G72.(夫婦二人の山歩き)の夫の歴史(2)

今回は、G54.夫婦二人の山歩きについて(2)に掲載している文書(「夫婦二人の山歩き」の歴史)のうち、大学時代の下記文章を、アルバムから見つけ出した昔の写真を付けて補完します。
一俊の生立ち
大阪府立大学時代は寮生活で囲碁を覚え、卓球に興じていたが、親友がハイキング好きで山登りの面白さを教わった。誘われて近くの金剛山や葛城山に何度も通い、時には六甲山や生駒山、大峰山まで足を伸ばした。2年目の夏休みには九州一周して、唐津の鏡山、雲仙普賢岳、阿蘇山、霧島山、開聞岳と歩き回り、連休には白山、蒜山などにも出かけたことがある。

1.大坂府立大学
 兄が学んでいた京都大学に憧れ、1158年に受験したが結果は1162点、希望した工学部機械工学科で8点差で不合格。実家の事業が行き詰まっていて浪人は許されない状態、二期校の大阪府立大学を受けて合格した。
 大阪府立大学は浪速大学から改称されたばかり、工学部は経済学部と共に堺市中百舌鳥にキャンパスがあった。先日世界遺産に登録された仁徳天皇陵が近くにあった。
 下の写真は卒業記念のアルバムからとったものだが、私の教養課程の校舎はずっと古びた木造校舎だったように記憶する。
(卒業時の大阪府立大学:1962年)
(入学時の大阪府立大学:1958年?)
 2年間の教養課程を終えて機械工学科の校舎に移った。同期生は55名。
(工学部棟:1958)
(機械工学科同期生:1960/4)
 大学に入っても、同期生でチームを作って科対抗戦をやったり、休講時には卓球をやったり、遊びはスポーツが多かった。
(機械科選手団:1958/11)
(休憩時間の卓球)
 専門講座は流体研究室に入って、実験など研究にいそしんだ。何故専門に流体を選んだか? 熱の入らない単純な方程式が楽だと思ったのかも。
(流体研究室)
(実習工場)
 流体研究室の助教授先生の海外留学の歓送会を研究室でやって祝杯をあげたり、あちこちにハイキングに出かけた写真が残っている。楽しい思い出のある研究室だった。
(助教授留学歓送会)
(研究室ハイキング)
2.寮生活
 住居は大学のすぐ近くの学寮に入って4年間暮らした。学生寮3棟、職員寮、講堂図書館棟、食堂入浴棟と全部木造だった。寮生全員で撮った写真が残っていたが、総勢100人超、食事時や入浴時は大混雑になった。
(寮生全員集合:1958)
 3寮対抗の行事が年に何度か行われて全寮生の親睦が図られ、みんな顔見知りになっていた。
 部屋は2段ベットの4人部屋、卒業生や新入生の入れ替わりはあったが、おやじ譲りの囲碁や将棋の腕前を披露したりして仲良く暮らした。
(寮祭り一寮生:1958)
(同室四名:1959)
 全寮対向の芸能祭では演劇や合唱を競い、前夜祭では一寮のマスコット狸大明神を担いで中百舌鳥から初芝の街中までくり出した。
(寮内学芸会:1958)
(デモ行進に参加:1958)
 運動会では短距離走、長距離走、リレーの他、30名づつで引っ張りあう綱引き、二人三脚よりもきつい三人四脚などを競い合った。
(運動会:1959/10)
 4年生の秋、1961年9月16日の第二室戸台風、特に第一寮は風雨をまともに受けて屋根瓦もガラス窓も全部吹き飛ばされて、布団も衣類もビチョビチョ。
 4年生になって写真の一番左端の個室に入っていたが、台風が九州辺りを荒らしまわっている頃は、会議室のテレビを皆で見ながら「今度の台風凄いねえ」など他人事のように見ていたのを覚えている。台風が四国に差し掛かるとさすがに心配になって部屋に引っ込んだ。そのうちガラス窓がガタガタと音を立て初め、風圧で今にも壊れそうになってきて初めて安全そうな講堂に避難した。何日か講堂などで避難生活をして、応急処置された一寮に戻って卒業までを過ごした?
