I94.2001年2月の山歩き(2) 竪破山、真弓神社 1.動 機
竪破山は太刀割石と黒坂命の伝説が残る巨石信仰の山。山頂展望台からの眺めは最高と云われる。竪破山には前にも登ったことがあったが、「茨城と近県の山」の写真には太刀割石の上に人が乗っている。こんな写真を撮りたくて、また、奈々久良滝も見ていなかったので2月23日に出かけてみた。青字で書いた観光案内板にあった石などの記述は「C46.竪破山」から引用しました。 2月27日には我家から近い真弓神社にお参りしました。 2.登山日、山域 2001年2/23(金)竪破山・2/27(火)真弓山・ 3.山行記録: 3.1 2/23(金) 竪破山 この時の山行記は同期の山歩き仲間の会報に「夫婦ふたりの「茨城と近県の山」完登記」のなかで既に報告済で、文章はそのままで写真を追加することにしました。 堅破山のいわれ:寛治元年(1087年)八幡太郎義家が奥州遠征の途中黒崎神社で一夜戦勝を祈ったところ神様が、夢に現れ一振りの刀を授けた。この刀で山中にある大石を斬りつけたところ真っ二つに割れ、この石が太刀割石を呼ばれ、山の名もそれが転化し、堅破山となったと言い伝えられる。 また、「常陸国風土記」黒坂命が蝦夷を平定するため、「茨刺」(うばら)で穴を塞ぎ、敵を攻め滅ぼしたことにちなんで、「茨城」の地名が起こったとされている。 今までの私の記録では二の鳥居から歩き始めたので、これらの地図には駐車して歩き始めた一の鳥居が載っていない。NETで探したら、「二人の山旅」に格好な地図があったので転載させていただいた。
自宅10:30=11:10一の鳥居登山口−11:35二の鳥居−黒前神社−13:00山頂展望台−13:30胎内岩−山頂展望台(昼食)14:30−15:15奈々久良滝分岐−15:20奈々久良滝−15:35奈々久良滝分岐−15:55二の鳥居−16:02一の鳥居登山口=自宅
二日前、山の方は雪だった。R349号から黒坂部落への舗装道にはところどころ雪が残っていてノーチェーンの車はひやひやもので慎重に運転。ここから一の鳥居までの砂利道は平気で走れたが、一の鳥居のところは一面のアイスバーンでこれより先は進行不能、ここに駐車してこの先は歩いて登ることにした。
一の鳥居駐車場
神社までの登り道には、不動岩、烏帽子岩、手形石、畳石などの色々面白い謂れの立札がついた巨岩が次々に現れて楽しませてくれた。
不動石:横長の大石の真ん中付近が黒くなっていて水が流れている。涙石とでも名付けたい風情、以前はなかったと思いながら石の上を見ると、お不動さんの石碑の下にパイプがのぞいていて、そこからちょろちょろ水が流れ出ていた。登山道を登って行くとずっと上の方に裸になっているパイプが現れてきて、これで水が引かれているようだった。
展望台:堅破山の頂上、標高658.2mにあり、晴天の日には富士山を見ることもできる。前方の山並を越えて太平洋が一望でき、ここから見る日の出の景観には素晴らしいものがある。遠くの福島県の小名浜海岸、常陸神峰山、大煙突、常陸太田の真弓山、大洗夏美の海岸等、遠望できる。
F胎内石:黒坂命が陸奥遠征の帰路、山の麓で疲れていた体を休めていた時、一人の童子が馬を引いて通りかかり、あまりにも疲労した様子の命を見て、その馬の背に乗せ、急坂の山肌を一気に駆け上がり、この岩窟に命を休ませたといわれている。
