Y32.常陸太田・歴史の里ウオーク

1.動 機
茨城版朝日新聞の折り込み紙「定年時代」23年3月版に、常陸太田市の歴史の里ウオークが紹介された。スポットの半分は訪れたことのある所だが、全部を繋いで歩けば一日のハイキングに手ごろな距離だった。朝からのいいお天気に誘われて早速出かけてみると、道も道標も良く整備されており、大好きな黄門さまの名前が頻繁に出てくる説明板を読みながら、面白く陽だまりハイキングを楽しむことができた。復習がてら、山行記の中に説明板の内容を書き写してみる。

2.データ
a)山域:常陸太田・西山公園歴史の里散歩コース(65m)
b)登山日:2011/3/9(水)晴時々曇
c)コースタイム:
日立自宅 9:45 = 10:05 常陸太田市役所 10:20 = 10:30 山吹運動公園 10:35 ---- 11:00 佐竹寺 11:10 ---- 11:25 山寺水道説明板 ---- 11:35 白馬寺 11:40 ---- 11:50 から傘御殿 11:55 ---- 12:15 山寺水道の碑 ---- 12:25 円水の墓 ---- 12:30 旧久昌寺跡 ---- 12:40 分岐点 ---- 12:50 西山荘入口 ---- 13:00 桃園 13:25 ---- 13:35 助さんの住居跡 ---- 13:55 西山公園展望台 14:10 ---- 14:15 義公廟 ---- 14:20 久昌寺 14:25 ---- 14:40 分岐点 ---- 14:55 雪村の碑 ---- 15:10 山寺晩鐘の碑 ---- 15:20 山吹運動公園 = 16:00 那珂町 = 17:45 日立自宅
(歴史の里ウオーク歩行ルート)

(歴史の里ウオーク歩行ルートの標高差)

d)同行者:和子
e)地形図:「常陸太田」

3.山行記録
歩く前に常陸太田市役所の観光課に立ち寄って追加情報を得ようとしたが、忙しくお仕事中の職員が出してくれたマップは市街の周遊マップだった。今回はあまり役に立たなかったが、常陸太田の市街は旧家が多くて歩くと面白そうなので、そのうち役立てよう。
「定年時代」推奨の山吹公園の駐車場に入ると、駐車場は半分埋まっていて隣の野球場から元気な掛け声が聞こえてきていた。
今日は距離も短く山登りはなさそうなので、登山靴は履かずにスニーカのままで小さなザック一つで歩き始めた。道標には最初の佐竹寺まで19分と表記されていたが、広い県道61号の歩道をのんびり歩いたら25分かかった。

佐竹寺に着くと、「坂東廿二番霊場佐竹寺」と彫り込んだ立派な石柱の後ろに説明板があり、次の様な記述があった。
「佐竹寺は妙福山明音院と号する真言宗豊山派の寺院で、,寛和元年(985)に花山天皇の勅願により元密上人が創建したと伝えられたと言われています。創建当時は現在地から西北西700m離れた鶴ヶ池の洞崎の峰に建てられ、観音寺と称していた。
佐竹氏初代昌義は、治承元年(1177)に同寺に寺領として300貫の土地を寄進し、六代長義は衰えていた寺堂を佐竹氏の祈願所として再興するなど、佐竹氏の隆盛とともに寺運も栄えた。しかし、天文12(1543)年に兵火にかかって焼失してしまい,同15年(1546)に18代義昭によって再建されました。
明治39年(1906)に国指定重要文化財となった本堂は、本堂は茅葺葺屋根寄棟造で、主屋の周囲にこけら葺の裳階(もこし)をめぐらし、正面中央には唐破風をあげている。元禄時代に内部の柱を取り除くなどの大改造が行われたが、正面の火頭窓や柱、外陣の繋ぎ梁の海老紅梁や組物などに桃山建築の先駆としての様式を残している。
古くから安産、厄除けの仏様として信仰され、古くから板東三十三観音霊場の第二十二番札所として巡礼が絶えない古刹である。」

