Y23.笠間の富士山と佐白山

1.動 機
茨城には珍しく雪模様の日が続いて家にこもっていたが、一日だけの好天気の予報が流れ、早速お山に出かけることになった。高い山には雪が残っていそうなので、笠間の低山、富士山と佐白山を周回するコースを歩くことにした。両山ともに分県登山ガイドに載っている山だが、10年も前に登った山なので記憶はおぼろげ、変化のあるコースをかすかな記憶を辿りながら面白い山歩きをしてきた。

2.データ
a)山域:富士山(144m)、佐白山(205m)
b)登山日:2011/2/13(日)晴
c)コースタイム:日立自宅 10.00 = 10:15 日立南IC = 10:30 水戸IC = 10:50 笠間稲荷外苑駐車場 11:05 ---- 11:10 佐白観音(観世音寺)11:15 ---- 11:25 富士山 11:30 ---- 11:50 大黒石 ---- 11:55 千人溜り ---- 12:00 城跡公園 12:10 ---- 12:15 石倉(昼食) 12:45 ---- 12:50 佐志能神社 12:55 ---- 13:05 城跡公園 ---- 13:15 山麓公園 13:20 ---- 13:25 笠間稲荷外苑駐車場 13:35 = 14:00 出雲大社 15:05 = 15:30 水戸IC = 15:45 日立南IC = 16:00 日立自宅
(富士山佐白山周回ルート)
(富士山佐白山周回ルートの標高差)

d)同行者:和子
e)地形図:「笠間」

3.山行記録
11時前に観光案内所のある笠間稲荷外苑駐車場に入ると、日曜日なのにガラガラだった。ツツジの季節には満杯になるこの駐車場も、無料なのに稲荷神社から遠いことで敬遠されているらしい。トイレを使い身支度をして、道向かいの佐白観音の参道に入った。丸太の階段を登ると佐白観音はすぐだった。
佐白観音は坂東三十三札所の第23番札所で観世音寺とも呼ばれる。観音菩薩像の奥に建つ社殿は十分に立派に見えたが、脇に「本殿改築の御寄進」を募る札があった。今の住職さんが祖先からの念願である東大寺の三月堂を摸した観音堂を建立すべく勧進中とのこと。
(観世音寺入口)
(佐白観音=観世音寺)

観音様の脇に「平和宣言の碑、つつじ公園」の道標があり、登っていくとすぐ上に、戦争に供出されたのだろうか鐘のない鐘楼(?)があり、その脇に平和宣言を刻んだ碑があった。こんな立派な文面に接することが久しくなかったので、じっくりと読ませていただいた。曰く
「絶対平和宣言 1.戦争は人類最高の罪悪、最大の不幸、悲劇なり。2.人間が人間を殺すという理由、理論、権利はない。3.世界は一つ、生命あっての人生なり。世界は一つ、これが世界平和だ。」
「人間と自然との闘いは永遠につづくのだ。地震、津波、豪雨、豪雪、洪水、水難、海難、交通災害、公害、人間を不幸にする病気、病原の研究等々、自然との戦いに徹せよ。之等の戦いに資本を廻せ。総ての機械文明は自然戦争に利用せよ。自然科学の研究目標は、自然制御に在り。人文科学の研究目標は、社会福祉という人類愛に徹せよ。一人の落伍者もあってはならない。人間が殺しあう戦争の即時停止、一切の人殺し道具武器の製造禁止、所有禁止、原爆禁止。犠牲という思想を抹殺せよ。一人の生命も犠牲にしてはならない。健全娯楽、スポーツの普及、土地住宅の所有、老後の保証、宇宙開発という人類の夢も育てよ。人命尊重、人間の生命は地球よりも重い。これでこそ人間が万物の霊長の資格の座に着けるのだ。学者よ、思想家、宗教家、教育者よ奮起せよ。若者よ、青年よ、母親も立て!全世界の願い絶対平和!!」
笠間地方には高邁な理想を掲げる立派な人が何人もいたようだ。
平和宣言の碑のところからつつじ公園に向かうと、木肌がごつごつした大木があった。何の木かと思ったら、そばに「父のさくら」の石碑が立っていた。こんな大木が桜の花を咲かせた情景を見てみたいものだ。
(鐘楼と平和宣言碑)
(父さくら)

登り口には第一ゲートの小屋があり、富士山の山頂へ登る道はここから二手に分かれた。一つは山頂へ直登する330mの階段道、もう一つは一面に植栽されたつつじを愛でながら山肌を九十九折りで回りながら登っていく遊歩道だった。両方の道を織り交ぜながら登っていくと10分ほどで山頂に着いた。
山頂手前には身代わり観音様が立っておられ、その後に立派な展望台があった。
(山頂近し)
(身代わり観音)

早速展望台に登ってみたが、南は立木に遮られて、見えるのは西方面の高峰・仏頂山から北の方面だけだった。
(高峰仏頂山国見山展望)

