G242.東京見物バス旅行(2)
(浅草寺)

1.動 機 
 これは2の章・浅草寺の報告です。

2.データ
a)山域:東京都心
b)登山日:2019/02/21(木)
c)日程: 自宅7:40 = 10:05亀戸天神10:50 = 11:10雷門前(昼食)11:50 = 12:00浅草寺13:20 = 14:10東京タワー15:05 = 15:30皇居外苑16:15 = 19:30自宅

3.山行記録

3.2 浅草寺
 浅草寺雷門前でバスを下ろされ、浅草寺境内と近くの17のレストランとバスの駐車場を示したマップと食事券、食事券で食べられる各レストランのメニューが渡され、好きなところで好きなものを食べるよう指示された。全員が大部屋に集まって同じような食事をするツアー食事のイメージを変える面白い企画だった。
食事後は浅草寺を自由に歩いてから、指定時間までにバスに戻ってくるよう指示され、我が家は雷門近くのすし屋さんで食事券指定の、具がいっぱい乗った海鮮丼と茶碗蒸しとみそ汁付きの海鮮丼セットを美味しくいただいた。
(浅草寺前で解散)
(海鮮丼セット)
 食後は広い浅草寺を案内なしで歩き回ることになり、持ってきた浅草寺HPの案内図が役立つことになった。
(浅草寺境内図)
 寿司屋の通りから仲見世通りに入って、仲見世通りを雷門入口まで引き返して、参道を始めから歩き始めることにした。雷門の大提灯には見覚えがあった。
(雷門)
 雷門の風神雷神は金網に囲われていて、日の当たる正面からはその姿をはっきり見ることができない。山門下に入ると横面からだと何とか見えていたので、人通りを気にしないで両方を向いてシャッタを押した。
(雷神)
(風神)
 仲見世通りに入ると、お土産屋を漁る観光客でごった返していた。人に当たらないように気を付けながら杖を突いて歩いて行った。
(仲見世通り)
(店内のお土産)
 仲見世通りを進んで交差する3本目の新仲見世通りにはアーケードがかかっていて人通りも多かった。
(新仲見世通り・左側)
(新仲見世通り・右側)
 伝法院通りを過ぎると左側は商店街がなくなり公園のようになってきて、仁王門近くには広場の奥に山門があり、左右に「浅草寺本坊」「伝法院門」の名板が付いていた。
 その右に丸い輪を背負った如来さまのような立派な銅像が立っていたが、NETで調べても何という像なのか分からなかった。
(浅草寺本坊・伝法院門)
(如来像?)
 仁王門辺りは記念写真を撮ったりする人でごった返していた。
(宝蔵門・仁王門)
 左右阿吽の仁王さんの写真も、混雑する仁王門下の人波の中でシャッタを押しました。
(仁王尊阿形像)
(仁王尊吽形像)
 仁王門を通るとすぐ前に本堂が見えました。
(本堂前参道)
 仁王門を出て左を見ると、格好のいい五重塔が見えました。
(五重塔)
 本堂お参り
(本堂)
 先ずは常香炉で、線香の煙を頭に付けてボケ防止祈願、腰部に付けて車椅子に乗らなくて済むよう祈願。
 大提灯の下を通って外陣に上がって、内陣の金ぴかの宮殿にお参りした。宮殿はくうでんと読み、巾4.5m、高さ6mの総金箔押造りとのこと。その前にある賽銭箱も大きかったが、入れた賽銭はこれに不似合いな小銭でした。
(常香炉)
(御本尊)
 外陣の天井には龍の絵一枚と天女の絵2枚が描かれている。一枚の絵の大きさは6.4m×4.9mもあり、首を精いっぱい上に曲げても一目に全部は入りきらない。
(天井絵・龍)
(天井絵・天女)
 本堂の西側には、上の「浅草寺境内図」にはない多くのお堂や石像があって撮影場所がわかりませんでしたが、歩いている途中、淡島堂の前に立っていた「西境内案内図」がこの報告まとめに大いに役立ちました。。
(西境内案内図)
 本堂へのお参りを終えて、本堂左・西側の広場に回った。最初に出会ったのが大きな阿弥陀如来座像、座っていても高さ1.86mあり総鋳銅製とのこと。
 その隣に銅造宝篋印塔が立っている。これも総鋳銅製で、塔部だけで高さ5.2mもあり、安政の震災で破損したままになっていたものを、明治40年に日露戦争凱旋記念のために再建されたとのこと。
(阿弥陀如来座像)
(銅造宝篋印塔)
 さらにその奥の池(流れ?)には多くの鯉が泳いでいて綺麗で何度もシャッタを押す。この池には古びた石の橋が架かっていて、そばの説明版には「石橋」となっていた。読みは(いしはし)ではなく(しゃっきょう)と読むらしい。江戸時代の1618年に紀伊藩主の寄贈で作られ、昭和23年に文部省により重要美術品に認定されている。
 振り返って見る本殿の西面も格好良かった。
