H04.四阿山
(退職記念登山)

1.動 機
 定年退職の年に日立研究所山岳部のファミリー登山「四阿山と白根山」に参加した。定年近くになって始めていた夫婦二人での茨城の低山歩きに比べて高度差もあり少しきつかったが、久しぶりの高山の雰囲気が気持ちよく、初めて味わう賑やかな団体登山も楽しかった。ただ、四阿山からの下山時無謀にも登山部の若手と速さを競ったために膝を痛め、現在に至るまで膝サポータなしでは山歩きができない身体にしてしまった苦い思い出のある山でもある。

2.データ
a)山域:四阿山(2346m)
b)登山日:1999/09/17(金)〜19(日)
c)日程:
9/17(金):日立駅21:30発=日立南IC=上田菅平IC=鳥居峠登山口
9/18(土):烏峠登山口6:45----11:15四阿山11:50----的岩山----15:55鳥居峠登山口=鹿沢温泉(泊)
9/19(日):鹿沢温泉8:00=弓池BT9:30----本白根山展望台----弓池BT12:00=草津温泉(入浴)14:30=16:25渋川伊香保IC=日立南IC=20:30日立駅
d)同行者:ファミリー登山参加者定員40名、和子
e)地形図:1/25000 「嬬恋田代」「四阿山」
(四阿山の登山ルート)

(四阿山登山ルートの標高差)



3.山行記録
 1999年5月の定年退職が近づいたある日、日立研究所の山岳部が9月のファミリー登山「四阿山」を募集しているとの情報が入った。数年前から二人で始めていた茨城の低山歩き(茨城県の山登山記録)に比べてきつそうな山だが、退職してから本腰入れて山歩きを始めるきっかけになりそうだし、アプローチも大変そうなので連れて行ってもらうと助かると思って参加申し込みをした。退職直前に8月のパナマ出張の仕事が舞い込んで半年だけ定年延長することになってキャンセルすることになるかと危ぶんだが、パナマの仕事は予定通りにこなして帰国でき、実施日も金曜日夜発で日曜日帰宅ということで勤めに支障なく、無事ファミリー登山に参加することができることになった。

アクセス:
日立駅21:30発=9:50計算センタ前=日立南IC=湯の丸SA5:30=上田菅平IC=6:30鳥居峠登山口

バスは夜9時半に日立駅を出発してR6沿いのバス停で参加者を乗せながら日立南ICに向かって走り、我が家は日立研究所手前のバス停で乗り込んだ。最後の乗客で、すぐに日立南ICから高速に乗って幹事による説明があってからしばらく宴会タイムになった。やがて就寝タイムになったが、北関東道がなかった時代、首都外環道まで南下して関越道を北上してから上信越道に入る。東部湯の丸SAで仮眠をとり朝食を食べてから5:30発車して上田菅平ICで高速を下り、登山口の鳥居峠には6時半ごろ到着した。

1日目:四阿山
鳥居峠登山口6:45----7:35的岩分岐7:50----8:15四阿8:20----11:15四阿山山頂11:50----13:05的岩分岐13:40----的岩山(12名)----15:55鳥居峠=鹿沢温泉紅葉館(泊)

 峠には立派な鳥居峠の看板と四阿山登山案内図があり、その前で準備運動をしてから歩き始めた。40名もの大勢で山に登るのは初めての経験、ペースを合わせてゆっくりと登って行った。
(鳥居峠登山口)
(行列作って)

登りは途中の的岩山は巻いてなだらかな花童子コースを登ってマツムシソウの花を愛でながら、的岩コースとの合流点からは展望も楽しみながら休み休み歩いていった。和子が脚を痙攣させるハプニングがあったが3時間半ほどで山頂に登りついた。広い山頂部に銘々陣取って早めのランチタイム。
(的場山合流点)
(四阿山山頂)

 条件が良ければ山頂からは北アルプスのパノラマが楽しめたのだろうが、残念ながらガスが多かったようで、展望展望写真は一枚だけだった。
(展望:菅平高原の向こうに北アルプスが見えるはずだった)

 1時間ほど山頂でゆっくりしてから、また行列を作って下山にかかった。下りでは途中の分岐で的岩山に登る元気隊と往路の花童子コースを下る一般隊に分けられた。脚には自信があったからもちろん的岩山に登ってから下ることにした。
 的岩山から下る途中で、なんの弾みだったのか山岳部の若い人と競争で駆け下ることになった。元気いっぱい張り切って、懸命に頑張って若い人に後れを取らないでバスに到着することができたが、バスに乗ってしばらくすると膝がズキズキと痛み出した。山岳部の人と仲良しにはなれたが、年寄りに冷や水だったかと反省してもすでに遅かった。
 皆さんが到着してからバスは発車、今夜の宿は「日本秘湯を守る会会員鹿沢温泉の紅葉館」だった。古色蒼然たる旅館に圧倒されながら自慢の温泉に入ったが、風呂場は半地下にあり、痛めた膝には階段の上り下りがきつかった。アイシングという知識は当時は持ち合わせなかったので、膝の痛みを和らげようと暖かい檜の温泉にゆっくりと浸かって養生に努めたのでした。
2日目:草津白根山
鹿沢温泉紅葉館8:00=万座温泉=弓池バス停9:30----10:20本白根山展望台10:35----11:50弓池バス停