近くの東屋の所に移動すると、西から南方面にかけての山並みが広がっていた。
(加賀田山難台山吾国山加波山展望)

登ったとは反対側に「座頭市の碑」があった。映画の座頭市が笠間に関係あるとは知らなかったが、碑によると「1818年笠間の城下町に生を得たが、すぐにみなしごになり光りも失って按摩修業、そのかたわら居合術の技を磨いて関八州の旅に出た」とのこと。
「座頭市の碑」の近くからの道を下ると第三ゲートがあり車道に出た。広い車道を歩くのは嫌なので「ハイキングマップ」(富士山から佐白山にかけて各所に設置されていて助かった)を見て遊歩道を歩いたが、これも舗装された道で、余り変わり映えはなかった。
遊歩道を下るともとの車道に合流し、佐白山方向に歩くと道傍に大きいな岩が転がっていた。鎌倉時代に佐白山の僧兵を守ってくれた岩で、へそにあたる所に穴があり「この穴に小石をなげ入れれば幸せになる」とあったが、既に入っている石を追い出しては御利益がないらしいので諦めた。
ここからもしばらく車道が続いたが、車道でも鬱蒼とした深山の雰囲気があった。
(大黒石)
(佐白山へ)

峠から右に分かれると千人溜りの駐車場だった。往時はいざ出陣という時に武士が集結した所らしいが、千人の武士が集まっても大丈夫そうな広さがあった。広場には雪が残っていたが数台の車が停まっていた。
千人溜りの先にも舗装道路が続いていたが、車止めがあってここから先は車両進入禁止になっていた。車道を串刺しするように階段の遊歩道があり、5分も歩くと城跡公園の広場にでた。
(千人溜り)
(林道と遊歩道)

城跡公園には笠間城の歴史や史跡の説明板や石碑があり、この城が明治時代まで地方政治の中心だったとあった。高台には展望図があったが、立木が育って展望は今一つだった。
城跡公園からは佐志能神社への石段の参道が登っていた。苔むした石段を少し登ると、右手に「石倉」への分岐標があり、先ずは石倉に行ってみることにした。
(佐志能神社参道)
(一旦石倉に下る)

山頂を巻くように苔むした道を5分も歩くと、見覚えのある石倉の大石群が見えて来た。一番大きな石群石の上で昼食にしようと思って、先ずは和子に上がってもらって記念撮影をしたが、石の上は狭くて落ち着いて食事などやっておれないと云う。自分でも上がってみたが、狭くて写真を撮るのに立ちあがるのも怖かった。10年前にはこの上で弁当を広げたと思っていたが、この記憶が間違いか、歳とって気が小さくなったのか、石倉の形が変わったのか、定かでない。
(石倉到着)
(石倉に登った)

大石の上からは広い展望が広がっており、太平洋側には水戸の県庁や鹿島の工場群も見えるように思えたが、ゆっくりと確認できる状態ではなくて定かではない。西の方には愛宕山から難台山、吾国山、加波山、高峰仏頂山までずらりと並んでいて富士山山頂以上の展望だった。
おっかなびっくりシャッタを押して大石から下りて、平らなところでゆっくりと弁当を広げた。
(愛宕山から仏頂山までの大展望)

石倉から佐志能神社がある佐白山の山頂に向かって直登するルートがあった。下から上まで全部岩場の連続、丁寧に足場を掘ってあり、鎖も付けてあったので問題なく登れたが、ここを下るのは怖そうだ。佐志能神社よりの先に石倉に回って、ここを登るルートにして良かった。
山頂に上がると立木に「佐白山209m」の山名板がぶら下がっていたが、地形図では205mとなっている。古めかしい神社にお参りしていると御夫婦が石段を登って来られたのですぐに下山にかかった。塀は天守の瓦を使っているとか・
(佐志能神社へ登り返し)
(佐志能神社)

北面側の石段には雪が残っていて、10分慎重に下って城跡公園に着いてホッとした。
城跡公園から舗装道が下っていたが、遊歩道が別れていたのでこれを歩いて下った。立木に名前を書いた札が付けてあったので、木肌の勉強をしながら気持よく下って行った。
(石段下り)
(遊歩道下り)

遊歩道は春のサクラや秋のモミジで有名な山麓公園につながっていた。広い公園には奥に治功神社が建っており、その前に忠臣蔵の大石内蔵助の像があり、大晦日に鳴らす時鐘楼などもあって歴史も感じさせた。
(満州分村懐古の碑)
(大石内蔵助像)

公園下の笠間稲荷外苑駐車場は山麓公園のすぐ下で、靴を履き替え観光案内所で観光資料を頂いて、少し離れた出雲大社に向かった。ガラス工房のレストランで暖かい稲葉うどんを頂き、ガラス工房の実演を見学して樹木葬霊園を見て日立に帰ってきた。




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