J23 2001年10月の山歩き(2) 日山・移ヶ岳
1.動 機
2001年10/4(木) 移ヶ岳、日山9月28日に登る予定だったが悪天候で延期になっていた小林Kさんとの日山に、10月4日に再挑戦することになり、今回は近くの移ヶ岳も合わせて登ってきた。今回も好天とはいかず展望は今一つだったが、歴史ある山に案内板も整備されており、Kさんの好リードで面白い山歩きを楽しんだ。 日山と移ヶ岳は1998年に福島テレビ開局35周年を記念して、福島県内各地域を代表する山として選定された「うつくしま百名山」の中に入っている。選定委員長は田部井淳子さんだったとのこと。 2.登山日、山域 3 山行記録 我家発6:35=7:00小林宅=日立北IC=常磐道=磐越道=船引三春IC=9:00端峰平P9:13ー10:00移ヶ岳10:20ー10:25賽の河原ー11:00端峰平P=11:35田沢登山口11:40ー12:05水場12:10ー12:46日山15:00ー16:20キャンプ場16:55―田沢登山口=17:31船引三春IC=磐越道=常磐道=日立北IC=19:00小林宅=我家着 6時35分我家発車、青葉台の小林さん宅に寄ったが、奥さんは疲れがたまっていて今回は不参加、Kさんと3人だけの山歩きになった。我家の車1台で出発、日立北ICから常磐道に乗り、磐越道に乗換えて北上して三春ICで高速を下り、県道から山道を走って9時に移ヶ岳の登山口・端峰平駐車場に着いた。 移ヶ岳については「福島県の山々」南東部に次のような説明がある。 田村市船引町の北東に位置し、片曽根山・高柴山・鎌倉岳・日山と共に「ふねひき五山」の一つに数えられる名山。端整な独立峰で険峻な頂上を持ち眺望も見事であるが、南側の採石場跡が大きくえぐれているのが少々痛々しい。厳冬期は山頂付近のナラの木を中心とした雑木林に付着した白く美しい樹氷を楽しめる。 3.1 移ヶ岳 駐車場には大きな看板が立っていて、移ヶ岳登山道案内図とコースタイムが表示されていた。
案内板に従って、右の登山道を少し登ると移ヶ岳神社の標識があり、その奥に鳥居と小さな社殿が立っていた。鳥居脇に「移ヶ岳神社由緒」の石碑があり、次の説明が彫られていた。 祭神 大山祇大神 天熊大人神 二柱
旧称 移ヶ岳観音 明治三年移ヶ岳神社と改称 起源は遠く坂上田村麿将軍東征に遡り将軍当地方に駐軍せら れしときこの山に登り四方を偵察し大山祇大神その他の軍神を祭 き祀り戦勝を祈願し軈て大勝を博し賊徒を平定せられた神徳を 称え里人等祠を建て尊崇した後ち将軍の後聞 田村友顕公 康平 年間三春城主となり祖先の遺跡を偲び代々深く信仰せられた霊城 なりと伝いらる降って正保年間秋田公三春城主として入城以来崇敬信 仰厚く毎年一月十五日二夜三日間祭祀を奉仕するを例にされたと云ふ 明治維新神仏分離のとき同三年神官権訓導菅村嗣江氏中心となり 頂上の直下後ろに屹立する巌壁を負ひ脚下断崖の下に清冽なる 清水滾々として湧き南面して四方開け眺望絶佳はるかに太平洋を望 む勝景の地をトし社殿を造営し改めて奉祀し山の鎮守農業の 守護神 特に産馬擁護の神としてしられ近接諸町はもとより遠く双相地 方より参詣者相次ぎ崇敬信仰せられその後大正六年社殿を改築し 現在に至った 近年わが國経済の進展成長に伴ひこの山の特産黒花崗岩の需要増加しこれ が採掘盛んに行はれ社殿附近をも採掘するようになり爆發による振動落 石等により本社に悪影響を及ぼすのではないかと懸念せられるようにな った郡山市中田町大字柳橋の石材業者長沼武茂氏これを憂慮し本殿 の奉遷拝殿の新築等一切を寄進することゝし遷座方を昭和四十四年一月氏子に懇請するに至った。よって氏子は協議検討の結果これ を了承し位置の選定社殿の設計等につき両者協議の上工事を 施工し同年七月三十日竣工 この地に遷宮奉祀したものである 昭和四十四年七月三十日建碑 菅村巌美 撰文 橋本朋文 謹書