山門(仁王門)は昭和15年(1940年)の再建とのことでそれほど歴史を感じさせないが、両側に安置されているおっかない面構えの金剛力士(仁王)像は宝永年間の作とのことで、いかにもいにしえの作品の雰囲気があった。
(佐竹寺の仁王門)
(仁王様)

山門を潜って境内に入ると、大きな銀杏の古木の向こうに、分厚い萱葺屋根を乗せていかにもどっしりとした貫録十分な本堂があった。安産、厄除けに御利益があるとのことで、本堂廻廊の壁や天井にはおびただしい数の願掛け(?)紙が隙間が無いほどに貼付けてあったが、あんな高いところまでどうやって貼り付けたのだろう。
本堂前には沢山の可愛い身代わり地蔵が並び、横には篤志家さんの奉納なのか大きな布袋さんの石像もあった。
(佐竹寺本堂)

佐竹寺からは、引き返すように県道の一つ裏をついた歩道を歩いたが、この辺りには梅の木が多く、白い花があちこちに咲いていた。田舎道をのんびり歩いていって県道から入って来る車道に突き当たって左に進むと下の写真の様な「茨城県指定史跡・山寺水道」の説明板があった。「定年時代」には「山寺水道の碑」とあったので真新しい印刷された説明板は意外だった。
黄門さまが計画し円水という人に指示して作った水路とのことなので、是非現物を見てみたいと思って近くの枝道に入ってみたりしたが見つからず、人に尋ねようにも近くに人影はなく、民家の戸をたたく程の勇気もなくて、諦めて先に進むことにした。
(山寺水道の説明板と記念碑)

次の交差点に「定年時代」に記載のない「白馬寺へ500m」の道標があり、寄ってみることにした。左に入って少し先で一度右折して狭い田舎道を歩いて行くと突然2車線の立派な舗装道路になった。白馬寺はその先にあったが、お寺の周りには古い墓地が多く、山門入口周りの広い敷地も全部墓地として区画整理されて売り出し中になっていた。
説明板によると
「白馬寺は曹洞宗の寺院で源如庵和尚ゆかりの寺である。源如庵和尚は中国河南省洛陽の郊外にある白馬寺に渡り二年間仏法を学び帰国し、正平十年(1355)山方村(現在常陸大宮市)に大平山常楽寺を創建し、当時は真言宗の寺院であったとされる。その後、天文二年(1533)に群馬の永源寺の幻室伊峰禅師により、佐竹氏十八代義昭を中興開山として曹洞宗に改め、寺名も白馬院常安寺とした。文禄三年(1594)佐竹氏の分家の東義久が石塚城主になると、菩提寺として場内に移し、寺名を経來山白馬寺と改めた。佐竹氏が秋田に国替えになったあとの元禄九年(1696)徳川光圀の命により、石塚の白馬寺は太田の万照寺と入替えにこの地に移った。その後明和六年(1769)二月に火災に遭い、古記、什器、宝物などことごとく焼失してしまい、現在の本堂は安永四年(1775)に再建されたものである。」
とあり、ここにも黄門さまの名前が出て来た。
お寺は山門だけは古びた感じを残していたが、別の記念碑文によると本殿は梶山静六などが発起人になって昭和54年に大改修が行われたようで、建物はまだぴーかぴか、佐竹寺を見たあとでは余り有難味を感じない雰囲気だった。
(白馬寺)

白馬寺入口には「傘御殿」の道標があり、この先700mとあった。面白い名前に惹かれて広い車道を歩いて行くと、左手の斜面に「から傘御殿・西方展望休憩所」の案内板があった。少し戻って階段の山道を登ると、から傘の形をした屋根がある休憩所があった。案内板には東海・大洗・水戸方面の眺望ありとあったが、周りは低い山ばかりで期待した眺望はなかった。
少し期待を裏切られた思いで次に向かう。からかさ御殿の下の車道にも歴史の里の道標があり、西山荘にはここから右の小道に入れば近そうだったが、「定年時代」に表示のある旧久昌寺跡も見たくて車道を引き返した。
(から笠御殿)

