k71 会津ー那須ドライブ(1)
1.動 機 今年2023年3月27日から29日に娘に車で連れ歩いてもらった会津那須塩原ドライブ旅行の様子を、一日づつに3分画して報告します。今回は一日目、会津地方です。 写真を整理したところで数独ゲームにはまって、5つ星での好敵手も現れて、しばらくこの報告に向き合うゆとりがなくなって失礼しました。次報からはまじめに書いていきますのでよろしくお願いします。 2.データ b)日程:3/27 森山発9:30=9:50日立南IC=10:28いわきICT=11:07五百川P11:23=11:46会津若松P=12:00飯盛山入口P=(ランチ)会津幸泉小法師喜多方ラーメン12:20=飯盛山=旧滝沢本陣=さざえ堂=白虎隊墓=飯盛山入口P14:03=14:16鶴ヶ城15:40=15:55武家屋敷=17:00御宿東鳳泊 3.山行記録 水戸に住む娘が、日立の我が家まで来て二人を乗せて発車したのが9時30分、常磐道、磐越自動車道と高速道を繋いで、猪苗代湖を過ぎた会津若松ICに着いたのが11時46分、白虎隊の遺跡が多く残る飯盛山の登山口Pに着いたのは12時になっていた。駐車場近くの土産物屋の幸泉小法師に入ってラーメンを美味しくいただいて腹ごしらえ、歩く準備完了。
飯盛山にはらくちんなスロープコンベアもあったが、酒井峰治と愛犬クマの像を愛でて石段道を登って行った。この酒井峰治と愛犬クマについては色々話が残っているらしい。
右の石段が二段目、スロープコンベアの2号機がほぼ平行に登っている。
その奥には、慶応4年(1868)8月23日ここ飯盛山で自刃した白虎二番隊19名の墓がきちんと並んでいるところがあった。隊士の遺骸は西軍により手を付けることを禁じていたが、村人により密かにこの近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬され、のちにこの土地に改葬されたとのこと。
ドイツ人から贈られた石碑も立っていて、脇の説明板には下記表示。 フォン・エッツドルフ氏寄贈の碑 昭和9年(1934年)この地を訪れたドイツ大使館書記官エッツドルフが、白虎隊精神に感動して贈った碑です。碑には、古来のドイツ国のマークと「若き少年武士へ ードイツ人」とドイツ語で刻まれ、翌10年(1935年)に建てられた碑とのこと。
そのさざえ堂の立派な造りの入り口前でツーショット。
さざえ堂の内部の入って、階段のない螺旋通路をグルグル歩いて最上階まで登って、張り紙が一杯貼られた天井を入れて記念写真を撮りました。
「激水は 白虎のごとし 山の春 水尾」
厳島神社 當社は宗像三女神の一にして古くから人々の信仰が厚かった、主神は市杵島姫命である。 会津の領主芦名直盛公の時代、石塚石部堂家の三家によって社殿が建てられたるものとして時は永徳年間のことである。別當は正宗寺である、降って元禄十三年には会津藩主松平正容公は御神像及び土地を寄進され、明治の初期に厳島神社と改めたこの山を飯盛山と呼ぶ、別名の辯天山は、この神社にあやかるものである。 その脇に「天高し ピサの斜塔と さざえ堂」(成瀬桜桃子)の句碑が立っていた。さざえ堂が傾いているので、世界的に有名なピサの斜塔と重ねた詩。
戸ノ口堰洞穴 猪苗代湖北西岸の戸ノ口から、会津盆地へ水を引く用水邸で全長31kmに及ぶ。 元和9年(1623年)八田野村の肝煎八田内蔵之助が、開墾のため私財を投じ工事を行い寛永18年(1641年)八田野村まで通水した。その後、天保3年(1832年)会津藩は藩士佐藤豊助を普請奉行に任命し、5万5千人の人夫を動員し堰の大改修を行い、この時に弁天堂穴(役150m)を掘り同6年(1835年)完成した。 慶応4年(1868年)戊辰戦争時、戸ノ口原で敗れた白虎士中二番隊20名が潜ってきた洞穴である。
