Z15.旧芝離宮公園と芝公園(東京の公園巡り)

1.動 機
 東京で行われた九大山岳部OB会関東支部の新年会に準会員として参加した。久しぶりに東京に出る田舎者には新年会だけで帰ってきてはもったいないので、この機会に東京見物をしたいと思った。丁度上野で故宮博物院の名品展が開かれていて評判だったが、台北や北京の故宮には入った事があるし、上野では3時間もの行列だとの噂もあるので敬遠、東京の公園を散歩することにし、新年会会場近くの旧芝離宮公園と芝公園を歩いてみることにした。

2.データ
a)山域:旧芝離宮恩賜庭園、芝公園
b)登山日:2012/1/16(月)晴
c)コースタイム:日立自宅 8:30 = 8:56 金畑団地BS = 11:20 東京駅BS 12:00= 12:05 浜松町駅 12:20 ---- 12:30 旧芝離宮恩賜庭園 13:40 ---- 14:00 増上寺 14:25 ---- 14:30 東京タワー 14:35 ---- 14:40 もみじ谷 14:45 ---- 14:50 のびのび広場 14:55 ---- 15:05 丸山古墳 15:25 ---- 15:35 東照宮 ---- 16:05 ペルリ総督像 ---- 17:30 新年会会場 20:30 ---- 20:55 浜松町駅 = 21:00 東京駅BS 21:10 = 23:20 石名坂BS = 23:40 日立自宅
旧芝離宮恩賜庭園、芝公園歩径路

d)同行者: 単独
e)地形図:「東京西南部」

3.山行記録
3.1
往路
東京までの往復は高速バスが経済的、走行時間が少々不確実だが時間にゆとりのある今回は問題なし、前日往復4000円也の切符を買った。9時前にR6のバス停から乗車し、日立南ICから常磐道に乗り、谷田部東PAで休憩して首都高に入ってどこかで一般道に下りた。東京スカイツリーを眺めたりしながら一般道も渋滞なく走って浅草、上野を経由して東京駅に11時20分に到着した。
帰りにまごつかないように東京駅の帰りのバス乗り場をしっかりと確認してから、本日特売の格安定食を食べて、浜松町駅に向かった。
浜松町駅で下りて地図を開いて旧芝離宮恩賜庭園へ行こうとしたが、右左の感覚がおかしくなって何回か行きつ戻りつを繰り返す。普段の車や山でのナビ頼りの生活が災いしたようだ。

3.2 旧芝離宮恩賜庭園
 やっと恩賜庭園に到着すると、入口にはたくさんの大きな案内板が立っていて、庭園八景を写真で紹介していた。その奥には庭園案内図と由来を書いた説明板が立っていた。案内図に追記拡大し、由来記をそのまま転記する。
「延宝6年(1678年)、徳川家康公から埋立地であったこの地を拝領した老中大久保加賀守忠朝はここに屋敷を造り、作庭を始めました。庭は貞亨3年(1686年)までに完成し、「楽寿園」と命名されました。これが本庭園の起源です。
「楽寿園」は本格的な回遊式庭園で、園景の中心には江戸の水辺庭園特有の潮入りの池があり、干満によって景色が変化するよう工夫されていました。池泉の中央部には中国杭州の西湖堤を模した堤や蓬莱山を表した中島など中国の趣を取り入れ、築山のうえから白帆の行き交う沖合の海の展望にも意を注ぐつくりでした。その後、大久保氏より数氏を経て、幕末には紀州徳川家の芝御屋敷になり、さらに有栖川宮家を経て宮内省が買い上げて明治9年「芝離宮」となりました。
 明治24年には迎賓館としての役割を果たすために園内に洋館を新築し、多くの外国貴賓を迎えました。
 大正24年の関東大震災で洋館等が消失したものの翌13年1月、昭和天皇の御成婚を記念して東京都に下賜され、市では震災復旧を行い、同年4月に「旧芝離宮恩賜庭園」として一般に公開しました。
 現在は周囲の埋立、林立するビルにより潮入りの機能、海の展望は失われましたが、中島の蓬莱山をはじめとする石組の妙は昔日の面影を残しています。昭和54年、文化財保護法により「名勝」に指定されました。
 総面積は43,175.36m2です。」