「白馬寺へ500m」の分岐まで戻って先に進むと、すぐのところに「定年時代」表記の山寺水道の碑 があった。ここにも水道への道標はなく近くに道もないので、水道跡を探すのは諦めて旧久昌寺跡へ向かった。
その先の田圃路に「定年時代」に記載のない「円水の墓」の道標があった。山寺水道の案内板に書いてあった名前なので興味を持って寄道してみた。墓は他の一般墓地が散在する山地にあり、永田円水一族の墓地として多くの墓石があった。永田家の塔婆も供えられていたので、今も円水の子孫の人達が守っている墓地と思われた。常陸太田市の案内板には
「常陸太田市指定史跡 永田勘衛門(円水)の墓 永田家は甲斐の国出身の鉱山開発に携わった技術者で、永田茂衛門、勘衛門父子が水戸に來住したのは、寛永十七年(1640)水戸藩初代藩主徳川頼房の時代である。久慈郡町屋に住み、町屋金山をはじめ領内各地の金山の開堀、利水、土木事業などに尽力し、水戸藩産業の発展に貢献した。父茂衛門は万治二年(1659)に、子勘衛門は元禄六年(1693)に没したが、勘衛門はその功績により二代藩主光圀(義公)から円水の号を与えられ、久昌寺敷地内に墓所を与えられた。父子二代にわたる事業の中で、上水道では水戸城下の笠原水道、山寺水道の建設、用水では常陸地方でも屈指の小場、辰ノ口、岩崎三大江堰の完成などが注目される。なお、永田家は分家して二家に分かれ、代々水戸藩の水守役として主要な江堰沼池等の管理にあたってきた。」
(円水の墓)

円水の墓から引き返して少し登ったところに旧久昌寺跡があったが、意外に狭い荒地に遺跡の碑と説明板だけがあり、説明板には
「旧久昌寺跡 水戸藩二代藩主徳川光圀の生母の谷久子(靖定夫人)は、寛永元年(1661)に亡くなり、水戸城下の日蓮宗経王寺に埋葬された。光圀は延宝五年(1677)の久子の十七回忌にあたって、墓を一族の墓所である瑞龍山に移すに際し、経王寺を稲木村に移して、新たに靖定山妙法華院久昌寺と号した。開山時には、仏殿、法堂、位牌堂、多宝塔、方丈、食堂、鐘楼、山門、浴室などを備え、寺領500石を有していた。開山から六年後の天和三年(1683)には、僧侶の学校である壇林が設けられ、広く宗門外の学僧まで門戸を開き、盛時には三千人もの僧が学んでいた。光圀は、京都から日乗を招いて久昌寺の院代を命じて寺務を総括させた。日乗が元禄四年(1691)から十六年まで記した「日乗日記」は、西山荘に隠居した光圀の生活を知ることが出来る貴重な資料として県指定文化財になっている。明治維新により荒れてしまったため、明治三年(1870)わずかに残る久昌寺の宝物・宝塔とともに、末寺の一つ蓮華寺と合併し、ここから北東へ約700m離れた地に移転した。」とあった。
(旧久昌寺跡)

久昌寺跡から少し登ると右に分かれる道があり、その先にトンネルがあった。しゃがまないと頭がつかえそうに低い素掘りのトンネルを出るとT字路になり、歴史の里ハイキングコースの案内板があった。手前に旧久昌寺跡や山寺水道の碑などはわかったが、右に行っても左に行っても西山荘や西山公園などとあり、案内図が無いとさっぱりわからない。
見当で左に向かって歩いて行くと道は落ち葉散り敷く植林と雑木林の中の気持のいい道になった。緩やかに登って尾根に上がるとT字路、左笠御殿500m、右西山荘300mとあった。笠御殿の所にあった分岐の小道がここへ通じているとわかった。T字路を右に行くとすぐに左に西山荘への分岐があった。
(素掘りのトンネル)
(しばらく森林ウオーク)

