F112.松本市内観光

1.動 機 
 孫が松本市にある信州大学に通学中で、娘が孫の住むアパートを大掃除しに行くので一緒に行かないかとお誘いがあり、和子は大掃除のお手伝いをする名目があるが、私は何の名目もないが一緒に連れて行ってもらうことになった。松本市内にある浅間温泉のホテルに泊まって、一日目・松本城の駐車場に車をおいて、松本神社、松本城、繩手通り、四柱神社、松本市博物館と見て回り、二日目・午前中二人がアパートの大掃除をしている間は私一人ホテル近くのハイキングコースを歩いて親子のひろば展望台まで登り、午後は3人で松本市美術館で前衛芸術家・草間彌生さんの作品を鑑賞し、三日目は私が歩いた親子のひろば展望台まで3人で登って素晴らしい北アルプスを展望し、信州大学の構内を見て歩いてから日立に帰ってきた。松本市内の初めて見る名所めぐりが楽しかったが、久しぶりに見る山並みを往復の車の中から眺めたのも嬉しかった。

2.データ
a)山域:松本市内
b)登山日:2018/11/28(水)〜30(金)
c)旅程:
 11月28日:自宅7:20〜7:35日立南IC〜7:50友部JCT〜8:25都賀JCT〜8:35岩船JCT〜8:55波志江PA9:15〜9:20高崎JCT〜9:25藤岡JCT〜10:30更科JCT〜11:00松本IC〜11:15松本城P----11:30松本神社----11:40松本城12:40----13:00そば屋(昼食)13:35----13:40繩手通り14:00----14:00四柱神社14:10----14:20松本市博物館14:45----15:05旧開智学校16:10----16:20松本城P〜信州大学回り〜17:00浅間温泉ホテル(泊)
 11月29日:ホテル9:20----9:30不動の滝9:35----10:00親子のひろば展望台10:15----10:25西宮恵比寿神社10:35----10:45ホテル12:30〜12:35(昼食)13:20〜13:45松本市美術館14:30〜市内買物〜16:00ホテル(カラオケ)18:00----アパート18:30----18:40レストラン(歓談、夕食)19:45-----20:00ホテル
 11月30日:ホテル8:05----8:35親子のひろば展望台8:55----9:30ホテル9:40〜9:50信州大学11:00〜12:00東部湯の丸IC〜12:30横川PA(昼食)13:35〜14:00藤岡JCT〜14:05高崎JCT〜14:30岩船JCT〜15:00渋滞16:05〜16:10都賀JCT〜16:15壬生PA16:20〜16:45友部TCT〜17:05日立南IC〜17:20自宅
(松本市観光ポイント)

3.山行記録
3.1一日目
 朝早く、水戸に住む娘が風神山の下の我が家まで迎えに来てくれて、そのまま日立南ICから常磐道に乗り、友部JCTから北関東道、都賀JCTから東北道で繋いで岩船JCTからまた北関東道にのって波志江PAで休憩、赤城山が目の前に見えていた。
(風神山7:24)
(波志江PA9:05)
 その左には榛名山があり、走り始めた車中からパチリ。
(榛名連山9:25)
 北関東道から高崎JCTで関越道で少し南下、藤岡JCTから上信越道に乗って西に向かうと松井田妙義ICの先で険しい妙義の山中になってトンネルが多くなる。二つ目の入山トンネルを過ぎたところで、目の前に高圧線鉄塔の向こうにそそり立った岩山が見えていた。後で調べたら高岩だった。
 2分ほど走るともっと近くはっきりとした岩山が見えてきた。見る方向が変わっただけで、これも高岩?