 入口で高齢者料金70円(一般150円)の入場料を払って園内に入ると、すぐのところにボタン園があり、色とりどりのボタンの花が綺麗に咲いていた。数人の若い女性が携帯電話のカメラで賑やかにシャッタを押していた。
(庭園入口)
(ボタン)

入口の看板にあった園内八景を眺めながら、園内を時計周りに歩いていったが、ビル街の中の日本庭園も気持のいいものだった。下手な感想を書くよりも、私の撮った写真に入口看板の説明文をそのまま付けてみましょう。
藤棚:(藤棚自体の写真は撮り損ねた)
作庭当初から園内には藤棚がありました。現在の藤棚の位置はかって御殿があった場所。ここから眺める庭の配置は絶妙です。
潮入りの池遺構:
池は当初、海水を引き入れ干満の景色の変化する「潮入れ池」でした。海と隔てられ真水となった今も随所にその名残が見られます。

府根川山:
豪壮な府根川石群は、作庭者大久保忠朝が藩地から運んだものと思われます。そばには以前の藩地の名を冠した唐津山もあります。
園内一の高山、大山

大山の眺望:
大山は園内一の高台です。頂きに立つと驚くほどの見晴らしが開けます。入り組んだ池の形や島の配置も一望のもとに見通せます。

石柱:
この由来は長い間謎でしたが、相模の戦国武将、松田憲秀旧邸の門柱と判明しました。茶室の柱に使うために運ばれてきたものです。
西湖の堤:
中国杭州(現在の浙江省)の景勝地を模したもので、小石川後楽園や縮景園にも同様な堤があります。ここを通り中島に渡れます。

中島:
中国で仙人が住むとされる蓬莱山を表しており、作庭時の石組がそのまま残っています。池の中央に位置し、風景の要になっています。
枯滝:
山渓を流れ落ちる滝を彷彿とさせる石組、河床が通路になっており通り抜けができます。池の縁には幾つか滝の石組が造られています。

雪見灯篭:
池のほとりに立つ大きな灯籠は、対岸の築山を背景に当園一の景勝ポイントとなっています。足下は玉石を敷き詰めた洲浜です。
お花畑:(八景以外)
大山の後にはお花畑があり、スイセンやロウバイが満開で、冬桜も綺麗に咲いていた。


3.3 増上寺と芝公園
 旧芝離宮恩賜庭園を出てから増上寺に向かって大門通りをまっすぐ西に歩いた。
(増上寺・芝公園)

 歩いて行くと車道を跨いだ立派な御門があり、芝大門の横断歩道の真ん中に出てシャッタを押した。
 日比谷通りを渡って三解脱門を潜って三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱してから境内に入ると、増上寺の本殿の後ろに東京タワーが大きく見えていた。













(街中の増上寺大門)
(本殿と東京タワー)

 先ず増上寺会館の隣の「光摂殿」に向かうと、入口に百八畳敷の大広間の天井にはめ込まれた天井絵が見事ですと案内されていた。大広間の中に入って見ると、明るい只っ広い部屋の天井全体に色々な草花の日本画が嵌め込まれていた。現代の代表的な日本画家120名のによる絵であるらしい。後で知ったが、この「光摂殿」は葬儀会場として平成十一年(1999年)に設立された建物で、徳川家とは関係がなさそうだった。後ろには大きな納骨堂が建っていて誰でも入れるような事と書いてあったので、その時は徳川家と一緒に祀って貰えるのかと驚いた。
 本殿の中に入って見ると、荘厳な感じのする御本尊の前に椅子席がずらりと並んでおり、一人だけ腰かけて何かお参りされている。「法要があるときは撮影禁止」とあり、今は撮影ができそうなのでストロボなしで静かにシャッタを押した。
(光摂殿大広間)
(本殿)

 本殿の裏に回ると立入禁止の徳川将軍家墓所があり、その先には皇女和宮ゆかりのお茶室、貞恭庵があった。
 その奥に抜けると東京タワーへの道に出て、車道脇を歩いてタワービルの中に入った。ここでも入場料が高齢者割引があれば登って見ようかと思ったが、割引なし。大勢の観光客を後にして、タワーの周りを歩き色々な角度からのタワーを眺めて回った。
 東京タワーに隣接する森へ登る道があり、これを登っていくと尾根向こうの斜面がもみじ谷という公園になっており「昭和59年に復活した人工の渓谷。大小の自然石を組み合わせた岩場と周囲の樹林とを取り合わせた景観は、深山幽谷を想わせ、高さ10mの岩場から落下する滝は壮観です。その名のとおり、この谷の一帯には、モミジが植えられていて、秋はいっそう風情があります。また、流れの中ほどの橋のたもとには、高さ20m、幹回り250cmのケヤキの大木があります。」とのこと。色あせてはいたがまだ紅葉が残っていて綺麗だった。谷にはもみじ滝という小さな滝があって、この前で数人の御婦人達が立派なカメラを構えて、絞りを変えたりシャッタスピードを調整したり、熱心に写真撮影の勉強をしていた。
(東京タワー)
(弁天池)