分岐からはなだらかな気持のいい下り坂で、すぐにトイレや管理所のある西山荘の入口門前に着いた。西山荘は黄門さまの隠居所だが、立札に撮影した写真の公開は禁止となっていたので、今回は有料入場をパスした。案内板には
「水戸黄門漫遊記で親しまれている水戸第二代藩主徳川光圀卿(義公)が、元禄4年(1691)5月から、同13年12月6日この世を去るまで約10年間隠居所にされた遺跡である。光圀卿はこの地、西山荘で大日本史の筆削をされるかたわら、あるときは敷居をへだてず、領民にも接し、いろいろな事業をすすめられた。荘内には、光圀卿が、紀州から取り寄せた熊野杉をはじめ、老松古杉がうっそうと茂り庭内には薬用などの実用を兼ねた珍しい草木が多い。付近の観月山のもみじや、山中の傘御殿の眺望などとあわせて、四季おりおり味わい深い趣がある。なお庭前の心字の池を中心に周囲の山々を、庭にとり入れ、春秋の眺めもかくべつである。」
とあり、笠御殿も黄門さまに関係があるらしい。

すぐそばに不老池という美しい池があり、不老沢跡として説明板があった。
「この地一帯は往時は不老沢と称し光圀公にお仕えした家臣の屋敷のあった処です。
{大森典膳(西山にての御家老) 佐々介三郎(格式小姓頭) 剣持與兵衛(格式御納戸) 鈴木宗與(御医者) 朝比奈半治(格式小納戸)}
明治初年に付近の水田が開拓されたために用水池になりました。」
(西山荘入口)
(不老池)

西山荘の入口門から下は池や遊歩道を配した日本庭園になっており、多くの梅の木が咲き始めており、季節外れにあせびの赤い花も咲き、足元にはシャガが広がっていた。
2400坪の園地を通り抜けて、和風建築の休憩施設の桃源に入って本日御奨めの手打ち秋そばを頂いて一休みした。
(桃源の庭園)

「助さんの住居跡」の道標があったので、昼食後、見に行った。鴨が沢山泳いでいる不老池の右岸の木道を登り下りしながら歩いて行くと、竹籔の先に助さんの住居跡があり次のような説明板があった。
「水戸黄門漫遊記でおなじみの助さんの住居跡(常陸太田市新宿不老沢あらじゅくおいぬさわ)
助さん(本名佐々介三郎宗淳)は延宝二年(1674)35歳のとき黄門さん(水戸藩二代藩主徳川光圀)に招かれ彰考館の史臣になりました。全国各地を訪ね貴重な古文書を収集して「大日本史」の編纂に力をつくしました。元禄元年(1688)彰考館総裁に任命され、同九年七月総裁をやめ小姓頭として西山荘の黄門さんにつかえました。元禄十一年六月初めに59歳で亡くなりました。
この辺りが助さんの住んでいた所でこの井戸(深さ4mほど)は当時使用されたものです。助さんの墓は市内正宗寺にあります。」
(助さんの住居跡)

助さんの住居跡から桃源に引き返してR293からの入口に向かい、途中、大きな久昌寺への道標に導かれて右の道に入った。
部落の道を歩いて行くと広い西山公園に入り、ぶらぶら歩いて行くと高台に大きな展望台が見えて来た。
(西山荘前から西山公園へ)
(西山公園展望台)

展望台に上がると眼下の常陸太田の市街の上に、高鈴山を中心に風神山から奥久慈にかけての山並みが広がっていた。暖かい陽の光の下、コーヒを飲みながらしばし展望を楽しんだ。
(西山公園展望台からの展望)