(石橋(しゃっきょう)と鯉)
 (本堂西面)
 石橋のところで西に曲がると上部が壊れた梵字らしき模様が彫られた板脾があり、説明版には「西仏板脾」とあり室町時代ごろのものらしい。今は高さ2mぐらいだが、当初は3mぐらいあったらしいとのこと。
 その先に「仏頂尊勝陀羅尼碑」と彫られた石碑が立っていたが、題字の下の文字は何語だか読めない。説明版によればこれは梵字で、仏頂尊勝陀羅尼は息災延命など御利益の多い尊いお経で、この碑の創立は江戸時代(1864)とのこと。
(西仏板碑)
(仏頂尊勝陀羅尼碑)
 これらの碑の道向かいには真新しい大きなお堂・影向堂が建っていた。浅草寺のHPの要約
     影向堂(ようごうどう)
    観音さまをお助けする十二支の守り本尊のお堂で、平成6年に慈覚大師円仁の生誕1200年を記念して建立され、当山の朱印所で、参拝証としてご本尊の聖観世音菩薩と大黒天のご朱印をお授けしている。
    鉄筋コンクリート寄棟造、錣屋根本瓦葺 間口13.3m・奥行13.3m・棟高12.9m・軒長19.7m
 影向堂の左には六角形のお堂が建っていて「都重宝浅草寺六角堂」の石柱が立っていた。ご本尊は日限地蔵尊で、造立年代は不明だが、日数を定めて何かを祈願すると霊験があるとのこと。
(影向堂)
(六角堂)
 影向堂の前には立派な三峰神社の扁額を掲げた小さな神社があった。秩父に社殿を構える古社・三峰神社を勧請したもの。文化10年(1813)に編纂された「浅草寺史」には、当時は境内各所に様々な神社が勧請建立されていたとのこと。この三峰神社は戦災で消失、再建されたもの。
 三峰神社の左手に、ここにも六角形の建物が建っていて、説明版には「六地蔵石燈籠」となっていた。中には各面に地蔵像が彫ってある六角形の火袋を持つ古い古い灯篭が入っていて、建物はこれを風雨から守る為の囲いだった。この石燈籠は鎌倉時代の作で、もとは隅田川べりにあったものを、明治時代の区画整理に伴ってここに移されたとのこと。長年風雨にさらされていたので、地蔵像も文字もはっきりとは判読できないらしい。
(三峰神社)
(六地蔵石燈籠)
 次の写真に写っていた地蔵さまのお賽銭箱には「聖観世音菩薩」とあるがNETでは出てこない。台座に彫られた文字は「○○○供養佛」と〇がはっきりしない。
 影向堂の南に入ったところに、影向堂を少し小ぶりにしたような赤いお堂が建っていた。扁額には「薬師堂」となっている。由緒:当初の薬師堂は本堂の北側にあったので、「北薬師」と呼ばれていたが、慶安2年(1649)、三代将軍徳川家光が本堂の北西に再建。これが現在の建物で、浅草寺に残る江戸時代以前の建築では六角堂、二天門とともに古い。かたわらに小さな橋があったため、家光によって「橋本薬師堂」と名づけられたという。平成6年(1994)に現在地に移された。
(聖観世音菩薩像?)
(薬師堂)
 薬師堂の裏の街通りに回ると淡島堂が見え、境内左には白い宝塔に四角の屋根の上に金色の多宝輪が目立つ写経供養塔が建っていた。石柱の上に真っ赤な紅梅が満開で綺麗だった。 
(写経供養塔・淡島堂)
 淡島堂の南の区画の角に瓜生岩子之像があった。瓜生岩子さんについての説明をそのまま転記します。
岩子は通称。正しくは「岩」という。文政十二年(一八二九)二月十五日、岩代耶麻郡(現福島県耶麻郡)熱塩村渡辺家に生まれたが、九歳の時、父を失い、母は岩を連れて生家へ帰った。そのため、岩は母方の姓瓜生氏を称した。十四歳の時、若松(現福島県会津若松市)の叔母に預けられ、その夫で会津若松藩侍医を勤める山内春瓏の薫陶を受け、堕胎間引の防止に関心を持つに至る。十七歳で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み、一男三女を生んだが、早くに夫を亡くした。明治元年会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力した他、堕胎など、当時のさまざまな悪習を正し、明治二十二年貧民孤児九歳のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努めた。
 明治三十年四月十九日、福島で没す。享年六十九。生涯を慈善事業に捧げた岩の善行を賞揚し、同三十四年四月、篤志家によって浅草寺境内にこの銅像が造立された。台石に正面には、下田歌子女史の撰文を刻む。
 区画の中に入っていくと、力石や・戸田藻垂塔・喜劇人の碑など並んでいた。力石は