旧滝沢本陣 松平容保公が陣を敷き白虎隊士が出陣の命を受けた場所 参勤交代や領内巡視などの際の殿様の休息所。戊辰戦争の際に本営となり、白虎隊もここで命をうけて戸ノ口原戦場へと出陣していきました。茅葺きの屋根におおわれた書院づくりの建物は、国の重要文化財に指定され、御入御門、御座の間、御次の間などが当時の姿のまま残されており、さらに歴代藩主の愛用した身回り品、参勤交代の道具類、古文書なども保管されています。建物のあちらこちらには弾痕や刀傷があり、当時の戦いの痕跡をとどめています。
若松城は梯郭式の平山城で、本丸を中心に西出丸、北出丸、二の丸、三の丸が周囲に配置されていた。城下町の南端に位置し、会津藩の政庁として会津の政治の中心であった。藩主の会津松平家は徳川将軍家と密接な関係にあり幕末には戊辰戦争の激戦地となった。現在、城跡は「鶴ヶ城公園」となっており、そのほとんどが国の史跡に指定されている。史跡外の三ノ丸跡には陸上競技場、市営プールおよび福島県立博物館がある。天守閣は鉄筋コンクリートで外観復元され、内部は若松城天守閣郷土博物館となっている。
表門の券売所を通って城址公園に入り、天守閣のすぐ近くからもツーショット。天守閣は工事中のため入場不可、周りの見物に向かった。
茶室麟閣 天正19年(1591年)千利休は豊臣秀吉の怒りにふれ、死を命じられました。それにより利休の茶道が絶えるのを惜しんだ、時の会津城主「蒲生氏郷」は、利休の子少庵(しょうあん)を会津にかくまい、徳川家康とともに秀吉に千家の再興を願いでたのです。この時に建てたのがこの「麟閣(りんかく)」と伝えられています。 その後、少庵は許され京都へ帰って千家を再興し、現在の茶道へと伝えられています。 戊辰戦争後、城下に移築され保存されていましたが、平成になって元の場所である鶴ヶ城内へ移築復元されました。茶室を眺めながらお茶を楽しんだり、氏郷の命日にちなんだ月例の茶会が開かれたりしています。 その先には、荒城の月の歌詞を掘り込んだ荒城の月碑が立っていた。「春 高楼の 花の宴. めぐる盃〜〜」自慢の声を張り上げたかも。 荒城の月碑 福島県会津若松市、会津藩の藩庁で、幕末の戊辰戦争の舞台となった鶴ヶ城。鶴ヶ城本丸跡、茶室麟閣の南に立つのが『荒城の月』歌碑。瀧廉太郎の作曲で有名な『荒城の月』は、仙台出身の詩人、土井晩翠の作詞で、仙台城(青葉城)、会津若松の鶴ヶ城をイメージして作詞したともいわれています。
我が国武士道の精華と謳われた会津士魂は、中世封建社会の成立と、近世の藩校日新館教育によって体系的に確立したものである。 第二次世界大戦における敗北は民心に痛撃を与え、その後の社会的変化と相俟って、かっての堅実な士風も衰退し、多くの文化財が散逸消失するようになると、会津特有の伝統精神を弘めるのが困難になってきた。 そのような状況の中で、心ある地方有志は相集い、士道会津のかっての姿を後世に伝えるべき責務を痛感していたところ、藩家老居宅の鳥観図を発見したのが契機となり、この復元計画が具体化した。 厳密な時代考証の下、信州高遠に現存する武家屋敷の遺構を勘案しつつ、綿密な設計と慎重な作業とのよって竣工を見、更に帳の建物とその一部を配したのがこの会津武家屋敷である。 ○○概要 ・家老屋敷(西郷頼母亭) ・土蔵(会津歴史資料館) ・藩米精米所 ・中畑陣屋(福島県指定重要文化財) ・茶室(○○○○○) ・くらしの歴史館 竣工 昭和49年4月20日 落成 昭和50年4月24日
表門をくぐると、まず「式台玄関(しきだいげんかん)」と呼ばれる表玄関があります。 こちらは上級武士だけが通され、家老と挨拶をした場所です。
部屋に入って軽食を頂いた。
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