(第二室戸台風の被害:1961/9/16)
 アルバイトは大阪国際見本市や町工場でのお手伝いに出かけた覚えがあるが、家庭教師をしたのかどうかはっきりしない。
(国際見本市:1959)
(町工場:1961)
3.帰省
 冬休みや春休みに帰省すると、末弟も大きくなっていて遊び相手になっていた。姉や兄も帰省していて全員揃うこともあった。
(弟たちと:1959)
(家族全員:1961)
4.山歩き
1)金剛山:1959/2
 私の山歩きの始まりは、岸和田在の機械科同級生が山登りが好きで、仲間を連れて近くの金剛山などに登ってくれて、山登りの楽しさを体感させてくれてからだった。
 残っている山歩きの写真で一番古い写真は1959年2月に同級生6人と金剛山に登った時の写真だった。金剛山は大阪府と奈良県の県境にある1125mの山で、この後も何度も登った面白い山で、主に南海電鉄南高野線にを利用した。
 途中の小屋で昼食を作る楽しみも教わった。
(南海高野線)
(昼飯)
 この時は、楠木正成の千早城址に立ち寄っており、金剛山山頂では葛城神社前で6人そろって気勢を上げている。リュックが二つだけなのはどうなのか。
(千早城址入口の石段:1959/2)
(金剛山山頂:1959/2)
2)九州旅行 1959/3/8〜
 一年生の春休みには、これまた岸和田の同級生が全部計画して九州一周の旅に連れて行ってくれた。旅費は学割で半額、宿も安く泊まれる公共施設がほとんどで、結構安く済んで実家におねだりしないで済んだ。
 初めは福岡で下りて、福岡城址のある舞鶴公園に入った。名物の桜公園を満開で眺めていたら写真が残っていそうなものだが、桜の写真は残っていない。
(舞鶴公園)
 次は唐津に寄って唐津城址に入り、虹ノ松原から鏡山に登っている。
 その先の平戸にも入って、フランシスコザビエル碑の前で写真を撮っている。

(鏡山)
(唐津城址)
 (フランシスコザビエル碑)
 次は長崎まで入って、平和記念公園で平和祈念像を見上げ、オランダ坂を上り下りして市内見物をした。
(長崎平和公園)
 (長崎オランダ坂)
 次いで大浦天主堂からグラバー邸の庭園に上がり、蘇鉄の木越しに長崎の街と長崎湾を眺めながら一回りした。
(大浦天主堂から)
 (グラバー邸)
 島原半島に回り込んで雲仙岳にも登った。妙見岳から普賢岳を眺めた写真はあるが、普賢岳からの写真はないので普賢岳には登らなかったのかも。
(雲仙妙見岳山頂)
 (妙見神社)
 長崎から別府まで東走して、安い温泉宿に泊まって別府温泉の地獄巡りを楽しんだ。
(別府海地獄)
(別府鰐地獄)
 別府から延岡まで南下して、バスで山奥の断崖絶壁の名勝高千穂峡まで入った。高千穂峡には遊歩道が整備されていて、渓谷の低いところに下りて見上げると橋が二重に見えたりし、これもいい景色だった。
 遊歩道の途中で柵を超えて断崖の上に座り込んだ記念写真も撮ってもらっている。これは禁止行為だったかも。
(高千穂峡:二重橋)
(高千穂峡:崖上で)
 橋の上からは観光写真に出てくる「眞名井の滝」そのものが見えて、大喜びでシャッタを押した。
 少し高いところから見下ろすと、高千穂峡の断崖と、その奥の山並みの調和が綺麗に見えた。
(高千穂峡・眞名井の滝)
(高千穂峡)
 さらに南下して宮崎市に入って宮崎神宮にお参りし、平和の塔が高くそびえる県立平和台公園の中を歩いた。