展望台を下りて久昌寺方向に歩くと、西山公園の駐車場に埴輪窯跡の解説板があった。
「市指定史跡 元太田山埴輪窯跡。 昭和三十七年一月末、太田県立自然公園内で駐車場を造成中に、解説版向かって右手の北向き斜面と、解説版裏手の西向き斜面から埴輪窯跡が発見された。発掘調査の結果、標高60m前後の尾根の稜線付近の北斜面(南地区)に七基、西斜面(東地区)に四基の計十一基の窯跡が確認された。谷から吹き上げる風を利用した登り窯で、窯底の勾配は25度から35度、窯の長さは4〜5m、窯幅は2m前後のものが多数で、円筒埴輪、人物埴輪、馬埴輪や土師器などが出土した。5〜6世紀の窯跡とみられるが、全てが同寺に使用されていたものではなく、二基ぐらいずつ操業し、窯が使用困難になると新しく窯をつくり次々と埴輪を焼いていたものと考えられている。県内での埴輪窯跡の調査例は、馬渡(ひたちなか市・国指定)と木幡北山(茨城町・国指定)があるが、元太田山は尾根の稜線付近に築かれているというところに特徴がある。発掘調査後、東地区の窯跡一基は埋め戻して保存を図り、出土した人物埴輪と馬埴輪は市の文化財に指定され、郷土資料館に展示されている。」

駐車場から登り窯跡を左に見ながら歩くと義公廟があり、次の様な説明板が立っていた。
「昭和16年、光圀公(義公)の遺徳を忍んで建立されました。 廟の中には、光圀公が生母の菩提を弔うために、法華教1部10巻8万3900字あまりを書き写した桧板30枚を納める宝塔が安置されています。また光圀公が集めた明版一蔵経が収められています。」
これまた黄門さまゆかりの建物なのでお参りして次に向かった。
(義公廟)

黄門さまが生母を弔うために建立したと言う久昌寺は、義公廟から長い石段を下った所にあった。本殿は左に庫裡、右にも立派な建物を従えて堂々とした構えだった。前の石段前の鐘撞堂や梵鐘も黄門さまにふさわしく立派に見えた。
由緒を刻んだ石碑はあったが、よく読めなかったので、常陸太田市HPから引用する。
「深大山禅那院と号する久昌寺は、延宝5(1677)年に徳川光圀公が生母の谷久子を弔うために建立した寺院。久子の法号である「久昌院靖定大姉」からその名が付けられた。当初は現在の稲木町に建てられたものの、幕末の混乱期の影響を受けて荒廃。明治3(1870)年に現在の場所にあった久昌寺の末寺・蓮華寺と併合することで再建された。堂宇は本堂、庫裏、聚石堂、三昧堂、大宝塔などを備えているほか、年代ごとの光圀公の顔を掘った「木彫義公面」や公の暮らしぶりが細かく記された「日乗上人日記」、文永元(1264)年に書かれた日蓮聖人の消息文などの多くの寺宝が残されている。また、寺のすぐ後ろには、光圀公の遺徳を偲んで建てられた「義公廟」がある。」
(久昌寺)

