W121.沼津アルプス
(水戸アルパインクラブ忘年登山)

1.動 機
今年の水戸アルパインクラブの忘年登山は「沼津アルプス」とアナウンスされたが、不明にも私には初耳の山だった。ガイドブックで調べると「沼津アルプス」は沼津港の東に並ぶ香貫山(193m)、横山(182m)、徳倉山(256m)、志下山(214m)、鷲頭山(392m)、大平山(358m) の山並みを歩く10kmほどのコースで、岩崎元郎さんの新百名山にも入っていた。今回の計画は、2日目を観光にあてるために初めの2座はカットして徳倉山から大平山までの7kmに短縮されていたので、歩行距離は超ロングコースの日立アルプスの1/4、一昨年の水戸アルパイン忘年山行の鎌倉アルプスよりも短い。と軽く考えて出かけて行った。
実際には2日に分けて歩くことになり、横山から太平山までを歩いたが、小さな山の特徴だで急坂でもジグザグに切った登山道はなくてすべて直登ばかり、何度も登り下りしてなかなか骨の折れる歩き甲斐のある山行だった。道中には富士山や駿河湾の好展望地もあって、歩き終わっての達成感は岩場歩きの連続だった播磨アルプスに匹敵するものがあった。

2.データ
a)山域:横山(182m)、徳倉山(256m)、志下山(214m)、鷲頭山(392m)、大平山(358m)
b)登山日:2009/12/05(土)曇のち雨、06(日)晴(前夜発)
c)コースタイム:
アクセス(12/05): 森山 5:25 = 5:35 日立電鉄南営業所 5:40 = 5:55 東海駅 = 6:15 勝田駅 6:25 = 6:45 水戸駅 = 7:00 水戸IC = 7:10 友部PA 7:20 = 8:00 守谷SA 8:10 = 8:20 三郷料金所 = 9:10 用賀料金所 = 10:10 足柄SA 10:15 = 10:30 沼津IC = 10:55 八重坂バス停
(12/05): 八重坂バス停 10:55 ---- 11:00 横山登山口 11:05 ---- 11:35 横山 11:45 ---- 12:05 横山峠 ---- 12:30 徳倉山 12:40 ---- 12:50 香貫台分岐 ---- 13:05 登山口 13:10 ---- 13:20 香貫台入口バス停 = 14:45 土肥金山跡 15:30 = 16:25 韮崎反射炉 16:45 = 16:55 長岡温泉(泊)
(12/06):長岡温泉 7:45 = 8:05 香貫台入口バス停 ---- 8:10 登山口 ---- 8:35 香貫台分岐 ---- 9:10 志下坂峠 ---- 9:15 大トカゲ場 9:25 ---- 9:30 志下山 ---- 9:38 馬込峠 ---- 9:45 志下峠 ---- 9:50 中将さん 9:55 ---- 10:10 小鷲頭山 10:15 ---- 10:30 鷲頭山 10:40 ---- 10:55 多比峠 ---- 11:30 多比口峠 ---- 11:40 大平山 11:50 ---- 12:00 多比口峠 ---- 12:30 多比コンビニ
帰途(12/06):多比コンビニ 12:50 = 13:45 万葉の湯(入浴) 14:50 = 14:55 沼津IC = 17:00 海老名SA 17:20 = 18:40 用賀料金所 = 19:25 三郷料金所 = 19:30 守谷SA(昼食) 20:30 = 20:45 水戸IC = 21:10 水戸駅 = 21:30 勝田駅 = 21:50 東海駅 = 22:00 日立電鉄南営業所 = 22:10日立自宅
(沼津アルプス縦走ルート)

(沼津アルプス縦走ルートの標高差)

d)同行者:水戸アルパイン会員14名(男4、女10)、和子
e)地形図:1/25000 「韮崎」

3.山行記録
(アクセス)
早起きして、珍しく自宅で朝食を食べてから出発して、日立電鉄南営業所を5時40分発のバスに乗り換え、東海、勝田、水戸と今回の仲間14名全員が乗り込んで、7時に水戸ICから常磐道に乗った。高速は首都高もすべて順調に走って、沼図ICに10時半に到着した。今にも降ってきそうな空模様で、翌日は好天になりそうなのでメインの山行は2日目にして、一日目に横山から徳倉山までを歩くことになった。朝食が早かったので、登山口までのバスの中で弁当を広げた。

(1日目:横山から徳倉山、そして観光)
バスの駐車場所がないのでバスの中で身支度をし、八重坂のバス停で全員下車して、上に登山標識が見える目の前の石段を登り始めたが、こっちは香貫山への登山道だった。横山への登山口は200mほど先にあり、脇の小屋前の広場でストレッチだけして歩き始めた。はじめだけはなんでもない登山道だったが、すぐにロープを張った急坂になった。ほぼ真っ直ぐに山頂に向かっている。
(八重坂峠登山口)
(粘土の急坂)