力石、または「さし石」ともいう。江戸後期、酒屋・米屋の人足たちの間で、酒樽や米俵を曲芸のように持ち上げて、その力を競うことが流行した。この力石は、境内で行われた「力くらべ大会」で競い持ち上げられたものである。
 正面の「力石・熊遊の碑」は、明治7年(1874)、熊次郎という男が持ち上げた百貫(約375キロ)ほどの力石であり、新門辰五郎らがその記念として建てたもの。  金龍山 浅草寺
 戸田藻垂については
戸田茂睡は江戸時代元禄期の歌人(1629 〜 1706)です。渡辺監物忠の六男として駿府城内で生まれました。父の死後、伯父戸田政次の養子になります。名は馮たのむ、後に恭光やすみつと改めます。茂右衛門、茂睡などと号します。一時期、三河岡崎藩本多家に仕えますが出家し、浅草寺近くに居を構えました。形骸化した伝統歌学への積極的批判者として知られます。代表作に江戸の最初の地誌である『紫の一本ひともと』のほか『御当代記』『梨本集』などがあります。
 墓石は、牛込萬昌院より発見され大正2年(1913)に浅草公園に移されたものです。自然石の土台、宝篋印塔の基壇、五輪塔の順にのせられています。五輪塔は茂睡自身が生前に自らの後世を供養した逆修塔です。
 喜劇人の碑については
 浅草はかつて、日本のブロードウェイと呼ばれ華やかな街でした。「喜劇人の碑」は人々に笑いと喜びを与えてくれた喜劇人たちに感謝の意を表し昭和57年(1982)建立されました。碑裏面には喜劇人の名前が刻まれています。題字は森繁久彌。
川田晴久 古川ロッパ 八波むと志 清水金一(シミキン) 堺駿二 榎本健一(エノケン) 山茶花究 森川信 柳家金語楼 木戸新太郎 大宮デン助 勲四等 伴淳三郎 佐山俊二 武智豊子 トニー谷 有島一郎 東八郎 
南利明 益田喜頓 国民栄誉賞 渥美清 勲四等 三木のり平 勲四等 曾我廼家明蝶 勲四等 由利徹 勲四等 ミヤコ蝶々 勲四等 清川虹子 関敬六 谷幹一 国民栄誉賞 森繁久彌
(瓜生岩子之像)
(力石・戸田藻垂塔・喜劇人の碑)
 その先の一角にも、石井漠記念碑・浅草観光事業功労者の碑・高橋石斉の碑など多くの石碑が並んでいた。
 最近俳句の勉強を始めた和子の目を惹いたのは三匠句碑で、江戸時代前期の三人の師匠の句が刻まれていた。
    ながむとて花にもいたし頚の骨  宗因
    花の雲鐘は上野か浅草か     芭蕉
    ゆく水や何にとどまるのりの味  其角
(石井漠記念碑・浅草観光事業功労者の碑・高橋石斉の碑)
(三匠句碑)
 この区画の先の通りの西には奥山門が建ち街通りになっていたので、反対を向いて歩くと猿か人間か分からないような罪人?が重なって顔を並べている像があり、その頭の上に雀が何匹も止まって休んでいた。
(奥山門)
 (罪人の頭に雀)
 本堂前まで引き返すと鳩ポッポの歌碑が立っているが、ここには鳩が何匹の止まっていた。
 その山門寄りには時計が取り付けられた九重の塔があり、脇に「平和の時計」の石柱が立っていた。
(鳩ポッポの歌碑)
(平和の時計)
 バスの集合時間までまだ時間があったので、仁王門を出て伝法院通りを歩いて行ったが、伝法院は大きな高い囲いで鴨まれていて、「重要文化財 浅草伝法院 客殿及び玄関工事中」の看板が立っていてむなしく引き返した。
(伝法院通り)
 (伝法院は工事中)
 仁王門の手前で右に曲がると、平和地蔵尊の石像があり、脇の石碑にはその由来記が彫られていた。。
     平和地蔵尊由来記
    第二次世界大戰はその規模においても その被害についてもまことに甚大であった  ことに昭和 二十年三月十日の大空襲に は この附近一帯は横死者の屍が累として山をな し その血潮は川となっ て流れた その惨状はこ の世の姿ではない これ等の戦争犠牲者の霊を慰めることこそ 世界平和 建設の基となるものであ る ここに平和地蔵尊を祭り その悲願を祈るた め 昭和二十四年四月こゝに安置された次第で ある
 バスの待つ駐車場に出る二天門通りまで歩くと、門の左側に大きな石鳥居を構えた浅草神社が建っていた。大きな神社で有難い御利益がありそうだったが、本殿まで入る元気がなくて入口からの写真を撮っただけで失礼した。
(平和地蔵尊)
 (浅草神社)
 二天門を通って馬道通りに出たが、バスの場所が気になって両側の二天像の写真を撮るのを忘れて通過してしまった。
 集合場所は浅草小学校前の花川戸公園、ベンチに座って次の東京タワーに向かうバスを待った。
(二天門)
(浅草小学校)
 

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