次は「雪村の碑」と「山寺晩鐘の碑」を求めて西山研修所に向かった。久昌寺から石段登りを避けて右手の道を登っていくと、西山公園の休憩舎のところに登り着き、公園内の道を左に歩くと埴輪窯跡の駐車場のところに戻った。ここから公園内の西の道を登り下りし、階段もある坂道を登っていくと峠で笠御殿からの道にT字路で合流し、右手10m先に往路で西山荘へ曲がって行った分岐標が見えていた。「白馬寺・西山研修所」の道標に従って左に曲がって尾根上の緩やかな道を下っていき、「西山研修所」の道標に従って右の山道を下ると舗装道に出た。右に行けば円水の墓、山寺水道の碑、を経て白馬寺に至る。
西山研修所へは、向かいの斜面を引き返すように登る坂道に道標があった。登って行ったが「雪村の碑」の道標は一向に出てこない。「定年時代」の略図を見て、左の高みに上がってみたら広場に石碑と説明板があった。
「雪村の文字は、日本画家横山大観(水戸市出身)の書で、昭和19年8月、ゆかりの地、三昧堂壇林妙見堂跡にたてられました。雪村は十六世紀の始め(1504)に佐竹氏の一族として那珂郡大宮町村田に生まれ、市内の耕山寺や正宗寺などで修業した。修業中も寺宝の絵画について研究し、会津、小田原、鎌倉などを遍歴して中国画を学びました。その作品は花鳥、山水、人物画などにわたり、力強い躍動感に溢れ、人々の心をひきつけます。若いころから雪舟(新しい山水画を生み出した天才画家)の筆法を学びました。明治美術界の先覚者岡倉天心は「雪舟が先んじて出なかったならば、雪舟の仕事をしたであろう」と絶賛しています。耕山寺(市内瑞龍町沢山)付近に住んでいた時、地紙に風雅な絵を描き、竹を削ってうちわを作りました。これが太田名産の「雪村うちわ」で、現在市販されています。」
坂道を登って西山研修所に着くと、若者が囃子の練習をしているらしい賑やかな音声が響いており、50年近く前の日立入社の研修時代、ここで精神修養の研修を受けたことを思い出す。この研修所内の案内板に初めて「雪村の碑」の名前を見ることが出来た。
同じ案内板の地図に従って山吹運動公園の方向に歩くと、下り階段の手前に「山寺の晩鐘」と自然石に彫り込まれた碑があった。山寺の晩鐘の説明板には
「この地は、旧久昌寺の三昧堂檀林(僧侶の学校)のあった所で、天和三年(1683)に水戸第二代藩主徳川光圀卿が、檀林を開かれてから天保一四年(1843)に廃されるまで160年間にわたって、全国から学僧が集りその盛時には数千人の学僧が修行に励んだといわれている。天保四年(1833)水戸第九代藩主徳川斉昭卿(烈公)は水戸八景のひとつとしてこの地を選んだ。当時、周囲の寺々より打出す鐘の音を、松籟[しょうらい]と共に聞き、「山寺の晩鐘幽壑に響き」と詩に詠み、「山寺の晩鐘」と命名した。 斉昭卿は、水戸藩子弟たちを、八景勝地約八十キロを一日に一巡させ、自然への親しみと心身の鍛練をさせることを計った。
 つくつくと聞くにつけても山寺の 霜夜の鐘の音ぞ寂しき  斉昭 」
碑のある檀林跡は前が開けており、昔は展望が良かった様だが、今は----
(雪村の碑)
(山寺晩鐘の碑)

研修所には水戸八景の案内図があり、水戸八景は下記八か所で斉昭公が定めたとのことだった。水戸八景の地には,翌天保5年に斉昭自筆の書を刻んだ名勝碑をそれぞれの地に建てられ、いま残る八景の碑はいずれもこの当時のものだそうです。
「 雪時嘗で賞す仙湖の景(仙波湖)
  雨夜更に遊ぶ青柳の頭(青柳公民館裏)
  山寺の晩鐘幽壑に響き(西山研修所裏)
  太田の落雁芳洲を渡る(常陸太田市栄町の小高い台地の東斜面)
  花香爛漫岩船の夕べ(願入寺裏の高台)
  月色玲瓏たり広浦の秋(涸沼の出口に延びた砂州)
  遙かに望む村松晴嵐の後(村松虚空蔵尊の奥の院)
  水門の帰帆高楼に映ず(那珂湊総合支所の裏)   」 ( )内は筆者の加筆

同じ場所に「西山公園歴史の里散歩コース」のいい案内図があったので添付しておきます。
(西山研修所にあった歴史の里の案内図)





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