(高岩9:50)
(高岩?9:52)
 妙義最後の閼伽流トンネルを抜けると佐久平の平野に出て視界が広くなった。右に浅間山から湯ノ丸までのなだらかなピークが続いて気持ちのいい景色。
(湯ノ丸・篭ノ登・黒斑・剣ヶ峰・浅間山10:02)
 その後もいくつかトンネルを潜って更科JCTから長野道を南下、またいくつか長い明科トンネルを潜ると安曇野に出て、右に北アルプスの主峰が並んで嬉しい眺めになっていた。右から北アルプスの大天井岳、横通岳、常念岳、蝶ケ岳、その左の手前の山並みは鍋冠山から黒沢山と思われる。
(北アルプスの山々10:57)
 11時に松本ICに着いたが、孫が今日は夜まで大学なのでアパートに入れず仕事にならないので、今日一日は松本城の駐車場に車をおいて、松本市内見物することになった。先ずはすぐ近くの松本神社に向かうと、交差点前に中央分離帯に大きなケヤキの古木が立っていた。「人里の巨木たち」によれば
     松本城の堀の北側に松本神社がある。このケヤキは堀と神社の間に作られた道路の真ん中に立っている。
     新道を開く際、ケヤキのために中央分離帯を作って伐採を思いとどまった。そのため、道が少し変形してしまったが、今にして見れば英断だったというべきであろう。交差点の手前は駐車場であり、道の様子が変わることで自動車は速度を落とす。ケヤキはそのための良いアクセントとなっている。いずれ天寿を全うした際に道をつけなおせばいいのだから。
     道の真ん中に残されたケヤキからは大枝の落下は許されない。地上5mほどで枝がみな切られてしまったが、これも致し方ないことだろう。
松本神社
 歩道を進むと松本神社の入口門があり、その奥に石の鳥居が見えていた。鳥居脇には「神社のご案内」があり、
       松本神社のご案内
     御祭神
     ○片宮八幡宮(一色兵部少輔義遠)
     ○今宮八幡宮(戸田弾正左衛門尉宗光)
     ○共武大神社(松平丹波守康長)
     ○淑慎大神社(松平丹波守家長室、徳川松姫)
     ○暘谷大神社(松平孫六郎永兼)
     ○若宮八幡宮(島立右近貞永・大名持命・倉稲魄命)
     例大祭
      七月十日、十一日
     由緒概要
    当神社は郷土祭展の神、縁結びの神として信仰された松本城と特別な由緒関係のある神社である。
    寛永十三年(1638)丹波守光重が播磨国明石に在城の時、城内に叔父松平孫六郎の霊祀り暘谷大神社と称した。
    これを享保十一年(1726)丹波守光慈が松本に入部の際、今の松本神社の地に遷し祀った。寛政九年(1797)丹波守光行は三河国田原に祀った戸田家の遠祖である一色兵部少輔の霊(片宮八幡宮)と戸田宗光の霊(今宮八幡宮)の両社を松本に移し、暘谷大神社に合祀し、天保二年(1831)戸田光年は松平康長並徳川松姫の霊を合祀して(五社)と称した。
    即ち城主戸田家の祖廟を神斉したもので、家臣一同之を氏神とした。若宮八幡宮は永正十六年(1519)松本城の開祖である島立右近貞永の霊(八幡)を祀り、祠を城の戌亥の隅に営み城の鎮護とした。後大名持命(神田明神)倉稲魄命(稲荷社)を合祀し、大正三年(1914)五社境内へ遷宮した。 
    昭和二十八年(1953)五社と若宮八幡を合祀し[松本神社]と改称した。 
(松本神社前通り大ケヤキ11:27)
(松本神社入口11:30)
 鳥居の奥の拝殿には三つ葉葵の垂れ幕が掛かっていたが、中には祭りに使われる赤い大神輿が飾ってあり、今では7月の例大祭などで市民に親しまれる神社になっていると思われた。
(松本神社鳥居と拝殿11:30)
(大神輿11:32)
松本城
 松本神社を出て駐車場前まで引き返して松本城の内堀に入ると、赤い埋橋の向こうに天守閣が聳えていた。橋の赤と天守閣の黒とがいいコントラストになっていた。
(松本城:埋橋と天守閣1139)
 天守閣の正面(裏面?)からパチリ。右が大天守で、左は乾小天守。格好いい。
(天守閣正面から11:41)
 内堀沿いの遊歩道をぐるっと歩いて橋を渡って券売所で入場券を買って黒門から城内に入った。入ったところに紅葉したツツジの木があり「宇宙ツツジ」の立て札が立っていた。日本人初の女性宇宙飛行士・向井千秋さんと一緒に宇宙を旅したツツジの種から発芽したものとのこと。