 宮崎市から少し南下して青島に渡って、海岸線一面に広がる鬼の洗濯岩を眺め、青島神社にもお参りした。

(鬼の洗濯板)
(青島・)
(青島神社)
 宮崎市から西の山中の霧島市に入り、霧島山の高千穂峰に登った。すぐ下には大きな火口(お鉢)が口を開けており、周り一帯も火山地帯で草木一本もない荒涼とした眺めだった。
 写真には近くに噴煙も写っており、NETの記録にも、中岳を挟んだすぐ向こうの新燃岳が2月に噴火して観測所に被害が出たとある。同じ霧島山で大噴火があって一月も経たないうちに、我々は高千穂峰に登れたわけだが、噴火に対して神経質になったのは最近の事なのかな。
(高千穂峰山頂)
(お鉢)
 高千穂峰から下山して霧島神宮にお参りし、鹿児島市に出て旧島津邸の磯庭園に入って日本庭園の美しさを堪能した。
 磯庭園からも桜島が見えていたが、もっと海よりの城山公園の展望台に上がって眺めると、荒々しい桜島の山肌を間近に感じ取ることができた。
(旧島津邸磯庭園・獅子乗大石灯篭)
 (城山公園からの桜島)
 フェリーで桜島に渡り溶岩地帯に入って桜島の火山活動の跡を見た。
(桜島溶岩台地)
(大きな溶岩)
 鹿児島に戻って、薩摩半島先端に聳える開聞岳に登った。山をグルっと一回りしながら急坂を登っていった記憶がある。太平洋側には屋久島や口永良部島などの島々が見えていた。
(開聞岳
 (開聞岳頂上)
3)摩耶山:1959/4/29 
 2年生の天皇誕生日、同級の仲間15名で話し合って六甲の摩耶山に登った。登ったと言っても二本のロープウエーを乗り継いで山頂着?。河原で休憩している写真が残っているから、少しは歩いたのかな。
(摩耶山上駅:1959/4/29)
(昼休み:1959/4/29)
4)岩湧---金剛:1959/11/21〜22
 秋にはまた金剛山地に出かけ、岩湧山897mと一緒に登っている。記念写真には「国定公園」の文字だけが見える石碑が写っている。自然公園財団の国定公園一覧表によれば、この辺りは「金剛生駒紀泉国定公園」だが、この石碑に彫られているのは4文字、判読不能。
 山小屋に泊まって、鍋でアツアツのキャンプ料理を作って美味しそうに食べている写真もある。
(国定公園の碑)
 (キャンプ料理)
 杉の木峠から岩湧山と金剛山を写したという写真が残っているが、今の地図には杉の木峠の名前は見つからなかった。
(杉の木峠から岩湧山)
 (杉の木峠から金剛山)
 今度の千早城址の写真には建物の端が写っている。長い石段を上がった城址広場に千早神社が建っており、写真はその端の方で撮ったわけだが、今なら神社の正面で撮るところだろう。
 この山行の最後に牛の像の前で撮った写真が貼ってある。これは金剛山山頂に建つ転法輪寺にある牛王像、御本尊の化身と言われる。
(千早神社)
 (牛王神像)
5)蒜山高原:1960/4/28〜
 3年生になると5月連休を使って中国地方まで出かけ、鳥取県と岡山県の県境にある草原の山・蒜山高原を歩いている。
(鳥取・島根県境)
 (草原地帯を気持ちよく)
 上蒜山、中蒜山の山頂での写真には笹原が写っている。
(上蒜山)
(中蒜山)
 下蒜山にはまだ雪渓が残っていたようで、雪だんごを口に入れている写真があった。
 蒜山から大山を撮った写真が残っている。写真では遠く見えるが、地図上では12kmほど、歩いていける距離。
(下蒜山)
(大山遠望)
