C94.九州島めぐり
1.動 機
a)山域:唐津、壱岐島、平戸島、九十九島旅行社の案内に九州市内観光という企画があった。壱岐島や九十九島など見たことがない所があるのも魅力だったが、今まで入ったことのない茨城空港発着と言うのが一番の決め手で早速申込みした。空港まで道を間違えないでいけるように、前もって下見までする念の入れようだった。 2.データ b)登山日:2015/9/23(水)〜25(金) c)旅程:
9月24日:唐津ホテル= 唐津東港 = 壱岐島観光(猿岩・東洋一砲台跡・月読神社・左京鼻・はらほげ地蔵。原の辻遺跡) =唐津東港 = 唐津ホテル 9月25日:唐津ホテル = 平戸島観光 = 九十九島遊覧 = 福岡空港= 茨城空港 = 日立
3.山行記録 3.1 一日目(虹の松原・唐津市内観光) 森山発7:00 = 7:11日立南IC = 7:45茨城空港北IC = 8:00茨城空港.受付 --- 8:45チェックイン --- 出発9:45 =(スカイマーク)= 11:30福岡空港着・集合 ・バス発車12:25 =(西九州道)= 13:25虹の松原13:50 = 14:00舞鶴公園(唐津城)15:00 = 15:05唐津神社・曳山展示場15:35 = 15:40唐津ホテル17:00 = 17:10マリンパーク(夕食)18:20 = 18:30唐津ホテル(泊)
定刻に出発した飛行機は思いがけず北に向かって飛んでいき、涸沼の近くを飛んで太平洋に出てしまった。ここから内陸に曲がったようだが、天気は悪いし座席が翼の真上だったのでどこを飛んでいるのか見当がつかなかった。大子の管制塔近くを通過することになっているのだろうか。
虹ノ松原 唐津湾沿いに、虹の弧のように連なる松原。唐津藩初代藩主、寺沢志摩守広高が、防風・防潮林として植林したのが始まりで、全長5km、幅1kmにわたって続く松は、約100万本と言われています。今では、三保の松原、気比の松原とともに日本三大松原の一つに数えられ、国の特別 名勝に指定されています。
NHK「21世紀に残したい日本の風景(BS2)」の投票で、第5位 に選ばれました! また、虹の松原には昔から語り継がれた「七不思議」があります。 虹の松原七不思議 (1)にらみの松 豊臣秀吉が休息中一帯の松原が高くて、展望が利かなかったため、「低くなれ」と松をにらんだ ところ、それから高くならなかった。 (2)松原には蛇がいない 浜崎にある諏訪神社に祀られている諏訪姫の願いにより、昔から毒蛇はいないといわれます。 (3)黒松ばかり 松原にある100万本の松はすべて黒松ばかり。 (4)槍掛けの松 槍が立てかけられるほどに枝を広げた松があります。 (5)松原の中心と藩境 神集島の西端と高島の東端を結んだ延長線上が、ちょうど虹の松原の中心にあたります。 (6)松原には蝉の声がしない 豊臣秀吉が「うるさい」と怒鳴って以来、松原では蝉の声が絶えたといわれます。 (7)松原の真ん中に真水 虹の松原は、どこを掘っても塩分の多い水が出ます、ところが二軒茶屋の井戸だけは真水が出るのです。
遊歩道を歩いて行くと、沢山の松の木が海岸を見通せないほど立ち並んでいる。全部クロマツで、細い木は真直ぐなものもあるが、老木は幹も折れ曲がり枝が地面近くまで這うように伸びている。
その右に鳥島と大島とが重なり、更に右に高島が見えているが、曇っているので明日観光する壱岐島は見えなかった。砂浜で貝殻拾いも楽しんでから、同じ遊歩道を歩いてバスに戻った。
唐津城(唐津市文化事業団)