 その先に松本市のゆるキャラ「アルプちゃん」が天守閣をバックに立って愛嬌を振りまいていた。
(宇宙つつじ11:54)
(松本市ゆるキャラ11:55)
 天守の前に鎧兜を着けた武将姿の人が立っていて、いろいろなポーズで一緒に記念写真の被写体になってくれた。
 天守閣には乾小天守との間から入っていく。
(鎧兜武士と一緒に11:58
 (天守入口と乾小天守11:58)
 大天守の一階と二階は展示室になっていて、一階には修理時に出た天守の鯱瓦や壁など、二階には甲冑などの装備品や鉄砲などの武器など詳細な説明付きで展示されていた。
(鯱瓦12:02
(甲冑 12:09)
 大天守は6階建て、すべて階段での上り下り、それも角度が55°〜61°、蹴上げが40cmもあるところがあり、私には大仕事だった。
(天守階段の説明版12:11)
(急会談12:11)
 最上階には東西南北に窓があり素晴らしい眺望だった。展望図があって山に名前も書いてあって助かった。
(天守から東方向12:16)浅間山・美ヶ原
(天守から西方向12:19)北アルプス
 黒門を通って松本城を出た大名町通りを歩いていくと「和食そば処」の看板があり、昼食に信州そばを食べたくて入ったが、一階はお土産屋。そばやお菓子などのほかに伝統工芸品などが並んでいた。
 二階に上がって昭和風情の食堂できつね十割蕎麦を美味しく頂いた。
(一階は土産物店12:31)
(二階がそば屋12:31)
 大名町通りの先には、石の壁に付けられた二本のパイプから水が流れ出ているところがあり、脇に「大名町大手門井戸」の名板が立っていて平成の名水百選にも選ばれた湧水だとのことで、柄杓も置いてあった。平成の名水百選を検索したら、我が家の近くの「泉が森湧水及びイトヨの里泉が森公園(湧水)」も入っていた。
繩手通り
 大名町通りが女鳥羽川に突き当たるところが広場になっていて、その左手の通りに古民家の並び、入口に「松本繩手通り」の表示がされて歩行者天国になっていた。
(大手門井戸13:38)
(繩手通り入口13:32)
 繩手通りの入口に小広場があり、でっかいカエルの化け物が飾ってあった。大きな黒っぽいガマガエルの上に、派手な衣装を着た2匹のカエルが重なって大刀を振りかざして暴れている像が神輿の台の上に乗っかっていた。前に手書きの由来書がぶら下がっていた。
     わたしは「がま侍」。生まれは----2005年・東京芸大の学園祭で学生たちが作成した御神輿です。それを繩手でもらい受けました。
     カエルの街”繩手”で、当時の芸大生の心意気を受け継ぎ、繩手もがんばっていこうと、設置しました。
    ナワテ商業協同組合。
 繩手通りをぶらぶら歩いていくと、古美術店、雑貨店、たい焼きやなどいろいろあって面白かった。
(カエルの化け物13:34)
 (繩手通り商店街13:43)
 繩手通りの途中に四柱神社の大鳥居があり、その向かいの小広場に清水が流れ出ていた。「若返りの水」の表示があったので、和子は大喜びで水で掬って御利益に授かろうとしていた。
 ここには大きな繩手通り案内板があり、その片隅に「カエルの街と呼ばれる由来」の巻物もあった。写真は載せなかったが、国土交通省大臣扇千景から贈られた「手づくり郷土賞」の記念碑もたっていた。
(若がえりの水13:47)
(繩手通り=カエルの街14:00)
 通りの端まで歩くと公衆トイレがあり、その横の小広場に本を立ち読みしているカエルの像が立っていた。二宮金次郎を見習ったのか。
 ここからお店を覗いたりしながらぶらぶら引き返した。
(本読み13:54)
(繩手通り13:56)
四柱神社
 四柱神社の大鳥居から境内に入ってみた。
(四柱神社の鳥居14:04)
(拝殿14:05)
 境内には神社の御祭神と御神徳についての説明版が立っていた。
(四柱神社の説明版14:02)
 拝殿でお参りしながら、ちょっとパチリ。
 境内には小さな鳥居があって「伊勢神宮遥拝所」の石柱が立っていた。ここでお参りすれば、お伊勢参りしたことになる?