それも粘土質の道で、足場は切ってあるのだが、それでもずるずると滑る。ロープに頼りながら登るが、いつの間にかみんな雑木林に入り込んで、立木に掴まりながら登って行くようになった。途中に「中弛」もあったがほとんどが急坂の連続で、わずか150mの登りに30分もかかってしまった。最初から沼津アルプスの容易ならざる難コースぶりの片鱗を見せつけられた思いだった。
山頂は立木に囲まれていて展望はなく、樹間からわずかに沼津の町などが見えていた。お八つを食べながらの賑やかな話の中心は苦労させられた登り坂に集中し、これから先の覚悟を新たにした。
(雑木林の中を)
(横山山頂は展望なし)

下りも同じように急坂、ロープや立木にしがみつきながら下って行った。下りきるとしばらくなだらかな道が続き、目の前に徳倉山が見えてきた。
(下りも急坂)
(徳倉山を眼に前に尾根歩き)

横山トンネルの上を通り過ぎた所が横山峠で脇から登山道が合流していた。ここからは、駿河湾の展望が開けているが、今日は生憎のお天気で天城の山並みは見えない。雨が降らないだけ幸せというものだ。
一休みして向かいの徳倉山への登山道に向かった。道標には「鎖場あり」の赤い注意書きがあり、横山よりも標高が高く急坂を覚悟した。展望が開ける中段までは植林や雑木の中の登山道で、下が岩っぽい道で滑らないので歩きやすかった。
その先に鎖場があった。丸太で階段が切ってある急坂が一直線に登っている。これほど長い一直線の階段は珍しい。黄色に塗った市中には20番(?)から番号をふってあり、これが減っていくのを励みに登って行った。
(十字路の横山峠)
(徳倉山への鎖場)

徳倉山の山頂には二等三角点があり、広い草原になっていてお天気が良ければ好展望地のはずである。眼下に沼津の市街が望め、その向こうに駿河湾が広がっていたが、富士山や伊豆半島はガスの中だった。それどころか、ここで雨がぽつりぽつりと降り出し、それほどの雨ではないが、急坂の途中で本降りになっては大変なので、全員ここで雨具をつけた。
ここからの下りも急坂で、竹の手すりが付いていた。藪の中に入り込んだりしながら、みんなでわいわいと結構楽しみながら下って行った。
(展望の広い徳倉山)
(またまた急坂下り、雨具の行列)

下る途中で雨がやみ、下りきった香貫台分岐で雨具を脱いだ。分岐点からは左に尖った山が見えており、明日歩いて行く鷲頭山や太平山らしいと見当を付けた。
今日はここまで縦走は終わりと右の分岐に入ると、はじめは竹の手すりがある急坂だったが、やがてなだらかな登山道になり、気持ちよく下って行った。
(香貫台分岐)
(香貫台への下り)

下りついたところは団地の中、バスはここまで上がってくることが出来ないので、団地への取り付け道路を10分歩いて車道に出た。車道からはこんもりとした徳倉山が見えていた。
(団地内の登山口)
(車道からの徳倉山)

(観光)
他所で待機していたバスを呼んで乗り込むとバスの窓ガラスを雨が濡らし始めた。すれすれ歩行中に雨に合わずに済んでラッキーだった。
まだ宿に入るのは早いので観光ドライブに出かけることになった。最初は1時間半ドライブして土肥の金山跡。10月の大山山行時の石見銀山跡に続いて鉱山跡見学が続く。
コースに従って金鉱石採掘の抗内を歩いたが、石見銀山よりも待遇が良かったのかトンネルは広く高い。銀山の方は世界遺産指定を受けるために余り人工的な展示物はなかったが、こちらは動く人形などを多用して見学者への説明は行き届いている。
次に黄金館に入って、大判小判、金鉱石など金山の産出品をはじめ、千石船や江戸時代の様子を再現した模型を眺めながら勉強をし、250kgの金塊に触り12.5kgの金塊を持ち上げてその重量感を体験した。
(坑内)
(坑内作業の展示)

次は宿のある長岡温泉まで引き返して、韮崎反射炉跡に入り案内嬢の説明を聞きながら一巡した。江戸時代に大砲を作った反射炉はここと水戸藩のものと2体だけらしい。
反射炉脇のお土産屋の2階につるし雛の展示の準備がされており、特別に入れてもらって綺麗なつるし雛を眺めさせていただいた。初めて見るつるし雛が珍しくて綺麗だった。
(韮山反射炉)
(つるし雛)