B太刀割石:八幡太郎義家が、陸奥の蝦夷の乱を鎮めるため、堅破山に登り戦勝祈願をした折り、太刀の前庭に陣を引いて野宿した。義家は深い眠りの中で「黒坂命」と出合い、目が覚めると、一振りの黄金づくりの刀があった。その刀を振り下ろすと大石は、びしっびしっと不気味な音を発し真っ二つに割れた。一説にはこのことにより、「堅破」の名が起こったともされている。大きさは7m×6m、周囲約20m
3.3 2/27(火) 真弓山
真弓神社は小さな神社だが、歴史上由緒ある神社で、NETに次のような記述がある。 常陸太田市名所旧跡真弓神社(azurehare1.sakura.ne.jp/mayumijinnjya.htm)より 真弓神社は常陸太田市真弓町2766にあります。阿武隈山系の南端風神山近くの通称真弓山の頂上付近にあります。日立市の大久保町からと、おおみか町風神山 からのハイキングコースから、常陸太田市からは参道までは数通りのコースがあります。 国道349号線金井町から県道61号、国道293バイパス、県道61号、県道156号と約4.5q走り、左手に真弓神社の碑がある所を左折約900m行くとまた県道61号のT字路 にあたる。それを右折約1.3qで西参道入口に着きます。5〜6台の駐車スペースがあり、鳥居を潜りひたすら山を 登ります。表参道から登るには寒水石採掘作業場を通過しますので、休日の方が良いです。 真弓神社は境内にある神威赫赫(神の威光の勢いが盛ん)西参道 入り口の神徳無窮(神の徳はいつまでも)という碑の神社略誌 に 鎮座地 陣ケ峰頂上 御祭神 大己貴命、 少彦名命が祭ってあります。 沿革 創建 大同2年(806) 坂上田村麿(758〜811)(武将 桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇の三天皇に仕え征夷大将軍となり、蝦夷地を平定、薬子の乱にも功を立て正三位大納言となる) 大伴乙麿おおとものおとまろ(731〜809)(公卿・武将 初の蝦夷大将軍となる) が平城天皇の大同2年北征の砌奉祀、其の後八幡太郎義家公が厄除け戦勝祈願 常陸の国守護佐竹氏が社殿を造営された。 徳川幕府歴代将軍より御朱印地寄進を受け、水戸光圀は34ケ村の大鎮守を定め真弓山王大権現の尊称を奉られた。古来より漁業関係者を始め多くの人々より、広く厚く信仰されている霊山のお社、昭和19年4月東久邇宮盛厚主殿下が御参拝になられた。 現在の御社殿は昭和29年10月改修、平成23年3月11日の東日本大震災(常陸太田市震度6弱)で大被害を蒙った。 境内地14.8ヘクタール 本殿 真弓山(神社名由来)源義家(後に元服八幡太郎義家となり)が奥州(現在の東北地方) 征伐の折り戦勝祈願のため弓8張(それぞれ8つの祭神)を奉納し八所権現(権現とは日本 の神の神号、仏が仮に神の形を取って現れたという意味)と呼ぶようになったことから真弓 山、後に真弓神社と名前がつけられた 月丸印に五本骨扇の佐竹紋月丸印に五本骨扇の佐竹紋が屋根についている 御神木 愛称名 爺杉じいすぎ 茨城県指定天然記念物 推定樹齢約900年 根回り12.8m 目通り9.6m 樹高約45m(途中から2本に分かれている) 枝張り15m
アルバムの1頁に真弓神社参拝ハイキングの写真が5枚ヶ残っている。日記の時間記録 我家発車10:10=10:40真弓神社入口〜11:15西参道鳥居〜11:30真弓神社〜12:00採石場分岐(高鈴登山口)〜12:35伐採跡(軽食)12:50〜亀作林道迷い通〜県道61〜養豚場〜真弓神社入口=大甕(昼食)=我家
次は、3月前半の奥久慈憩いの森、鞍掛〜蛇塚、高鈴GC〜高鈴山、玉垂れの滝、北沢〜高鈴山〜大室山、偕楽園山行の様子を紹介します。 |