(惟神14:04)
(伊勢神宮遥拝所14:05)
 次は松本城内にある松本市博物館を見てみることにして、四柱神社を出て大名町通りを歩いていると、街並みの中に小ぶりなお城が立っていた。屋根下の大きな看板には「青翰堂」とあり、本屋さんのようだった。
(青翰堂書店14:12)
(松本城入口14:15)
 外堀の中の松本城公園に入ると「国宝松本城天守」の説明版が立っていた。松本城の報告に入る前に載せるべき写真だが、前はここを通らなかった。
(松本城天守14:16)
松本市博物館
 説明版の奥に松本市博物館があり、中に入ると松本城の城下町の模型が目を惹いた。
(松本城城下14:20)
 長い刀「打刀」小ぶりな「脇差」の展示。
 船首に龍の頭を持ったいかにも古い感じの宝船があった。江戸後期から昭和初期まで実際のお祭りで曳かれていた七福神を乗せた宝船が目を惹いた。
(打刀と脇差14:18)
(初市の宝舟14:31)
 地下から発掘された木工品や土器などの展示品も多かった。
(城下の発掘物14:38)
(弥生時代の武器・食器14:39)
 次の旧開智学校は駐車場の少し北にある。内堀沿いを歩いて松本城公園を抜け、駐車場と松本神社の間の通りを歩いていくと、いかにも歴史のありそうな建物の開智小学校があり、集団下校の準備をしている小学生達があちこちにたむろしていた。旧開智学校が今も使われているのかと思ったが、実際は小学校の向こう側だった。
 グランドの周りの道を歩いていくと、道の真ん中に大きな銀杏の古木が立っていた。
(松本市立開智小学校15:01)
(銀杏の古木15:06)
旧開智学校
 旧開智学校の入口はこの木のすぐ前だった。寄棟2階建土蔵造りで、屋根は和風、中央に聳える八角塔や窓は洋風、和洋折衷の綺麗な建物だった。
 「ここから松本城の駐車場まで随分歩いて来た。また歩いて帰るの大変だなあ」とぼやいていたら、これを聞きつけた娘が一人で車を取りに戻った。和子と二人で旧開智学校の入場門を入って見学を始め、途中で合流した。
 庭には重要文化財である学校の構造や歴史を書いた説明版が立っていた。明治9年に立石清重により女鳥羽川畔に建築され昭和38年まで小学校として使われていた、日本で一番古い小学校。その後、現在地に移築復元され、松本市の教育センタの役目をしている。とのこと。
(旧開智学校15:06)
(重要文化財校舎説明版15:07)
 校舎内に入ってみると、教室は私が小学校時代に使っていたと同じような感じの板敷の床、机や椅子、オルガンなどがあったが、壁と窓は違っていた。
 この校舎を設計建設した立石清重の肖像画があり、人物像が書かれていた。
     旧開智学校校舎を設計・施工した立石清重は、松本で代々大工を務めていた家の次男として誕生しました。父清三郎の跡を継いで大工となり、松本城の御普請や多くの住宅を手掛けるなど、江戸時代から地域の棟梁として活躍していました。
     明治時代になると、立石は、独学で学んだ擬洋風建築を松本に根付かせていきます。明治時代だけでも、立石は手がけた建築は100件以上確認できます。観光庁舎や学校は擬洋風が多くみられますが、個人の住宅などは和風のものも手がけていました。立石は施主の希望に沿いながら、自らの和風と洋風の技術を間断なく発揮していたといえます。数々の大作を手がけた高い技術力と、その仕事ぶりが詳細にわかる建築帳面を豊富に残したことから、明治前期の日本を代表する大工棟梁と評されています。
(教室15:25)
(立石 清重15:38)
 H25年に天皇皇后両陛下が旧開智学校を視察された時の新聞や、旧開智学校の擬洋風建築の洋風和風を色別で分かりやすく説明した絵なども展示されていた。