 もみじ谷の向かいののびのび公園にも足を伸ばしてみたが、ありきたりの公園だった。この公園から下って車道向かいに弁天池があり、芝公園に入れそうだった。しかしその先はホテルの敷地になり、大きく迂回させられることになった。
 芝公園に入ると芝丸山古墳があった。「前方後円墳で、東京都指定史跡です。全長110m、後円部径約64m、くびれ部分の幅22mという都内では最大級の規模。芝公園自体が標高16mの台地上にあり、古墳はさらに高く土が盛られているので、頂上からの眺望は一段と広くなっています。」とのこと。
(弁天池)
(芝丸山古墳)

古墳は公園のようになっていて、遊歩道を登っていくと立派な虎の像があり、鳩山一郎夫人の鳩山薫の揮亳になる大野伴睦の「鐘がなる春のあけぼのヽ増上寺」の歌が刻まれていた。
 その上の山頂には伊能忠敬測量偉功表の碑があった。ここで「この下の句碑もここに建てれば良かったのに」としきりに怒っていらっしゃるご老人に出会った。昔自由党の仕事をやっていた人らしく、伴睦の句碑のことを吉田茂や鳩山一郎と関係のある記念碑と思い込んでいらっしゃる口ぶりで、句碑が一段低いところにあるのが気に入らないらしく、孫の由紀夫は記念碑を山頂に移すぐらいの気概がほしいもんだと盛んに嘆いておられた。
(大野伴睦歌碑)
(南峰山頂)

 ご老人の長いお話を拝聴してから、芝丸山古墳から芝公園に下って芝東照宮にお参りした。東照宮は日光・上野・久能山とここの4ヶ所あるとのこと。平成27年4月に家康公400年記念大祭という幟が立っており、脇には寛永18年に3代将軍家光が植えたと伝えられる都の天然記念物に指定されている大銀杏(幹回り6.5m、高さ21.5m)が聳えていた。
 芝公園はあちこちに細かく分散しており、次は日比谷通り沿いの芝公園を歩いてみようと行ってみたが、丁度表土の工事中で全面金網の柵で囲ってあった。歩道を歩いて行くとペルリ総督像の近くの柵が開かれていて、休憩中の男性に入ってもいいかと尋ねると、親切に総督像のところまで案内してもらえた。昭和28年7月20日日本開国百年記念祭挙行のとき、東京都からニューポート市に石灯籠1基を贈った答礼として、この像を受けたものとのことであった。
(芝)
(ペルリ提督像)

3.3 新年会と帰宅
 新年会までまだ時間は2時間ある。街をぶらぶらしながら時間をつぶして30分前に会場のホテルに入ると、顔なじみに皆さんは殆んど揃っておられた。
 新年会は定刻に始められ、最初に山岳会として昨年まで力を入れてきたタサルチェ遠征隊の報告が行われ、次いで各自の今年一年の行動報告が行われた。体調不良の話も多かった、ネパールのシャクナゲトレッキングやパタゴニアトレッキングなど元気な話が飛び交い、賑やかな話で盛り上がってすぐに20時30分のお開きの時間になった。私は百名山登頂残が昨年報告した6座から悪沢岳と赤石岳の2座になり、妻の聖岳・光岳と合わせて百名山完にしたいと公言した。カナデイアンロッキーで植田さんと奇遇したことを披露して皆さんを驚かせた。
 お開きになって浜松町駅に向かって歩き始めると、綺麗にライトアップされた東京タワーが目に入り、シャッタを押したくて増上寺まで足を運んだ。少し回り道したが東京駅に21時に到着、22時10分発の予約券を21時10分発に変更してもらって、その日のうちに我家に帰り着くことが出来た。

(新年会)
(東京タワー)

 



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