唐津城は、豊臣秀吉の家臣、寺沢志摩守広高が、慶長7年 (1602年)から7か年の歳月を費やして同13年に完成した と言われています。築城には、九州諸大名の加勢を受け、 名護屋城の解体資材を用いたともいわれています。城は、 本丸、二の丸三の丸、外曲輪に分かれており、現在の天守 閣は、昭和41年に完成したもので、展示室、展望所等が あり、展望所からは、松浦潟の全景が一望できます。ま た、唐津城は、別名舞鶴城ともいわれ、観光唐津のシンボ ルとして皆様に親しまれております。 入場券を受け取ってここは各自自由見学とのこと。案内図では中段まで176段、上段まで231段とあり、エレベータもあるらしいが覚悟を決めて登り始めた。中段への上の石段を登ると大きな藤棚があり、樹令100年を超える市指定天然記念物という大藤が棚一杯に茂っていた。根回りは8mもあり、花序の長さは1.5m、花数は5万を越える由。花の時期には素晴らしい眺めになるのだろう。
下りは北門から出て中段広場に下り、大藤のところからまた石段を下って駐車場に戻った。 すぐ近くの駐車場に移動して、バスを降りて歩いていると、「近くに猪が現れて怪我人が出ています。不要な外出はしないように」と注意喚起のスピーカ音声を流しながら走り回るお役所の車に出合った。こちらは外を歩くしかないのです。無視して歩いて行くと、目の前に大きな石鳥居が見えてきた。石鳥居から境内に入ると、左右に並ぶ境内社の奥にもう一つの鳥居と立派な拝殿があった。建てられたのが奈良時代といわれる古い社で、全国に有名な唐津の最大のお祭り「唐津くんち」は、この唐津神社の秋季例大祭であり、11/2〜4に14台の曳山が唐津の街を練り歩くとのこと。
今日の虹ノ松原からは松が邪魔して鏡山は見えなかったのだが、学生時代に山好きのクラスメイト二人と九州を一周山歩きをした時、虹ノ松原から鏡山に登ったことを思い出す。
3.2 二日目(壱岐島観光) 唐津ホテル8:00 = 8:25唐津東港8:45 =(フェリ)= 10:30壱岐島印通寺港10:40 = 11:10猿岩・東洋一砲台跡11:40 = 12:05月読神社12:15 = 12:35うにハウス(昼食)13:35 = 13:55左京鼻14:10 = 14:20はらほげ地蔵14:25 = 14:40原の辻遺跡14:55 = 15:00印通寺港15:30 =(フェリ)= 17:10唐津東港 = 17:30唐津ホテル(夕食泊)
二日目は壱岐島に渡って島内巡り。壱岐島は九州と対馬の中間に位置し、南北17km・東西14kmの島で、全域が壱岐対馬国定公園に指定されている。朝は8時にバスに乗って、壱岐島へのフェリーが出る西唐津の唐津フェリーターミナルに向かう。途中、唐津城が朝日を受けて綺麗に見えていたが、その下の早稲田佐賀高等学校が見えると、「この学校は裕福な家の子しか入れないことで有名です」とのガイドさんの話にみんな頷いていた。 ターミナルに着くとフェリーが待っていた。フェリーは「エメラルド唐津」といい、なかなかの大型船だった。
最初の観光ポイントは島の東端中央部の黒埼半島にある猿岩と砲台跡、島を横断するように走って行くが、稲作農家が多い様で途中には田圃景色が続いた。
駐車場から砲台跡展望通路の道標のある細い遊歩道を歩いて行くと、石組とコンクリートで造られた巨大な丸い穴があいていた。砲台跡を上からのぞみ込む展望台だった。NETでは 「第一次世界大戦後の1922年、ワシントン軍縮条約により日本は完成したばかりの戦艦4戦艦を廃艦とした。 廃艦となった戦艦の中の「土佐」の主砲2門がこの黒崎に据え付けられた。1928年から5年の歳月をかけて砲台2門が造られ、 口径41cm、全長18.8mの主砲は、当時最大で東洋一といわれていた。射程距離は約35kmで、対馬海峡の半分以上が射程範囲といわれていたが、 実戦では一度も使用されることはなかった。1950年に進駐軍の指令で黒崎砲台は解体撤去され、現在は当時をしのぶ遺構が残っているだけになっている」とのこと。