(両陛下御訪問15:26)
(建築の和洋折衷15:31)
 最後にもう一度、正面から建物の全景を見直して旧開智学校を後にした。
(正面から15:10)
 開智学校の駐車場で娘が持ってきた車に乗り、信州大学を外から眺めながら浅間温泉のホテルに入った。入口に一本のひもがぶら下がっていて、これを引っ張ると扉が開き、運も一緒に開けるとのこと。知らないで扉の前に立ったら扉は自動的に開いた。運を貰い損ねた。
(信州大学周回16:30)
(ホテル玄関は開運の扉16:54)
 フロントで2連泊の手続きをしてキーを貰い、娘は駐車場の場所を聞いて車を置いてきた。部屋は10畳和室、一休みしていると孫から「今帰ったよ」と電話あり、車で迎えに行って街に出て楽しく夕食を食べ、ホテルに帰って温泉に入ってぐっすりと眠った。

3.2二日目
 バイキングの朝食をとってから、娘と和子は「昼には帰ってくる」と言って孫のアパートの大掃除に出かけた。残された私は何しよう。ホテルから松本市を展望してみようと歩き回ってみたが、屋上はなく外を眺められるのは自分の部屋の窓からと非常階段からぐらい。南北に山らしい山は見えなかった。
(部屋の窓から南方向8:52)
(非常口から北方向8:57)
親子のひろば展望台
 一階ラウンジの資料の中に、浅間温泉散策図があり、このホテルの直ぐ近くの裏山にアルプス展望台があるあるらしい。午前中の暇つぶしに丁度いいウオーキングになりそうだと思って、地図をカメラに収めて出かけることにした。
 9時20分出発、ホテル前の坂道を登っていって突き当たったT字路を右に曲がるとすぐに「不動の滝」「護摩堂」の手書きの道標があり、溝沿いに狭い道があった。その右の古い石碑がたってりうが何と書いてあるのか? 脇に説明があって「開通記念碑 大正拾年九月吉日 八世曾角堂」浅間から三才山へ行く浅間峠の登り口の道路改修した記念に建立 とのこと。
(上州物産館9:20)
(登山道開通記念碑9:30)
 沢沿いを登って左に「篠田焼登り窯」見てさらに登ると、右手にに「不動の滝」があったが、残念ながら水は流れていなかった。
 脇に「花ノ木聴秋句碑: 虹吐いて 夏よせつけぬ 瀑布かな」が立っていた。
(不動の滝9:33)
(花ノ木聴秋の句碑9:34)
 滝の上に「護摩堂」が立っていてお参りする。堂内は金ぴかで外観に似合わず華やかな雰囲気だった。
(護摩堂9:36)
(護摩堂内部9:37)
 護摩堂前庭に右に三つの小堂があり、端から山道が登っていて「礼二十三度」の小さな石碑が立っていて、23回登れということかと見直すと二十三夜だった。
 もうちょっと登ってみようかと思って2分ほど登ると分かれ道があり、右に坂道に「北遊歩道 親子のひろば展望台298m」の道標があった。あと300mなら大丈夫そうなので登り続けた。
(乱二十三夜9:38)
(親子のひろば展望台298m 9:40)
 先にある案内図では大音寺山山頂のアルプス展望台はその上、止めておいた方が良さそう。
(登山道にあった案内図9:40)
 上る途中に留学生の小径への分岐があり、その道を少し歩くと市街地展望台があり、眼下に松本市の市街が広がっていた。
(市街地展望台から9:45)
 北遊歩道に戻って登っていくと、目の前に展望台のものらしき白い看板が見えてきて元気を奮い起こす。
 「親子のひろば展望台」の標識まで登ると看板の前に木の長椅子もあって一休みできそう。
(登山道9:58)
(親子のひろば展望台10:00)
 上まで上がってみると、白い看板の裏は北アルプスの展望図になっていて、乗鞍岳から常念岳、餓鬼岳まで有名な山の名前が記入されていた。実際の北アルプスは全部雲の中に隠れていてザンネーン!