長岡温泉の老舗旅館に入ると、造りも内装も歴史を感じさせる宿だった。温泉で汗を流して宴会場に入ると、ステージに「歓迎・水戸アルパイン御一行様」の飾りがしてあり、座敷には二の膳付きの豪華な料理が並んでいた。山小屋になれた一行様には過分な扱いだが、一年の一度くらいはこんな待遇を受けるのも悪くないか。
ステージに並んで宿屋お抱えのカメラマンが集合写真を撮ってくれたが、仲居さんに頼んでそのままの形で私のデジカメのシャッタを押してもらった。
まずはこの一年の健康を祝して元気に乾杯をし、食べきれないほどの料理に舌鼓を打ちながら、ビンゴゲームに興じ、山の話など語らっているうちに時間は過ぎて行った。部屋に戻ってからも、2次会で夜遅くまで話が続いた。
(大歓迎)
(豪華食事)

(2日目:志下山から鷲頭山、そして太平山)
夜半には雨は止んでいたが、朝起きて外を伺うと一面ガスの世界だった。テレビをつけると今日は晴れになるとの予報で希望をつなぐ。普通の夕食ほどもある朝食の膳を腹いっぱいいただいて、宿の中で身支度をしてからバスに乗った。
走り始めはやはり霧が濃いままだったが、途中のトンネルを過ぎると突然すっきりとした青空になった。富士山まで見えてきた時には、バスの中は黄色い歓声でいっぱいになった。
昨日降りてきたところでバスを降り、登山口の団地まで車道を歩いて登山道に入った。山に登れば富士山が見えるだろうとの思いで、歩きやすい道を登って行く足取りも気のせいか速い。
(香貫台バス停から再スタート)
(分岐まで登り返す)

昨日の分岐点まで登って、右の縦走ルートに入るとなだらかな道が続いた。途中、戦時中の対空壕の穴を覗いたりしながら展望のない道を10分も歩くと草地に出た。後ろを振り向くと真っ白にお化粧した富士山が見えていた。
(香貫台分岐からのなだらかな尾根道)
(富士山展望)

縦走路は・282m峰を巻くように続いたが、やがてまた下りになる。昨日程ではないが80mの下りを路面が滑りやすいところはウバメガシの林の中に逃げ込みながら下った。向かいに鷲頭山が見える草地を過ぎるとロープ場があり、それを下りきると「志下坂峠」の道標があった。
(ウバメカシの林)
(志下坂峠)

「志下坂峠」から5分も登ると刈りはらわれた展望所に出た。立木に「大トカゲ場」の看板があり、休憩(トカゲ)に適したところと書いてあった。
後ろには巻いてきた・282m峰の肩に、富士山がくっきりと見えていた。眼下には駿河湾が広がり、手前の沼津の市街、静浦漁港がよく見えていたが、伊豆半島は山並みを雲に隠していた。行く手には鷲頭山が三角形の山容を聳えさせていて、登りの急登を思わせていた。
「大トカゲ場」の看板通りにゆっくりと休憩していると、富士山の左に南アルプスの白い峰々が姿を現していた。光、茶臼、上河内、聖、赤石、荒川三山、知っている山の名前を全部言ってみる。
(大トカゲ場から鷲頭山)
(大トカゲ場から・282と富士山)

展望を楽しんでからなだらかなカヤトの尾根道を進むと「さざなみ展望台」があり、ここからは伊豆半島も半分の山並みを見せていた。そのすぐ先に志下山の山頂標が立っていた。平らな山頂で、山頂標がないと山頂とは気がつかない。向かいの鷲頭山が一段と近づいてきた。
この頃から、下の街から津波防災訓練の放送やサイレンが盛んに聞こえてくるようになった。今日になって出会う登山者がほとんどなく、人気の山だから土地の人がもっと歩いていてもいいだろうと不審に思いながら歩いていたのだが、市民はこの防災訓練で足止めされていたのかもしれない。
(さざなみ展望台)
(志下山山頂から鷲頭山)

