G311.東京見物バス旅行2回目(1)
(新宿十二社熊野神社) 1.動 機 前回に続いて東京バス旅行です。ス−パは前回とは違い、観光地点は新宿十二社熊野神社と浜離宮恩賜庭園と柴又帝釈天だった。相変わらず写真を撮りまくったので、前回に倣って3回に分けてそれぞれの観光地点を報告します。 2.データ b)登山日:2019/03/15(金) c)日程: 自宅7:30 = 7:40スーパP7:50 = 8:05日立南IC = 9:00守谷SA9:15 = 10:30新宿IC = 10:35十二社熊野神社11:00 = 11:30レインボーブリッジ = 11:45ゲートブリッジ = 11:55お台場ヴィーナスフォート(昼食)13:40 = 14:00浜離宮恩賜庭園14:50 = 15:40柴又帝釈天16:30 = 16:40呉服橋IC = 17:35友部SA17:45 = 18:10日立南IC = 18:20スーパ18:40 =18:50自宅
3.山行記録 朝食をとって車でスーパの駐車場に入り、やってきたバスに乗り込んだ。日立南ICから常磐道に乗り、守谷SAで休憩後首都高に入り、堀切JCTから隅田川沿いの6号に入っていくと、スカイツリーが大きく見えてきた。 すぐ先のアサヒビールのガラス面にもスカイツリーが綺麗に写っていたのだが、シャッタを押すタイミングが遅れてしまって残念。
皇居のあとはどこを走ったか判らないが、新宿ICを下りると左側に新宿中央公園が広がっていた。まっすぐ走って公園入口近くでバスを降り、ガイドさんに案内されて公園の中を十二社熊野神社の東神門へと歩いた。十二社はジュウ二ソウと読むとのこと。
この方向から見る拝殿・本殿が格好良かった。
ここ十二社の地が、池や滝を擁した江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑で、嘉永4年(1851)3月に建てられました。
高さ210cm、幅119cm、幕末期に江戸市中の様子を記した『江戸繁盛記』を著した儒学者寺門静軒と、中野宝仙寺の僧侶負笈道人により、当時名高かった景勝地十二社の様子を紹介したもので、表面には負笈道人の撰になる碑文と、寺門静軒による漢詩が刻まれており、字数は262字あります。 また裏面は、負笈道人の略歴と人柄を、寺門静軒が記したもので字数は、286字に及びます。 なお、書は中川憲齋(日本書堂・大彭を号する)によるものです。 後ろには「御即位記念神楽殿改築碑」、隣に「第九區」の碑など、付近にいろいろな石碑が立っていた。
脇に「神輿蔵」の説明版が立っていた。少し小さくて読みづらそうなので転記します。 神輿蔵
神輿は、神社の例大祭などで氏子区域を巡幸するもので、古くは奈良時代の記録に見られます。 普通は木製黒塗で、四角造・六角造・八角造・お宮造などの形式があります。主に屋根・胴・台輪の三部分からなり、屋根上には鳳凰を置き、台には2本の棒を貫きます。神社祭礼の神輿は、通常この棒を肩でかつぐ形です。 この神輿蔵には、神社の宮神輿(大神輿)と、熊野神社の氏子の組織である睦の町神輿(大人神輿と子供神輿)が保管されています。 宮神輿は、昭和3年(1928)に十二社と淀橋の氏子により製作されたもので、大祭に巡幸します。 説明文と一緒に、神輿の構造、名称図と、氏子の区域地図が描かれている。
拝殿の両脇に対でにらみ合っている狛犬の形相が凄かったので一枚。
十二社の池は、慶長11年(1606)伊丹播磨守が田畑の用水溜として大小つの池を開発したもので、現在の熊野神社の西側、十二社通りをへだてたて建つ三省堂ビル・後楽園ビルのあたりにありました。