 蒜山から下りてからは湯原湖近くの湯原温泉に泊まっている。温泉は湯原湖から流れ下る旭川沿いにあり、河原を撮った写真には飛石の歩道があって、ご婦人たちが水溜で洗濯をしている姿が写っている。
 湯原湖は湯原ダムで堰き止められたダム湖、温泉宿のつっかけでダムまで歩いて、湯原発電所の建設記念碑の前で写真を撮ってもらっている。
 次の日は旭川沿いをJR姫新線近くまで下って、枝沢沿いの道を入って神庭の滝ハイキングを楽しんだ。滝への遊歩道には大勢の観光客が歩いていた。真庭市のHPには
    神庭の滝は「日本の滝百選」にも選ばれた、高さ110m、幅20mの中国地方随一のスケールを誇る名瀑。断崖絶壁を流れ落ちる滝の豪快さはいうまでもなく、まるで白布をまとったようにも見える水しぶきは神秘的な美しさです。滝の中央には黒い岩が突起し、落下する水しぶきに逆らってのぼる鯉に似ていることから「鯉岩」と呼ばれています
とあり、下の写真にも鯉岩が写っている。

(湯原温泉洗濯場)
(湯原ダム)
(神庭の滝)
6)摂津峡:1960/10 
 3年生秋には某女子大と合同で摂津峡ハイキングに出かけている。同級生には顔の広い友人がいて、こんな嬉しいハイキングも計画してくれた。摂津峡は大坂と京都の中間にある渓谷で、ウィキペディアによれば
     北摂随一の景勝地とされ、約4kmにわたって夫婦岩、八畳岩などの奇岩、断崖、滝などが続いている。この風景を日本三大奇景の一つ耶馬渓に例えて「摂津耶馬渓」の別称があり、府指定名勝のほか関西自然に親しむ風景100選・大阪みどりの百選等に選定され保護されている。 渓谷および西岸は、高槻市が管理する風致公園「摂津峡公園」で、開設は1956年、面積は42.58ヘクタールである。
 うぶな私はあまり話はできなくても、女学生と一緒にいるだけで嬉しくてウキウキしながら歩いていたことだろう。
(女子大生と合同ハイキング)
 摂津峡の北端にあった白滝は小さい滝だったが、岩肌を飛沫を上げながら流れ下る姿が、周りの樹木の緑とマッチングして綺麗だった。
(急坂登って)
(白滝)
7)比良山系:1961/4/30 
 4年生の5月連休には、琵琶湖南西湖岸に南北に延びる関西アルプスと呼ばれる比良山系に出かけ、武名ヶ岳から金糞峠、武奈岳へと歩いた。
(武名ヶ岳)
 (金糞峠)
(武奈岳からの展望:逢木山堂満岳方向)
8)大峰山:1961/5/20-21
 5月にはいよいよ就職問題が迫ってきて、修験道の道・大峰山に出かけ、急な岩場を登って修業をした。
(大峰山へ武者修行)
 山頂まで登ってお寺にお参りし、雲海の展望を楽しんだ。
(大峯山寺)
 (展望台から)
9)白山:61/7/11 
 夏休み前には北陸の名山・白山迄出かけた。
(白山登山口)
 (途中の展望)
 小石や岩でガラガラの谷を仮設のような吊り橋を渡ったり、大きな岩の上に登ったりし、白山の自然を楽しみながら白山山頂に登った。
(谷川を渡って)
 (岩頭
 山小屋で遊んでいる写真や、勝山に出るバス乗り場で出会った顔見知りの女子大生グループと撮った記念写真もあった。
(山小屋にて)
 (旧知の女学生)
 これ以降、山歩きの写真は残っていない。9月の第二室戸台風の被害で、山歩きをする気持ちのゆとりがなくなったのかも。
 次の(3)は、1962年日立に入社後の独身寮時代の写真を紹介します。


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