(親子のひろば展望台の北アルプス展望図の上に雲に隠れた北アルプス10:01)
 下りは不動の滝のところから登ってきた山道とは別に石段道が下っていて、こちらの方がらくちんそう。手すりも付けてあって危なげなく下ることができた。
 道祖神や観音碑が並んだところに出て、その奥に不動院のお堂が見えていたが、石段を登るのはやめにした。
(下りは西宮恵比寿神社へ10:23)
(道祖神10:26)
 すぐ下に西宮恵比寿神社の鳥居があり、中に入って拝殿にお参りした。
(西宮恵比寿神社10:28)
 その下に観音堂があり、ちょっと覗いて車道に出て右に歩くと登山口があった。登ってきた道を引き返すと湯坂通りに出て、すぐ左にホテルが見えて10時40分無事帰還。1時間15分の面白いウオーキングでした。
 ホテルの前の宿の庭に綺麗な紅葉が見え、裏入口に「トイレは遠慮なくお使いください」の表示があったので遠慮なく入って庭の紅葉の写真を撮らせてもらった。
(湯坂通り10:40)
(前のホテルの庭10:43)
松本市美術館
 午後は草間彌生展開催中の松本市美術館に出かけた。美術館外壁全体が草間さんの指揮であろう水玉模様で飾られ、前庭のチューリップの花や葉っぱも水玉模様になっていた。
 特別展だけの展示にしては大掛かりだなあ。と思っていたら、チューリップの彫刻は2002年作で作品名は”幻の華”、壁の絵は2016年作で作品名”松本から宇宙へ”で、松本市出身で世界的な前衛芸術家になった草間彌生さんを強調した、美術館のシンボルになるものだった。
(草間彌生展覧会開催中の松本市美術館前12:45)
 チューリップ”幻の華”の拡大写真。
(幻の華12:45)
 美術館の中はほとんど撮影禁止なので、下の参道を見ると道の両側に紅葉した木が多く、これに日が当たって綺麗に見えた。
 そのまま石段道を下ってみそぎ橋を渡ると、橋の袂に幟では気が付かなかった寿老人の石像が立っていた。
(”考えるかぼちゃ”12:48)
(木工の”美女”12:51)
 美術館をゆっくり鑑賞してから、孫のアパートに行って後片づけをしてホテルに戻り、カラオケ室を楽しんで時間調整、歩いてアパートに向かい孫と落ち合って、街のレストランで食事しながら歓談した。
(ボンゴレ18:50)
(ハンバーグの18:52)
3.3三日目
親子のひろば展望台
 今日は信州大学を見学してから日立に帰る予定だったが、昨日私が一人で歩いた北遊歩道を歩くことになった。荷物の帰り支度をしてから出発、お元気な二人を案内するのは恐れ多いが、前を歩いて案内していった。
 今日は気温が低くて、足元の草は霜で真っ白になっていた。
(親子のひろば展望台へご案内8:30)
(霜も下りてる8:32)
 今朝は綺麗に晴れ渡って、親子のひろば展望台からは展望図通りの北アルプスの山並みが全部見えていた。二人も上機嫌、展望図と比べながら山名を確認していた。二度登った甲斐があった。
(今朝はくっきり北アルプス8:34)
 展望台で20分ほどゆっくりして下山。下りは登ってきたガラガラ道を下るのは嫌だったので、中遊歩道の石段を下ってみた。
 歩きやすい道だったが、だいぶん方向が違ってきたので、親子岩のところでトラバースしたらずいぶん長い道のりに思えた。
(中湯歩道下り9:11)
(トラバースして9:13)
 石段道を下って西宮恵比寿神社のところに出て一安心、無事ホテルに帰ることができた。普段のよたよた歩きも、気持ちよく歩けば結構歩けるものだ。
(石段下り9:17)
(西宮恵比寿神社9:21)
信州大学
 ホテルのチェックアウトをし、荷物を車に積み込んで信州大学へ出発。グラウンド脇の駐車場に車を入れて、近くの北門から信州大学の構内に入った。
(駐車場10:09)
(信州大学北門10:10)
