A112.日立の魅力再発見ウオーク(河原子)

1.動 機
 「もっと日立が好きになる再発見ウオーク」のNo12「潮風に乗って河原子旧跡を訪ねて」が先月27日に行われる予定だったが、台風来襲の予報のため中止になった。このコースを二人で歩いてみようと絶好の秋日和の日出かけてみた。当日朝、河原子交流センタに立ち寄ると、当日参加者に配布予定だった資料を貰えたので、これを見ながらゆっくりと一回りしてきた。

2.データ
a)山域:日立市河原子地区
b)登山日:2013/11/08(金)晴
c)日程:自宅10:40 = 11:00河原子交流センタ11:10 ---- 11:25東福寺1:30 ---- 11:35天満宮11:45 ---- 11:50鶴ヶ塙11:55 ---- 12:05波切不動尊 ---- 12:10烏帽子岩12:15 ---- 12:20台場跡12:25 ----(昼食)---- 13:05権現山13:15 ---- 13:25河原子交流センタ = 14:10自宅
d)同行者:和子
e)地形図:1/25000 「日立南部」
(河原子ウオーキングルート)

3.山行記録
 朝の一仕事を終わってからゆっくりと我が家を出発し、河原子交流センタの事務所にウオーキングルートのうち、どうしても判らなかったポイントの権現山の所在を尋ねた。事務の方も判らず、パソコンから打ち出した当日配布予定だったコース図を頂いた。丁度地区の物知りの方が来合わせて、事務の方からの質問に答えてアクセスの仕方まで親切に説明して貰えた。
 交流センタに車を置いて、先ずは東福寺に向かう。県道61に出て海岸方向に歩いて河原子十字路を過ぎぎると、100mほど先の左が東福寺の入口だった。「真言宗無量山東福寺」や「東福寺再興記念」の石柱を見ながら進み、「無量山」の懸額のかかる山門を潜ると正面に東福寺の現代的な感じの本堂があった。本堂は再三の火災のあと1971年に建て替えられた耐火式の建物だという。
(東福寺入口)
(山門の奥に本堂)

 唐門の脇には大イチョウの木があり、その根元に「河原子小学校発祥の地」の石碑が立っていた。交流センタでもらった資料によると、東福寺は水戸黄門の命でこの地に開山し、明治6年に私学校「河海舎」が創設され、本堂が校舎に使われたという。その後河原子小学校と改名され、明治42年に現在地(河原子十文字の北隣接地)に移転されるまで多数の生徒がここで学んだと。
 本堂の左手には立派な鐘楼、太子堂、多重塔が並んでいたが、忠魂碑?は大震災のために倒壊したのか壊れたままになっていた。
 
(大イチョウ)
(太子堂と鐘楼)

 貰った地図に従って南に300mほど歩いて行くと、道沿いに天満神社の大鳥居が見えてきた。大鳥居を潜り、狛犬さんの間を通って二の鳥居をくぐると、真新しい感じの赤い拝殿があった。脇に立っていた記念碑によれば、氏子連の基金により昭和36年に改築されたらしい。裏には末社や立派な彫り物が施された本殿があった。二の鳥居の右の広場には須賀神社の懸額の付いた立派な社があったが、天満神社由来碑によれば、これも天満神社の八つある末社の一つらしい。
(天満宮の鳥居)
(天満宮の拝殿)

 天満神社を出て地図を見ながら更に南に歩くと、一段の高みに建つ河原子幼稚園があった。江戸時代にはここに郡奉行所と見張所を設置して外国船の見張に当たっていたと言われ、眼下に太平洋の見晴が良くて「鶴ヶ塙」と呼ばれていたという。
 河原子幼稚園の前に行くと、入口門がロープで閉鎖され立入り禁止の札が立っていて入ることが出来ず、鶴ヶ塙の景色は体験できなかった。素晴らしいところにあったこの幼稚園も、児童数減少により今は閉鎖の余儀なしに至ったようである。
(河原子幼稚園の建つ高台)
(閉鎖中の河原子幼稚園)

 幼稚園の先に園の駐車場があった。ここにもロープが張ってあったが、ロープ潜って中に入り断崖上の金網柵まで行ってみると、金網越しに太平洋の大展望が広がっていた。左の方には烏帽子岩がぽつんと出っ張っていたりして、一段高い幼稚園敷地からの眺めに遜色ないだろうと満足することにした。
(駐車場からの展望)

 幼稚園から少し引き返し途中から海岸の方に向かうと、川の辺に波切不動尊があった。源義家が奥州征伐に出かけるときに祈願されたと伝えられるほど古い歴史を持つ寺らしい。「波限不動尊記念碑」と刻印された古びた石碑が立っていて謂れを書いてあるようだったが、残念ながらはっきりとは読み取れなかったが、高野山法師大僧正が明治43年に何かをしたらしい。
 更に河原子港沿いの道に出て歩いて行くと、烏帽子岩の根元に出る。海岸側には砂に半分埋まっている鳥居があった。和子の記憶では、烏帽子岩の付け根まで波が押し寄せていたという。一見して押し寄せる砂が堆積して埋まってしまったものと思ったが、センタで貰った資料によると、昭和60年頃港湾建設のために人工的に埋め立てられて、海浜公園に整備されたとのことだった。
(波切不動尊)
(砂に埋まった鳥居と烏帽子岩)

 烏帽子岩から海岸道路を歩いて行くと、駐車場の擁壁の前に江戸時代の海防施設の説明板が立っていた。江戸時代にあった@友部異国船御番陣屋跡A川尻異国船遠見番所台場跡B初崎台場跡C河原子台場跡D大沼異国船御番所跡E水木異国船御番所跡F久慈台場跡G助川海防城跡と8ヶ所の海防施設の場所を示す地図が示してあった。
 河原子台場跡については詳細な説明文が付いていたので、その全文を写真で示す。



(江戸時代に御台場があった辺り)

 台場跡らしい上の駐車場に上がって、海防農兵の目で太平洋を展望した。
(お台場跡の駐車場からの展望)

 台場跡から河原子港を経て河原子十字路に戻り、食堂でラーメンを食べてから、センタの男性から教えてもらった通りに県道を400m歩いたところの交差点から右に入って行くと、「日向墓地、河原子八景日向の夕照」の石碑が立っていた。東福寺の日向墓地の場所を権現山と呼ばれていたとのこと。
 墓地に入ってみると、沢山あるお墓の中には明治時代のものがいくつもあって、ここが随分古い墓地であることが分かった。
(権現山入口)
(権現山墓地)

 次にセンタで貰った街案内図にあった河原子八景の一つ「那智の夕照」に立ち寄ってから帰ろうと思ったが、途中のスーパで買い物をしている間に空模様が怪しくなり、そのまま我が家に直行することになった。「那智の夕照」はほかの河原子八景と一緒に回ってみることにしましょう。




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