池(中池・上の溜井)は南北126間・東西8〜26間とされ、水源は湧水であったようです。 池の周囲には享保年間(1716〜35)より多数の茶屋ができ景勝地として振るわいました。明治時代以後は、大きな料亭ができ花柳界として知られるようになり、最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓約300名を擁したほか、ボート・屋形船・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われましたが、昭和43年(1968)7月に埋め立てられました。 大池の北側に隣接する小池(下池、下の溜井)は、大池の分水で、南北50間・東西7〜16間ありました。昭和の初期より一部の埋め立てが行われ、第2次大戦中には完全に埋め立てられました。 本殿脇に「太田南畝の水鉢」の説明板が立っていて、太田南畝は蜀山人のことで、この書による碑文が彫られているということなので見てみたかったが、辺りを見渡したが見当たらない。
大鳥神社狛犬さんの後ろに、二つの句を彫った歌碑「嘉門竹友の歌碑」が立っていた。 滝津冷々一千尺 松樹森々十二層 司馬乃屋嘉門
蝉の声 しくれて細し滝の糸 よれば暑さも 那智の悌 山陽堂竹友 この狛犬さんは享保12年(1727)「角筈村上野百姓店児講中」により寄進されたもので、腹の下がくりぬきになっていない珍しいもので神社の文化財になっている。
十二社弁天社の池の隣に小さな滝が作られていた。言い伝えの十二社の滝を現す見事な出来映え。12社の滝についての熊野神社の文化財のパンフには 十二社には、記録や古老の話からいくつかの滝があったことが伝えられています。
このうち十二社の大滝は、『江戸名所図会』『江戸砂子』などに熊野の滝・萩の滝と記された滝で、高さ三丈・幅一丈と伝えられます。この滝は寛文7年(1667)に神田上水の水量を補うため玉川上水から神田上水に向け作られた神田上水助水堀が、熊野神社の東端から落ちるところにできたものです。 池とともに景勝地として知られたもので、明治時代の落語家三遊亭円朝は自作の『怪談乳房榎』の中で、この滝を登場させています。 滝の多くは、明治以後、淀橋浄水場の工事などにより埋め立てられました。
次は昼食場所のお台場にあるヴィーナスフォートのポルトフィーノ。出発して20分も走って東京湾に近づくと、前報で登った東京タワーが綺麗に見えてきた。
さらに東京湾に出るとレインボーブリッジが見えてきて、バスはこのレインボーブリッジを渡っていった。お台場は橋を渡るとすぐ右のはずだが、ここまで順調に走って時間にゆとりができたのか、左の有明方向に曲がってぐるりと回る遠回りして展望の大サービスをしてくれた。
入ってすぐエレベータで二階に上がり、少し歩くとすぐに噴水広場に出た。広場の真ん中に6人の女神によって支えられた大きな噴水があり水が途切れなく流れ下っていていい眺め。噴水は円形、周りにも多くの店が円く囲んでいて、その間を通る一つの通路ブロードアヴェニューを案内されて行った。。
次のブロードアヴェニューは上は青空(と思ったが、これは天井に映されたプロジェクションマッピング、時々刻々変化していたらしいが気が付かなかった)突当りは教会広場で向かいにキリスト像が見えていたような気がするが、広場のすぐ前が今日の昼食場所ポルトフィーノの入口だった。
今日は地中海料理で、時間をかけてお皿に乗せた食材は多すぎた感じがしたが、和子が撮ってきてくれた飲み物を飲みながらおいしく平らげ、デザートも頂戴して大満足。
時間になったので噴水広場まで戻ったが、はてどっちに行ったものか? 迷っている時、バスの中で見覚えのあるお婆さんが現れ、案内している様子の連れに若いお姉さんもいて、相談して携帯でガイドさんと連絡したりしながら一緒に歩いて何とか定刻前に通りで待つバスに戻ることができた。我が家の後にもまだ戻らない乗客もあり、最後の一人はタクシーで次の浜離宮恩賜庭園に行くことになって、バスは15分遅れの発車となった。
|