E53.宮島・岩国・萩・津和野ツアー(3)
3.3 三日目 三日の旅の最後の日は萩の窯元を見学し蒲鉾店でお土産を買って、山陰の小京都津和野に移動して殿町通りの観光
1)萩焼窯元 先ずは萩城窯陶芸工房のろくろ見学場に入ってろくろ作業の実演を見学させてもらった。萩焼会館の店の方の工芸品を見させてもらって和子は楽しんでいたが、お土産には重すぎたようだ。
2)村田蒲鉾店 次は蒲鉾店、案内では松陰神社が三日目で、蒲鉾店は二日目だった。お土産に生物の保存を考えて蒲鉾店を最終日に変更したらしい。お蔭で酒のつまみに珍味ふくの蒲鉾を買ってもらうことができた。
3)津和野殿町通 山口市から津和野に向かう途中に森鴎外記念館の建物が見えた。鴎外旧宅は後で案内してもらえるはずだ。 殿町通りの手前の大橋を渡るとき、赤い鉄橋の上の山腹に、今までのバスの車窓からも見えていた太皷谷稲成神社と参道が見えていてシャッタを押した。
最初に見えた屋敷門は多胡家表門だった。入口には「県指定文化財 急津和野藩家老多胡家表門」の標柱が立っていた。
大橋手前の角に広場があって、二羽の鷺が舞っている珍しいモニュメントが立っていて「鷺舞」の名板が付いていた。鷺舞は弥栄神社の祇園祭の時に人々が鷺の作りものかぶって踊る行事で、国の重要無形民俗文化財に指定されているとのこと。
旧宅に付いて島根観光連盟のHPには 西周旧居と津和野川をへだてて向かいあっている国指定の史跡。森家は代々津和野藩の藩医で、50石どりの家柄であった。鴎外(林太郎)は文久2年(1862)1月19日この家で生まれ、明治5年(1872)11歳で上京するまでここで過ごした。
鴎外がこの旧宅に住んだのは、わずか11年であり、その後再び津和野も、この家も訪れることはなかった。しかし遺書に記された「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という言葉を見ると、彼自身にとって、この家での幼き日々の生活がいかに重要な意味をもっていたか明らかである。 この旧居は森家の上京後人手に渡り、一時は他所に移築されていたが、昭和29年(1954)鴎外33回忌にあたり、津和野町がこれを買い戻し、現在地に復元した。 この旧居も建築以来130年、老朽化が著しいため、昭和59年(1984)秋に解体、全面的に修理された。昭和44年(1969)に国の史跡に指定されている。 広間の欄間には父静男、母ミネ、鴎外自身(林太郎)の三枚の肖像画が掲げられていた。
庭には「鴎外先生詩碑」と刻された大きな石があり、次の詩を鋳込んだ銅板が嵌め込まれていた。
案内が終わって、近くにあったガイドさんの務める島根わさび製造直売工場に案内された。珍しいわさび煎餅を試食してお土産に買いこんだ。
昭和40年代国鉄の蒸気機関車が廃止されたが、SL復活へに機運が高まり、昭和54年8月1日、全国に先駆けて山口線にSLが復活された。山口にはあちこちにSLが展示されているとのこと。 現在、「貴婦人」の愛称で親しまれるSL列車が「新山口」を出発し、「湯田温泉」、大内文化の香り漂う「山口」、四季折々の情緒を楽 しめる「長門峡」、そして「津和野」までの62.9kmを約2時間かけて走っているそうです。
石見空港に到着して、添乗員さんから渡された牛すき弁当をいただいてから、ゆっくりと周りの景色を楽しみました。
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