砲台の規模は、砲身の全長18m、砲身1本の重さ150t、砲の口径40cm 、弾丸の直径 40cm、弾丸の重量 1000kg、射程距離35kmの数値で表されるが、展示されていた個人提供の解体前の記念写真(人が乗った砲身や人を前にした砲身付け根の写真)を見ると、その大きさが実感できた。これでも戦艦大和の砲台よりは一回り小さかったとのことで、入口にあった二つの弾丸模型は、大和のものとここのものとを比較のために並べてあったらしい。
壱岐島誕生の神話によると、「壱岐の国は生き島である。神様が海の中でこの島をお産みになったとき、流されてしまわないようにと八本の柱を立てて繋いだ。その柱は折れ残り、今も岩となって折柱(おればしら)といわれている」とある。その八本の柱のひとつが猿岩である。 直ぐ傍に休憩舎があり、その脇に歌碑があった。後で読めばいいやと思って写してみたが、この万葉文字は読むこと叶わず、NETを探しても記録が出てこなかった。
月読神社
御祭神 中 月夜見尊 左 月弓尊 右 月読尊 御鎮座地 壱岐郡那賀国分東触 境内地 六百四十九坪 御神徳 諸行繁盛 すべての願い事がかなう 鎮座年数 西暦四八七年月読神社に天月神命を祭り 高御祖神社には天月神命の祖高産霊尊を祭るとあり 御鎮座の由来 延喜式に壱岐郡 月読神社「名神大」とあり 月読尊の御事については、古事記の上巻に、伊邪那岐命・伊邪那美命 の二柱の御親神が、天照大御神をお生みになられ、次に月読尊をお 生みになられたと表されてあります。 また、日本書紀には、「すでに大八州国(日本)及び山川草木を生む ことが出来た、何ぞ天下(あめのした)の主君(きみたるもの)を生ま ざらむ」といわれて、是に天照大御神をお生みになられ、次に月読尊を お生みになられたと記されたあり。 また一書には日に並ぶともあります。即ち天照大御神及び月弓尊を並 に是、質性明麗し。故、天地に照し臨ましむ。 天照大御神のご神徳は「その光華明彩(ひかりうるわしいこと)六合 に照り徹るほどでございます」と太陽にたとえて表されておりますので、 月読尊の御威徳は、それに次ぐものとして、月になぞらえておたたえし たものと拝されます。 太陽、月、大地、自然と共に神は存在されておられると言う事 (アニミズム)を壱岐の祖先は熟知され月が万物(すべて)に利益を与 えるごとく邪心(よこしまなこころ)が無く玄徳(最も奥深い徳)を極 められていたようです。 壱岐の県主の先祖「忍見宿祢(おしみのすくね)」が西暦四八七年 月読神社を分霊して壱岐から京都に祭りに行かれた。 忍見宿祢により、神道が中央に根ずく事になったとされております。 つまり、壱岐島が神道の発祥の地といわれております。 京都、洛西、松尾大社の横の月読神社はあり。伊勢神宮の内宮に月読宮、 また外宮に月夜見神社があります。壱岐島の月読神社が全国の月読社の 「元宮」とされております。 月読み神社参拝の次はあまごころ本舗のうにハウスに入って、名物のうにの釜飯をいただいた。匂いも良くてなかなか美味かった。
間もなく左下の海側が断崖になって来て、海の中に柱状節理の岩礁が見えてきた。この岩礁も猿岩のところで記述した壱岐島誕生時の八本柱の一つとのこと。
ガイドさんによれば「江戸時代初期、長いこと雨が降らなくて人々が苦しんでいた。これを救おうと、陰陽師の後藤左京が龍蔵寺日峰和尚と一緒に一心に祈祷したが雨は降ってくれなかった。それではと後藤左京がこの断崖から身を投げようとしたその時、急に大雨が降り始めた。この話からこの岬を左京鼻と言うようになった。」とのこと。 右の先にも断崖が見え、そこからこっちを眺めてシャッタを押している一団があった。
下には幾つもの岩礁が波に洗われているのが見えて絶景だった。
