラルファロ山の山頂にあるムーア様式の城塞跡、広く市街を見渡せるのはもちろん、アルボラン海とその先に横たわるアフリカの海岸まで一望できます。
ヒブラルファロ城は、マラガの象徴として愛され、市と県の旗や紋章にも使用されています。10 世紀に最初の建物が建てられた後、14 世紀に補強工事を施され、現在もムーア人の砦、アルカサバをマラガ山脈の高みから見下ろしています。最上部まで上り、歴史ある城壁やマラガ港、美しい地中海沿岸を見渡しましょう。
(ヒブラルファロ城跡から展望@A)
(ヒブラルファロ城跡から展望 B)
(ヒブラルファロ城跡から展望 C)
(ヒブラルファロ城跡から展望D )
 ヒブラルファロ山から下って、海岸沿いを少し南下したトレモリーノスのホテルに入って5日目はお終い。次6日目はトレモリノスとセビージャの観光地巡りです。
 今回も由緒ありそうな史跡の写真を一枚一枚チェックしていたら随分時間を空費してしまいました。次こそ手速く纏めたいと思います。


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