志下山から下りながら「奥駿河パノラマ台」で展望を楽しみ、下りきったところが大平への分岐点になっており、「馬込峠」の道標があった。すぐに「きらら展望台」がありなだらかに登り下りすると大きなぼたもち岩のある志下峠についた。ここが鷲頭山の直下で、直進して絶壁を直登するルートも以前はあったのかもしれないが、直進方向は柵がしてあり「立入禁止」の札が付けてあった。
左に登山道があり、なだらかに登って行くと大きな岩壁が目の前に立ちはだかり、その下が刳り抜かれたように岩屋になっていてた。岩屋には木の格子で囲まれた石像があり、その脇に下記の「中将さんの由来」を書いた説明板があった。
『本三位中将、平重衡(平清盛の五男)は一の谷の合戦に破れ(1184年)須磨方面に逃走中、馬に矢があたり馬と共に倒れたところを源氏に生け捕られ、京都市中を引き廻しの上、土肥実平に預けられていたが、源頼朝の命により、梶原景時に付添われて鎌倉に送られて尋問を受けたが、平家ただ一人の生き残りの重要武将なるによって、一時優遇され狩野宗茂に預けられ、後狩野の里に軟禁されていた。 しかし重衡が治承4年(1180年)南都攻撃に平家の大将軍として出陣し、東大寺、興福寺や奈良市内を焼いた罪は僧徒はもとより一般市民の怒れる所となり、重衡を処断する為引渡しする事になった。この事を逸早く知った重衡は狩野の里を出て、鷲頭山中腹の洞窟に隠れ住んでいた。その後追手によって遂に発見されて包囲され、大岩上まで逃れたが重衡の運命これまでと切腹自害し果てた。此処を「中将切腹の場」と言う。又、重衡が隠れ住んだところを「中将さん」と言って浜の人々が、その霊を慰めるため祭ってきたが、この中将岩は大平分なので文明14年(1480年)より大平の村人が祭ることになり延宝7年(1679年)阿弥陀如来の石像を造り、此処の岩窟に納め、毎年4月3日に祭を行ってきた』 格子の中を覗いてみると、確かに阿弥陀如来の石像が納められていた。
(志下峠のぼたもち岩)
(中将さん)

「中将さん」からは鷲頭山への急登が始まった。岩の急坂を登った先の鷲頭山の肩に「小鷲頭山」の標柱があり、南アルプスなどの展望が開けていた。
このピークの先に「終焉切腹の場」の表示板があり、少し下って登り返した先が今回の最高峰の鷲頭山だった。山頂は広く刈りはらわれていて、山桜の大木の前に祠があり、駿河湾方面の展望が開けていた。山頂標柱の前で集合写真のシャッタを押した。
(石の急坂)
(鷲頭山山頂)

南アルプスや伊豆半島方面のガスが晴れてきて、山座同定を楽しみながら一休みした。
(南アルプスも見えてきた)

鷲頭山からの下りはまた急坂だった。ロープを使ったりしながら慎重に下ったが、登ってくる子供連れの若いパパ集団に出会った。目の前に三角形をした大平山が意外に高く聳えていたが、小学生が登る山に弱音は吐いておれない。気合いを入れなおした。
(多比峠へ急坂下り)
(太平山)

多比峠まで下って少し登り返すと、痩せ尾根歩きになり、小さな岩場を越えるところも数か所あった。ウメバカシの木が途絶えるところからは、左手に富士山が見えるようになってきて、多比口峠は富士山の絶景ポイントだった。
(多比口峠から富士山展望)

多比口峠からなだらかに登ると大平山山頂につき、お互いに手を打ち合わせながら沼津アルプス縦走完歩を祝い合った。
しばらく完歩の余韻にひたってから下山にかかった。多比口峠で富士山にお別れをして多比の町に下りはじめたが、急坂は最初だけで、あとはなだらかで快適なハイキング道になり、明るい話声を聞きながら気持ちよく下った。
(太平山山頂)
(多比口峠から多比へ下る)

たわわに実ったみかん畑の脇の道を、伊豆半島の天城山を仰ぎ見ながら下り、途中で無人ワンコインの店で買ったみかんをぶら下げながら市街を歩き、遠方の駐車場で待機していたバスを呼んで帰途についた。
(伊豆天城山)
(多比の街中を歩く)

沼津ICに向かうバスの車窓からは、二日間で歩いた沼津アルプスの山並みが見えており、富士山も綺麗に見えていた。街でも見ることができる富士山が、山の上で見えるとそれ以上にうれしい気持ちになるのはどうしてだろう。
(沼津アルプスの山並み)
(沼津市街からの富士山)

(帰途)
(東名は大渋滞)
汗を流すつもりで沼津ICの近くの日帰り温泉に立ち寄ったが、受付で入浴料が2100円と聞いてびっくりして入浴は諦め、食事だけして退散した。大汗かきのリーダさん一人だけが奮発して温泉に入って汗を流し、バスの中でも気持のいい顔をしていた。
日曜日の東名高速上りは大変な渋滞になるとは聞いていたが、今日は横浜あたりで事故があってその渋滞に拍車がかかった。沼津ICには15時前に入ったが、用賀料金所を通過して首都高に入ったのは18時40分、3時間40分もかかっていた。こんなに渋滞しても、お天気に恵まれた今日の山行に満足していた皆さんからは泣き言はあまり出ず、たっぷりの時間を使って、年明けから始まる茨城山行の宣伝、説明が念入りに行われた。
首都高は意外にもすいすいと走ることが出来、守谷SAで夕食をとっても、水戸ICを21時過ぎに通過して、日立電鉄南営業所には22時に到着できた。


inserted by FC2 system