お地蔵さんが6人いるのは、人が死んだときに行く世界が6つあり、その六道で苦しむ人々をこの6人の地蔵さんが救ってくれるとのこと。 「はらほげ」というのは「お腹に穴が開いている」という意味だそうで、写真の一番手前のお地蔵さんが前掛けをしていないのでよくわかる。 はらほげ地蔵の次は、印通寺港の手前にある原の辻遺跡に立ち寄った。 原の辻遺跡(はるのつじいせき)は弥生時代の環濠集落で、魏志倭人伝に記された「一支国(いきこく)」の王都に特定された遺跡です。この原の辻遺跡は“遺跡の国宝”にあたる国の特別史跡に指定されているとのことで、広い原っぱにいくつもの古代住居が復元されて並んでいた。写真に撮った幾つかを載せておきます。
王の居館:一支国王が生活する場 館内には、王が所持した権威具の数々を再現
迎賓場:一支国を訪れた使節団を歓迎する場 建物内には、使節団が持ってきたものを再現
帰りは玄界灘に島々を眺めに船内を歩き回るのは止めにして、船室でゆっくりと休んでいた。途中、夕日が雲の間から放射状に射す光條が印象的だった。
今日の夕食は外に出ないで、ホテルのレストランでの日本食、6品の他に海鮮汁と天ぷら、御飯は食べ放題、ビールを美味しく飲みました。
3.2 三日目(平戸島観光・九十九島遊覧)
朝7時40分にホテルを出て平戸島に向かう。小雨が降る中の出発、バスのワイパーの動きも忙しく、ガイドさんんも明るく振る舞うのが苦しそう。 30分も走ると大きく綺麗な虹が出てきて、やがて雨が止んできてバスの中の雰囲気が一気に明るくなる。
道の駅でトイレ休憩、土産物漁りをして再出発、平戸島への赤い平戸大橋を渡る。平戸大橋は橋長665m、幅員10.7m、高さ満潮面から30m、吊橋のケーブル直径364mmという巨大な橋だった。
城と城下町を繋ぐ石造単アーチ橋。その昔、城と城下町との往来は船であった。 1669年(寛文9)第29代鎮信が、そこに木橋を架け幸橋と呼ばれた。 1702年(元禄15)第30代棟が、これを石橋に改架した。 これを別名「オランダ橋」という。 これは、1600年始めオランダ商館の石造り建築に従事した石工、豊前からオランダ技法を伝授された石工によって架橋されたからだという。 巧みに巨石をたたみ半月弧を描き美しい。 1984年(昭和59)前面解体して改修復元され、同時に幸橋御門も復元された。
オランダ橋を渡ってからしばらく街中を歩いて行くと狭い石段の登り坂になり、「ここが寺院と教会が一緒に見える珍しいところなので、カメラを用意してください。」とガイドさん。やがて、奥にザビエル記念教会の尖塔と十字架が見えるようになり、その手前に光明寺や瑞雲寺の屋根瓦があって面白い風景になっていた。西洋と日本の文化が重なる平戸ならではの景観とのこと。
この教会は1913年(大正2)に「カトリック平戸教会」として今の愛の園保育園の所に建ち、1931年(昭和6)に現在地に建設された。 1971年(昭和46)に1550年のザビエル平戸来訪を記念して教会脇に「ザビエル記念像」が建立され、教会の名称が「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」と呼ばれるようになったが、近年、正式名称を「平戸ザビエル記念教会」と改めました。
街の道に下って歩いて行くと左手の石段脇にソテツの樹があり、見たこともないほど大きなソテツに驚いてみんな振り返る。平戸観光協会によれば 樹齢数百年といわれる大ソテツ。オランダ、イギリスとの貿易華やかな頃、延命町(今の浦の町)は、川崎屋助右衛門、半田五右衛門、伊藤謀等の貿易商が軒を並べて、平戸一番の賑わいを見せていた所であった。 この浦の町裏通り天満宮登り口に、大きく枝を四方に伸ばしている老ソテツは、川崎屋全盛時代に植えられたものといわれている。
寛文7年(1667)鯨組井元氏の真教寺創建時の寺付きの井戸。寛文7年(1667)、鯨組井元氏の真教寺創建時に寺付きの井戸として掘られたもの。
更に歩いて行って左手の石段の先に松浦史料博物館の標柱が見えるところで、ガイドさんは右の通りに曲がった。この先は平戸港交流広場に通じていて歴史の道と呼ばれるとのことで、平戸にポルトガル船を導いた明代の海商である王直など平戸にゆかりのある外国人の銅像が立ち並んでいた。
