J91 2001年12月の山歩き(2) 白木山・大小山-大坊山
1.動 機
2001/12/11(木)白木山(616.2)、2001/12/19(水)今回は、夫婦二人で登った奥久慈の白木山山行と、シモンさん夫妻、小林Kちゃん夫妻と我家、同期3夫婦で歩いた栃木県の大小山ー大坊山登山の報告です。 2.登山日、山域 3 山行記録 3.1 白木山 最低気温が氷点下に下がった12月11日、どこかr近くの三角点の山に行こうと奥久慈男体山近くの白木山に登ることになった。 我家発10:30=常陸太田=12:00持方集落12:10ー13:00白木山山頂(昼食)13:20ー14:00持方集落=水府JA=我家着
朝のうち諸々所要をこなし、10時半我家を発車、常陸太田からR349を北上、折橋でR461を西に曲がり、山田川で北上、入合で地方道に入って1時間半で持方集落に到着した。持方集落は今は「日本の里百選」に選ばれているが部落の写真は何も残っていない。
シモンさんから12/19大小山ー大坊山ハイキングの案内があり、参加したのは同期仲間の山好き夫婦、シモン夫妻、小林夫妻、我家夫婦3組の山行になった。大小山も大坊山も栃木県足利市にあり馴染みのない山だったが、案内が早かったので、色々情報を集めて勉強して地形図を用意したり、準備万端で参加した。白木山は県内の三角点のある山として選んだ山で、茨城県の山にも茨城と近県の山にも載っていない山だったので登山道が判らず、集落の人に登山口を教わって登り始めた。 途中迄いい道を気持ちよく登って、男体山をバックに写真を撮ったりしながら歩いたが、途中から道がなくなり、藪を直登して山頂に登りついた。山頂の立木には所属する水戸アルパインクラブの名前が入った山頂板が取付けてあった。
3.2 大小山ー大坊山 a)山域:大小山(313.8)、大坊山(285.5) [313.8m峰は地形図では大小山となっているが、一般には妙義山と呼ばれ、山頂標識も妙義山になっており、少し南の282m峰が大小山になっている] b)登山日:2001/12/19(水)晴 c)コースタイム: 我家発5:55=6:50笠間セブンイレブン(集合)7:05=9:15栗田美術館9:20=9:0長林寺=10:05阿夫里神社10:15ー10:45展望台10:50ー10:55大小山ー11:00妙義山ー12:50越床峠ー13:18展望所ー13:45もみじ山ー13:55大坊山14:00ー14:25大山祗神社14:30ー15:00長林寺=阿夫里神社(解散)=我家着
大小山の展望台まで登ると展望が開け、眼下に広がる佐野市の伝畑の向こうに三毳山229のなだらかな山影がきれいに見えていた。
大小山展望台からは大小山(妙義山)の岩碧に大きな「大」「小」の文字盤が取り付けられているのが見え、この前で。男性二人、女性三人組の写真を撮った。
その岩尾根の道から撮った大坊山285.5の写真。
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)
太々神楽は足利市無形文化財 天養2年(1145)東の空に彗星が現れた際、第76代近衛天皇は、国家の災害を憂い、山城国(現在の京都府南東部)の男山と賀茂の2社に行幸され、臨祭を行われた。 2社の別当は敬神の念厚く、神徳を仰いで、国家の災害救助を常に祈願。 久安年間(約850年前)に当山の神社を大沼田村大坊山山頂に建立した。 主祭神は大山祇命で国家安全、五穀豊穣などを祈願した。明治40年、神饌幣帛料供進社に指定された。 昭和10年に老若男女延べ2千数百人の勤労奉仕によって立派な社殿が完成したが、昭和40年に落雷で全焼してしまった。 昭和44年、大坊山の桧を勤労奉仕により伐採、運搬製材を行い、多額の浄財によって、大坊山の中腹に社殿と参道が完成した。 大山祇神社の神楽奉納の起源は、文政年間(1818〜1830)奉納の絵馬や、神社別当を務めた飯塚家に伝わる天保年間(1830〜1844)の文書から、江戸末期には既に奉納されていたことが分かる。 春祭り・秋祭りには、毛野大坊山ハイキング大会も開かれる。
次は、久しぶりに我家の庭の花の今の様子を報告します。 |