少し登って山頂近くになると、二つに割れた大岩が見えてきた。採石場跡らしい。
3.2 日山 日山について「福島県の山々」には次の記述がある。 阿武隈山系では大滝根山に次ぐ高峰。天王山ともいう。源義家が東征祈願して桧を千本奉納したことで「桧山」と称し、慶安2年(1649年)の大洪水時に二本松藩主が日祭りの大祈祷を行ったことから「日山」になったという。昭和56年には阿武隈高原中部県立自然公園に編入されて整備されている。古くからの信仰の山で、広い山頂には田沢、茂原、葛尾の三地区の神社が建っている。高峰だけあって山頂では360度の大パノラマが展開し、かつては富士山が見える北限の山として有名だったが、残念ながら2001年1月に緯度方向で2km程北(西北西方向に5km余り)にある麓山(羽山)で富士山が見えた為にその座は明け渡した。2017年1月にはさらに北の花塚山が北限の山となった。 日山登山口にも大きな登山コース案内板が立っていて、記念撮影。
1時間ほどで登りついた日山山頂は広くて、鳥居や展望台など色々立ち並んでいた。
この広場で携帯コンロを持ち出して、うどん鍋を作り、コーヒを沸かした。山頂の水場に水なく、岩清水まで水汲みに往復した。
三角点標石や、日山(天王山)の詳しい由来を彫った由来碑もあった。
この日山(天王山)(1057.6m)は阿武隈山系の大滝根山に次ぐ高峰で、東に太平洋を眺め、西に蔵王、吾妻、磐梯安達太良の山々をのぞみ、南西になすの山なみが遠望できる。 坂上田村麿東征の折、当日山頂上に社を築き蝦夷征服祈願をなしたと伝えられる。 源義家がこの社にて東征祈願して檜壱千本を奉納植樹した。それから「檜山」と称した。康平5年(1062)尾張津島神社(天王社)より牛頭天王を分霊して頂上銭櫃石の側に勧請安置し、戦勝と民生安定、災厄と疫病病を除去、田の生産、水の順調の守護神として信仰を集めた。 石橋氏が四本松城主となり社を再建し、延徳2年(1490)大内備前眞守宗政宮室を建立した。のちに百目木城主石川弾正が葺替え、社を保守した。その後蒲生氏郷社地を整備し、さらに田沢地内に供米の神田(しんでん)をつくった。 慶安2年(1649)6月の大洪水に二本松藩主丹羽光重は家臣成田弥左衛門を派遣し、社で日祭の大祈祷をした。以後「檜山」を「日山」と改め、丹羽家の祈祷所とし、田沢村と茂原の名主が交替で祭事を執行した。 明治2年(1869)、山は旭岳に、神仏判然令によって田沢、茂原の社は旭神社に、葛尾の社は日山神社とし、祭神は建速須佐之男命を祀ることになった。 のち再び日山(天王山)と称することになり、昭和56年(1981)阿武隈高原中部県立自然公園に編入指定され、「日山のつつじ」は福島民報社、福島県緑化推進委員会による「ふくしま緑の百景」に選定された。 平成2年(1990)正月、田沢旭神社は「日山神社」と改称され、同年5月社前に石の鳥居が奉納建立された。 毎年6月の春祭には岩代町、葛尾村、船引町、浪江町、川俣町および都路村主催による山開きが盛大に行われる。 10月の秋祭には、田沢、茂原、葛尾から三匹獅子舞が奉納される。川俣田代からは8年毎に奉納される。 田沢日山(天王山)由来碑建立協賛会 周回コースを歩こうとキャンプ場がある茂原登山口に向かって下り始めると、山頂のすぐ下に巨岩が重なり合った胎内岩があり、岩の隙間をくぐり抜けることができた。ここの胎内岩はNETに余り記述が見当たらないので、和子をモデルに撮った日山胎内岩の宣伝写真を載せておきます。(もしかして、東日本大地震の時に崩れてしまったのかも)
キャンプ場のある茂原登山口まで下ると旭神社の鳥居が立っていて、神社にお参りした。
Kさんと一緒の山歩きだったが、野の花の写真を結構撮っている。アイウエオ順に並べます。白い菊のような花の写真が何枚もあるが、全部異なる名前が書いてある。今思うと、良く調べたものだと感心する。
次は、10月13日に夫婦二人で出かけた土岳の山行記を報告します。 |