それではと教えられた通りに曲がると、通りには江戸時代からとも思われる木造建築が軒を連ねる古い町並みが続いていた。これだけでも来た甲斐がある。
400年近く残るオランダ商館と町屋を区分ける塀。オランダ商館の塀の一部が残っている民家の前の通りから、山手に登る石段の坂道に沿っている石塀が「オランダ塀」である。 この塀は部厚な砂石を平積みして、その上に貝殻と石炭を混ぜて作った漆喰のようなものを塗っている。 高さは2m、長さ30m程度。 1618年(元和4)に築造され、商館本館のほか、倉庫、火薬庫、病室等の目隠しとして作られた。 黒ずんだ塀に、蔦かずらが這う様は、長年の月日を感じさせる。
オランダ塀のすぐ先の塀に「オランダ井戸」の看板が付いており、塀の中に入ると四角い二つの井戸があった。平戸観光協会によれば オランダ商館で使用した井戸。オランダ商館跡近くに、大小ふたつの石枠を組み合わせて造られた井戸がある。 大きな井戸枠は厚さ15センチ、高さ60センチ余の板石で、長さ150センチ余の正角、小さい方は高さが少し低くなっている。 ふたつの井戸は中でつながっており、大きな井戸は屋外からの水汲み用、小さな井戸は、商館の屋内から調理等に用いたものだと言い伝えられている。 水汲みに外まで出るの面倒だし、なるほど便利。
オランダ商館には入ることは出来なかったが、一番先の鼻まで歩いて商館を反対から眺めたりして引き返した。平戸オランダ商館についての平戸観光協会の説明は 1639年建造のオランダ商館倉庫を忠実に復元した資料館。2011年9月20日オープンした「平戸オランダ商館」。中は当時の貿易に関する史料や貿易品などが展示。平戸オランダ商館のある崎方町一帯は、1609年(慶長14)和蘭船が入港し、1641年(寛永18)長崎出島に移転するまでの約33年間、平戸が我が国唯一のオランダ貿易港として賑わった。 商館は当初、土蔵付き民家を借りてスタートしたが、その後周囲の民家を壊して、新たに建築。本館をはじめ、宿泊所、調理場などが整備されていった。貿易の積荷を保管する倉庫も何棟も建築され、1639年には日本で初めての西洋の石造建造物とされる 「1639年築造倉庫」が完成。2011年にオープンした「平戸オランダ商館」はこの倉庫の忠実な復元となり、貴重な建物である。1641年、幕府の命により商館は取り壊され貿易は長崎出島に移転した。
平戸城は、別名亀岡城と呼ばれ、平戸瀬戸に突出した平山城である。 第29代天祥鎮信は、平戸古城の再築(日の岳城を1599年築城、1613年焼く)を図り、山鹿素行と共に設計を行い、1704年30代雄香棟が着工、1718年(享保3)31代松英篤信の時亀岡城として落成した。 山鹿流による築城は他には聞かれない。 現在の城は1962年(昭和37)復元(天守閣三層五階建)され、その後櫓も随時整備された。天守閣からの眺めは素晴らしい。
港の駐車場で待っていたバスに乗り込んで、次は九十九島遊覧に向かう。
真珠貝の筏はもっと沖の方に多く見られたが、こちらは丸いボールが浮かんでいるだけ。九十九島は伊勢志摩、宇和島と並んで真珠の日本三大生産地とのこと。
松浦島の入り江を出ると、また沢山の島が織りなす絶景が続く。
線路数が多い佐世保駅が見えてきたが、この駅はJRグループ全駅中、一番西にある駅だと教えられた。
福岡空港に向かう。途中の川東SAの小公園にあった、伊万里焼用に陶石を陶土にするための大きな唐臼が「ししおどし」と同じ構造になっていて面白い見ものだった。
外の滑走路の方を見ていると飛行機が次々と着陸してくる。滑走路は1本なのに1時間の発着回数は30機以上にのぼり、全国で飛びぬけての過密空港になっているらしい。
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