 孫はこの松本市の信州大学に通っているが、松本市の他に長野、上田、伊奈にキャンパスがあり、この松本キャンパスには大学本部や人文学部、経法学部、理学部、医学部があり、全学教育機構もあって1年生だけは全学部ここに通う。
 構内はものすごく広く、広い通りが縦横に通っていて辻には案内板も立っている。まるで普通の市街を歩いているようだ。車での通学も普通のようで構内中央に広い駐車場があった。
(西門通り交差点10:15)
(構内駐車場10:18)
 駐車場から曲がると理学部の格好いい6階建ての大きな学舎が立っていた。孫が講義を受けている教室を覗くこともできるといったが、孫にすればいい迷惑だろう。御遠慮した。
 近くの正門前に出て記念写真を撮った。
(理学部10:20)
(正門10:25)
(理学部10:20)
(正門10:25)
 構内の紅葉狩りもしながら歩いていくと全学教育機構の2棟をつなぐ通路を横断した。
(紅葉の遊歩道10:29)
(全学教育機構10:36)
 北門近くの構内生協購買部でお土産を買い込み、二階の食堂を覗いたら、さすがに広い。お値段も格安だった。
(信州大学生協10:36)
(2階は学生食堂)
 駐車場に戻って日立に向かって出発。松本ICには向かわず、「帰りは山道を走って景色を楽しませてあげよう」と松本市の総合体育館脇を走って三才山トンネル有料道路に乗って一般道で山越えをした。
(松本市総合体育館11:02)
(三才山トンネル有料道路11:52)
 山岳地帯を抜けると小川と田んぼが広がるのどかな田園風景の中のドライブになった。
 上信越道の東部湯ノ丸IC近くまで来ると、向かいに篭ノ登山、黒斑山、浅間剣ヶ峰の山並みが見えてきた。
(集落ある道11:02)
(東部湯の丸IC近く:篭ノ登山・黒斑山・剣ヶ峰11:52)
 碓氷軽井沢IC近くで変わった岩が見えたのでシャッタを押して、地図を調べたら高岩だった。
 トンネルを抜けた先で、西大星、赤岩、烏帽子岩の裏妙義の岩山がきれいに並んで見えていた。
(高岩12:24)
(裏妙義12:26)
 横川PAで名物の峠の釜めしを頂いて一休み。再出発して間もなく逆光の中、表妙義だったのか、格好のいい岩山の山並みが見えていた。
(横川PA:峠の釜めし12:45)
(表妙義?13:40)
 北関東道から岩舟JCTで東北道に入ったところでのろのろ運転が始まり、始めは三車線で並走して走っていたものが、だんだんと車線ごとの速度が違ってきた。娘の車が走っていた真ん中の車線が一番遅く、両側にどんどん追い越されていく。この先で一車線に規制されていて、両側から割り込まれるので、中の車線は一向に進まない。私なら脇の車線に飛び出していくところだが、娘は人間ができているのか平然としたもの。
 1時間以上のろのろ運転が続くと先に工事車両が列をなして2車線をふさいでいた。
 工事車両車列の先にタンクローリみたいな車が横転していて、中身を長くばら撒きながら滑っていったような軌跡があり、レッカー車を使って中身の処分中だった。ゆっくりとよく見たかったが、1車線になると車速は速くなりそのゆとりはなかった。
(一車線に制限16:03)
(横転車両16:04)
 渋滞の反動か、車の速さが早くなり、4時になると日差しも弱くなってきて、綺麗な紅葉の写真はうまく写っていなかった。
 北関東道に入って筑波山が見えてくると帰ってきた気分になってくる。常磐道に入って日立南ICで高速を下りて我が家に着いたのは17時過ぎ、信州大学を出てから6時間、長い運転ご苦労様でした。
(スピードアップ・紅葉ブレ16:05)
(筑波山16:34)


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