V47.関本富士
(茨城の富士山完登) 1.動 機
地形図川部に関本町富士ヶ丘の近くに・206と示されている山であり、磯原富士山とか関本富士は磯原富士山と呼ばれている。去年2月高帽山に登った時に一緒に登る積りだったのだが時間切れで断念したので、茨城県の富士山リスト18座の中で最後の富士山として残っていた。この山に登るだけに出かけるには我家からは遠すぎるが、この度、磯原近くの山に友人と山菜採りに出かけることになり、そのついでに立ち寄って登ることができた。2.データ
a)山域:関本富士(206m)b)登山日:2009/04/29(水)晴 c)コースタイム:不動明王 15:40 ---- 16:20 関本富士 16:35 ---- 17:00不動明王 d)同行者:和子 e)地形図:1/25000 「川部」
山菜採りを終えて、登山口の不動尊前に着いたのはもう午後3時半になっていた。諸情報には不動尊の右から登るのが正規の道だとあったが、不動尊のすぐ右は擁壁で登れそうになく、車道を少し歩いて見たが、どこまでも擁壁が続いていた。
引き返して不動尊の左手の急斜面を見ると薄い踏跡が登っていた。これを攀じ登って尾根に上がると山頂に向かって踏跡が伸びていたが竹林に入ると不確かになり、高みに向かって倒れた枯れ竹をバキッバギッと踏みつけながら歩いていった。竹林を通過すると杉の植林になり、今度はブッシュが行く手を遮ってきた。その中にも薄い踏跡らしきものが見え、右往左往しながらなんとか登り続けることができた。
茂みの中に、ホウチャクソウやチゴユリが群落を作って沢山咲いていて、藪漕ぎ急登の辛さを忘れさせてくれた。とくにホウチャクソウの群落はなかなか見事なものだった。
また、先の山菜採りの山で、土地の人が沢山収穫していて「塩漬けにすると美味いんだ」と言っていたモミジガサが生えていて喜ばせてくれた。サンショウの木もたくさんあって、ここでも山菜採りに時間を取られてしまった。
半ばまで登るとはっきりとした登山道になり、気持ちよく歩いてサクラやカシの大木が聳える山頂に着いた。
山頂には新旧2体の石祠が並んでおり、近在の人が登ってきて酒盛りでもするのか、近くに一升瓶が何本も転がっていた。新しい石祠には平成4年9月奉納と刻んであったが、古い石祠には判読できる文字はなかった。
往路を下る途中、中腹で左に向かう道らしきものを見つけて興味を持ったが、最近歩かれていないようで草が茂っていたので見送り、そのまま往路を辿った。 車に戻って靴を履き替えていると、近在のおじいさんが不動尊の扉を閉めに来た。「日立から来て関本富士に登ってきた」と言ったら、「ここからフジヤマに登ったのかい。藪が酷かっただろう。もう少し車道を行くと民家の先で山に入る道があり、その先に駐車場もあるよ。そこからだと藪漕ぎ無で登れるよ」と教わった。「私は83歳、昭和16年から日立工場に勤めていた。」から始まり、艦砲射撃の時に被爆したが、片目を失っただけで命からがら逃げ延びた話などいろいろと話が続いた。話が合って、我家が山菜採りが好きだと知ると、「珍しいものを見せてやるよ」と言いながら畑に案内してミョウガタケを採って分けてくれた。持ち山の山蕗も一緒に採っている間に30分も経っていた。 北茨城ICに向かう途中、丁度高帽山に陽が沈むところだった。水稲集団栽培研究会の水を張った水田に関本富士が綺麗に映っていた。
|