6時に起床して7時からの朝食前に旅館の近くを散歩したが、「百番みちしるべ観音」の写真が残っている。説明版によれば東部町新張の一番観音から湯の丸高原地蔵峠を越え鹿沢温泉までの12kmの通称「湯の道」の傍らには一町(約110m)毎に合計百体の石造観音が置かれていて、ここの観音様がゴールの百体目だとのこと。
 もう一枚「雪山讃歌」の由来書の写真があった。「大正15年1月京都帝国大学の山岳部が鹿沢温泉でスキ−合宿された。合宿が終わってから後に第1回南極越冬隊長をされた西堀栄三郎氏、京大カラコルム遠征隊長となった四手井綱彦氏、アフガニスタン遠征隊を勤めた酒戸弥二郎氏、並びに東大スキ−部OB で後にチャチャヌプリ遠征隊長をされた渡辺漸の4名にてスキ−で新鹿沢へ下って宿泊されたが翌日天候が崩れ宿に閉じこめられた。一行は、退屈まぎれに「山岳部の歌」を作ろうと言うことになり、曲をアメリカ民謡「いとしのクレメンタイン」としこれに合わせて皆で上の句、下の句と持ち寄って作り上げたものであると言う。戦後京大山岳部員が当時の資料に記載されていたこの歌を寮歌に加え歌われ始めたのが急速に一般にも愛唱されるようになったが、作者不詳となっていたものを作詞の状況を知った、京大教授、桑原武夫氏が作詞は西堀だと著作権の登録をされたもので、この印税は同山岳部の活動の大きな資金源となっていると言う。「雪よ岩を」で山を愛するものたちに親しまれているこの歌こそ粉雪舞う鹿沢温泉角間峠付近にピッタリで有り、その自然は今も昭和初期と変わっていないと思う。
今回地元でこれを記念し「雪山讃歌の碑」として、台字を西堀氏直筆にて鹿沢温泉に建立した。
昭和57年4月群馬県吾妻郡嬬恋村
(鹿沢温泉の観音様)
(雪山讃歌の由来書)

 朝食をいただいてからゆっくりと出発、弓池のバス停に9時過ぎに到着した。草津白根山は白根山(2,160m)と本白根山(2,171m)と逢ノ峰(2,10m)三山の総称だが、今日は白根山、本白根山ともに入山禁止だった。予定では白根山に登る予定だったが、代わりに本白根山の展望台に上がることになった。
 逢ノ峰の麓の道を歩いて、途中、鏡池が見えるところのに立ち寄った。
(白根山登山口)
(鏡池)

古い火口らしきくぼ地のふちを歩いて本白根山の展望台峰に上がったが、真っ白いガスの世界で、近くの本白根山や三角点峰がやっと見える状態で、期待した浅間山や榛名連山を望むことはできなかった。
(展望台峰を望む)
(展望台)

 展望台で一休みしてから往路を戻ってゴンドラ山頂駅まで歩き、ここで逢ノ峰に登る元気隊と巻道をゆく一般隊に分かれた。昨日膝を痛めた私は逢ノ峰に登るのを断念せざるを得なかった。弓池越に白根山の写真を撮ったりしながら、ゆっくりと歩いて登山口に帰った。
 アルバムには白根山の立派な標柱の写真が残っているのだが、この標柱はどこに立っていたのだろうか、弓池バス停のすぐ近くにあったように思うが記憶が定かでない。
(弓池と白根山)
(白根山標柱)

帰途
弓池バス停12:00=草津温泉(入浴)14:30=16:25渋川IC=18:00大泉JCT=日立南IC=20:00計算センタBS=日立駅前

 今日は汗もかかなかったが、帰りに草津温泉に立ち寄って熱ーい温泉に浸かってから、温泉街の観光をして歩いた。
(湯畑)
(湯の滝)

 膝の痛みは帰宅してからもどんどん強くなり、病院で注射をしてもらったり、接骨院の電気療法を受けたりしたがなかなか治らず、膝を締め付けるサポータを着けてやっと歩ける状態で、しばらくは和子に追いつけない為体(ていたらく)が続いた。このサポータは今でも私の山歩きの必需品になっている。




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